せめて契約に愛を

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別離までの距離

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 俺はすぐに沙耶に電話した。スマホの側にいなければ、すぐには出れないだろうとは思いながらも、何度掛け直しても留守番電話に切り替わるばかりで、沙耶が出る気配はなかった。

 俺に嫌気がさしているなら電話に出るわけもないと、しばらくして気がついて、直接沙耶の自宅に電話した。

 彼女の両親にはどう説明したら良いものだろう。沙耶が帰ったなら、結婚していない事実はもう知っているかもしれない。

 結城に振り回される沙耶の家長は、それでも俺との話し合いの場を設けてくれるだろうか。

 結論は出ないまま、スマホを耳に押し当てた。ほどなくして今度は電話に飛びつくように出た女性の声が届いた。

「もしもしっ? 沙耶? 沙耶?」

 その慌てぶりに俺はまた沈黙する。

「沙耶なのっ? 沙耶なのね。沙耶、パパから話は聞いたから、帰ってらっしゃい。パパもママも、沙耶の帰りを心待ちにしてるのよ」

 なんの話をしているのだろう。さっぱりわからなくて、俺は眉を寄せる。

「最初からこの結婚には反対だったんだから、ママは沙耶が帰ってきてくれたらそれでいいの」

 知らず知らずのうちに、俺はスマホを強く握りしめていた。

 不本意な結婚だったのは俺も沙耶も同じだったかもしれない。しかし、その言葉を目の当たりにすると、すべてを否定されたような気分にもなる。

「すみません、結城です。結城湊です」

 落ち着きを払ったような声音になったのは、俺の中に怒りが湧いていたからか。
 息を飲んだ沙耶の母親が、取り繕うような笑みを浮かべて挨拶するのが、電話を通じて伝わってくる。

 俺はちっとも歓迎されていなかったのだ。可愛い一人娘の沙耶を奪った男でしかなかったのか。今度は失望が浮かび出て、怒りは鎮むようだった。

「沙耶はそちらにいないんですか?」

 質問に対する返事はため息だった。ためらいが形になったのかもしれない。
 沙耶の母親は俺に何も話す気がないのだろうと、瞬時に察した。

「何から話したらいいのかわかりませんが……」

 俺がそう切り出すと、沙耶の母親は言葉を遮った。

「沙耶のことはそっとしておいてください」
「しかし」
「私たちも戸惑っているんです。今は沙耶が帰るのを待つだけなんです」
「つまり、沙耶は行方不明だと?」

 沙耶は自宅に帰ると言って、俺の家を出たはずだ。いや、そもそも秀人の話が本当のことと鵜呑みにしていいのか。

 俺は騙されてばかりいる。結城の手口には辟易している。今回もまた、そうではないという確信はないのだ。

「沙耶のことは主人に任せていますから」

 沙耶の母親はそれ以上を言うつもりもないようで、口を閉ざす。

「何か誤解があるなら、話し合いたいと思っています。沙耶さんが戻られたら、俺に連絡をください。必ず。必ず、俺に直接連絡してください」

 俺は念のため、電話番号を伝えた。彼女の母親はメモを取る様子もなかった。

 失望が深まる中、このまま話していてもらちがあかないと、俺は電話を切った。
 しかし、電話に出ない沙耶と連絡を取るすべはない。

 椅子に深く腰掛けると、疲れがドッと押し寄せて、頭痛がした。眉間に指を当て、天井を仰ぐ。

「沙耶……、何が気に入らなかったんだ」

 どこにいる?沙耶。

 今日は一緒にレストランへ行こうと、帰ったら一緒に美味しいコーヒーを飲もうと、約束したじゃないか。

 あの笑顔すら嘘だったのか。
 俺を油断させて、俺の前から消えるつもりだったのか。

 悩みがあるならなぜ話さない。俺はそんなに頼りないか。

「沙耶……」

 疲れの浮かぶ顔を両手で覆い、漫然と沙耶の帰りを待った。こんな時に、沙耶を捜す手立てすら思い浮かばないなんて、今まで彼女の何を見ていたのだろう。

 静かな部屋に、時計の秒針がやけに大きく響く。時間は流れるのに、俺の周りはどんな変化もやってこない。

 沙耶からの電話も、沙耶の開ける玄関ドアの音も、何もやってこない。
 そして気づくと、寝室には朝の光が射し込んできていた。リビングを見ても、彼女の寝室を見ても、彼女の姿はなく。

 とうとうその日、沙耶は帰って来なかった。
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