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第三章
35話
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依織は、まだ繋いだままの手を引いて駅の構内へ入った。
やはりこの駅は、いつでも賑わっている。まばらな人の波に紛れるように俺らは手を繋いだまま歩く。誰も俺たちのことなんて見ていないはずなのに、少しだけ意識してしまう自分がいる。
改札口に向かう人を横目に、階段へ足を向ける。階段を上る二人分の足音が響く。
「急ぐなよ」
「急いでません」
振り向きもしないくせに、口元だけ少し笑っているのがわかる。上りきった通路をまっすぐ進み、今度は階段を下りる。
さっきいた場所から、少しずつ遠ざかっていく。降りきったところで、依織がようやく足を止めた。
「こっちです」
さっきまでいた表通りの歓楽街は、ネオンがぎらぎらと瞬いていた。色々な夜のお店が立ち並び、それぞれ自己主張の強い看板を掲げていて、光と音が押し寄せてくるような通りだった。
けれど、駅を挟んで反対側はまた違った雰囲気がある。客引きもいなければ、ぎらぎらとしたネオン看板もない。その代わりに赤提灯が並んだビニールで外と仕切られた居酒屋や暖簾がかけられた小料理屋などが並んでいた。
「もう着くので」
依織の指が、俺の指を絡めとる。恋人繋ぎというやつだ。
さっきまでは掌を包むだけだったのに、今度は隙間なく絡み合う。彼の親指が俺の人差し指の付け根を撫で上げてくる。
「……おい」
「まぁ、誰も見てないでしょ」
依織は前を向いたまま、さらりとそんなことを言う。
「そういうことじゃなくて……」
「気にしたら負けですよ。もしかして嫌でした?」
試すようなその言葉を投げかけられる。嫌かどうかで言えば。
「……別に」
小さく返すと、依織の表情がわずかに緩む。
「シキ様ならそう言うと思いました、なら問題ないですよね」
依織の言葉に、俺は軽く息を吐いて歩みを進める。もう何も言わなかった。言ったところで、どうせ離されやしない。手を引く男はどこか楽しそうにしている。繋がれた手はバーに着くまで離れることはなかった。
「ここです!入りましょ」
依織が立ち止まる。
赤提灯が揺れ、賑やかな笑い声が漏れてくる店の合間に、その店はコンクリートに溶け込むように、ひっそりと存在していた。
重厚そうな、艶を抑えた黒の扉が構えられてはいるが、一見バーには見えない。だが、目を凝らすと、扉の横にはバックライトに照らされた小さな四角い表札があった。そこには『Bar 白』と書かれている。
「……ここ?」
思わず呟くと、隣で依織が小さく笑った。
「はい。知らないと素通りしますよね」
確かに、意識していなければ見落とす。周囲の喧騒から一歩だけ距離を取ったような佇まいをしている。
依織が扉に手をかけてゆっくりと押すと、からん、と小さなベルの音が鳴った。
中では落ち着いたジャズが流れている。赤か薄紫かわからないそんな色の照明で照らされた店内には『白』の要素は一つもない。
「いらっしゃい」
こじんまりとした店内。カウンターの奥で、マスターらしき男がグラスを磨きながら顔を上げる。店内を見回すも、客はまだいないようだ。
「こんばんは!お久しぶりです」
「久しぶりだね。今日は一人じゃないんだ」
マスターの視線が俺に向く。思わず、小さく会釈をした。
「そうなんです。連れてきちゃいました」
「ここ、座るかい?」
マスターがカウンターの中央を指す。
「そうしようかな……シキ様!こっちどうぞ!」
依織がさりげなく俺の背中に手を添えて、着席を促してくる。そこに座るとウイスキーと木の香りがふわりと鼻をくすぐった。
依織は隣の席へと腰を下ろすと、カウンターに肘をついてこちらを覗き見てくる。さっきまでの真剣さはどこへやら、顔がゆるみきっている。
「えへへ~。嬉しいです!俺の好きなところ、シキ様と来れて!何が飲みたいですか?マスターならなんでも作ってくれますよ」
「う~ん、それは買い被りすぎかな」
マスターは困ったように眉尻を下げる。
「なんでもは無理だけど、できる限り頑張らせてもらうよ。何がいい?強いのと弱いのどっちがいいとかも言ってくれたら助かるかも」
急に振られて、少しだけ考える。せっかくバーに来たんだから、居酒屋とかでは飲めなさそうなものがいいか。
「あ……じゃあ、炭酸なしの甘めのカクテルで。度数は高くても低くてもどちらでもいい、です……」
自分で言いながら、少しだけ照れくさくなって最後には小声になってしまう。
「いいね!じゃあ少し高めのやつにしようかな……で、何にする?いつもの?」
マスターが依織に向けて声をかける。
「いや、俺もシキ様と同じので!」
「かしこまりました」
マスターが棚からボトルをいくつか取り出し、氷がシェイカーに落ちる音が、静かな店内に響いた。
「シキ様、この前も甘めのカクテル頼んでましたね」
そんなことを言われて、二週間ほど前の記憶が蘇る。まだ、完全に治ってない噛み跡が疼いたような気がした。
やはりこの駅は、いつでも賑わっている。まばらな人の波に紛れるように俺らは手を繋いだまま歩く。誰も俺たちのことなんて見ていないはずなのに、少しだけ意識してしまう自分がいる。
改札口に向かう人を横目に、階段へ足を向ける。階段を上る二人分の足音が響く。
「急ぐなよ」
「急いでません」
振り向きもしないくせに、口元だけ少し笑っているのがわかる。上りきった通路をまっすぐ進み、今度は階段を下りる。
さっきいた場所から、少しずつ遠ざかっていく。降りきったところで、依織がようやく足を止めた。
「こっちです」
さっきまでいた表通りの歓楽街は、ネオンがぎらぎらと瞬いていた。色々な夜のお店が立ち並び、それぞれ自己主張の強い看板を掲げていて、光と音が押し寄せてくるような通りだった。
けれど、駅を挟んで反対側はまた違った雰囲気がある。客引きもいなければ、ぎらぎらとしたネオン看板もない。その代わりに赤提灯が並んだビニールで外と仕切られた居酒屋や暖簾がかけられた小料理屋などが並んでいた。
「もう着くので」
依織の指が、俺の指を絡めとる。恋人繋ぎというやつだ。
さっきまでは掌を包むだけだったのに、今度は隙間なく絡み合う。彼の親指が俺の人差し指の付け根を撫で上げてくる。
「……おい」
「まぁ、誰も見てないでしょ」
依織は前を向いたまま、さらりとそんなことを言う。
「そういうことじゃなくて……」
「気にしたら負けですよ。もしかして嫌でした?」
試すようなその言葉を投げかけられる。嫌かどうかで言えば。
「……別に」
小さく返すと、依織の表情がわずかに緩む。
「シキ様ならそう言うと思いました、なら問題ないですよね」
依織の言葉に、俺は軽く息を吐いて歩みを進める。もう何も言わなかった。言ったところで、どうせ離されやしない。手を引く男はどこか楽しそうにしている。繋がれた手はバーに着くまで離れることはなかった。
「ここです!入りましょ」
依織が立ち止まる。
赤提灯が揺れ、賑やかな笑い声が漏れてくる店の合間に、その店はコンクリートに溶け込むように、ひっそりと存在していた。
重厚そうな、艶を抑えた黒の扉が構えられてはいるが、一見バーには見えない。だが、目を凝らすと、扉の横にはバックライトに照らされた小さな四角い表札があった。そこには『Bar 白』と書かれている。
「……ここ?」
思わず呟くと、隣で依織が小さく笑った。
「はい。知らないと素通りしますよね」
確かに、意識していなければ見落とす。周囲の喧騒から一歩だけ距離を取ったような佇まいをしている。
依織が扉に手をかけてゆっくりと押すと、からん、と小さなベルの音が鳴った。
中では落ち着いたジャズが流れている。赤か薄紫かわからないそんな色の照明で照らされた店内には『白』の要素は一つもない。
「いらっしゃい」
こじんまりとした店内。カウンターの奥で、マスターらしき男がグラスを磨きながら顔を上げる。店内を見回すも、客はまだいないようだ。
「こんばんは!お久しぶりです」
「久しぶりだね。今日は一人じゃないんだ」
マスターの視線が俺に向く。思わず、小さく会釈をした。
「そうなんです。連れてきちゃいました」
「ここ、座るかい?」
マスターがカウンターの中央を指す。
「そうしようかな……シキ様!こっちどうぞ!」
依織がさりげなく俺の背中に手を添えて、着席を促してくる。そこに座るとウイスキーと木の香りがふわりと鼻をくすぐった。
依織は隣の席へと腰を下ろすと、カウンターに肘をついてこちらを覗き見てくる。さっきまでの真剣さはどこへやら、顔がゆるみきっている。
「えへへ~。嬉しいです!俺の好きなところ、シキ様と来れて!何が飲みたいですか?マスターならなんでも作ってくれますよ」
「う~ん、それは買い被りすぎかな」
マスターは困ったように眉尻を下げる。
「なんでもは無理だけど、できる限り頑張らせてもらうよ。何がいい?強いのと弱いのどっちがいいとかも言ってくれたら助かるかも」
急に振られて、少しだけ考える。せっかくバーに来たんだから、居酒屋とかでは飲めなさそうなものがいいか。
「あ……じゃあ、炭酸なしの甘めのカクテルで。度数は高くても低くてもどちらでもいい、です……」
自分で言いながら、少しだけ照れくさくなって最後には小声になってしまう。
「いいね!じゃあ少し高めのやつにしようかな……で、何にする?いつもの?」
マスターが依織に向けて声をかける。
「いや、俺もシキ様と同じので!」
「かしこまりました」
マスターが棚からボトルをいくつか取り出し、氷がシェイカーに落ちる音が、静かな店内に響いた。
「シキ様、この前も甘めのカクテル頼んでましたね」
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