せめて契約に愛を

水城ひさぎ

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奪われるまでの距離

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***


 月曜日から仕事に行きたいから、純ちゃんちに遊びに行っていい?

 私の送ったメールに、

 いいよー。来て来てー。

 と、いつもの明るい純ちゃんの返信が届いてホッとした。

 ひと月ぶりに出社する不安もあったし、湊くんと別れた今、正直これからどうしたらいいのだろうという相談が出来る相手を想像した時、純ちゃんしか思い浮かばなかったのだ。

純ちゃんの家を訪れるのは初めてで、住所しか知らなかったけど、お父さんが車で送ってくれた。

「送ってもらったの? いいなぁ、沙耶のお父さんは優しくて」
「電車で行くって言ったんだけど、心配してくれたみたい」

 玄関口に迎えに出た純ちゃんは、私が車で来たことを知ると、本当に羨ましそうに唇を尖らせた。

「うちの両親なんて、舞台観に二人で出かけたんだよー。せめて一緒に行くかー? ぐらい聞いて欲しいよね。まあ、行かないけど」
「純ちゃんのこと信頼してるんだよ」
「そうでもないよー。私が一人で夜まで留守番だから、たまには帰って来なさいって、お母さんがお兄ちゃんに連絡してたし」
「朔くんに? 朔くん来るの?」

 思わず、すっとんきょうな声をあげてしまう。

「うん、昼過ぎには来るって連絡あったけど。いや? だったら来ないように連絡しとくよ」
「あ、ううん。嫌とかじゃないよ。ちょっと驚いただけ」
「驚く? なんで?」
「いつもね、いつも朔くん、私が悩んでる時に側にいてくれるから」

 そう言うと、やけに純ちゃんは優しい笑顔をして、「あがって」と私の手を引く。

「沙耶の悩みは私も聞くよ。沙耶はお兄ちゃんだけじゃなくて、私ともきっと縁があるの」
「あ、うん。そう思ってるよ。純ちゃんがいてくれて良かったって、本当にそう思ってる」
「今日はたっぷり時間あるから、なんでも聞くからね。二階に私の部屋があるから来て」
「お邪魔します」

 と、玄関をあがった私は、純ちゃんに案内されながら二階の階段を上がった。

 純ちゃんの部屋に入るとすぐ、彼女は「適当に座ってて。飲み物持ってくるから」と、足早に階段を降りていった。

 ひとり残された私は辺りを見回して、部屋の中央に置かれた丸いローテーブルの前に座った。

 しばらくすると、純ちゃんはグラスとペットボトルを抱えて戻ってきて、「オレンジジュースとアイスコーヒーがあるけど、どっちにする?」と笑顔を見せた。

「オレンジジュースもらっていい?」
「うん、いいよ。じゃあ、私もオレンジジュースにしよー」

 純ちゃんは二つのグラスに紙パックのオレンジジュースを注いで、一つを私に差し出しながら言う。

「もう四月だね。新入社員も二人入って来たよ。特に可もなく不可もなくって感じの子たち。沙耶がいないと毎日つまんないから、復帰が楽しみだよ」
「そっか。じゃあ、ちょっと雰囲気も変わってるね、きっと」
「まあ、あいかわらずだよ。沙耶が休んでることはみんな心配してるぐらいだし、安心して来て」
「うん……」

 歯切れの悪い返事をする私を励まそうと、純ちゃんは明るい笑顔を見せる。

「大丈夫だよー。もし何かあっても、私と浅田主任が守るからさー」
「浅田主任?」
「沙耶の心配してるよー。体調だいぶ悪いのかなって」
「そうなんだね。浅田主任にも全然お礼とか言えてなくて。朔くんにもだね。みんなに迷惑かけてるね」

 申し訳なくて、頼りなく眉を下げる。

「沙耶のせいじゃないでしょー? 具合が良くない時は無理しないでゆっくりしてなきゃ。落ち着いたら、気の合うメンバーで飲み会しよう」
「あ……うん……、でも……」
「沙耶?」
「純ちゃん……」
「どうしたの?沙耶」

 純ちゃんは心配そうに、うつむく私の手を取る。

「純ちゃん……、私ね」
「うん」
「私ね、仕事復帰しても、たぶん夏には退職するの」
「仕事辞めるって……」

 純ちゃんはそう言って、息を飲んだ。

「本当はね、今週から仕事に行く予定だったの」
「うん……」

 純ちゃんは言葉少なにうなずく。

「でも、月曜日に病院に行ってから仕事に行きなさいってお母さんに言われて、そのまま仕事に行けなくて」
「体調悪くて?」
「ううん……。お母さんと、ちょっともめて」
「もめた? 沙耶がお母さんと?」

 純ちゃんは目を丸くする。

「うん……。お母さんは今でも反対してるんだけど、お父さんは考えてくれるって言うから」
「考えるって、何を?」
「それはまだはっきり決まってないから、どうなるかわからないんだけど。でもね、私、どうしても諦められなくて」

 純ちゃんは眉をひそめる。

「諦められないって……、ミナトくんのこと?」

 その名前を聞くと、ギュッと胸が締め付けられる。湊くんとのことは私の意思とは無関係に別れなければならなかったのだから、諦めるも諦めないもなかった。

「違うよ……、違う」
「沙耶、話がよくわからないけど、お母さんと何をもめたの?」
「私、産みたいって言ったの」

 顔をあげると、そこには純ちゃんの理解しがたい表情があった。

「赤ちゃん、できたの。ミナトくんとの……。私、どうしても産みたいって言ったの」

 純ちゃんはしばらく何も言わずに、私の目を見つめ続けた。

「沙耶は本気なんだね」

 まばたきもせずに見つめ合う私たちが、心を通わせるのは容易だ。純ちゃんは私の気持ちを理解してくれる。だけど、すぐに賛成してはくれなかった。

「大変だよ。シングルマザーで生きていけないよ、沙耶は」
「うん……、お母さんも同じこと言うの。それに結城さんが許すはずないって」
「ミナトくんには話したの?」
「ううん。結城さんにはお父さんが連絡するって言ってたけど、湊くんには自分でちゃんと話すつもり。でも……」
「でも?」
「……今更だよね」

 ため息まじりにちょっと笑ってしまう。湊くんが喜んでくれるはずもないのに。

「沙耶……」
「でもね、湊くんが反対しても産みたいの。これから先、もっと違う幸せがあるかもしれないけど、産みたいって思うの」
「ミナトくんとはもう、どうにもならないの?」
「ダメだよ。お父さんはかけあってみるって言ってたけど、赤ちゃんを諦めるように言われるだろうって、そう言ってた」
「それはひどいよね」
「でも、私は嬉かったからいいの。湊くんとずっと一緒にいられるみたいで、嬉しいの」

 私は両手を胸に当てる。湊くんとの赤ちゃんのことを思うと、胸は穏やかな音を立てる。

「そっか。沙耶はそんな風に思えてるんだね。だったら、仕事辞めなくてもいいんじゃない?」
「うん……。でも、いろんな噂が立ったら結城さんに迷惑かけるからって、産むなら仕事は辞めなさいってお父さんが」
「まあ、わからなくはないけど。今は沙耶のお父さんが産んでもいいって言ってくれただけでも幸せだね」

 純ちゃんは優しい。私の欲しい言葉をくれる。

「うん。純ちゃんに話したら、ちょっとホッとした。ありがとうね」
「私は何もしてないよ。じゃあ、体調が落ち着いたら、近場でいいから旅行でも行かない?」
「うん、行きたい」
「旅行雑誌だけはたくさんあるから、持ってくるね」

 純ちゃんは善は急げとばかりに、部屋を出ていった。
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