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別離までの距離
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***
俺の手を握りしめていた沙耶の手が不意に離れ、ハッと顔を上げた。
目に飛び込んできたのは、沙耶の悲しげな顔。失望混じりのその表情は、俺を責めたりはしないが理解してもらいたいという期待も含んではいなかった。
「沙耶……」
「私……、もう寝るね」
沙耶は目を伏せて、婚姻届を封筒に戻す。
「湊くんの気持ちに応えられなくてごめんね」
「沙耶……」
「おやすみなさい」
「沙耶っ」
沙耶は目を伏せたまま、手を伸ばす俺から逃げるようにリビングを出ていく。
テーブルに置かれた封筒に目を落とした後、俺は慌てて彼女を追いかけた。
沙耶は俺の寝室には入っていかなかった。最近は使っていない彼女の寝室へと向かったのだ。
またふりだしに戻るのだろうか。
いや、ふりだしにすら戻ることはできず、俺たちに用意された未来はもっと過酷なものになってしまうのだろうか。
通路の奥にある彼女の寝室のドアを叩いた。
本気で眠っているわけではないのだろうが、彼女からの返事はない。
「沙耶っ、違うんだっ。別に君を軽蔑したわけじゃない。いらいらして、つい……」
ドアを叩き、彼女の心を傷つけた言葉を謝罪する。
言葉が悪かった、と尚も言うと、ドアの奥で気配がした。
「沙耶……」
コツンとドアを小突く。沙耶はドアを開けてくれないが、か細い声は届く。
「怒ってないよ……」
「沙耶、冷静になるからもう少し話そう。いきなり秀人に事実を知らされて、しかも家政婦にしろだなんて言われて……」
「家政婦にはならないよ……ごめんね」
「それはもちろんそうだ。俺だって承知したわけじゃない。秀人にはそういう計画にするって信じさせる手立てはしたが、本意じゃない。俺は沙耶と結婚できたらそれでいいんだ」
少し沈黙がある。ドアに阻まれた距離はもどかしく、誤解を解きたいと思う気持ちが届かないのか、沙耶はドアを開けてはくれない。
そして、ようやく発せられた彼女の言葉は、やはり俺との結婚を否定するものだった。
「私は、違うよ。結婚できたら、後はどうでもいいみたいなことは望んでないよ」
「それはわかってるよ」
つとめて優しく、諭すように言う。
沙耶の言いたいこともわかる。俺たちは普通に愛し合い、結婚し、出来ることなら子を育みたいと思うだけだ。
なぜそれが簡単に出来ないのか。反対される理由もわからない。沙耶が上條病院の令嬢なら、結婚は簡単だったのだろうが。そうではないからダメだというのは、納得できるはずはなく。
「秀人がさ、変なことを言ってたんだ」
「そう……」
「母さんに上條を諦めさせたいとか」
「……私も、よくわからないよ」
沙耶は少し考えたのか、間を置いてからそう言う。
「そうか。秀人からは何も聞いてないか」
「湊くん……」
話を切り出すように俺の名を呼ぶ沙耶に、俺は耳を傾ける。
「なに?」
「来週は湊くんのお母さんにお呼ばれしてるよね」
「そうだな」
「結婚のこと相談してみようと思うの」
「母さんに?」
「うん……。お父さんと話し合う時間を作ってくれるかもしれないから」
沙耶は途方もない提案をする。
「それはどうだろうな」
「でも、何もしないわけにはいかないし」
「沙耶、それは俺からも話しておくよ。二人で幸せに暮らせる方法を一緒に考えよう」
「湊くん……」
「だから沙耶、ドアを開けてくれないか?」
「……でも」
沙耶は迷っている。迷うのは、話し合う余地があるということだろう。
「沙耶……、顔を見せてくれよ」
「さっきみたいなのは嫌だよ……」
「怖がらせたか? 悪かった」
沙耶は返事をしない。よほど怖かったのだろうか。
思い通りにならないと、俺はいつも苛立ちをぶつけてしまう。それで離れていく女はそれだけのものだと思っていたし、それでも側にいてくれた女なんていない。
沙耶だけは失いたくないと思うのだから、俺の気持ちは本物だ。自分でも確信しているのに沙耶に伝わらないのはもどかしい。
「沙耶、離れたらいけないよ。今夜も一緒に過ごそう」
説得されたわけではないのかもしれないが、ドアがカチャリと音を立てて薄く開く。
「沙耶」
「湊くん……、私も不安だよ」
ドアの隙間から、沙耶は戸惑いを浮かべた表情で言う。俺はきっとひどいことをしたのだ。それも自分が思っている以上に。
「今夜は一緒にいよう。部屋に入ってもいいか?」
優しく語りかけると、ドアはゆっくりと開き始めた。
ドアの隙間に体を滑り込ませると、沙耶は少しばかり後ずさった。
「沙耶……」
目を合わせると、うつむいてしまう彼女を抱きしめる。腕の中で緊張したように身体を硬くする彼女の力が抜けるまで、優しく優しく抱きしめる。
「これからはなんでも話すんだよ」
俺たちがすれ違わないように。別れさせられるなんてことのないように。
「聞いてくれるの……?」
「もちろんだよ」
「湊くんも、話してくれる?」
「必要なことはちゃんと話してるよ」
沙耶はぎゅっと俺の胸元を握ると、その拳に顔をうずめて小さくうなずいた。
俺の言葉や態度が、彼女を追い詰めているなんて思いもしなかった。俺はまだ何も気づいていなかったのかもしれない。彼女の決意の深さを。
「私……、湊くんの幸せを一番に考えてる」
「俺は沙耶がいてくれたら幸せなんだ」
「それだけじゃ、やっぱりダメだよ」
「父さんの説得は必ずするから。ただ今は時間が足りないんだ。焦ったりして悪かった」
「私、湊くんのこと好きになれて良かったって思ってるよ」
「ああ、君はずっと俺に気づきもしなかったのにな」
ちょっと笑いが漏れた。不思議そうに俺を見上げる彼女の髪を撫でる。
もういつもの俺たちに戻っている。沙耶がどんな俺も受け止めてくれるから、きっと彼女といることに居心地の良さを感じているのだ。
「前に思い切って沙耶に話しかけたことがあるんだよ」
「前? 前って、いつ?」
「ほら、覚えてない」
「違うよ。パーティーで久しぶりに会った時のこと? それとも純ちゃんと一緒にいた……」
「全然違う。君が高校生の時のことだよ」
そう言うと、沙耶はますます不思議そうに首を傾げた。
俺の手を握りしめていた沙耶の手が不意に離れ、ハッと顔を上げた。
目に飛び込んできたのは、沙耶の悲しげな顔。失望混じりのその表情は、俺を責めたりはしないが理解してもらいたいという期待も含んではいなかった。
「沙耶……」
「私……、もう寝るね」
沙耶は目を伏せて、婚姻届を封筒に戻す。
「湊くんの気持ちに応えられなくてごめんね」
「沙耶……」
「おやすみなさい」
「沙耶っ」
沙耶は目を伏せたまま、手を伸ばす俺から逃げるようにリビングを出ていく。
テーブルに置かれた封筒に目を落とした後、俺は慌てて彼女を追いかけた。
沙耶は俺の寝室には入っていかなかった。最近は使っていない彼女の寝室へと向かったのだ。
またふりだしに戻るのだろうか。
いや、ふりだしにすら戻ることはできず、俺たちに用意された未来はもっと過酷なものになってしまうのだろうか。
通路の奥にある彼女の寝室のドアを叩いた。
本気で眠っているわけではないのだろうが、彼女からの返事はない。
「沙耶っ、違うんだっ。別に君を軽蔑したわけじゃない。いらいらして、つい……」
ドアを叩き、彼女の心を傷つけた言葉を謝罪する。
言葉が悪かった、と尚も言うと、ドアの奥で気配がした。
「沙耶……」
コツンとドアを小突く。沙耶はドアを開けてくれないが、か細い声は届く。
「怒ってないよ……」
「沙耶、冷静になるからもう少し話そう。いきなり秀人に事実を知らされて、しかも家政婦にしろだなんて言われて……」
「家政婦にはならないよ……ごめんね」
「それはもちろんそうだ。俺だって承知したわけじゃない。秀人にはそういう計画にするって信じさせる手立てはしたが、本意じゃない。俺は沙耶と結婚できたらそれでいいんだ」
少し沈黙がある。ドアに阻まれた距離はもどかしく、誤解を解きたいと思う気持ちが届かないのか、沙耶はドアを開けてはくれない。
そして、ようやく発せられた彼女の言葉は、やはり俺との結婚を否定するものだった。
「私は、違うよ。結婚できたら、後はどうでもいいみたいなことは望んでないよ」
「それはわかってるよ」
つとめて優しく、諭すように言う。
沙耶の言いたいこともわかる。俺たちは普通に愛し合い、結婚し、出来ることなら子を育みたいと思うだけだ。
なぜそれが簡単に出来ないのか。反対される理由もわからない。沙耶が上條病院の令嬢なら、結婚は簡単だったのだろうが。そうではないからダメだというのは、納得できるはずはなく。
「秀人がさ、変なことを言ってたんだ」
「そう……」
「母さんに上條を諦めさせたいとか」
「……私も、よくわからないよ」
沙耶は少し考えたのか、間を置いてからそう言う。
「そうか。秀人からは何も聞いてないか」
「湊くん……」
話を切り出すように俺の名を呼ぶ沙耶に、俺は耳を傾ける。
「なに?」
「来週は湊くんのお母さんにお呼ばれしてるよね」
「そうだな」
「結婚のこと相談してみようと思うの」
「母さんに?」
「うん……。お父さんと話し合う時間を作ってくれるかもしれないから」
沙耶は途方もない提案をする。
「それはどうだろうな」
「でも、何もしないわけにはいかないし」
「沙耶、それは俺からも話しておくよ。二人で幸せに暮らせる方法を一緒に考えよう」
「湊くん……」
「だから沙耶、ドアを開けてくれないか?」
「……でも」
沙耶は迷っている。迷うのは、話し合う余地があるということだろう。
「沙耶……、顔を見せてくれよ」
「さっきみたいなのは嫌だよ……」
「怖がらせたか? 悪かった」
沙耶は返事をしない。よほど怖かったのだろうか。
思い通りにならないと、俺はいつも苛立ちをぶつけてしまう。それで離れていく女はそれだけのものだと思っていたし、それでも側にいてくれた女なんていない。
沙耶だけは失いたくないと思うのだから、俺の気持ちは本物だ。自分でも確信しているのに沙耶に伝わらないのはもどかしい。
「沙耶、離れたらいけないよ。今夜も一緒に過ごそう」
説得されたわけではないのかもしれないが、ドアがカチャリと音を立てて薄く開く。
「沙耶」
「湊くん……、私も不安だよ」
ドアの隙間から、沙耶は戸惑いを浮かべた表情で言う。俺はきっとひどいことをしたのだ。それも自分が思っている以上に。
「今夜は一緒にいよう。部屋に入ってもいいか?」
優しく語りかけると、ドアはゆっくりと開き始めた。
ドアの隙間に体を滑り込ませると、沙耶は少しばかり後ずさった。
「沙耶……」
目を合わせると、うつむいてしまう彼女を抱きしめる。腕の中で緊張したように身体を硬くする彼女の力が抜けるまで、優しく優しく抱きしめる。
「これからはなんでも話すんだよ」
俺たちがすれ違わないように。別れさせられるなんてことのないように。
「聞いてくれるの……?」
「もちろんだよ」
「湊くんも、話してくれる?」
「必要なことはちゃんと話してるよ」
沙耶はぎゅっと俺の胸元を握ると、その拳に顔をうずめて小さくうなずいた。
俺の言葉や態度が、彼女を追い詰めているなんて思いもしなかった。俺はまだ何も気づいていなかったのかもしれない。彼女の決意の深さを。
「私……、湊くんの幸せを一番に考えてる」
「俺は沙耶がいてくれたら幸せなんだ」
「それだけじゃ、やっぱりダメだよ」
「父さんの説得は必ずするから。ただ今は時間が足りないんだ。焦ったりして悪かった」
「私、湊くんのこと好きになれて良かったって思ってるよ」
「ああ、君はずっと俺に気づきもしなかったのにな」
ちょっと笑いが漏れた。不思議そうに俺を見上げる彼女の髪を撫でる。
もういつもの俺たちに戻っている。沙耶がどんな俺も受け止めてくれるから、きっと彼女といることに居心地の良さを感じているのだ。
「前に思い切って沙耶に話しかけたことがあるんだよ」
「前? 前って、いつ?」
「ほら、覚えてない」
「違うよ。パーティーで久しぶりに会った時のこと? それとも純ちゃんと一緒にいた……」
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そう言うと、沙耶はますます不思議そうに首を傾げた。
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