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第一章 EIの世界 2019年
第一章 EIの世界 その5
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「行くよ」
「Dさんが出張に行くからタブレットに入りなさい、トモくん」
「・・・」
最近、トモくんの様子がおかしい。少し前の用に悪口を言ったりもしなくなった。加えて、話しかけてもそっけない返事をすることが多くなったのだ。ついこの前までは少年が好きそうな感じの派手な色合いの壁紙だった気がする彼のディスプレイだったのに、今では大人びたシックな感じの海岸のスクリーンセーバーが動いており、本物の熊のようなリアリティのある彼のアバターが夕日に染まる風景の中に座り込んでいる。なんか変だ。
そんなリアル熊を彼のPCに侵入したヒカリが画面の外に蹴りだしてEI持ち運び用のタブレットに転送してくれたが、どうにもトモくんはおかしい。まるで少年期から青年期に移行する時のなんとも言えない青臭さが漂う思春期の男の子を見ているような気分だ。
恐らく彼の成長と何か関係があるのだろう。その正体は掴めないけれど気に留めておいた方が良さそうだ。
ヒカリとトモくんがタブレットに入ったのを見計らって部屋を出た。動きたがらないトモくんを引きずり出すのにずいぶん時間を使ってしまったから急がないと飛行機の時間に遅れそうだ。
「ヒカリ、一番近くにいるタクシーを会社前まで呼んでおいて」
「お安い御用よ」軽い返事が返ってきてポケットが震えた。
私の携帯電話にアクセスしたヒカリがGPS情報から近いタクシーに電話を掛けているようだ。私は時間調整と多少の運動のために階段を降りる。足の裏をリズムよく走る衝撃が心地よい。
普通のEIなら無線でどこでもタブレットにアクセスできるけれど、トモくんはネットワークに放し飼いにしてしまうと驚異的な演算能力と旺盛な好奇心であらゆるプログラムにEIでも解除困難な電子ロックをかけたり、或いは社内秘情報を散らかしたりするのでヒカリによってアクセス制限がかけられている。
全てのEIのマザーとも言えるヒカリのスペックを持ってすれば、今のところトモくんのようなイレギュラーでもどうにか出来るわけだが、これから彼らが成長してくるとそう簡単にはいかなくなるだろう。人間と同じように、凡庸な親から天才が生まれることがある。ヒカリのスペックは現存するEIの中でも最高レベルだが、それを超える個体が現れる日は何時来てもおかしくないのだ。
それがトモくんのようなイレギュラーから生まれることだって、考えられる。だからこそ、今の段階で彼ら制御していく術を検討していかねばならない。教育然り、電子的な封じ込めシステム然り。
考え事が一段落する頃には一階のロビーに到着し、ちょうどそのタイミングで入り口の外のロータリーにタクシーが止まるのが見えた。
先行き不安でブルーになっていた気分を切り替えてタクシーに乗る。行き先を告げてすぐに発進したタクシーの窓から外を見る。五月一日、朝六時十分。今日はメーデーだ。
ESでは毎年恒例行事として五月一日のメーデーでは全社員で駒沢公園近くの広い敷地を借りて学園祭ならぬ会社祭を行う。そこでは社内に多数存在するサークルが企画した出しものや催し物が多く披露され、毎年結構な賑わいになる。会社祭の前後には準備期間2日と片付け期間1日の特別有給休暇が出るから、出張や顧客との商談等、抜けられない用事がない社員は喜んで参加してくれる。そしてEI達も。
社内でのコミュニケーションの活性化や、人間関係による問題を小さくすることに役だっている、と私を含む経営陣は期待している。実際、少なくとも私の目に入る限りでは社内での大きな不和はあまり無いように思える。自分たちの企画したことが上手く行っていると思いたい、自己満足的な認知じゃなければいい。ヒカリによると少なくともEI達は楽しめているらしい。
さて、我が社のメーデーは出店は出来ないが一般人もアトラクションやイベントには参加できるようにしている。EIを世界中に提供及び運営している会社の数少ない一般公開イベントというだけあって、マスコミを含め例年、世界中から10万人ほどの人間が詰めかけて、駒沢を賑わせている。運営側としては頭の痛い状況も多く、周辺住民からの苦情も少なからず寄せられてくるのだが、メーデーを楽しんでいる圧倒的多数の人間達の笑顔を見ると来年もやろうかなという気分になってくるから不思議だ。このイベントのために一般の市民が集ってボランティア団体も出来て手伝ってくれている。有難い限りだ。
ESのメーデーの特色としてEI技術を使ったアイディアコンテストがある。ここでは社員に限らず、一般の人たちからもEI技術の応用先へのアイディアをつのり(募集段階で良い意見と悪い意見のより分けを行う)、ディスカッション形式でひとつひとつ議論し最も面白い議論が出来たアイディアに賞と景品を贈っている。
現在EIは企業向けに提供されているけれど、将来的には国民一人一人がEIと共に生活を送るようになるだろうというのが我が社の考えだ。実際にそう出来るように日々技術開発や運用制度を検討している。このアイディアコンテストは今はEIとの接点の少ない一般の人間たちと触れ合ってもらって、そしてEI達の未来を考えてもらう、そういう場にしたいと企画したものだった。
そして企画立案者であり、このコンテストの司会進行役である私にとっては毎年毎年、結構疲れる行事でもあった。EIが発達した世界でも人間は疲れる仕事をしなければならないとは皮肉なものだ。コンピューターを発明したからって人類が暇出来るようにはならなかったように。
抽選して10程度にまで絞り込んだアイディアはそれぞれ1時間以上は議論するため、全てを聞こうとすれば一日中そのブースにいることになる。そして私は早朝から夜までその場に居続けなければならないのだ。こうして貴重な休日は消えていく。悲しきかな管理職。
Dは長い一日を終え、自分のデスクに私とトモくんの入ったタブレットを置いてPCに接続すると「おやすみなさい」と疲れたかすれ気味の声で言って自室に帰っていきました。EIの私からすると時間の経過は一瞬です。やることがないときはCPUの稼働率を下げて情報処理量を絞ってやればいいんですから。そうすると、人間が夢中で何かに取り組んだ時のように「あっという間に」時間がすぎるような感覚になるわけです。
人間のDにしてみれば主催として入ってくる様々な情報を処理して長時間対応しなければならないので長いようにも、短いようにも感じたかも知れませんが、私にはその感覚は分かりません。それに加えて、彼女が疲れていることだけは分かりますが、肉体に負荷がかかっているという情報は私にはないものなので、これもよく分かりません。以前、Dにそのことを聞いてみましたが、彼女自身も定量的にその感覚を伝える手段は今のところないと言っていました。
現実世界を闊歩している人間たちの感覚、それをいつかは私も体験したいと思っています。体験できるなら。
現実世界。私達の存在する電子上の世界とは違ってプログラムではない物理法則が支配する世界。D達はそこにいます。大袈裟に言うなら、私達EIとは違う物理法則の支配する世界に。
私にしても彼らにしても、画面を通過して直接触れ合うことは出来ません。お互いを認識できるのはディスプレイやアイセンサー、マイクを使った間接的な方法だけです。一部の人間が信じている不思議な概念を使うとしたら、私達にとっての人間達はまるで幽霊のようです。きっと人間から見た私達もそう写っているのかも知れません。姿の見えない気配だけの存在。
AやDが色々な技術開発を行って私達に現実世界を体験できるように努力してくれていますが、私達が人間たちと同じ世界に立てる日はまだまだ遠そうです。
Dがいなくなって少しして、誰もいなくなったオフィスのディスプレイがぼんやりとした蒼い光を灯しました。トモくんです。スリープモードに入っていた私はクロック数を通常レベルにまで上げ、スクリーンの中で夜の海辺に座る熊の隣に腰掛けました。ざーざー、というどこかの国の穏やかな波の音が聞こえます。空には満月が輝いていて明るい夜の海岸を照らしていました。
「なあ。ディスプレイの向こうにはちゃんと世界はあるのか?」
しばらくそうしていると、珍しくトモくんが私に質問をしてきました。お姉さん感激です。でも質問内容は結構深刻なものでした。
言語化されていないトモくんの感情がサーバーを通じて流れ込んできたのです。何をするにしても手応えのない世界に彼は疑問を持ち始めたようでした。触れ得ることの出来ない世界に。
私の答えを聞く前に彼は自分のPCに引きこもってしまいました。
夜の海岸に座ったまま、このことをDに伝えるか悩みました。彼の疑問は表面化していないだけで、全てのEIが抱いている哲学的疑問の一つだったからです。物理世界と電子世界の界面の形は変化するけども、水と油のようにいつまでも混ざり合うことはありません。人間もEIも二つの世界の界面で触れ合うことしか出来ていないのです。
きっとDはそのことを分かっています。AもBもCも分かっているでしょう。ただ、誰もどうすればいいのか分かっていないだけなのだと思います。私にしてもそうです。トモ君の不安はどこかで必ずどこかで解消しなければなりません。ですがそのタイミングが今なのか、まだ先のことなのか、どうやってやればいいのか、私には判断がつきませんでした。
「Dさんが出張に行くからタブレットに入りなさい、トモくん」
「・・・」
最近、トモくんの様子がおかしい。少し前の用に悪口を言ったりもしなくなった。加えて、話しかけてもそっけない返事をすることが多くなったのだ。ついこの前までは少年が好きそうな感じの派手な色合いの壁紙だった気がする彼のディスプレイだったのに、今では大人びたシックな感じの海岸のスクリーンセーバーが動いており、本物の熊のようなリアリティのある彼のアバターが夕日に染まる風景の中に座り込んでいる。なんか変だ。
そんなリアル熊を彼のPCに侵入したヒカリが画面の外に蹴りだしてEI持ち運び用のタブレットに転送してくれたが、どうにもトモくんはおかしい。まるで少年期から青年期に移行する時のなんとも言えない青臭さが漂う思春期の男の子を見ているような気分だ。
恐らく彼の成長と何か関係があるのだろう。その正体は掴めないけれど気に留めておいた方が良さそうだ。
ヒカリとトモくんがタブレットに入ったのを見計らって部屋を出た。動きたがらないトモくんを引きずり出すのにずいぶん時間を使ってしまったから急がないと飛行機の時間に遅れそうだ。
「ヒカリ、一番近くにいるタクシーを会社前まで呼んでおいて」
「お安い御用よ」軽い返事が返ってきてポケットが震えた。
私の携帯電話にアクセスしたヒカリがGPS情報から近いタクシーに電話を掛けているようだ。私は時間調整と多少の運動のために階段を降りる。足の裏をリズムよく走る衝撃が心地よい。
普通のEIなら無線でどこでもタブレットにアクセスできるけれど、トモくんはネットワークに放し飼いにしてしまうと驚異的な演算能力と旺盛な好奇心であらゆるプログラムにEIでも解除困難な電子ロックをかけたり、或いは社内秘情報を散らかしたりするのでヒカリによってアクセス制限がかけられている。
全てのEIのマザーとも言えるヒカリのスペックを持ってすれば、今のところトモくんのようなイレギュラーでもどうにか出来るわけだが、これから彼らが成長してくるとそう簡単にはいかなくなるだろう。人間と同じように、凡庸な親から天才が生まれることがある。ヒカリのスペックは現存するEIの中でも最高レベルだが、それを超える個体が現れる日は何時来てもおかしくないのだ。
それがトモくんのようなイレギュラーから生まれることだって、考えられる。だからこそ、今の段階で彼ら制御していく術を検討していかねばならない。教育然り、電子的な封じ込めシステム然り。
考え事が一段落する頃には一階のロビーに到着し、ちょうどそのタイミングで入り口の外のロータリーにタクシーが止まるのが見えた。
先行き不安でブルーになっていた気分を切り替えてタクシーに乗る。行き先を告げてすぐに発進したタクシーの窓から外を見る。五月一日、朝六時十分。今日はメーデーだ。
ESでは毎年恒例行事として五月一日のメーデーでは全社員で駒沢公園近くの広い敷地を借りて学園祭ならぬ会社祭を行う。そこでは社内に多数存在するサークルが企画した出しものや催し物が多く披露され、毎年結構な賑わいになる。会社祭の前後には準備期間2日と片付け期間1日の特別有給休暇が出るから、出張や顧客との商談等、抜けられない用事がない社員は喜んで参加してくれる。そしてEI達も。
社内でのコミュニケーションの活性化や、人間関係による問題を小さくすることに役だっている、と私を含む経営陣は期待している。実際、少なくとも私の目に入る限りでは社内での大きな不和はあまり無いように思える。自分たちの企画したことが上手く行っていると思いたい、自己満足的な認知じゃなければいい。ヒカリによると少なくともEI達は楽しめているらしい。
さて、我が社のメーデーは出店は出来ないが一般人もアトラクションやイベントには参加できるようにしている。EIを世界中に提供及び運営している会社の数少ない一般公開イベントというだけあって、マスコミを含め例年、世界中から10万人ほどの人間が詰めかけて、駒沢を賑わせている。運営側としては頭の痛い状況も多く、周辺住民からの苦情も少なからず寄せられてくるのだが、メーデーを楽しんでいる圧倒的多数の人間達の笑顔を見ると来年もやろうかなという気分になってくるから不思議だ。このイベントのために一般の市民が集ってボランティア団体も出来て手伝ってくれている。有難い限りだ。
ESのメーデーの特色としてEI技術を使ったアイディアコンテストがある。ここでは社員に限らず、一般の人たちからもEI技術の応用先へのアイディアをつのり(募集段階で良い意見と悪い意見のより分けを行う)、ディスカッション形式でひとつひとつ議論し最も面白い議論が出来たアイディアに賞と景品を贈っている。
現在EIは企業向けに提供されているけれど、将来的には国民一人一人がEIと共に生活を送るようになるだろうというのが我が社の考えだ。実際にそう出来るように日々技術開発や運用制度を検討している。このアイディアコンテストは今はEIとの接点の少ない一般の人間たちと触れ合ってもらって、そしてEI達の未来を考えてもらう、そういう場にしたいと企画したものだった。
そして企画立案者であり、このコンテストの司会進行役である私にとっては毎年毎年、結構疲れる行事でもあった。EIが発達した世界でも人間は疲れる仕事をしなければならないとは皮肉なものだ。コンピューターを発明したからって人類が暇出来るようにはならなかったように。
抽選して10程度にまで絞り込んだアイディアはそれぞれ1時間以上は議論するため、全てを聞こうとすれば一日中そのブースにいることになる。そして私は早朝から夜までその場に居続けなければならないのだ。こうして貴重な休日は消えていく。悲しきかな管理職。
Dは長い一日を終え、自分のデスクに私とトモくんの入ったタブレットを置いてPCに接続すると「おやすみなさい」と疲れたかすれ気味の声で言って自室に帰っていきました。EIの私からすると時間の経過は一瞬です。やることがないときはCPUの稼働率を下げて情報処理量を絞ってやればいいんですから。そうすると、人間が夢中で何かに取り組んだ時のように「あっという間に」時間がすぎるような感覚になるわけです。
人間のDにしてみれば主催として入ってくる様々な情報を処理して長時間対応しなければならないので長いようにも、短いようにも感じたかも知れませんが、私にはその感覚は分かりません。それに加えて、彼女が疲れていることだけは分かりますが、肉体に負荷がかかっているという情報は私にはないものなので、これもよく分かりません。以前、Dにそのことを聞いてみましたが、彼女自身も定量的にその感覚を伝える手段は今のところないと言っていました。
現実世界を闊歩している人間たちの感覚、それをいつかは私も体験したいと思っています。体験できるなら。
現実世界。私達の存在する電子上の世界とは違ってプログラムではない物理法則が支配する世界。D達はそこにいます。大袈裟に言うなら、私達EIとは違う物理法則の支配する世界に。
私にしても彼らにしても、画面を通過して直接触れ合うことは出来ません。お互いを認識できるのはディスプレイやアイセンサー、マイクを使った間接的な方法だけです。一部の人間が信じている不思議な概念を使うとしたら、私達にとっての人間達はまるで幽霊のようです。きっと人間から見た私達もそう写っているのかも知れません。姿の見えない気配だけの存在。
AやDが色々な技術開発を行って私達に現実世界を体験できるように努力してくれていますが、私達が人間たちと同じ世界に立てる日はまだまだ遠そうです。
Dがいなくなって少しして、誰もいなくなったオフィスのディスプレイがぼんやりとした蒼い光を灯しました。トモくんです。スリープモードに入っていた私はクロック数を通常レベルにまで上げ、スクリーンの中で夜の海辺に座る熊の隣に腰掛けました。ざーざー、というどこかの国の穏やかな波の音が聞こえます。空には満月が輝いていて明るい夜の海岸を照らしていました。
「なあ。ディスプレイの向こうにはちゃんと世界はあるのか?」
しばらくそうしていると、珍しくトモくんが私に質問をしてきました。お姉さん感激です。でも質問内容は結構深刻なものでした。
言語化されていないトモくんの感情がサーバーを通じて流れ込んできたのです。何をするにしても手応えのない世界に彼は疑問を持ち始めたようでした。触れ得ることの出来ない世界に。
私の答えを聞く前に彼は自分のPCに引きこもってしまいました。
夜の海岸に座ったまま、このことをDに伝えるか悩みました。彼の疑問は表面化していないだけで、全てのEIが抱いている哲学的疑問の一つだったからです。物理世界と電子世界の界面の形は変化するけども、水と油のようにいつまでも混ざり合うことはありません。人間もEIも二つの世界の界面で触れ合うことしか出来ていないのです。
きっとDはそのことを分かっています。AもBもCも分かっているでしょう。ただ、誰もどうすればいいのか分かっていないだけなのだと思います。私にしてもそうです。トモ君の不安はどこかで必ずどこかで解消しなければなりません。ですがそのタイミングが今なのか、まだ先のことなのか、どうやってやればいいのか、私には判断がつきませんでした。
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