幻の蘭室で君と憩う

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タイム・スリップ

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吹奏楽って、やばいんすよね。彼は顔を曇らせながら言った。
確か、土日とか全部練習で、運動部よりエグいって言いますよね。大会もレベルがやばいし。
そうだよ。私は頷いた。実際、吹奏楽部に配属されたことによって、土日や長期休暇を奪われ、過労で倒れてしまう教員は後をたたない。倒れてしまうのはまだ良いとしても、中には部活を苦に命を落としてしまう教員だっているのだ。そんな、ある意味危険度の高い部活に私は配属となった。しかし、常に質の高い教育を提供しようと頑張る岐阜県は、ありがたいことに、部活においても質の高い教育を導入していた。それに伴って、この吹奏楽部には音楽の専門の教員が数人日替わりでついていたのである。ありがたいことこの上なかった。もしこれが愛知県だったら、と思うとぞっとする。愛知県は、例え未経験であっても、その部活の専門的な指導まですべてやらなければならない。そして、それができないと、生徒や保護者から能無し呼ばわりされるのである。愛知県が如何に偏見に満ちた陰湿な県民性を持っているかが伺える一例である。しかし、専門の教員がいてくれるということは私にとって大きな逃げ道になった。餅は餅屋というように、彼らに任せておけば良いのである。それに、無理に中に加わると、生徒たちのまとまりを崩してしまう可能性もある。だから、私は、主顧問に頼まれた必要最低限の事務作業のみ、部活に関わっていた。
それに、ここまで私が吹奏楽部を避けるのには、もう1つ、大きな理由があった。それは、過去のトラウマによるものだった。
実は、私は中学生の頃、吹奏楽部に所属していた。そこで打楽器を担当していたのだが、実はそれに問題があった。
というのも、私が打楽器を担当するようになったのは、私が望んだからではなかった。それは、当時の顧問の偏見によるものだった。
私は、小さい頃から歯並びが悪く、小学校高学年の頃から歯医者に通院して歯列矯正をしていた。当時の歯列矯正は、現代のように歯の裏側に隠せるものや、マウスピース矯正というような高度なものはなく、前にびっちりとワイヤーが組まれた厳しいものだった。しかも、月に一度そのワイヤーを取り替える必要があり、この取替のあとは2,3日ワイヤーの窮屈さによる歯の痛みに耐えなくてはならない。更に、この矯正が原因で、吹奏楽部の顧問は、部の花形とも言える金管楽器や木管楽器を私にやらせたがらなかった。何でも、唇が切れたり、怪我をしたりするというのだ。後に気になって調べたところ、金管楽器に関してはそれは真実だった。しかし、木管楽器に関してはさほど影響がないらしく、私はそれを知った時、当時の顧問を死ぬほど恨んだ。
しかし、当時の私はそんなに知恵もなかったので、渋々顧問の言う通り打楽器をやることにした。ところが、その打楽器の中でも私は報われなかった。
どんなに嫌と思う分野だって、すべてが嫌ということはない。少なからず興味が湧くものだってある。先述したあの地獄の建設科にいたときでさえ、私は、最終的に、ショベルカーやダンプカー、クレーン車といった重機や、ボルトやナット、様々な鉄骨によって織りなされる橋の構造に興味を持ち、好きになっていたのだから。
それと同じく、私は打楽器の中でも花形というべくスネアドラムやティンパニに興味を持ったが、やらせてもらえることはなかった。
私にあてがわれたのは、鍵盤楽器やバスドラムといった面倒なシロモノばかりだった。
それに、後に精神科外来への受診で発覚するのだが、私は目で情報を処理することが極端にできない。それを補うために耳で聴いた情報をもとに生きのびていたらしい。
つまり、私は(もともと分かってはいたが)楽譜が読めない代わりに、絶対音感だけで音楽を処理していたのだ。
当時はまだガラケーが普及し始めたばかりで、YouTubeや色々な動画サイト、音楽サイトも無かった。だから、聴いたこともない音楽を、聴覚だけで練習するのは至難の技だった。さらに、当時の私は一般的な女子中学生とは違って、流行りのアイドルや芸能人にはまるで興味がなかった。人気のテレビドラマも興味が持てなかったので内容も知らず、同級生の話が分からなかった。音楽だって、当時の人気アーティストには目もくれなかった。吹奏楽コンクールで聴いた他校の演奏や、家に置いてあった親の趣味の本を読んで、クラシック音楽に興味を持ち、家に置いてあったクラシック音楽のCDを聴いてクラシック音楽にずっぽりハマった。だから、部内で同級生たちが人気アーティストの楽曲をやろうと言って、各々が自分の願望どおりに担当することができた楽器を手に練習に勤しむ中、私は独り地獄の渦中にいた。何しろ、適した音源がない。さらにつらいところは、「興味が持てないものに対するやる気は、ゼロを通り越してマイナス値」なのである。だから、コンクールが終わったあとの練習は、苦痛で苦痛で仕方なかった。さすがに最後まで苦痛に耐えられなかったので、私は内申に響かない最低ラインの中3の夏のコンクールが終わるやいなや、すぐに吹奏楽部を辞めた。しかし、この時のトラウマは、私が感じたもの以上に深く、強烈にトラウマになっていたようだ。それに、歳のせいで内容こそ覚えていないが、少なからず私をターゲットにしたいじめもあった。その負の思い出が、この吹奏楽部顧問というできごとで、一気にフラッシュバックしたのだ。
複雑性PTSDだった。その時の私は慣れない電子機械科の業務の疲れやストレスを抱えながら、吹奏楽部の夏の定期演奏会の裏方を勤めるため土日出勤しなくてはならず、休む暇がなかった。そのため、かなり疲労を抱えており、心の余裕がなかった。そのせいだろう、定期演奏会のリハーサルで、楽しそうに演奏する生徒たちに、強烈な憎しみを感じた。自分でもありえないほどの憎しみだった。その憎しみは、例えるなら、源氏物語の六条御息所の持っていたそれだった。光源氏の正妻、葵の上や側室の夕顔を呪い殺した時のような、あんな、自分が自分でなくなるような、ものすごく強烈でどす黒い怒り。高温で溶かした金属のように熱く、どろどろとした感情が私の胸の中でとぐろを巻いていた。ひょっとしたら、生徒一人くらいの夢に出てきて、安眠を妨害していたかもしれない。だとしたら、申し訳ないことをしたかもしれないが・・・。
ともかく、その時の私の怒りの度合いは自分でも信じられないほどの凄まじさだった。普段なら絶対にしない、自宅の自室の壁を殴り、大声を出した。そして、自室の中でめちゃくちゃに暴れまわった。本棚のものをすべて出し、ベッドや机に飾ってあるぬいぐるみやクッションをすべて床に叩きつけた。
普段の私は、どんなに嫌なことがあっても、絶対に物に当たったり暴れたりすることはない。せいぜい親や友人に愚痴ってそれで終いだ。それが、まるで反抗期真っ盛りの中学生が突然私に乗り移ったかのように、私は暴れた。
自分でも、何がなんだか分からなかった。ひょっとしたら、複雑性PTSDじゃなくて、解離だったのかもしれない。
私の中に、こんなに憎しみの感情があったのかーと感心してしまうほどの憎しみや怒りの感情。
それは、小学生の頃、数々のいじめによって感情を表に出すことを禁じられたことによる理不尽な制御が爆発した瞬間でもあった。
中学生の頃の私は、感情を制御するクセが著しく出ており、本当は「悔しい」「つらい」「悲しい」と思っていたことを知らずしらず抑え込んでいたのだろう。それが、似たような環境下に置かれた瞬間、爆発してしまったのだ。
これには、さすがに両親も驚きを隠せなかった。しかも、その後私は、両親にかなりめちゃくちゃな暴言を吐いていたらしい。その時のことはあまり記憶がないが、普段は精神科を嫌う両親でさえも「これは精神科に診察してもらったほうが良い」と思ったそうだった。
そして、この複雑性PTSDの発作以来、私は、吹奏楽部の部室に入ると、何度も貧血や過呼吸を起こしかけた。そのこともあって、私は精神科の通院を始め、主治医に吹奏楽部での勤務を止めてもらった。
しかし、生徒は私にそんな裏があることなど知る由もない。中には、私が部活に来ないことに言及してくる生徒もいた。しかし、過去のトラウマが原因で精神を病んでいることなんて、精神疾患に無知な彼らには、馬鹿な言い訳のようにしか聞こえない。むしろ、精神疾患のことを何かのネタのようにからかってくる者もいた。彼らは私とは違って自分のやりたい楽器を、専門の教員の指導のもとで、ちやほや甘やかしてくれる顧問や親の「愛情」を受けながら、幸せに部活を楽しんでいる。彼らは、やりたいものは何でもやらせてもらえること、誰からでも愛されること、欲しいものは何でも与えられることが当たり前なのだから。また、親の中には、部活を一つのコミュニティとして、親同士の交流を楽しんだり、仕事で自分が面倒を見れない代わりの託児所代わりに使っている者もいた。片方が楽しく幸せに、自由奔放に生きているその片方で、一生にわたって修復できない巨大な犠牲が常に生まれている。それが、リアルな部活動というものである。
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