せめて契約に愛を

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奪われるまでの距離

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 月曜日の朝、純から沙耶さんが出社したとメールがあった。ただそれだけの報告メール。純なりに気を遣ったのだろう。純に感謝しつつ、出社できたのは沙耶さんが元気になった証拠だと、少し安堵していた。

 しかし、湊先輩はその事実を知らないようだった。いつにも増して機嫌が悪く、篭谷先輩以外の社員は戦々恐々として近づこうともしない。
 それは俺も同じだ。沙耶さんが出社したことを伝えたら、先輩がどんな態度を取るのか想像もつかない。恐怖心で、結局夕方になっても伝えることが出来なかった。

「山口くん、ちょっと頼まれてくれないかな」

 そろそろ帰る準備をしようと思っていた頃、篭谷先輩が俺のデスクの上に書類を置いた。

「山口くんまでそんな嫌そうな顔するなよ。誰かさんが一日中不機嫌だから、進むものも進まないんだ」
「嫌そうな顔はしてないですが」
「じゃあ、こころよく引き受けてくれるかい?」
「明日の早朝では間に合いませんか? 今日はちょっと先約があって」
「先約? デートかなんか?」

 篭谷先輩は急に興味深げに俺の顔を覗く。

「デートじゃないんですけど、連絡先を知らない相手との待ち合わせなので、遅れるわけにはいかなくて」
「今時、電話番号も知らない相手と待ち合わせかい?」
「結構、警戒心が強いみたいで」

 頭をかいて、苦笑いしてしまう。

 さりげなく電話してもいいか?と聞いたのに、連絡先の交換に関してははぐらかされてしまったのだ。
 もちろん、純を介して連絡を取るのは容易だが、そんな子供の使いみたいなやり取りはもう望んでいない。

「デートじゃないけど、好きな女に会うんだ?」

 篭谷先輩は詮索しながらも、少しばかり怪訝そうだ。そんな理由で残業を拒むなとでも言いたいのだろう。

「どう受け取ってもらってもかまいませんが、今日だけはすみません。どうしても大事な用があるので」

 湊先輩はもう帰ってしまった。沙耶さん一人では、先輩の暮らすマンションへは行かせられない。

 沙耶さんも一人では行かないと思うが、もし湊先輩と二人きりで会うことになれば、そのまま彼女とはこれきりになってしまうのではという不安がよぎる。

「今日はどいつもこいつもダメな日だな」

 珍しく篭谷先輩は毒づいたが、目は笑っている。

「すみません」
「まあ、俺も今は中立だ。山口くんの行動をとがめる理由もない」
「どういう?」
「わからないならそれでいいさ」

 篭谷先輩は運んできた書類をまた持ち上げると、「一人でやるか」とつぶやいてデスクへと戻っていった。

 篭谷先輩が仕事に取り掛かる頃、オフィスを出た。

 沙耶さんとは近くの喫茶店で待ち合わせしている。湊先輩が残業するならそこで待つつもりだったようだ。

 ついこの間まで婚約者だった相手に会うだけなのに、沙耶さんは待ち伏せしか出来ない。心中は複雑だろう。

 その反面、今更と言ってはなんだが、そうまでして湊先輩に会わなければならない理由とはなんだろうとも思うのだ。

 喫茶店が見えてくると、入り口付近に立つ沙耶さんに気づいた。

 湊先輩に会う緊張からなのか、少しばかり表情はかたいが、俺に気づくと笑顔を見せ、側へとやってきた。

「朔くん、来てくれてありがとう」

 春らしいワンピースを着た沙耶さんは、まるで湊先輩に会うことを意識しておしゃれしたみたいに、会社帰りとは思えない姿をしている。

「いえ。約束より遅くなってすみません」

 そう頭を下げながら、やはり俺の胸のうちは穏やかではない。沙耶さんの心はまだ先輩のもので、俺は都合よく利用されているだけだ。それとわかってるのに、もしかしたら彼女の側にずっといられる存在になれるんじゃないかなんてまだ期待しているのだ。

「ううん、私が無理言ったんだからいいの。湊くんに会うのは早い方がいいから、今日が良かったの」
「そうですか。でもちょうど良かったかもしれません。湊先輩は残業もしないで帰りましたから。今頃マンションにいるんじゃないかな」

 少し機嫌が悪いかもしれないと言おうかと思ったがやめておいた。湊先輩は沙耶さんには優しいかもしれない。

「もう帰ったんだね……」
「一緒に行きましょう。大丈夫ですよ。俺が外に出てきてもらえるようにお願いしますから」

 沙耶さんが不安そうだからそう言うと、彼女は申し訳なさそうにしつつ、安堵の表情も見せる。

「湊先輩にはレストランまで来てもらいましょうか? その方がゆっくり話せますよね」
「うん、ありがとう。朔くんも一緒にいてね。聞かれて困る話じゃないから」
「わかりました。じゃあ、行きましょう」

 湊先輩に直接会ってまで話したいことなのに、同席してもかまわないのか?と聞きたかったが、言葉を飲んだ。

 沙耶さんは俺を信頼してくれているのだ。その信頼には応えたい。だが、それでは友人以上にはなれないだろう。

 歩き出す俺の後ろをついてくる沙耶さんに合わせて歩調をゆるめる。

 不安な分、沙耶さんは俺に寄り添い、いつもより距離が近い。

 こうして恋人として肩を並べられる日は来るだろうか。きっと待っていても来ないだろうことぐらいはわかる。だからもし可能なら、それを望んでもいいだろうか。
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