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第二話 御影家には秘密がありました
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年の瀬の近い天目神社には、まばらではあるが参拝客が訪れていた。
小学生の頃、父親と手をつなぎ、まだ幼かった弟の春樹を抱いた母親と一緒に、親子四人でよく参拝した。
はたから見れば幸せそうだった俺たち家族は、数年後には破綻した。離婚後、何が足りなかったのかと尋ねた俺に対し、「お互いを思いやる気持ちが足りなかったのよ」と、母親はさみしそうに笑って答えた。
あのときの母親の後ろめたそうな笑みが時折、千鶴さんのそれと重なる。
千鶴さんは言いたいことも言えずに過ごしているのではないか。
そして、俺は自問する。千鶴さんの気持ちを思いやっていられてるだろうか、と。
「おや、御影さん、おはようございます」
社務所に続く階段をのぼり切ると、宮司の宮原に声をかけられた。
宮原は中学時代の一年下の後輩で、去年父親の跡を継いで宮司になったばかり。天目神社は小さな神社で、今は宮原一人で運営を切り盛りしている。
「おはよう。忙しそうだね」
白の着物に浅葱色の袴を身につけた宮原に声をかけると、彼は清らかな宮司然とした笑顔を崩して、苦く笑う。
「子どもの頃に比べたら落ちぶれましたよ。地元に残っているのは俺と御影さんぐらいなものでしょう?」
嫌味で言ったわけではないのだが、と思いつつ、同調する。
「ああそうだね。最近は春樹も住み着いているけどね」
「春樹くんも? あー、そう言えば、金髪の男を終電でよく見かけるって町内の方たちが噂してますね」
今度は俺が苦笑する番だ。
「そんなに噂になってるのか」
「どちらかというとみなさん、奥さまの方に興味津々なようですけどね」
「奥さまって千鶴さん? 何かご迷惑でも?」
尋ねると、宮原は神職らしからぬ様子であわてて手を胸の前で振る。
「迷惑だなんてとんでもない。この田舎には不似合いなほど垢抜けてますでしょう? それを言ったら御影さんも洗練されてますけどね。つまりお似合いのご夫婦だと微笑ましく思っているんですよ」
「似合いか。それは嬉しいね」
わずかにはにかんで、同様に優しく笑む宮原となんとはなしに歩き出す。
冷たい風がほおをかすめていく。
千鶴さんのことを褒められると、我がことのように嬉しい。ほくほくとしながら吐く息は白くなって流れていくが、胸の内は温かい。
参拝客にお辞儀しながら境内の方へ進む宮原は、ふと俺を見る。
「それはそうと、今日は何かご用で?」
「ああ、少し。宮原なら何か知ってるかと思ってね」
「お仕事ですね」
ほんとに少しですか?とうっすら笑いながらも、宮原は気難しげに遠くを見やる。
「単刀直入に尋ねるけどね、宮原は池上夏乃さんを知っているよね」
断言するように問うと、まだまだ経験が浅く若い宮司の宮原はぴくりと眉をあげた。
俺はちょっと息をもらすように笑い、首を横にふる。
「言いにくいことを尋ねるわけじゃない。猫のね、猫のことを知りたくてね」
「猫、ですか」
拍子抜けしたように宮原はきょとんとする。
「そうだ。一つでも嘘をつくような人を信じてはいけないだろう? 池上夏乃さんと猫の何か接点を、宮原は知ってるだろうか」
宮原は嘘をつかない。それを知っているから俺は問う。彼もまた俺の思いには気づいている。
宮原は沈黙していたが、少しすると息をついて、境内へ向かってふたたび歩き出す。
そして境内の裏へと進む宮原の背を追う。
通常参拝客が入らないような樹々が茂る場所へ宮原は迷いなく進んでいく。
枯れ葉を踏みながら行き着いた先は、イチョウの木の根元。
「御神木です」
普段はあまりお見せしていないんですよ、と宮原は言って、しめ縄のかかる大木を見上げる。
「父が亡くなる少し前の出来事ですから、今からちょうど一年ほど前のことでしょうか」
宮原はそう切り出す。大木に近づく彼の背中を、俺は無言で見つめる。
「ここに、若い女性がしゃがみ込んでいるのを父は見たそうです。こっそりとお祈りに来る方もいらっしゃいますから、声はかけなかったそうですが、あれは池上夏乃さんじゃないだろうかと、言ってましたね」
再現するように、宮原は御神木の前にひざをつく。
「池上夏乃さんはそこで何を?」
「彼女が立ち去った後、この場所にふた付きの木箱が置かれていたそうです」
「木箱?」
「ええ。なんだろう? と父がふたを開けたら、飛び出してきたそうですよ、白い猫が」
その時に驚いて父は尻もちをついたのだと、くすりと笑う宮原は、宮司ではなく父との思い出を語るひとりの青年の笑顔を見せていた。
「父が振り返ったときには白猫の姿は見えなくなっていたようで、神社にふたたび姿を見せることはなかったそうです」
「それじゃあ、池上夏乃さんがここへ白猫を捨てに?」
「きっとそうでしょう。今でも元気にしてるといいですが」
「大丈夫でしょう」
マヨイくんを思い浮かべながら、心配そうに眉を寄せる宮原をなぐさめる。
「それで、その木箱は今?」
「ああ、うちに置いてありますよ。もしかしたら取りに戻るかもしれないと思いまして」
「池上夏乃さんが白猫を探しに戻ることはなかった?」
「少なくとも俺は知りません。御影さんの知りたいことに答えられてますかね?」
「じゅうぶんに。迷惑ついでにもう一つ、その木箱見せてもらえるだろうか」
ええ、と即答する宮原と、ふたたび来た道を戻り始める。
静かな森は薄暗い、それでいて神聖で。ここに連れてきたら、誰かが救ってくれるとでも信じていたのだろうかと思う。
なぜ池上夏乃はマヨイくんを捨てなければならなかったのだろう。
俺の知る彼女は、マヨイくんを捨てたことなど少しも覚えていないようだったが。
ふと足を止め、俺は頭上を見上げる。
さっきまで静寂に満たされていた森に、ガーガーという濁った声が鳴り響く。それとともにカラスが数羽飛び立ち、小枝がパラパラと降ってきた。
年の瀬の近い天目神社には、まばらではあるが参拝客が訪れていた。
小学生の頃、父親と手をつなぎ、まだ幼かった弟の春樹を抱いた母親と一緒に、親子四人でよく参拝した。
はたから見れば幸せそうだった俺たち家族は、数年後には破綻した。離婚後、何が足りなかったのかと尋ねた俺に対し、「お互いを思いやる気持ちが足りなかったのよ」と、母親はさみしそうに笑って答えた。
あのときの母親の後ろめたそうな笑みが時折、千鶴さんのそれと重なる。
千鶴さんは言いたいことも言えずに過ごしているのではないか。
そして、俺は自問する。千鶴さんの気持ちを思いやっていられてるだろうか、と。
「おや、御影さん、おはようございます」
社務所に続く階段をのぼり切ると、宮司の宮原に声をかけられた。
宮原は中学時代の一年下の後輩で、去年父親の跡を継いで宮司になったばかり。天目神社は小さな神社で、今は宮原一人で運営を切り盛りしている。
「おはよう。忙しそうだね」
白の着物に浅葱色の袴を身につけた宮原に声をかけると、彼は清らかな宮司然とした笑顔を崩して、苦く笑う。
「子どもの頃に比べたら落ちぶれましたよ。地元に残っているのは俺と御影さんぐらいなものでしょう?」
嫌味で言ったわけではないのだが、と思いつつ、同調する。
「ああそうだね。最近は春樹も住み着いているけどね」
「春樹くんも? あー、そう言えば、金髪の男を終電でよく見かけるって町内の方たちが噂してますね」
今度は俺が苦笑する番だ。
「そんなに噂になってるのか」
「どちらかというとみなさん、奥さまの方に興味津々なようですけどね」
「奥さまって千鶴さん? 何かご迷惑でも?」
尋ねると、宮原は神職らしからぬ様子であわてて手を胸の前で振る。
「迷惑だなんてとんでもない。この田舎には不似合いなほど垢抜けてますでしょう? それを言ったら御影さんも洗練されてますけどね。つまりお似合いのご夫婦だと微笑ましく思っているんですよ」
「似合いか。それは嬉しいね」
わずかにはにかんで、同様に優しく笑む宮原となんとはなしに歩き出す。
冷たい風がほおをかすめていく。
千鶴さんのことを褒められると、我がことのように嬉しい。ほくほくとしながら吐く息は白くなって流れていくが、胸の内は温かい。
参拝客にお辞儀しながら境内の方へ進む宮原は、ふと俺を見る。
「それはそうと、今日は何かご用で?」
「ああ、少し。宮原なら何か知ってるかと思ってね」
「お仕事ですね」
ほんとに少しですか?とうっすら笑いながらも、宮原は気難しげに遠くを見やる。
「単刀直入に尋ねるけどね、宮原は池上夏乃さんを知っているよね」
断言するように問うと、まだまだ経験が浅く若い宮司の宮原はぴくりと眉をあげた。
俺はちょっと息をもらすように笑い、首を横にふる。
「言いにくいことを尋ねるわけじゃない。猫のね、猫のことを知りたくてね」
「猫、ですか」
拍子抜けしたように宮原はきょとんとする。
「そうだ。一つでも嘘をつくような人を信じてはいけないだろう? 池上夏乃さんと猫の何か接点を、宮原は知ってるだろうか」
宮原は嘘をつかない。それを知っているから俺は問う。彼もまた俺の思いには気づいている。
宮原は沈黙していたが、少しすると息をついて、境内へ向かってふたたび歩き出す。
そして境内の裏へと進む宮原の背を追う。
通常参拝客が入らないような樹々が茂る場所へ宮原は迷いなく進んでいく。
枯れ葉を踏みながら行き着いた先は、イチョウの木の根元。
「御神木です」
普段はあまりお見せしていないんですよ、と宮原は言って、しめ縄のかかる大木を見上げる。
「父が亡くなる少し前の出来事ですから、今からちょうど一年ほど前のことでしょうか」
宮原はそう切り出す。大木に近づく彼の背中を、俺は無言で見つめる。
「ここに、若い女性がしゃがみ込んでいるのを父は見たそうです。こっそりとお祈りに来る方もいらっしゃいますから、声はかけなかったそうですが、あれは池上夏乃さんじゃないだろうかと、言ってましたね」
再現するように、宮原は御神木の前にひざをつく。
「池上夏乃さんはそこで何を?」
「彼女が立ち去った後、この場所にふた付きの木箱が置かれていたそうです」
「木箱?」
「ええ。なんだろう? と父がふたを開けたら、飛び出してきたそうですよ、白い猫が」
その時に驚いて父は尻もちをついたのだと、くすりと笑う宮原は、宮司ではなく父との思い出を語るひとりの青年の笑顔を見せていた。
「父が振り返ったときには白猫の姿は見えなくなっていたようで、神社にふたたび姿を見せることはなかったそうです」
「それじゃあ、池上夏乃さんがここへ白猫を捨てに?」
「きっとそうでしょう。今でも元気にしてるといいですが」
「大丈夫でしょう」
マヨイくんを思い浮かべながら、心配そうに眉を寄せる宮原をなぐさめる。
「それで、その木箱は今?」
「ああ、うちに置いてありますよ。もしかしたら取りに戻るかもしれないと思いまして」
「池上夏乃さんが白猫を探しに戻ることはなかった?」
「少なくとも俺は知りません。御影さんの知りたいことに答えられてますかね?」
「じゅうぶんに。迷惑ついでにもう一つ、その木箱見せてもらえるだろうか」
ええ、と即答する宮原と、ふたたび来た道を戻り始める。
静かな森は薄暗い、それでいて神聖で。ここに連れてきたら、誰かが救ってくれるとでも信じていたのだろうかと思う。
なぜ池上夏乃はマヨイくんを捨てなければならなかったのだろう。
俺の知る彼女は、マヨイくんを捨てたことなど少しも覚えていないようだったが。
ふと足を止め、俺は頭上を見上げる。
さっきまで静寂に満たされていた森に、ガーガーという濁った声が鳴り響く。それとともにカラスが数羽飛び立ち、小枝がパラパラと降ってきた。
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