せめて契約に愛を

水城ひさぎ

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奪われるまでの距離

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「仕事の方は大丈夫でしたか?」

 湊くんのマンションに向かう間、ずっと無言の私を気遣い、朔くんはそう尋ねてきた。

「うん、ありがとう。今日は純ちゃんの仕事を手伝う感じだったかな。浅田主任はいつもと変わらずだったけど、体調の心配してくれて。みんな、優しかったよ」
「そう、それは良かったですね。今まで通り働けそうですね」
「うん……」

 思わず歯切れの悪い返事をしてしまう。朔くんが怪訝そうに眉を寄せるから、慌てて笑顔を作る。

「大丈夫だよ。仕事は純ちゃんがいろいろフォローしてくれるから、本当に大丈夫なの」
「沙耶さん」

 たしなめるみたいに、朔くんは私の名を呼ぶ。

「何……?」
「いつもそんな風なんですか?」
「そんな風って……?」
「そうやって、嫌なことがあっても大丈夫だなんて笑顔作って、一人で頑張ろうとするんですか?」

 思わず朔くんから目をそらすが、彼は私の前に回り込んでくる。

「俺は嫌だな。中途半端に頼られるのは嫌です。純だって同じ気持ちでしょう? 話せないことはもちろんあるだろうけど、俺も純も、沙耶さんの支えになりたいって思ってるんですから、そんな風にはぐらかそうとしないでください」
「朔くん……、違うよ。本当に仕事は問題ないの。ただ、お仕事を続けていけるかはまだわからなくて」
「どういう意味ですか?」
「あのね、朔くん。また今度きちんと話すから、本当に心配しないで。ごめんね、私が曖昧な返事したから心配させちゃったよね」
「本当に話してくれますか? 一人で悩んだりしないと約束してくれますか?」

 朔くんは真剣だ。こんな風に心配してくれる友人なんてなかなかいない。だからこそ、朔くんを大切にしなければと思う。
 だけど、異性の友人との付き合い方が私にはまだわからなくて、戸惑うことも多い。

「たまにね、思うの。どうして朔くんは知り合ったばかりなのにこんなに私の心配してくれるのかなって。やっぱり純ちゃんの友達だから?」
「きっと違いますよ、きっと」
「違う?」

 私を見下ろす朔くんの目は、なぜか悲しげで。

「俺も今は話せないけど、沙耶さんに聞いてもらいたい話があります」
「私に? うん、聞くね」
「その時が来たら……」
「その時?」
「いえ、やっぱりまだ話すのは早い気がするから……」

 朔くんは言葉を濁した後、くるりと私に背を向けた。

「沙耶さん」
「どうしたの?」

 朔くんが葛藤してるのはわかる。それが何なのかはわからない。彼の言葉に耳を傾けようとしたが、彼の視線が向いた方向に、私の目は釘付けになった。そこには、一目で彼とわかるスマートな背中があって。

「湊くん……」
「どこかに行くみたいですね」

 通りを歩く人々にかき消されそうな湊くんの背中を見失わないようにとばかりに、朔くんは早足で歩き始める。

「先輩、レストランに行くみたいですね。今日は外食でしょうか?」

 湊くんの後を追いかけた朔くんは、私が早足についてこれていないことに気づくと、すぐに戻ってきて、そう教えてくれた。

「どこのレストラン? 湊くん、すごくおしゃれしてるみたいだったけど」
「ああ、言われてみれば。あんまり普通に似合ってるから違和感なくて。誰かと約束でもしてるんでしょうか? 一応、あの角にあるレストランに入っていきましたけど、どうしますか?」
「湊くんが一人だったら、少し話がしたいって言ってみようと思うの」
「そうですね。湊先輩は話に応じてくれますよ。そんな不安そうにしなくて大丈夫です」
「ありがとう、朔くん。一人だったら、もう怖気づいて帰ってるかも」
「少しでも役に立ってるなら嬉しいですよ」

 朔くんの笑顔に勇気付けられる。湊くんを前にしたら、言いたいことも言えなくなるだろう。だけど、きっと朔くんが後押ししてくれると信じられる。

「あ、沙耶さん、湊先輩が出てきましたよ」

 レストランの近くまで来ると、朔くんが入り口に姿を見せた湊くんに気づく。

「声、かけてみますか?」
「うん、そうだね」

 そう言っているうちに、湊くんはポケットから取り出したスマホを耳に当てた。誰かと電話を始めたみたいだ。

 歩きながら電話する湊くんについていきながら、私はちょっとため息をつく。

「今日は忙しそうだね、湊くん」
「どうしますか? また明日でも俺はかまいませんよ。なんなら、湊先輩に時間を作ってもらえるようにお願いしてもいいですよ」
「そう、しようかな。本当はもっと簡単なことだと思ってたの」

 会社帰りの湊くんを呼び止めて、話がしたいと伝えるだけのことがこんなに難しいとは思わなかった。

 湊くんは忙しい人なのに、いつも早くマンションに帰ってきてくれていたのだ。そんなことにも気付かず、ずっと湊くんの優しさに甘えていたのだろう。

 それは朔くんに対しても同じ。朔くんはまだ食事もしていないだろう。それなのに私のことで振り回しているのだ。

「朔くん、10分でいいから……ううん、5分でいいから時間が欲しいって、湊くんに伝えてくれる?」
「わかりました。日にちはなるべく早くと伝えますね。まあ、湊先輩のことだから、すぐに時間を作ってくれると思いますけど」

 苦笑いする朔くんが、「じゃあ、もう帰りましょう」と振り向いたとき、私は湊くんに駆け寄る人影に気づいた。

「湊さんっ」

 澄んだ女性の声は、遠くにいた私たちの耳にまで届いた。その女性もまた手にスマホを持っていて、湊くんが少し驚きながらスマホをポケットに戻すと、彼女もまたスマホをかばんに入れた。

 電話の相手は彼女だったのだ。

 私がそう気づくのと、朔くんが気づいたのは同時だったのだろう。朔くんは二人の様子が見えないように、とっさに私を後ろ手に回した。

「朔くん……」

 私は朔くんのスーツのすそを知らず知らずのうちにつかんでいた。
 朔くんの背中越しに、湊くんが女性の腰に腕を回して歩き出す姿が見えてしまったから。
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