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第三章
31話
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「い、今の……え、なんっ……」
俺は、口角が上がるのを自覚しながらも、それを隠そうとはしなかった。わざとらしく首を傾げてみせる。
「なんでだと思う?」
からかうように顔を覗き込むと、依織から引きつったような声が漏れる。喉仏が小さく上下して、唇を押さえていた指先は、重力に従うようにだらんと下ろされた。
「……わ、かりません……」
「教えてほしいか?」
そう問い返すと、依織は視線を揺らし、逃げるように目をそらした。
「……はい」
小さく、それでも確かに返ってきたその一言に、俺の中の何かがぴくりと動いた。意地の悪い衝動が、胸の奥から顔を覗かせる。
依織との距離を詰めると、彼の肩がびくりと震えた。身動き一つできないみたいに、身体を強張らせている。そこで、ふと我に返る。
なんで、キスしたんだっけ。
本気で考えてみるけど、いくら思い返しても、大した理由は出てこない。うーん。特に理由はなかった気がする。なんか、色々思ったことはあったけど。
結局、今キスしたらどんな顔するのかな、って気になった。ただ、そんな軽い衝動だった気がする。
なんとなく……キスしちゃった?
いや、ちゃんと言語化するのであれば、"衝動に駆られただけ"。これが正解だろう。でも、それをそのまま言うのは、なんとなく気が引けた。
ほんの少し体を傾け、依織の耳に、わざと吐息が触れる距離まで近づいて、ほんの一拍、間を置く。その沈黙のあいだに、また彼の喉が小さく鳴る。
「……ないしょ」
そう小声で囁くと、すぐそこにある耳たぶが、さっきよりも赤く染まっていくのが見えた。触れなくても熱が伝わってきそうなくらいだ。
「っ……シキ様……」
さっきまでの声色とは違う、押し殺したような声で呼ばれ、俺はゆっくりと身体を離した。
「ほら。駅、行くぞ」
それだけ言って、くるりと背を向ける。
一歩踏み出すと、アスファルトを踏む音がやけに響いた気がした。後ろの気配が止まったままなことに気づいて、ほんの一瞬だけ、追ってこなかったらどうしようかと考える。
いや、それはそれで腹が立つな。
そう思った矢先、数秒遅れて慌てた足音が近づいてくる。
「ま、待ってください……!」
少し息を弾ませた声が背後から届き、すぐ隣に並ばれる。ちらりと横目で見ると、まだ赤みの抜けきらない横顔。さっきよりは落ち着いているけど、耳の先は正直なままだった。
俺は横目で見るだけで、何も言わずに歩き続ける。依織も、すぐには何も言わない。
彼は何度か口を開きかけて、そのたびに閉じる。言葉を選んでいるのが、なんとなく分かった。
「……シキ様」
小さく遠慮がちに名前を呼ばれ、俺は前を向いたまま答える。
「ん?」
「……なんか、怒ってます?」
探るような声音だった。恐る恐る、といった感じで。
俺は少しだけ視線を落としてから、ゆっくり彼を見上げる。不安混じりの顔で、真面目にこちらを気にしているのが、ありありと分かる。
「怒ってない」
「でも……」
言葉を選ぶように、少し間が空く。
「さっきから、ちょっと雰囲気違う気がして」
「俺……何か、シキ様が嫌なこととかしちゃってました?」
真っ直ぐすぎる問いに、思わず小さく笑いそうになる。"何か"したのはこっちなのに変なやつだな。
少しだけ歩幅を緩めて、隣を歩く依織に視線を向ける。
「……別に」
短くそう言ってから、続ける。
「ただ、お前が半分冗談とか言うから」
「え?」
「腹立っただけ」
ぶっきらぼうに言い捨て前を向くと、隣で息を呑む気配がした。
「それ、って……」
「別に。深い意味はないから」
自分で言っておいて、嘘だ、と思う。深い意味がないわけがない。
しばらく沈黙が続き、足音だけが並んで響く。駅前へ向かう人の流れが遠くに見え始める。
すると、依織が静かに口を開いた。
「半分冗談って言ったのは、ごめんなさい」
足を止めず、俺は前を向いたまま、その声に耳を傾ける。
「本当は……本当は違うんです」
その言葉が、思っていたよりも重く胸に落ちる。
「今日、もう少し一緒にいたいって思ったのも。シキ様の色んな姿を見せて欲しいって思ったのも」
少しだけ声が低くなった。
「……全部、本音です。本気でそう思ってて、だけど」
依織は前を向いたままだ。けど、横顔にさっきとは違う緊張が走っている。
「冗談って言わないと、逃げられる気がしたから」
ぽつりと、そう付け加える。
「本気で言ったら、困らせるかなとか……重いって思われるかな、とか……そういうの、全部考えて」
彼は、小さく息を吐いて、俺を見た。
「だから、逃げ道作りました」
俺は、口角が上がるのを自覚しながらも、それを隠そうとはしなかった。わざとらしく首を傾げてみせる。
「なんでだと思う?」
からかうように顔を覗き込むと、依織から引きつったような声が漏れる。喉仏が小さく上下して、唇を押さえていた指先は、重力に従うようにだらんと下ろされた。
「……わ、かりません……」
「教えてほしいか?」
そう問い返すと、依織は視線を揺らし、逃げるように目をそらした。
「……はい」
小さく、それでも確かに返ってきたその一言に、俺の中の何かがぴくりと動いた。意地の悪い衝動が、胸の奥から顔を覗かせる。
依織との距離を詰めると、彼の肩がびくりと震えた。身動き一つできないみたいに、身体を強張らせている。そこで、ふと我に返る。
なんで、キスしたんだっけ。
本気で考えてみるけど、いくら思い返しても、大した理由は出てこない。うーん。特に理由はなかった気がする。なんか、色々思ったことはあったけど。
結局、今キスしたらどんな顔するのかな、って気になった。ただ、そんな軽い衝動だった気がする。
なんとなく……キスしちゃった?
いや、ちゃんと言語化するのであれば、"衝動に駆られただけ"。これが正解だろう。でも、それをそのまま言うのは、なんとなく気が引けた。
ほんの少し体を傾け、依織の耳に、わざと吐息が触れる距離まで近づいて、ほんの一拍、間を置く。その沈黙のあいだに、また彼の喉が小さく鳴る。
「……ないしょ」
そう小声で囁くと、すぐそこにある耳たぶが、さっきよりも赤く染まっていくのが見えた。触れなくても熱が伝わってきそうなくらいだ。
「っ……シキ様……」
さっきまでの声色とは違う、押し殺したような声で呼ばれ、俺はゆっくりと身体を離した。
「ほら。駅、行くぞ」
それだけ言って、くるりと背を向ける。
一歩踏み出すと、アスファルトを踏む音がやけに響いた気がした。後ろの気配が止まったままなことに気づいて、ほんの一瞬だけ、追ってこなかったらどうしようかと考える。
いや、それはそれで腹が立つな。
そう思った矢先、数秒遅れて慌てた足音が近づいてくる。
「ま、待ってください……!」
少し息を弾ませた声が背後から届き、すぐ隣に並ばれる。ちらりと横目で見ると、まだ赤みの抜けきらない横顔。さっきよりは落ち着いているけど、耳の先は正直なままだった。
俺は横目で見るだけで、何も言わずに歩き続ける。依織も、すぐには何も言わない。
彼は何度か口を開きかけて、そのたびに閉じる。言葉を選んでいるのが、なんとなく分かった。
「……シキ様」
小さく遠慮がちに名前を呼ばれ、俺は前を向いたまま答える。
「ん?」
「……なんか、怒ってます?」
探るような声音だった。恐る恐る、といった感じで。
俺は少しだけ視線を落としてから、ゆっくり彼を見上げる。不安混じりの顔で、真面目にこちらを気にしているのが、ありありと分かる。
「怒ってない」
「でも……」
言葉を選ぶように、少し間が空く。
「さっきから、ちょっと雰囲気違う気がして」
「俺……何か、シキ様が嫌なこととかしちゃってました?」
真っ直ぐすぎる問いに、思わず小さく笑いそうになる。"何か"したのはこっちなのに変なやつだな。
少しだけ歩幅を緩めて、隣を歩く依織に視線を向ける。
「……別に」
短くそう言ってから、続ける。
「ただ、お前が半分冗談とか言うから」
「え?」
「腹立っただけ」
ぶっきらぼうに言い捨て前を向くと、隣で息を呑む気配がした。
「それ、って……」
「別に。深い意味はないから」
自分で言っておいて、嘘だ、と思う。深い意味がないわけがない。
しばらく沈黙が続き、足音だけが並んで響く。駅前へ向かう人の流れが遠くに見え始める。
すると、依織が静かに口を開いた。
「半分冗談って言ったのは、ごめんなさい」
足を止めず、俺は前を向いたまま、その声に耳を傾ける。
「本当は……本当は違うんです」
その言葉が、思っていたよりも重く胸に落ちる。
「今日、もう少し一緒にいたいって思ったのも。シキ様の色んな姿を見せて欲しいって思ったのも」
少しだけ声が低くなった。
「……全部、本音です。本気でそう思ってて、だけど」
依織は前を向いたままだ。けど、横顔にさっきとは違う緊張が走っている。
「冗談って言わないと、逃げられる気がしたから」
ぽつりと、そう付け加える。
「本気で言ったら、困らせるかなとか……重いって思われるかな、とか……そういうの、全部考えて」
彼は、小さく息を吐いて、俺を見た。
「だから、逃げ道作りました」
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