あしたの恋

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色なき風

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 ゼミ室に次々と現れた学生たちは、明日嘉くんに気づいて驚きつつも、彼を遠巻きに見ているばかりで近づいては来なかった。

 奇異な目にさらされているはずの明日嘉くんも、大して周囲には興味なさげにぼんやりと窓の外を眺めている。

 吹雪さんと何かあったの?

 二人のやりとりが気になって尋ねたかったけれど、誰もが聞き耳を立てている中では何も尋ねることはできなかった。

 しばらくして氷澤先生がやってきたが、明日嘉くんに目を止めたものの、特に話題にすることはなく静かにゼミは始まった。

 いつものゼミだ。違うのは明日嘉くんが隣に座っていることだけ。彼とこうして肩を並べて講義を受けるのは夢のようだけど、彼の方はまるで意識してない。

 明日嘉くんは時折、先生に意見を述べたりして、ディスカッションを盛り上げた。理路整然と語る彼の意見は実体験に基づいていて、住み良いまちづくりとは何かを改めて提議する。

「生活する上で、健常者があって当たり前だと感じている便利なもののように、障害者のために設置されるものがあって当たり前のものになって欲しいと願います」

 そう明日嘉くんは語り終えると、氷澤先生の自論に意見を述べる学生たちの討論を静かに聞いていた。

 誰もが暮らしやすい街づくりの実現を目指す議論は、ゼミの生徒たちに新たな刺激を与えたようだった。

「本日のゼミは終了です。気をつけて帰るように」

 氷澤先生はそう言ってゼミをしめくくる。それが合図となって次々と学生たちがゼミ室を退室していく。

 次第に静まるゼミ室に最後まで残ったのは私と明日嘉くんと吹雪さんだ。吹雪さんは帰る準備を整えて立ち上がり、ふと私に声をかける。

「暁月さん、ゼミ合宿は来る?」
「ゼミ合宿ですか?」
「あ、そうか。暁月さんはまだ来たばかりだから聞いてないかな。9月に二泊三日で合宿があるんだ。氷澤先生のゼミ、女子が少ないから参加しにくいかな?」
「二泊三日……」
「ちょっと待って。案内のプリント持ってるから。興味があれば氷澤先生に言うといいよ。今から一人二人増えても大丈夫だと思うから」
「ありがとうございます」

 かばんからプリントを取り出す吹雪さんからそれを受け取ると、彼は「またね」と帰っていく。彼はゼミを辞めてもいいなんて言っていたが、また来るのだ。またね、という言葉を嬉しく思いながら、私はまだ席に着いたままの明日嘉くんに尋ねる。

「明日嘉くんはゼミ合宿のこと知ってる?」
「ああ」
「行く?」

 明日嘉くんの目の前にプリントを置くが、彼は見向きもしない。その代わり、私をじっと見つめてくる。

「日菜詩ちゃんは?」
「私は……行かないかな。参加した方が勉強になるとは思うけど、急な話だから」
「泊まりに抵抗がある?」
「あ、そう、そうだね。仲良しの女の子もいないし。でも、ゼミのみんなを信頼してないわけじゃないよ」

 何を勘違いして臆病になっているのだと誤解されそうで慌てて言うが、明日嘉くんは少し皮肉げに笑う。

「日菜詩ちゃんを狙ってる男がいないとも決めつけれないよね。吹雪なんか、特に」
「え……ち、違うよ。吹雪さんはいつも私が一人だから心配して声をかけてくれるだけで、ゼミ以外で会うこともないよ」
「楽しそうに話してたよ。ああそうだ。朝陽とも、仲良くしてるらしいね」

 明日嘉くんは薄笑いを浮かべたまま、意味ありげに私の顔を覗き込む。

「顔赤いよ。朝陽の話は当たり?」
「当たりって……。あの、違うっていうのか……」
「否定できないんだ? 日菜詩ちゃんは素直だね。聞いたよ、朝陽とデートするって。付き合ってるの?」
「……デートとか、そういうのじゃなくて。お友達として出かけるだけだよ」

 困りながら答える。

「朝陽はそんなつもりないと思うけどな。付き合う気がないなら断るのも大事だよ。相手に期待だけさせるのは良くない」
「お友達にはなりたいって思ったから」
「日菜詩ちゃんの気持ちは伝わらないよ。深入りしない方がいい」
「あ、う、うん。そうだよね。本当のこと言うと、断りにくくて……」

 明日嘉くんの言葉にホッとして本音が出る。朝陽さんを嫌いなわけではないけれど、好意を見せられることにはまだ慣れないのだ。

「朝陽はいいやつだけど、日菜詩ちゃんをいつか傷つけると思ったから忠告しただけだよ。わかりきってるのに傷つきにいくのは馬鹿らしい」
「どういう意味……?」
「朝陽、好きな女が他にいるんじゃないかな。日菜詩ちゃんに本気になったなんて嘘つくのは、その女への当て付けだよ」
「……そう、なんだ」

 ちょっと混乱する。朝陽さんに他に好きな人がいるなんて考えもしなくて。

「傷ついた?」
「あ、そんなことないよ。私も変だなって思ってたから。おかしいよね。私なんか……、好きになるはずないよね」

 朝陽さんが嘘をつくような人には見えないからすぐには納得できないけど、私に本気じゃないというのはなんとなく腑に落ちる。

「ねぇ」
「あ、……なに?」

 明日嘉くんの右手が不意に伸びてくる。アッと思ったけど逃れられない。そのまま彼の指は私の髪をさぐるようにからまってくる。

「あ、明日嘉くん……」

 声が上ずる。相手に期待させるのは良くないなんて言いながら、明日嘉くんは私の心を乱すようなことをするのだ。

 離れようと思ったのに。それなのに、少しぐらい期待したい。そんな気持ちになる態度を取るから、私は彼から離れられない。

「日菜詩ちゃんは今の気持ちを大事にしたらいいよ」

 私を見つめる彼の柔らかな眼差しと優しい指先にどきどきする。

「……してる。してるよ」
「好きになったらいけない相手を好きになるのは馬鹿だと思うけど」
「いいの。かなわなくてもいいの。好きでいたいだけだから……」

 私の明日嘉くんへの想いは彼に伝わっているだろう。だけど彼は私を友人にも恋人にもしてくれない。きっといつまでも私の気持ちは宙ぶらりんだ。

「そう。じゃあ帰ろうか。ちょっと疲れたな」
「大丈夫?」
「君の胸を借りて眠らなきゃいけないほどには疲れてないよ」

 明日嘉くんの視線が下がる。思わず胸元を両腕で隠す。恥ずかしい。自意識過剰に思われただろう。

「……なんだろうな」
「明日嘉くん……?」
「いや、なんでもないよ。後悔だけはしないようにしていけるといいね」
「……うん。ありがとう、明日嘉くん」
「礼なんていいよ。日菜詩ちゃん見てると、そう思えるんだ。だから言っただけ。本当は違うこと考えてたんだけどさ」
「え……?」

 意味がわからなくて首を傾げる。すると彼の指にからまっていた私の髪がするりと抜けた。それを惜しむように彼はまた髪をからめ取り、毛先に鼻先をうずめる。

「今日と同じあしたが来るなんて保証はないから、今日を正直に生きていきたいって思うだけだよ」
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