溺愛王子と髪結プリンセス

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チタとアイ

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 その日はいつになく体調が良かった。長雨も上がり、窓の外には一輪の薔薇が咲いてるのが見えた。アイはこっそりと部屋を出た。

 外出は医者から禁止されていた。アイが唯一外へ出られるのは屋敷の庭園だけ。一階へ降り、テラスへ向かう途中、玄関先から両親とチタの話し声が聞こえてくるのに気づく。

「今日は遅くなるの? 大丈夫よ。アイとお留守番してるから」

 両親はどうやら出かけるらしい。チタとアイが二人きりで留守番することはほとんどなく、両親は心配そうにしていたが、用事があるから仕方ないと渋々出かけていく。

 チタが部屋に戻るのを見届けて、アイは庭園へと出た。

「わぁ、綺麗」

 二階からではわからなかったが、赤い薔薇は思いのほか大輪で、鮮やかに咲き誇っていた。そっと花びらに触れてみる。大きく揺れた薔薇が首をかしげるから、アイは慌てて両手のひらで支える。

「ああ、驚いた。落ちてしまうかと思った」

 美しい薔薇もいつかは枯れる。自らの意思とは無関係に枯らしてしまってはいけないと、アイは胸をなでおろす。

 たとえ短い命でも、後悔のないように凛と咲く花がアイの憧れでもあった。

 庭園から部屋へ戻る途中、チタの部屋のドアが薄く開いているのに気づいた。アイはドアを閉めようとそっと近づいて、ふと手を止めた。

 編み物をしているチタが椅子に座ったまま、うつむいている。その手はひざの上にだらりと下がる。わずかに身体が傾き、ゆらゆらと揺れた後、彼女はテーブルの上へ突っ伏した。

「チタ、眠ってるの?」

 声をかけたけれど返事がない。仕方ないからアイは部屋へ入り、チタの肩にショールをかけた。

 アイはチタの顔の横にあるチラシに気づいた。市場のチラシだ。先日チタが行ってきたという異国のものが売られていた市場だろう。場所は王城前となっている。日付を見れば、今日までだ。

 アイはじっくりとチラシを眺めた後、そっとチタの部屋を出て玄関へ向かった。

 魔がさしたというしかない。両親がいない。体調も良く、チタが居眠りをしている日なんて二度とないかもしれない。そう思ったアイは、気づけば屋敷を抜け出していた。

 外出は初めてのことだった。本の中でしか知らないセドニーの光景が目の前に広がるのは不思議な感覚だった。それでも王城へは迷わず向かうことができた。

 チタがよく街の話をしてくれていたし、王城は城下町の中心にあって、どこからでも見つけることができたからだ。それに人通りも多かった。市場へ向かうのであろう人の波にまぎれて、アイはすぐに市場へ到着した。

 市場は紳士淑女であふれていた。チタが出会ったという高貴な人がいても不思議はないような、豪華な品を扱う店が並ぶ。

 お金もないアイは、ただ商品を眺めて楽しんだ。アクセサリーを扱う店の前で足を止め、いくつかネックレスを手に取った。見るもの触るものすべてが新鮮で、つい時間を忘れた。

「それが欲しいのか」

 突然男に声をかけられてアイは驚いた。辺りをきょろきょろと見回すが、フードのついた外套の男はどう見ても真っ直ぐアイを見つめている。

「おい、店主。それをくれ。すぐにつけて帰る」
「えっ……」

 アイが驚いている間に、外套の男はコインを一枚店主へ投げる。

「釣りはいらん」

 男は間合いを詰めてきて、アイの手のひらからネックレスを取り上げると、そっと首にかける。

「ブルーの宝石はあなたの白い肌によく似合う」

 そう言って、男はアイの胸元に下がる大きめの青い石を撫でた。

「あ、あの……こんな高価なもの頂けません……」

 アイがネックレスをはずそうとすると、外套の男はうっすらと笑んだ。

「高価かどうかは価値感の問題。あなたを飾るには釣り合いが取れない、という意味の揶揄なら納得する」
「えっ、本当に……私にはもったいなくて」
「では次は、もっとあなたにふさわしい宝石をプレゼントしよう」
「次って……」

 アイは戸惑いながら、フードの中の彼を見上げて息を飲む。薄いブルーの瞳が優しげにアイを見つめている。

 こくり、とツバを飲み込む。彼の前髪は美しく艶めく青。

「もしかしてあなたは……」

 チタの想い人?
 と問いかけそうになった瞬間、男の人差し指がアイの唇に立てられる。すぐにその指は離れたが、柔らかなアイの唇に触れた指に、男は愛おしそうなキスをする。

「ここに長居していては目立つ。あちらへ行こう」
「えっ……」

 男は半ば強引にアイの手を引き、歩き出す。初めて触れた男の人の手に胸が高鳴る。

 しばらく歩いて連れてこられたのは、ケルド川沿いの広場だった。市場が賑わっているためか、こちらはさほど人はおらず、ベンチもいくつか空いている。

 その一つにいざなわれて、アイは男と並んで腰を下ろした。無論、男性と話す機会など今まで一度もなかったアイは戸惑うばかりだ。

「あなたはどこのご令嬢?」
「父は医師で、自宅近くの診療所に勤めています……」
「では爵位があるわけではない?」
「ええ……」

 小さくうなずくと、男は考え事をするようにあごに指を置き、空を見上げる。フードから覗くその横顔は美しい。こんなにも綺麗だと思える男性がこの世にいるのかと驚くほど。

 思案げな男をじっと見つめていると、彼はようやくアイの視線に気づき、微笑む。

「爵位のない娘が王家に嫁いだ例はないが、なんとかしよう」
「嫁ぐ?」
「ああ。あなたほどに美しい娘は初めて見た。私の妃にと望みたい」
「妃だなんて……」

 戸惑うアイのほおに男の手のひらが触れる。親指でアイの唇をなぞると、そのまま顔を近づけてくる。慣れた様子で、アイの唇はすぐに奪われた。

 驚いて動けないアイの柔らかな唇を何度かついばんだ男はうっすら笑んだ後、深く唇を重ねる。アイが驚きのあまり唇を開くと、割る手間が省けたとばかりに、生温かい舌で口内を満たす。

 逃げることすら知らないアイの舌はすぐに絡み取られ、きつく何度も唇は吸われた。その荒々しさにアイはなすすべがなかった。

「ん……っ、はぁ……っ」
「あぁ、いい……」

 わずかに離れた隙間から漏れる吐息と、男の満足げな声が合わさる。

「あなたほどに美しい女性はこの世にふたりといないだろう。名は何という?」
「あ……」

 男が湿らせた唇からはすぐに言葉が出ない。

「どうか名を聞かせてほしい」

 アイは胸元にさがるネックレスの石を手のひらに包み込んだ。

 男からのプレゼントもキスも初めてだった。好きだという感情があるのかもわからなかったが、また男に会いたいと思う気持ちが湧き上がるのを隠せそうにはなかった。

 同時に、セドニーで青い髪を持つ男はこの世にひとりだけ、それがチタの想い人であることも理解していた。

「あ、……チ、チタです」

 ようやくそう答えると、懇願する目をしていた男の目尻が優しく下がった。

「それだけわかれば十分だ。すぐにあなたを迎えに行こう」

 嘘をついた罪悪感と後ろめたさで、アイはうつむく。男はそんなアイの髪をゆるりと撫でて、立ち上がる。

「王子っ! こんなところにいらっしゃったのですか! 探しましたよ!」

 アイはハッとして顔を上げる。黒髪の若い兵士が男に向かって慌てて駆けてくる。

「アルマン、外ではタンザと呼べと言っている」

 王子と呼ばれたタンザという男は愉快げに肩を揺らして笑う。

「何をおっしゃるのですか。あれほど一人で出歩かれないようにと……」
「ああ、わかったわかった。用は済んだ。すぐに帰る」

 アルマンという男はあきれたように息をつき、アイをちらりと見たが、すぐさまタンザの後を追いかける。

「あ、あのっ……」

 アイは男を呼び止めようとしたが、彼は立ち止まることなく去っていった。




 玄関に到着すると、アイは慌ててネックレスを外した。そっと玄関扉を押すと、人影が目の前に現れる。すぐにチタだと気づく。彼女もアイの姿を認めると、怒りや不安がないまぜになった表情をゆるめて、涙を浮かべて抱きついてくる。

「もうっ! どこに行ってたのよ、アイー! 心配したんだからぁ」
「ちょっと……、出かけてみたかったの」
「出かけてみたかったって……何かあったらどうするのよ」
「……ごめんね。もう出かけないわ」

 心配そうに見つめてくるチタと目を合わせる。アイはしばらく悩んだ後、手のひらを広げてチタの前へ差し出した。

「何?」

 チタはアイの手のひらの上にあるネックレスを不思議そうに眺める。

「チタにあげる」
「私に? これを買いに行ってきたの? 私のために?」

 チタは目をまん丸にして、それでも嬉しそうにネックレスを抱きしめて、アイの手を握る。あの人を連想させる青い石はチタの手の中で揺れる。

「お金は? お金はどうしたの?」
「……少しぐらい持ってるわ。ねぇ、チタ。このことは内緒よ。私、今日はずっと家にいたの。外に出たのはチタ」
「もちろんよ、アイ。アイが外に出たなんて知られたらお父様に叱られちゃうもの。お母様にも内緒」

 チタは任せてと胸を張る。

「ありがとう。チタ、ちょっと疲れちゃったわ。部屋に行くね」
「大丈夫? アイ」

 歩き出すアイの肩を支えるようにチタは抱く。

 チタがいないとアイは生きていけない。だからこそチタから大切な人を奪うことはできない。

 それだけじゃない。アイには王子の妃になる体力はなく、チタならばタンザ王子との結婚を祝福できる。セドニーを背負うお子だって望めるだろう。

 チタは賢い。真実に気づく日があったとしても、アイの思いを無駄にはしないだろう。チタが真実を知るその日まで生きていられるかもわからないこの身体では、こうするしかないのだとアイは信じていた。

「しばらく一人になりたいわ」

 体調を心配するチタにそう言って、アイはベッドに仰向けになった。

 静かな部屋は落ち着く。そっと瞳を閉じる。まぶたを落としたらもう目覚めないかもしれない恐怖は、不思議と今はない。

 人差し指で唇に触れて、身体を横に向けて背を丸めた。タンザの笑顔がまぶたの裏にちらついた。出会えただけで幸せだ。絵本や図鑑でしか知らないセドニーに肌に触れた今日という一日は、アイにとってかけがえのない一日となった。

 これ以上の幸福をアイは望まなかった。だから半年後にチタがタンザのもとへ嫁いだ時、アイは心の底から祝福したのだ。
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