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主従
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重量感のある物々しい一室。そこで田所修司はある男の前にいた。
視線を感じるだけで汗が噴き出すようなそんな威圧感が身体中に感じられる。
「今日からお前には伊織の警護をしてもらう。伊織の手足となれ」
修司に反論の余地など与えずに命令するのは榎本グループの社長、榎本鷹文。
普通なら定年退職をしているような年齢でありながらなおも圧倒的な力を感じる。
修司の父親の雄一郎はこの鷹文に仕えている。といっても、表向きにはボディーガードと、補佐という役目にいる。修司も父親と同じ道を歩んでいた。
榎本鷹文の息子は三人。それぞれ長男は榎本静流(しずる)次男、伊織(いおり)三男、榎本馨(かおる)という。
それまで修司は長男の静流に仕えていた。
榎本鷹文という男は、彼は「無能な者に用はない」と断言するワンマン社長であった。そしてそれは自分の子どもでも容赦がなかった。実力がないと知るとあっさりと切り捨てた。
伊織が大学を卒業したと同時にそれまでの静流を海外の支局長という座に座らせ、伊織を次期社長へと仕立て上げたのだった。
「修司。午後の予定は?」
そう修司にいう彼こそ榎本伊織。
あれから3年の月日が流れた。今、伊織は25という歳ながらも落ち着きのあるとても綺麗な青年になり、トップを担う人間としての実力も兼ね備えていた。切れ長ですっきりとした…それでいて酷く印象的に見える瞳。脱色しているわけではないのに、自然に少し色の抜けている柔らかな髪。
この容姿は社交関係に置いても大いに役立ち、だれもが伊織に好印象を持っていた。
「帝國ホテルで寒河江社長と旦那様とご一緒のお食事を兼ねた商談が控えております」
修司が伊織に言った途端に伊織の顔が変わった。
「あいつと?」
伊織は父親である、鷹文を極端に嫌っている。いや、憎んでいると言っていい。心からの嫌悪を露わにして伊織は吐き捨てた。
「ああ、アイツと顔を合わせるかと思うとぞっとする。どうしても行かなきゃいけないのか?」
「ええ。寒河江様は伊織様とも話がしたいとおっしゃっておりましたから」
ぶつぶつとまだなお燻っていたが、伊織は修司の運転する車で帝國ホテルへと行く。車でも伊織は不機嫌そうに窓の外を見つめていた。
ホテルについて指定された最上階の会食の場へと向かう。
「伊織様、修司」
突然呼ばれ、振り向くとそこには修司の父親で、鷹文のボーディーガードの雄一郎がいた。
「なにか?」
伊織が聞いた。
すると、がっちりとした体格で非常時には修司と同じく頼りになる存在の雄一郎は人の良さそうな柔らかな笑顔を伊織に向けた。
「いえ。大したことはないのですが、本日の会食の間、私と修司は席を外すように承っているのです」
「なに?」
「ここしばらくの間、息子と話をする機会もありませんでしたから、旦那様が気を使って下さいまして」
「…わかった。修司」
「はい」
修司は深く一礼して伊織の後ろ姿を見送った。
「さ、修司、帰りも部下が伊織様をお送りする。だから今日は久しぶりに一緒に食事をしよう」
促され修司は雄一郎の馴染みのレストランへと向かう。
話をするといってもずっと榎本家に仕えるために躾られてきた修司、話題は必然的に榎本家のことになる。
「伊織様もりっぱになられたな。旦那様も今までの伊織様に頭を抱えていらっしゃったようだがここ5,6年の伊織様は見違えるようだと喜んでおられた。何が伊織様を変えたのだろうな」
「ええ。私も伊織様は旦那様のことを嫌っていらっしゃいましたから、独立なされるかと…伊織様のことですから素晴らしい才能を生かして自由になさると思っていました」
「確かに…今まであのような才能を隠していたのだからおどろくよ。本当に伊織様はすごい。今までの旦那様の交友関係をさらに違った方面へと広げていって、伊織様を支持する人間も増やしていっておられる。伊織様はすぐにでも旦那様の跡を継げる位置にいる」
修司には分かっていた。
今まで伊織は鷹文に目を付けられないようにと全ての才能を隠していたのだ。自分を理解した上での行動、伊織は徹底的に父である鷹文を嫌っていた。
雄一郎との食事を終え、共に邸宅へともどると、まだ鷹文も伊織も帰ってきてはいなかった。
修司は伊織の自室の隣にある自分の部屋へと向かった。すると向かうから大学生になったばかりの馨がやってきた。
「親父達はまだ帰ってこないんだ?伊織も大変だよね、大ッ嫌いな親父と一緒で。…なんであんなに嫌っているんだかわかんないけど…」
「馨様は旦那様のことを嫌ってはいらっしゃらないんですね」
修司の質問に馨は楽しそうに答える。
「親父?別に。逆に尊敬してるよ。伊織みたいに毛嫌いするもんでもないよ。かといって静流のように盲目的に従おうなんて思わないけどね」
そこまで言ってクスリ…と馨は笑みをこぼした。そして予感めいたように修司に囁いた。
「伊織は親父の会社をきっと潰すよ」
「馨様!?」
修司が驚いて馨を見つめる。
「伊織は必要なモノしか興味ないからね。こんな足枷のような親父の支配下にある会社なんて、伊織の方から切るはずだよ。その時は徹底的に、それも二度と這い上がれないような方法でね」
「そんな…」
修司が絶句する。それを面白そうに馨は見つめ、さらに言う。
「修司も疑問に思ってたんだろ?なんで伊織が親父の言いなりになっているのかって…俺が思うに親父を潰すためじゃないかな」
「……」
「まあ、多分その前に会社は俺のモノになるよ。親父もバカじゃない。伊織の考えは分かるだろうし。結果的に後継者は俺になる。もちろん静流は論外、役不足だ。静流は親父のジュニアであって親父の代わりには一生なれない。自分という確固としたものがないヤツに人はついて行かない。まあ、俺が大学を卒業する前に伊織が行動にでないことを祈ってるけどね」
そう言って馨は笑ってその場を立ち去った。
一番冷静に物事を判断できるのは馨なのかもしれない。静流は父親似の独裁タイプ。伊織は才能と交友関係を活用し様々な新しいものを取り入れていく改革タイプ。この兄弟の中で目立ちはしないものの、物事の本質を見抜き、そして的確に判断していくのが彼なのかもしれない。
馨の後ろ姿を見つめながら修司は思った。
主従関係・とらわれたモノ2
内線がなった。修司のPCのキーボードを打つ手が止まった。
「はい。なにか?」
「旦那様と伊織様がお帰りになられました。旦那様が修司様をお呼びでございます」
「わかりました。すぐに参ります」
そう言って電話を置くやいなや、イスの背に掛けていた上着に袖を通し、部屋をあとにする。
3階の奥の一室。
重厚なつくりの扉が修司を迎えた。
トントン
二度ノックをする。
「修司です」
「入りなさい」
扉越しだというのに張りのある威圧的な声が響いた。
中に入ると、60を過ぎているのにまだ尚権力と勢力の有り余る榎本鷹文その人がいた。
「修司に明日、見合いをしてもらう」
鷹文は修司の顔を見ると唐突に一方的な宣言をした。
「で、ですが、伊織様が結婚されていないのに私が妻をめとることはできません」
「それがな」
修司の言いたいことはわかるという顔をして、鷹文は続けた。
「伊織には今日見合いをさせた。伊織も気に入ったようで、話を進めてくれと言っておった。だから修司が気にすることは何もない」
「……」
言葉がでなかった。
今日自分が席を外されたのは、見合いのため。すでに用意されていたシナリオだった。
だが、修司が驚いたのは伊織がそれを受け入れたと言うことだ。
「修司、誰か一緒になりたい女はいるのか?」
「いいえ」
「それならば、良いな。明日だ。忘れるな」
もちろん反論は許されない。
修司は鷹文の部屋をあとにした。
結婚なんてずっと先だと思っていた。もちろんそれが用意されたものあることはわかっていたが。こんなに早くくるとはおもってなかった。
それよりも伊織が見合いで承諾すると思ってなかった。意外だった。
ショックを隠し切れぬまま、自室へともどる。上着を脱ぎ、ネクタイを取り、それをベットの上に投げ出そうとして…動きは止まった。
ベットの上に寝そべって修司を見つめる…伊織がいた。
「い、伊織様?」
「あいつから修司の見合いの話聞かされた?」
「ええ。明日だそうです」
手に上着とネクタイが所在なく握られたまま、修司は答えた。
すると、伊織は皮肉めいた笑いを浮かべた。
「くっ…、さすが大ダヌキ…用意いいな。どうやら俺とお前の見合いは同時進行らしい。早いトコ片づけてしまえってか?アイツらしい」
「…伊織様は相手の方を気に入られたそうで」
修司が意を決して言うと、伊織はあっさりと頷いた。
「ああ。いつもみたいなどっかの箱入り娘かと思っていたんだけど、美和は違ったらしい。度胸もあるし、世間慣れしている。面白い女だった。気に入ったよ」
ずしん…ときた。
美和…女性の名前を親しげに呼ぶ伊織を初めて聞いた。
「そう…ですか。素晴らしい方に出会えて良かったですね」
修司は全ての感情を押し殺して、笑顔で言うと…伊織がじっと修司を見つめた。それはまるで射るように。
「…何か?」
「…いや、なんでもない。寝る」
伊織はすぐに視線をはずすと、ベットから降りてそのままドアの方へと歩いていく。
「おやすみなさいませ」
深々と伊織に頭を下げ、そして修司が顔を上げたとき、すでにその姿はなかった。
ふう。
修司は上着とネクタイをベットに投げ出すと、大きく息を吐いた。
修司が伊織と初めて会ったのは、今から10年も前だ。 修司はその時22で、伊織は15だった。一回り近く違う伊織に修司は心を奪われた。伊織は今まで修司が見たどんな女よりも、どんな人間よりも、綺麗でそして孤独な若者だった。
そして、今までずっと密かに叶わぬ思いを寄せていた。その伊織が…手の届かない存在になる。
ずっと誰よりも傍にいることができるのだと思っていたが、現実はシビアだ。
重い気持ちを抱いたまま修司はベットに倒れ込んだ。微かに伊織のぬくもりが残っている。切なさだけが修司の胸に残る…。
見合いは、本人達だけの席が設けらた簡単なもので…そして、あっけなく終わった。
相手は5つ下の27。落ち着いた雰囲気のある、綺麗な女性だった。
もちろん修司の心が揺れることはなかったが、結婚してもいいかもしれないと思わせる女性だった。
簡単に言えば愛がなくても生活できる…彼女もただのステータスとして自分を見ていたのはわかるし、お互いの利害関係は一致する。それなりの教養と容姿と肩書きを持つパートナー。この世の中はそんなものを求めている。そして修司も。
二人とも、権力世界慣れしていて、表面をつくろう生き方を知っている。だからこそ都合がよい。
また会う約束をして…そして彼女を家まで送り、見合いは終わった。
きっと彼女も修司を選ぶだろう。そして修司は拒否権すらない。修司はその現実をただ受け止めることしかできない。
「俺の人生はもう既に決まっている。今更何も感じないな」
修司はそう呟いて、また、伊織の元へと車を走らせていた。
「見合いか…」
オフィスにもどり、伊織の部屋を訪れると、修司の顔を見て開口一番そう言った。
「はい」
「ふう~ん」
興味ない顔で言い。そうしていきなり席を立って、目の前に来ると、修司のネクタイを引き抜いた…。
「似合わない」
普段、伊織の傍にいるときに使用するシンプルなものではなく、今日は少し派手目のネクタイをしていたのだった。
伊織は自分の手の中にある修司のネクタイを一瞥するとぽいと投げ捨てた。
「さっさと支度しろ。行くぞ」
「はい」
修司は投げられたネクタイを拾うとそのまま近くのゴミ箱に入れ、伊織の後を歩き出した。
「修司。見合いはどうだった?」
「ええ。綺麗な方でした」
「そうか」
ぽつりと修司が運転する車のナビシートに座って伊織が聞いた。
伊織はその後何も言わず、沈黙が続いた。
「伊織…様?」
「…なんでもない。お前がいいならそれでいい」
「あの…どういう…」
「何でもないと言っただろう。前を見ろ。死ぬぞ?」
はっと気づいて修司はブレーキを踏んだ。いつの間にか前の信号は赤くなっていた。
それきり伊織は修司に見合いの話に触れることはなかった。
だが、修司も伊織も自分の見合いの話は本人も周りも巻き込んで、着々と進んでいた…。
「え?…伊織様の婚約披露…ですか?」
修司は驚きの声を上げた。
「ああ。来週の社のパーティーで発表する」
「っ…急な…話ですね」
「伊織にも会社を継いでもらうための準備があるからな。伊織に伝えておけ。いいな」
修司は言葉に詰まり、だが、鷹文の眼光に、頷くことしかできなかった。
伊織がついに婚約する。これでもう、決定的に伊織とは…。
修司の頭のなかには、それだけでいっぱいだった。
だから、修司は自分のことなど、どうでも良かった。
「修司、お前の見合いも進めるぞ?」
「ええ。構いません」
「修司、今日は休みだ。どっかへ行こうぜ?」
すれ違いざまに修司は伊織に話しかけられた。
「伊織様?!」
「海行こう!海!」
修司は苦笑してわかりましたと応えると、伊織の横へと歩み寄った。
その時、パタパタと家事手伝いとして住み込みで働いている鈴木かなえが駆けてきた。
「伊織様。お客様がいらしております。応接間の方へお通ししています」
「誰だ?こんなとこまで」
伊織は不機嫌を露わにして応接間へと向かった。もちろんその後ろから修司はついて行った。
ばたんっ
いくらか乱暴に開けたそこには、二十歳前後の綺麗な女性が座っていた。彼女は伊織の顔を見るとわっと涙をこぼした。
「美和!どうした?何かあったか?」
伊織が驚いた顔をして美和の元へ駆け寄った。
「伊織…」
「修司、少し席を外してくれ」
「はい」
扉を閉める寸前、泣き崩れる美和を優しく宥める伊織の姿が修司の瞳に映った。胸に痛みが走る…。
パタンという音を背後にして、思わず修司は扉に寄りかかって額に手をやった。
扉の向こうから、伊織の低い声が微かに振動として伝わってくる。
この一枚の扉がとてつもなく大きい。そして、伊織の婚約者、寒河江美和だけがこの内側に入ることが出来る…。現実が目の前に突きつけられた気がした。
すべての感覚が一気に冷めていくようだった。何も考えることができない。ただ…伊織が遠い。
どれくらいたっただろうか、修司が時間の感覚を失っていると、中から伊織の声が響いた。
「修司、入っていいぞ」
修司が再び扉を開けると、落ち着いて座る美和がいた。
「ごめんなさい。見苦しいところをおかけしまって…」
恥ずかしそうに涙の残る瞳で微笑む美和に、修司はかなわないと思った。伊織が気に入るわけがわかった気がした。
「美和、こいつは田所修司」
「はじめまして」
「修司、美和だ」
「宜しくお願いいたします」
修司が美和に改めて対面する。
美和は、明るくさわやかで、しかも知性も感じさせる女性であった。伊織の隣にいても決して引けを取らない…。
「修司、美和を送っていきたいんだけど…」
「はい。わかりました」
「いいのに…自分で帰るわ。ここに来たのだって自分で来たのよ?」
美和が慌てていうと、伊織は優しく笑った。
「ばーか。ここまで来るのも大変だっただろう?しかもこんなとこにわざわざ。今度何かあったら、連絡しろよ」
「ん。ありがと、伊織」
美和は、礼を言った。気を使ってくれる伊織が嬉しかった。
美和を家まで送る。修司の運転する車の後部座席に座った二人の話は弾んでいた。時折修司もその話に参加したりした。
修司の中の僅かなくすぶりも、美和の華やかな笑い声に消えていった。
「あ~あ。海行きそびれた。どうするかなぁ~?明日からまた仕事だからな」
「伊織様、お聞きになっていらっしゃいますか?来週婚約披露をすると…」
「ああ。美和に聞いた。タヌキもよくやるよな」
伊織は悪態をつくと、ふうっと息を付いた。
「ま、どう足掻いたってあいつの思惑通りにすすんでいくんだから」
そう言って笑うと、修司の背もたれから顔を出し、身を乗り出した。
「修司はどうなんだ?」
「ええ。見合いはすすんでいるようですよ」
「自分のことだろうに…他人事に言うんだなお前は…」
「そう…かもしれませんね。結局は私も同じ事です。でも、彼女と一緒でも構わないと思っていますよ」
修司はそう言ってルームミラー越しに伊織に微笑んだ。
伊織の隣にいられるのなら…なんでもする。修司はそう決めていた。
伊織の婚約発表の日がやってきた。
会場はパーティーの始まる直前で招待客らが集まりだしていた。
招待客の対応をしていた修司を、突然伊織が引っ張った。
「修司、浜辺に行こうぜ」
「い、伊織様!何を考えていらっしゃるのですか!!」
修司が焦ったように声をだす。
だって今日は…
「俺がパーティーを抜け出すなんていつもやってることだろうが」
「しかし、あなたがいなくては…」
「いつだってあの男が主役だろうが」
不快感と共に吐き捨てる伊織。
あの男…確かに旦那様が主役でしょう…しかし、しかし今日は…
「それでも、今日は伊織様と美和様の婚約発表があるんですよ」
ずきんっ…
言葉に発すると身体…心に痛みが走る。
そんな修司の想いをよそに伊織はあくびをしながら海のほうへと歩きだす。
「伊織様!!」
修司が後を追う。伊織は歩みを止めず、海岸線を歩く。
修司が追いついて、なおも心とは裏腹に説得しようとするのを遮るように、伊織は振り向いて修司が息をのむほど、綺麗に笑った。
「そんなものないよ。俺は婚約しない。美和もここにはこない」
「どういう意味…ですか?」
伊織の言葉に修司は当惑の表情を浮かべた。
「そのままだよ。今頃美和は旦那と空の上」
「旦那…様?」
「美和は今日、売れない画家と駆け落ちした。俺はカモフラージュ。美和が画家と一緒になれるまでのつなぎの役目。婚約発表が早まって俺も美和も焦ったぜ」
かくん。
修司の力が抜け、膝が砂浜につく。
「なぜ、私に一言おっしゃってくれなかったのですか。私が…私が信用できませんか?」
悲痛な声で修司が叫ぶ。そして伊織を見上げた。
「まさか。信用してるよ。誰よりも」
伊織が修司に近づいて、神妙な顔で言った。
「では、なぜ…」
「お前もいろいろとあったろ。見合いも順調にいっていたようだしな…」
「そんなもの。あなたが婚約なさらなかったら…」
「俺の婚約とお前の見合いになんの関係がある?」
伊織は一切の感情を見せず、鋭く言った。伊織の瞳から目が離せない。真剣な瞳だった。
「それは…」
「俺に関係なく、お前が気に入ったのなら結婚する…そういうモンだろう」
伊織が不意に横を向いた。
「違います」
修司はきっぱり告げて立ち上がった。
「私は伊織様が結婚して…誰かを見つめるのが嫌だったのです。だから私も誰かと一緒になればと…でも。あなたが好きです。あなた以外を愛することはできません」
勢いにまかせて言ってしまった。
伊織は何も言わない。しばらく沈黙が続いた…。
視線を合わせず、しかし伊織が口を開いた。
「修司、俺がなんであの男…親父の下にいるか分かるか?」
突然の言葉に何かと不思議がる修司の瞳を伊織はじっと見つめた。
「あの男が早くくたばるのなら考えるさ。だが、アイツはこの世に未練タラタラで、当分死にはしない。あの男の下で働くなんて考えるだけで虫酸が走る。だから俺はあの男にはずっと逆らって生きてきた」
「…では、なぜ?」
修司はずっと疑問だった。
伊織様ならなんでもできる。一から始めて、きっと数年後には旦那様のと同じくらいの会社を作り上げることだって夢ではない。なのに…。
「俺が大学に入ってすぐ、アイツの後継者はほぼ静流に決まった。そうだな」
「はい。だから私が静流様に仕えました。」
後継者と聞いて静流様がうらやましくなったというのか?なんでもできる方だからこそ、父親の後継者の地位を持ちたかったのか?しかし、伊織様がそんなことを抱いていたとは想像できなかった。
「あのとき、初めてお前が俺達の前に現れた」
「ええ。ずっとアメリカにいましたから」
修司は本場アメリカで、ずっとボディーガードになるべく経験を積んでいた。それだけでなく主人のすべてを支えられるようにと様々な知識を得ていた。そして、時は熟し、鷹文に呼ばれた。
その時はこの先ずっと修司は静流に仕えるものだと思っていた。静流は鷹文の独裁ぶりを真似たような一方的な権力を発揮していた。当時は鷹文の影響でのみ部下達が従っているというもので、馨が言ったようにその失墜は近くにいた修司にははっきりと想像できた。そして3年前、秘めた思いを寄せていた相手であり、確実に才能の片鱗を見せ始めた伊織に仕えることができたのだった。
「俺は…俺はお前が欲しかった」
「え…」
突然の伊織の告白に、修司は言葉を失った。
「お前を静流に渡したくはなかった。馨にも…もちろん親父にも。お前を俺のモノにしたかった」
「そんな…」
私のために捨てたのですか?自由も…プライドも…。
修司には信じられなかった。修司こそ、伊織を望んでいた。しかし、修司にとって伊織は手の届かない、見ているだけの、遠い存在だった。それが…。
「俺にとってお前は特別だった。それまで他人に興味なんてなかったのに…修司だけは違った。初めてだった」
まっすぐに伊織が修司を見つめた。
「伊織様」
「俺について行く覚悟があるのなら…俺を欲しいと言え、修司」
「あなたが…欲しいです」
伊織の声に修司は想いを込めて言った。
伊織はゆっくりと近づき、修司の唇に自分のを合わせた。
ああ。私はこの人に一生捕らわれていく。
修司は幸せをかみしめて、そっと伊織を抱きしめていた。
END
視線を感じるだけで汗が噴き出すようなそんな威圧感が身体中に感じられる。
「今日からお前には伊織の警護をしてもらう。伊織の手足となれ」
修司に反論の余地など与えずに命令するのは榎本グループの社長、榎本鷹文。
普通なら定年退職をしているような年齢でありながらなおも圧倒的な力を感じる。
修司の父親の雄一郎はこの鷹文に仕えている。といっても、表向きにはボディーガードと、補佐という役目にいる。修司も父親と同じ道を歩んでいた。
榎本鷹文の息子は三人。それぞれ長男は榎本静流(しずる)次男、伊織(いおり)三男、榎本馨(かおる)という。
それまで修司は長男の静流に仕えていた。
榎本鷹文という男は、彼は「無能な者に用はない」と断言するワンマン社長であった。そしてそれは自分の子どもでも容赦がなかった。実力がないと知るとあっさりと切り捨てた。
伊織が大学を卒業したと同時にそれまでの静流を海外の支局長という座に座らせ、伊織を次期社長へと仕立て上げたのだった。
「修司。午後の予定は?」
そう修司にいう彼こそ榎本伊織。
あれから3年の月日が流れた。今、伊織は25という歳ながらも落ち着きのあるとても綺麗な青年になり、トップを担う人間としての実力も兼ね備えていた。切れ長ですっきりとした…それでいて酷く印象的に見える瞳。脱色しているわけではないのに、自然に少し色の抜けている柔らかな髪。
この容姿は社交関係に置いても大いに役立ち、だれもが伊織に好印象を持っていた。
「帝國ホテルで寒河江社長と旦那様とご一緒のお食事を兼ねた商談が控えております」
修司が伊織に言った途端に伊織の顔が変わった。
「あいつと?」
伊織は父親である、鷹文を極端に嫌っている。いや、憎んでいると言っていい。心からの嫌悪を露わにして伊織は吐き捨てた。
「ああ、アイツと顔を合わせるかと思うとぞっとする。どうしても行かなきゃいけないのか?」
「ええ。寒河江様は伊織様とも話がしたいとおっしゃっておりましたから」
ぶつぶつとまだなお燻っていたが、伊織は修司の運転する車で帝國ホテルへと行く。車でも伊織は不機嫌そうに窓の外を見つめていた。
ホテルについて指定された最上階の会食の場へと向かう。
「伊織様、修司」
突然呼ばれ、振り向くとそこには修司の父親で、鷹文のボーディーガードの雄一郎がいた。
「なにか?」
伊織が聞いた。
すると、がっちりとした体格で非常時には修司と同じく頼りになる存在の雄一郎は人の良さそうな柔らかな笑顔を伊織に向けた。
「いえ。大したことはないのですが、本日の会食の間、私と修司は席を外すように承っているのです」
「なに?」
「ここしばらくの間、息子と話をする機会もありませんでしたから、旦那様が気を使って下さいまして」
「…わかった。修司」
「はい」
修司は深く一礼して伊織の後ろ姿を見送った。
「さ、修司、帰りも部下が伊織様をお送りする。だから今日は久しぶりに一緒に食事をしよう」
促され修司は雄一郎の馴染みのレストランへと向かう。
話をするといってもずっと榎本家に仕えるために躾られてきた修司、話題は必然的に榎本家のことになる。
「伊織様もりっぱになられたな。旦那様も今までの伊織様に頭を抱えていらっしゃったようだがここ5,6年の伊織様は見違えるようだと喜んでおられた。何が伊織様を変えたのだろうな」
「ええ。私も伊織様は旦那様のことを嫌っていらっしゃいましたから、独立なされるかと…伊織様のことですから素晴らしい才能を生かして自由になさると思っていました」
「確かに…今まであのような才能を隠していたのだからおどろくよ。本当に伊織様はすごい。今までの旦那様の交友関係をさらに違った方面へと広げていって、伊織様を支持する人間も増やしていっておられる。伊織様はすぐにでも旦那様の跡を継げる位置にいる」
修司には分かっていた。
今まで伊織は鷹文に目を付けられないようにと全ての才能を隠していたのだ。自分を理解した上での行動、伊織は徹底的に父である鷹文を嫌っていた。
雄一郎との食事を終え、共に邸宅へともどると、まだ鷹文も伊織も帰ってきてはいなかった。
修司は伊織の自室の隣にある自分の部屋へと向かった。すると向かうから大学生になったばかりの馨がやってきた。
「親父達はまだ帰ってこないんだ?伊織も大変だよね、大ッ嫌いな親父と一緒で。…なんであんなに嫌っているんだかわかんないけど…」
「馨様は旦那様のことを嫌ってはいらっしゃらないんですね」
修司の質問に馨は楽しそうに答える。
「親父?別に。逆に尊敬してるよ。伊織みたいに毛嫌いするもんでもないよ。かといって静流のように盲目的に従おうなんて思わないけどね」
そこまで言ってクスリ…と馨は笑みをこぼした。そして予感めいたように修司に囁いた。
「伊織は親父の会社をきっと潰すよ」
「馨様!?」
修司が驚いて馨を見つめる。
「伊織は必要なモノしか興味ないからね。こんな足枷のような親父の支配下にある会社なんて、伊織の方から切るはずだよ。その時は徹底的に、それも二度と這い上がれないような方法でね」
「そんな…」
修司が絶句する。それを面白そうに馨は見つめ、さらに言う。
「修司も疑問に思ってたんだろ?なんで伊織が親父の言いなりになっているのかって…俺が思うに親父を潰すためじゃないかな」
「……」
「まあ、多分その前に会社は俺のモノになるよ。親父もバカじゃない。伊織の考えは分かるだろうし。結果的に後継者は俺になる。もちろん静流は論外、役不足だ。静流は親父のジュニアであって親父の代わりには一生なれない。自分という確固としたものがないヤツに人はついて行かない。まあ、俺が大学を卒業する前に伊織が行動にでないことを祈ってるけどね」
そう言って馨は笑ってその場を立ち去った。
一番冷静に物事を判断できるのは馨なのかもしれない。静流は父親似の独裁タイプ。伊織は才能と交友関係を活用し様々な新しいものを取り入れていく改革タイプ。この兄弟の中で目立ちはしないものの、物事の本質を見抜き、そして的確に判断していくのが彼なのかもしれない。
馨の後ろ姿を見つめながら修司は思った。
主従関係・とらわれたモノ2
内線がなった。修司のPCのキーボードを打つ手が止まった。
「はい。なにか?」
「旦那様と伊織様がお帰りになられました。旦那様が修司様をお呼びでございます」
「わかりました。すぐに参ります」
そう言って電話を置くやいなや、イスの背に掛けていた上着に袖を通し、部屋をあとにする。
3階の奥の一室。
重厚なつくりの扉が修司を迎えた。
トントン
二度ノックをする。
「修司です」
「入りなさい」
扉越しだというのに張りのある威圧的な声が響いた。
中に入ると、60を過ぎているのにまだ尚権力と勢力の有り余る榎本鷹文その人がいた。
「修司に明日、見合いをしてもらう」
鷹文は修司の顔を見ると唐突に一方的な宣言をした。
「で、ですが、伊織様が結婚されていないのに私が妻をめとることはできません」
「それがな」
修司の言いたいことはわかるという顔をして、鷹文は続けた。
「伊織には今日見合いをさせた。伊織も気に入ったようで、話を進めてくれと言っておった。だから修司が気にすることは何もない」
「……」
言葉がでなかった。
今日自分が席を外されたのは、見合いのため。すでに用意されていたシナリオだった。
だが、修司が驚いたのは伊織がそれを受け入れたと言うことだ。
「修司、誰か一緒になりたい女はいるのか?」
「いいえ」
「それならば、良いな。明日だ。忘れるな」
もちろん反論は許されない。
修司は鷹文の部屋をあとにした。
結婚なんてずっと先だと思っていた。もちろんそれが用意されたものあることはわかっていたが。こんなに早くくるとはおもってなかった。
それよりも伊織が見合いで承諾すると思ってなかった。意外だった。
ショックを隠し切れぬまま、自室へともどる。上着を脱ぎ、ネクタイを取り、それをベットの上に投げ出そうとして…動きは止まった。
ベットの上に寝そべって修司を見つめる…伊織がいた。
「い、伊織様?」
「あいつから修司の見合いの話聞かされた?」
「ええ。明日だそうです」
手に上着とネクタイが所在なく握られたまま、修司は答えた。
すると、伊織は皮肉めいた笑いを浮かべた。
「くっ…、さすが大ダヌキ…用意いいな。どうやら俺とお前の見合いは同時進行らしい。早いトコ片づけてしまえってか?アイツらしい」
「…伊織様は相手の方を気に入られたそうで」
修司が意を決して言うと、伊織はあっさりと頷いた。
「ああ。いつもみたいなどっかの箱入り娘かと思っていたんだけど、美和は違ったらしい。度胸もあるし、世間慣れしている。面白い女だった。気に入ったよ」
ずしん…ときた。
美和…女性の名前を親しげに呼ぶ伊織を初めて聞いた。
「そう…ですか。素晴らしい方に出会えて良かったですね」
修司は全ての感情を押し殺して、笑顔で言うと…伊織がじっと修司を見つめた。それはまるで射るように。
「…何か?」
「…いや、なんでもない。寝る」
伊織はすぐに視線をはずすと、ベットから降りてそのままドアの方へと歩いていく。
「おやすみなさいませ」
深々と伊織に頭を下げ、そして修司が顔を上げたとき、すでにその姿はなかった。
ふう。
修司は上着とネクタイをベットに投げ出すと、大きく息を吐いた。
修司が伊織と初めて会ったのは、今から10年も前だ。 修司はその時22で、伊織は15だった。一回り近く違う伊織に修司は心を奪われた。伊織は今まで修司が見たどんな女よりも、どんな人間よりも、綺麗でそして孤独な若者だった。
そして、今までずっと密かに叶わぬ思いを寄せていた。その伊織が…手の届かない存在になる。
ずっと誰よりも傍にいることができるのだと思っていたが、現実はシビアだ。
重い気持ちを抱いたまま修司はベットに倒れ込んだ。微かに伊織のぬくもりが残っている。切なさだけが修司の胸に残る…。
見合いは、本人達だけの席が設けらた簡単なもので…そして、あっけなく終わった。
相手は5つ下の27。落ち着いた雰囲気のある、綺麗な女性だった。
もちろん修司の心が揺れることはなかったが、結婚してもいいかもしれないと思わせる女性だった。
簡単に言えば愛がなくても生活できる…彼女もただのステータスとして自分を見ていたのはわかるし、お互いの利害関係は一致する。それなりの教養と容姿と肩書きを持つパートナー。この世の中はそんなものを求めている。そして修司も。
二人とも、権力世界慣れしていて、表面をつくろう生き方を知っている。だからこそ都合がよい。
また会う約束をして…そして彼女を家まで送り、見合いは終わった。
きっと彼女も修司を選ぶだろう。そして修司は拒否権すらない。修司はその現実をただ受け止めることしかできない。
「俺の人生はもう既に決まっている。今更何も感じないな」
修司はそう呟いて、また、伊織の元へと車を走らせていた。
「見合いか…」
オフィスにもどり、伊織の部屋を訪れると、修司の顔を見て開口一番そう言った。
「はい」
「ふう~ん」
興味ない顔で言い。そうしていきなり席を立って、目の前に来ると、修司のネクタイを引き抜いた…。
「似合わない」
普段、伊織の傍にいるときに使用するシンプルなものではなく、今日は少し派手目のネクタイをしていたのだった。
伊織は自分の手の中にある修司のネクタイを一瞥するとぽいと投げ捨てた。
「さっさと支度しろ。行くぞ」
「はい」
修司は投げられたネクタイを拾うとそのまま近くのゴミ箱に入れ、伊織の後を歩き出した。
「修司。見合いはどうだった?」
「ええ。綺麗な方でした」
「そうか」
ぽつりと修司が運転する車のナビシートに座って伊織が聞いた。
伊織はその後何も言わず、沈黙が続いた。
「伊織…様?」
「…なんでもない。お前がいいならそれでいい」
「あの…どういう…」
「何でもないと言っただろう。前を見ろ。死ぬぞ?」
はっと気づいて修司はブレーキを踏んだ。いつの間にか前の信号は赤くなっていた。
それきり伊織は修司に見合いの話に触れることはなかった。
だが、修司も伊織も自分の見合いの話は本人も周りも巻き込んで、着々と進んでいた…。
「え?…伊織様の婚約披露…ですか?」
修司は驚きの声を上げた。
「ああ。来週の社のパーティーで発表する」
「っ…急な…話ですね」
「伊織にも会社を継いでもらうための準備があるからな。伊織に伝えておけ。いいな」
修司は言葉に詰まり、だが、鷹文の眼光に、頷くことしかできなかった。
伊織がついに婚約する。これでもう、決定的に伊織とは…。
修司の頭のなかには、それだけでいっぱいだった。
だから、修司は自分のことなど、どうでも良かった。
「修司、お前の見合いも進めるぞ?」
「ええ。構いません」
「修司、今日は休みだ。どっかへ行こうぜ?」
すれ違いざまに修司は伊織に話しかけられた。
「伊織様?!」
「海行こう!海!」
修司は苦笑してわかりましたと応えると、伊織の横へと歩み寄った。
その時、パタパタと家事手伝いとして住み込みで働いている鈴木かなえが駆けてきた。
「伊織様。お客様がいらしております。応接間の方へお通ししています」
「誰だ?こんなとこまで」
伊織は不機嫌を露わにして応接間へと向かった。もちろんその後ろから修司はついて行った。
ばたんっ
いくらか乱暴に開けたそこには、二十歳前後の綺麗な女性が座っていた。彼女は伊織の顔を見るとわっと涙をこぼした。
「美和!どうした?何かあったか?」
伊織が驚いた顔をして美和の元へ駆け寄った。
「伊織…」
「修司、少し席を外してくれ」
「はい」
扉を閉める寸前、泣き崩れる美和を優しく宥める伊織の姿が修司の瞳に映った。胸に痛みが走る…。
パタンという音を背後にして、思わず修司は扉に寄りかかって額に手をやった。
扉の向こうから、伊織の低い声が微かに振動として伝わってくる。
この一枚の扉がとてつもなく大きい。そして、伊織の婚約者、寒河江美和だけがこの内側に入ることが出来る…。現実が目の前に突きつけられた気がした。
すべての感覚が一気に冷めていくようだった。何も考えることができない。ただ…伊織が遠い。
どれくらいたっただろうか、修司が時間の感覚を失っていると、中から伊織の声が響いた。
「修司、入っていいぞ」
修司が再び扉を開けると、落ち着いて座る美和がいた。
「ごめんなさい。見苦しいところをおかけしまって…」
恥ずかしそうに涙の残る瞳で微笑む美和に、修司はかなわないと思った。伊織が気に入るわけがわかった気がした。
「美和、こいつは田所修司」
「はじめまして」
「修司、美和だ」
「宜しくお願いいたします」
修司が美和に改めて対面する。
美和は、明るくさわやかで、しかも知性も感じさせる女性であった。伊織の隣にいても決して引けを取らない…。
「修司、美和を送っていきたいんだけど…」
「はい。わかりました」
「いいのに…自分で帰るわ。ここに来たのだって自分で来たのよ?」
美和が慌てていうと、伊織は優しく笑った。
「ばーか。ここまで来るのも大変だっただろう?しかもこんなとこにわざわざ。今度何かあったら、連絡しろよ」
「ん。ありがと、伊織」
美和は、礼を言った。気を使ってくれる伊織が嬉しかった。
美和を家まで送る。修司の運転する車の後部座席に座った二人の話は弾んでいた。時折修司もその話に参加したりした。
修司の中の僅かなくすぶりも、美和の華やかな笑い声に消えていった。
「あ~あ。海行きそびれた。どうするかなぁ~?明日からまた仕事だからな」
「伊織様、お聞きになっていらっしゃいますか?来週婚約披露をすると…」
「ああ。美和に聞いた。タヌキもよくやるよな」
伊織は悪態をつくと、ふうっと息を付いた。
「ま、どう足掻いたってあいつの思惑通りにすすんでいくんだから」
そう言って笑うと、修司の背もたれから顔を出し、身を乗り出した。
「修司はどうなんだ?」
「ええ。見合いはすすんでいるようですよ」
「自分のことだろうに…他人事に言うんだなお前は…」
「そう…かもしれませんね。結局は私も同じ事です。でも、彼女と一緒でも構わないと思っていますよ」
修司はそう言ってルームミラー越しに伊織に微笑んだ。
伊織の隣にいられるのなら…なんでもする。修司はそう決めていた。
伊織の婚約発表の日がやってきた。
会場はパーティーの始まる直前で招待客らが集まりだしていた。
招待客の対応をしていた修司を、突然伊織が引っ張った。
「修司、浜辺に行こうぜ」
「い、伊織様!何を考えていらっしゃるのですか!!」
修司が焦ったように声をだす。
だって今日は…
「俺がパーティーを抜け出すなんていつもやってることだろうが」
「しかし、あなたがいなくては…」
「いつだってあの男が主役だろうが」
不快感と共に吐き捨てる伊織。
あの男…確かに旦那様が主役でしょう…しかし、しかし今日は…
「それでも、今日は伊織様と美和様の婚約発表があるんですよ」
ずきんっ…
言葉に発すると身体…心に痛みが走る。
そんな修司の想いをよそに伊織はあくびをしながら海のほうへと歩きだす。
「伊織様!!」
修司が後を追う。伊織は歩みを止めず、海岸線を歩く。
修司が追いついて、なおも心とは裏腹に説得しようとするのを遮るように、伊織は振り向いて修司が息をのむほど、綺麗に笑った。
「そんなものないよ。俺は婚約しない。美和もここにはこない」
「どういう意味…ですか?」
伊織の言葉に修司は当惑の表情を浮かべた。
「そのままだよ。今頃美和は旦那と空の上」
「旦那…様?」
「美和は今日、売れない画家と駆け落ちした。俺はカモフラージュ。美和が画家と一緒になれるまでのつなぎの役目。婚約発表が早まって俺も美和も焦ったぜ」
かくん。
修司の力が抜け、膝が砂浜につく。
「なぜ、私に一言おっしゃってくれなかったのですか。私が…私が信用できませんか?」
悲痛な声で修司が叫ぶ。そして伊織を見上げた。
「まさか。信用してるよ。誰よりも」
伊織が修司に近づいて、神妙な顔で言った。
「では、なぜ…」
「お前もいろいろとあったろ。見合いも順調にいっていたようだしな…」
「そんなもの。あなたが婚約なさらなかったら…」
「俺の婚約とお前の見合いになんの関係がある?」
伊織は一切の感情を見せず、鋭く言った。伊織の瞳から目が離せない。真剣な瞳だった。
「それは…」
「俺に関係なく、お前が気に入ったのなら結婚する…そういうモンだろう」
伊織が不意に横を向いた。
「違います」
修司はきっぱり告げて立ち上がった。
「私は伊織様が結婚して…誰かを見つめるのが嫌だったのです。だから私も誰かと一緒になればと…でも。あなたが好きです。あなた以外を愛することはできません」
勢いにまかせて言ってしまった。
伊織は何も言わない。しばらく沈黙が続いた…。
視線を合わせず、しかし伊織が口を開いた。
「修司、俺がなんであの男…親父の下にいるか分かるか?」
突然の言葉に何かと不思議がる修司の瞳を伊織はじっと見つめた。
「あの男が早くくたばるのなら考えるさ。だが、アイツはこの世に未練タラタラで、当分死にはしない。あの男の下で働くなんて考えるだけで虫酸が走る。だから俺はあの男にはずっと逆らって生きてきた」
「…では、なぜ?」
修司はずっと疑問だった。
伊織様ならなんでもできる。一から始めて、きっと数年後には旦那様のと同じくらいの会社を作り上げることだって夢ではない。なのに…。
「俺が大学に入ってすぐ、アイツの後継者はほぼ静流に決まった。そうだな」
「はい。だから私が静流様に仕えました。」
後継者と聞いて静流様がうらやましくなったというのか?なんでもできる方だからこそ、父親の後継者の地位を持ちたかったのか?しかし、伊織様がそんなことを抱いていたとは想像できなかった。
「あのとき、初めてお前が俺達の前に現れた」
「ええ。ずっとアメリカにいましたから」
修司は本場アメリカで、ずっとボディーガードになるべく経験を積んでいた。それだけでなく主人のすべてを支えられるようにと様々な知識を得ていた。そして、時は熟し、鷹文に呼ばれた。
その時はこの先ずっと修司は静流に仕えるものだと思っていた。静流は鷹文の独裁ぶりを真似たような一方的な権力を発揮していた。当時は鷹文の影響でのみ部下達が従っているというもので、馨が言ったようにその失墜は近くにいた修司にははっきりと想像できた。そして3年前、秘めた思いを寄せていた相手であり、確実に才能の片鱗を見せ始めた伊織に仕えることができたのだった。
「俺は…俺はお前が欲しかった」
「え…」
突然の伊織の告白に、修司は言葉を失った。
「お前を静流に渡したくはなかった。馨にも…もちろん親父にも。お前を俺のモノにしたかった」
「そんな…」
私のために捨てたのですか?自由も…プライドも…。
修司には信じられなかった。修司こそ、伊織を望んでいた。しかし、修司にとって伊織は手の届かない、見ているだけの、遠い存在だった。それが…。
「俺にとってお前は特別だった。それまで他人に興味なんてなかったのに…修司だけは違った。初めてだった」
まっすぐに伊織が修司を見つめた。
「伊織様」
「俺について行く覚悟があるのなら…俺を欲しいと言え、修司」
「あなたが…欲しいです」
伊織の声に修司は想いを込めて言った。
伊織はゆっくりと近づき、修司の唇に自分のを合わせた。
ああ。私はこの人に一生捕らわれていく。
修司は幸せをかみしめて、そっと伊織を抱きしめていた。
END
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