せめて契約に愛を

水城ひさぎ

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別離までの距離

33

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***


 沙耶のいない休日は、たいがい仕事をしながら時間を潰す。静かな部屋で過ごすことに慣れていたはずなのに、最近はすっかり物音のない空間に落ち着かなくなっている。

 寝室を出て、パタパタと走り回る沙耶の姿をリビングに見つけると、思わず顔が緩む。

 沙耶は決まって、「何かあったの?」と不思議そうに尋ねてくる。「いや」と首を振ると、なんだか不満そうに俺を見上げるから、ますますおかしかったりする。
 そんなささいなことに幸せを感じている俺を、きっと沙耶は知らないだろう。

 仕事がひと段落ついて、時計を見ると3時を過ぎていた。

 キッチンへ行き、マグカップにコーヒーを淹れ、リビングの窓の前に立つ。沙耶は今頃何をしているだろう。まだ帰ってくるような時間ではないが、大通りを歩く人々の中に彼女の姿を探してしまう。
 といっても、豆つぶのようにしか見えない人々の中では、例え彼女が歩いていたとしてもわからないだろうが。

 もう少し仕事でもするかと、コーヒーを飲み終えてから寝室に戻った。それからパソコンに向かい、いつしか仕事に没頭していた。

 次に気がついた時には窓の外は薄暗くなっていて、テーブルの上に置いたスマホを手に取った。

 沙耶からは何も連絡がない。あまりマメに連絡してくる彼女ではないから、遅くなるなら迎えに行くとメールした。沙耶からの返事は期待できないが、遅くなるようなら何かしらの連絡はしてくるだろう。

 スマホをテーブルに戻そうとした時、電話がかかってきた。沙耶かもしれない。そう思い確認して、ため息をつく。

 秀人だ。

 またろくでもない話をするのではと思うだけで頭痛がする。
 しかし、無視するわけにもいかなくて、スマホを耳に当てた。

「もしもし? 今ちょっと忙しいんだ」
「忙しい?」

 秀人の第一声は、まるで俺が忙しいのが意外な言い方だった。もちろん秀人に比べたら、それほど忙しい毎日を送っているのではないだろうが。

「ああ、忙しいから用件は手身近に言ってくれよ」

 はやく電話を切りたい思いからそう言うが、秀人がおとなしく俺の言うことを聞くわけがないとも思う。

「おまえが心配してるかと思って親切に電話してやったのに、忙しいと来たか。まあ、それならそれで退屈な毎日を怠惰に過ごすこともないから安心だな」
「心配? 何を」

 秀人の嫌味は聞き流して、眉をひそめる。秀人がわざわざ電話してきてそんなことを言うのだから、思い当たることは一つしかない。

「沙耶に何かあった?」
「何もなければ、今頃マンションにいるだろう?」
「てっきり母さんにつかまって帰れないのかと思ってたよ。で、沙耶は?」
「連絡もないとは、おまえたちは本当に仕方なく一緒にいるだけなんだな。沙耶ちゃんは思いの外、残酷な女だね」
「よほどのことなら連絡してくるさ」
「よほどのことね。まあ、沙耶ちゃんにもいろいろあるだろうさ。何日か帰らなくても心配することはない」
「何日か帰らない?」

 聞き捨てならない言葉に眉がぴくりと動く。

「そういう気分の時もあるだろ」
「意味がわからない。沙耶はそこにいないのか?」

 わずかに焦りが浮かんで、俺はこぶしを握る。

「ああいない。どうやら自宅に帰ったようだ。少し思うことでもあったんだろう」
「まさか。沙耶が俺に黙ってそんなことするはずがない」
「へえ」

 と、秀人が皮肉げに笑ったように感じた。

「やけに沙耶ちゃんのことをわかったように言うんだな。そのわりに、沙耶ちゃんが傷ついてることには気づかないんだな」
「どういう意味だよ」
「そのままだよ。女が自宅に帰るとしたら、今の生活に嫌気がさしてのことだろ? 大方、おまえがひどい扱いしたんだろう。おまえは昔から女の扱いが雑だからな」

 俺は少し沈黙した。

 沙耶は傷ついたままだったのだろうか。なかなか心を見せてくれない彼女が、俺の言葉に傷つき、離れていこうとしたのは先週のことだったか。
 それでも俺たちはわずかでも話し合うことが出来たし、許し合うことも出来たと信じていた。

「沙耶ちゃんと結婚してないって知って、傷つけるようなこと言ったんだろ」

 秀人はまるで決めつけたように言う。しかし不本意だが、認めないわけにもいかない。
 あの時は俺も苛立っていて、最低な女だと、沙耶に向けた言葉で少なからず彼女が傷ついたのは間違いがない。

「沙耶は気にしてないと言った」
「言ったのか、バカだなおまえは」

 あきれた様子で息をつく秀人は、予想通りの出来事を笑い飛ばすことも忘れたようだった。

「沙耶が黙ってここを出ていくほどのことはないよ。家に帰ったならそれでもいい。何日かしたら帰るんだろ?」
「沙耶ちゃん次第だろう。それまでおまえもこっちに帰って来ればいいさ。母さんも、おまえがいなくてさみしそうだ」
「いや……、いつ沙耶が帰ってくるかわからないのにマンションは空けておけない」
「鍵はあるんだから大丈夫だろ。おまえは前の生活に戻るだけだ」
「前の生活か……」

 何不自由ない生活でも、自由のない生活に戻りたいとは思わない。沙耶のいる毎日に今はもう喜びを見出してしまっている。

「用件はそれだけか?」
「まあ、それだけだ。とにかくおまえがいつ戻ってもいいようにこちらはやっておくよ」
「戻る気はないと母さんに伝えてくれ」
「俺は雑用係じゃないぜ」

 伝言役は飽きたとばかりに秀人は笑うと、「何かあったら戻れよ」と珍しく優しげに言って電話を切った。
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