かくまい重蔵《第2巻》

麦畑 錬

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1の巻《かくまい人と血の貴婦人》

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 要件を聞き届けた翌日、重蔵は父と縁続きの家へ女を預けると、油問屋へと顔を出した。

 すでに亭主の口から重蔵の悪評を聞かされていたらしく、店の者たちからは険しい批判の眼を向けられた。

「お帰りくださいまし」

 店の奥から亭主の実母とみられる大女将までもが直々に登場し、憮然とした態度で重蔵を店先へと押し戻した。

「お武家さまにお売りできる品物はございません。どうぞお引き取りを」

「いいや、いまは油が足りている。特に買うのではないのだが、少し用事ごとが」

 売り物はない、という大女将の皮肉へ真面目に返答をしたつもりの重蔵だが、まっすぐな言い方が反感を買う。

 大女将の攻撃的な顔貌がますます鋭くなり、

「昨晩、お武家さまに殴られた傷のために、主はいまも町医者の手当てを付ききりで受けているのでございますよ。うちは客商売ですから、主がいなくては商いも成り立ちません。主が完治するまで店にかかる損害、一体どう償ってくださるのです」

 と、いっそう激しく重蔵を糾弾した。

 あの表裏の激しい亭主を育てただけあって、母親の大女将も傍若無人にできている。

 挙句、武士の重蔵を前にしても腰の引けない度胸持ちときた。

 腕の立つ剣客にも怖気づかぬ重蔵だが、町人の大女将がこれほど強気な態度に出てくるとは夢にも思わず、

(あわ……)

 ずんずんと膨れ上がる大女将の幻影を前に、つい冷や汗をかいたものだ。

 圧倒されるあまり、頭に被っていたほっかむりが、ずり落ちそうなのにも気が付かなかった。

 武装した男相手なら暴力措置をとれるものの、女を力で脅すわけにもいかず、あっという間に窮地へと追い込まれていた重蔵だが、

「何事じゃ」

 この女の一声に救われた。

「まあ、千沙女さま。ようこそ、おいでくださいました」

 千沙と呼ばれた女の涼やかな声を聞くなり、いまにも地獄の閻魔へと変貌せんばかりだった大女将が、瞬く間に気立ての良い年増女の仮面を被った。

「いつも千沙女さま自ら出向いてくださって、私どもも嬉しゅうございます」

「わらわの暮らしに使うものじゃ。自分の使うものは、自分の眼で確かめねば気が済まぬゆえな」

「おっしゃる通りで。千沙女さまのような審美眼をお持ちの方にお気に召していただけて、私どもも鼻が高うございます」

 褒めちぎる大女将の名演技に度肝を抜かれつつ、重蔵は昨晩、屋敷に駆け込んできた女の言葉を思い出していた。

 油問屋の女房の言っていた『お千』は、この千沙で間違いあるまい。

 武家の女然とした厳かな言葉とは裏腹に、語調は滑らかであり、その顔形も女人ならではの美が引き立っている。

 美しいが花魁や辰巳芸者のような強かさはなく、むしろ男の庇護欲を煽る脆弱さを伴っている。

 常に甘えたような丸い垂れ目と、小ぶりな梅花の唇が、その女の儚さを助長している。

「ところで、おたきは何処じゃ。今日はおらぬのか」

 お滝というのは、油問屋の女房の名である。

 千沙、もといお千の一言に、大女将の眼が棘を帯びて重蔵を睨みつけた。

「そこのお侍さまが、お滝を連れて行っておしまいに」

 あくまでもお千の前では弱々しく、大女将は振舞ってみせる。

 重蔵がお滝を連れ去ったことにするつもりらしい。

 お千が振り返る。

 重蔵の顔を見るや刮目し、暫時、沈黙した。

(驚いている)

 重蔵はそう解釈した。

 大女将の言い方では、顔見知りの女が武士に連れ去られた、と、お千が捉えてもおかしくはない。

「なにを申すか、そなたらこそ」

 すかさず反論に出た重蔵だが、

「あの」

 お千のよく通る声が覆いかぶさり、続きの文句を言い損なった。

 大女将や店の者たちの視線を一身に受けながら、お千は、

「手拭いが……」

 と、重蔵の頭から首へと、ずり落ちたほっかむりを指さした。

 同時に、ほっかむりに隠れていた後頭部に目が集まる。

 重蔵の頭は髷を結っておらず、うなじより上でざっくりと断髪している。

 武士にとって命も同然の髷がないとなれば、これほど無様な姿はない。

 町人にとってさえ、髷のない頭は格好がつかぬのである。

「あの人、髷が」

 誰かが声を潜めたが、今の重蔵は耳が冴えている。

 紀州の梅のごとく赤面すると、羞恥に耐えながらもほっかむりを被った。

 ここで逃げ出すのは尚更、武士の恥だと己に言って聞かせた。

 少なくとも十人はいる店の者たちの前で、飛んだ大恥をかかされた重蔵を気遣ってか、

「貴殿がお滝の居場所を知っていらっしゃるのなら、ぜひお話を伺いとうございます。どこか話せる場所へ参りましょう」

 と、提案する形で切り出した。

「大女将、やはり今日は何も買わぬ。また参ろう」

「えっ」

 ふだんは少量でも油を買って帰るのであろう千沙が、何も買わずに帰るのに、大女将は狼狽える。

 引き攣った大女将から流麗な足取りで踵を返すと、お千は油問屋の暖簾から外へ出た。

 往来でもやはり、お千は人々の眩しい視線を集めていた。

 ◇
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