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第一話
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大河大は、マウンド上で喘いでいた。
キャッチャーミットが霞んで見える。
その原因が、真夏の太陽に灼かれたグラウンドから立ちのぼる陽炎だけでない事を、長時間の激痛に晒され、もはや感覚が消え失せてしまった己の右腕が教えた。
超満員の観衆が発する歓声が甲子園の大銀傘に反響し、音の津波となって球場全体を飲み込んでゆく。
ゲームセットまで、あとワンアウト…いや、ワンストライク。
セットアップしようと身体を動かした途端、無感覚だった右腕に再び激痛が奔った。
それでも、握っているボールごと右の拳をグラブに無理矢理ねじ込むと、辛うじてセットポジションした。
朦朧とした意識のさなかであっても、投手の本能と日頃の練習によって身体に染み込んだルーチンにより、走者が大きくリードしないようにと二塁を振り返り一瞥する。
その時、眼の端にバックを守るチームメイトの姿が映った。
一人一人の表情は帽子のひさしで出来た影に隠れてよく見えないが、緊迫した鼓動は伝わってくる。だが、不安は微塵も感じられない。彼らの信頼を大河は受け止めていた。
「心配するなよ…約束は守る」と、大河はそう呟いて、ギシギシと軋む股関節に構わず左足を振り上げ、投球動作に入った。
続いて、振り上げた足を前方に踏み出し、その下半身から連動した腰の回転に引っ張られるようにスローイングを開始した右腕が、遠心力で千切れそうになる。
良く言えば無心。実際は気絶寸前。で、日頃の鍛錬の成果として放たれたボールは、ストライクゾーンを切り裂くように、鋭くアウトコースにスライドすると、そのまま捕手のミットに吸い込まれていった。
打者のバットが空を切る。
主審が大きく右手を差し上げて、ストライクをコール。続くゲームセットのコールは、音量が頂点に達した球場の歓声で掻き消された。
『芝浦学園高校初優勝~!』と、日本全国のテレビやラジオのスピーカーから、アナウンサーの興奮した絶叫が響いたに違いない瞬間、大河大はマウンド上にへなへなと尻餅をついた。力無く。
と、その無様な尻餅姿と大歓声がピタッと停止してポーズ画像になり、それが大画面のモニターに映しだされた録画映像だと判る。
100インチはあろうかというその巨大モニターが設えられた部屋は、呆れるほど広かった。無秩序に飾り立てた装飾品や豪華な家具の数々が幾分か空間を狭めてはいたが、それでも尚、車が数台停められそうな空間に取り囲まれた広大な部屋の中央に、彼女は居た。
だが、彼女が座っているのは、その豪華な部屋に二組置かれた高価な応接セットのソファーでも、紫檀の執務机と組になっている革張りのアームチェアでもない。
簡素な車椅子であった。
液晶テレビの画面は、甲子園優勝投手の尻餅画像から切り替わり、試合後のインタビューを映し出す。
大河大の右腕は痛々しく三角帯で肩から吊られていた。通常のアイシングとは違い、物々しいギプスで固められている。
クローズアップされた彼の表情は、傍目にも憮然としたものだ。
だが、そんな事にはお構いなく放送のタイムスケジュール消化が至上命令と言わんばかりに局アナがインタビューを始めた。
「放送席、放送席、それでは、芝浦学園高校優勝投手の大河選手に話をお聞きします」
「大河選手、優勝おめでとうございます」
「あ。どうも…」
「予選大会から一人で投げ抜いてきて、それだけに喜びも一入ではないですか?」
うわの空で大河が答える。
「え? あー、えーと、チームメイトとのいい想い出が出来て嬉しいです」
それから、数分間は、試合経過に関するやりとりが淡々と続いた。
「そう言えば、右手の状態はどうですが? 試合前の報道ではかなり悪いという事でしたが?」
そろそろ感動的なエピソードが欲しいとでも感じたのか、局アナは、物々しい右腕のギブスについて尋ねた。
このタイミングでそこに触れるのは、大河の状況を熟知した上でのネタ振りである事は明らかだ。本来なら度し難い無神経さに怒りを覚えただろうが、それは、彼が待ち望んでいた質問だった。
三年間綿密に準備した大いなる計画の第一歩。
「…たぶん、もう使い物にならないと思います。主治医からも忠告されましたし、その覚悟で今日、投げましたから」
予想よりも深刻な返答に狼狽える局アナ。
「えっ? それは…えーっと、大河選手にとって今日が本当に大事な試合だったという事ですね。では、最後に、優勝した今の気持ちを一言お願いします」
「…ほんとに言って良いんですか?」
局アナは、大河の真意が解らず生返事をする。
「えっ? はい、どうぞ?」
軽く深呼吸をしてから、大河は一気に捲し立てた。
「未だに参加選手の健康を無視した日程を強行する大会主催者とそれを黙認する高野連。たかだか高校生を英雄か何かの様に祭り上げるマスコミとそれを利用して知名度や面子にこだわる学校関係者。それに何の疑問も持たず、未成熟な身体を酷使する馬鹿な俺たち高校球児。何より、『甲子園』という空虚な金看板に目が眩み、その不都合な全てを是とし美化する歪んだ日本社会で、有意義な高校生活を送れました。とっても幸せです!」
言い終えると、深々と一礼し、さっさと引き上げる大河。
唖然とする局アナ。そのまま凍り付く。
いや、局アナが凍り付いたのではない。車椅子の女性がテレビ画面をポーズしたのだ。
彼女は、傍らの巨大な机に視線を落とした。彼女の執務机だ。
机上には大量の資料が散乱している。
それらの資料が入っていたと思われる厚手の封筒には『東京シティ・ジャイアンツ球団社長 霧島麗華殿』と書かれていた。
車椅子の彼女の名前である。
「まだ正式なオーナーじゃないわよ、専務兼スカウト部長さん…」
封筒の差出人欄に書かれた星野環という文字に向かって呟く麗華。
資料に眼を通しながらあれこれと思案していた麗華だったが、突然、鳴り響く電話のベルに、ハッと現実世界へ引き戻された。
優雅な操作で車椅子を電話のそばに寄せると、その動きにあわせて彼女の長い髪がシルクのドレスが舞うように揺れた。
アンティックなデザインの電話から受話器を取り上げる。
「ああ、環…うん、今観てる。この子ね…大河大。色々派手にやらかしてるわねぇ」
資料の中には、新聞の切り抜きが多数スクラップされていた。『堕ちた甲子園の英雄』『高校球児にあるまじき発言』『勇気ある若人の主張』等々、大河の発言に対する賛否両論の見出しが躍っている。
「…わかったわ。それでは当初の予定通り、ドラフト会議の一位指名は、彼にしましょう」
麗華は静かに受話器を置いた。
TV画面のポーズをリモコンで解除すると、大河のインタビューまでリバースした。音を消していたので、ただ口をパクパクさせている大河の顔がアップでリピートされている。
麗華は、画面の大河に向かって不敵に微笑み、そっと囁いた。
「私に見込まれたのを不運と思って諦めるのね。大河大君」
日本最初のドラフト会議が行われたのは、昭和四十五年十一月十七日。場所は日比谷の日生会館である。
米大リーグを模して始まったドラフト制度であったが、当初は各球団が希望選手三十名以内の名簿をコミッショナー事務局に提出し、他球団と重複した場合は抽選、外れた場合は提出した自球団の名簿順位に従い選手を指名するという日本独自の方式だった。
指名方式は、より良いドラフト制度を目指して、その後幾度となく改正されたが、球団経営者やスポンサー達の経済的事情や権力志向、更には中途半端な選手達への人権擁護が絡み合った複雑怪奇な選手分配システムへと変貌していった。
この年のドラフトも一読しただけでは全く理解できない選定規則の要項集が配られ、関係者はその内容把握に四苦八苦していた。
「何度読んでも複雑怪奇ね。おまけに毎年制度が変わるし、さすがペナントレース三位の球団が何故か日本一になれちゃう『クライマックスなんたら』っていうシステムを考えつくような組織が決めただけの事はあるわ」
特に皮肉を意識したわけではないのに毒舌たっぷりの独り言。ドラフト会議会場に向かうリムジンの中で選択手順の再確認していた麗華は、何度目かのため息を吐いた。
車載の小型テレビに視線を移すと、ライブ映像でドラフト会議会場があるホテルのロータリーが映し出されていた。国際会議も催される都内の一流ホテルだ。辺りは新聞や雑誌、テレビ等マスメディアの人間とプロ野球関係者で賑わっている。
その画面に、続々と到着する各球団の代表の乗る黒塗りのリムジンに混じって、一段と目を引く純白のロールスロイス・ファントムがフレームインしてきた。
麗華は、自分の乗っている車が画面に映っている不思議な感覚を楽しみながら、駆け寄ってくるホテルのドアマンが観音開きのリアドアを開けるのを待った。
車内から特注のリフトがせり出し、車椅子に乗った麗華を車外へと送り出す。同時に、帯同してきた黒いワゴン車からプロレスラー顔負けの大柄な黒人のセキュリティー・サービスが数名下車すると、麗華の廻りを取り囲む様に付き添った。
同時に浴びせられる無数のフラッシュ。
名実共に球界の盟主である『東京シティー・ジャイアンツ』に、新たな球団代表が就任しただけでも十分なニュースソースだったが、その人物が若干二十二歳のうら若い女性だという事実は、いまだに純然たる男社会であるプロ野球界にとっては、ある意味、ドラフト会議以上の大ニュースであった。
麗華自身も、つい最近まで一流テニスプレーヤーにして不運にも事故で引退を余儀なくされた悲劇のヒロインであり、更に前代表の孫娘にして球団の母体である巨大コングロマリット、霧島コンツェルンの御令嬢とあれば、その存在は一般大衆の下世話な好奇心を満たすに充分であった。
それにも増して、モデルばりの容姿を兼ね備えているとあれば、羨望を通り越し、反感を持つ輩も少なからず存在する。その代弁者を気取る先鋒が古株のスポーツ記者連中という訳である。
意地の悪い質問を並べ立て、お嬢様のオーナー業なんぞが、如何に浅はかで愚かな行為であるかを思い知らせてやろうと、捻れた社会正義を拠り所に手ぐすね引いて待ちかまえていた。
しかし、彼らの野望は、霧島麗華本人が彼らの眼前に現れた瞬間に潰え去る。
現役を退いたとはいえ、彼女は世界最高レベルのアスリートだったのだ。彼女の眼力は記者連中の機先を制し、彼らの言語中枢を麻痺させる足る強大なオーラを発していた。
ただ、当の麗華といえば、別に睨み付けていたわけでもなく、ただ微笑みかけていただけだったのだが、彼女と眼が合った途端、海千山千のベテラン記者でさえ、金縛りにあったように何も喋る事が出来なかったのだ。掌に冷や汗をかく者さえいた。
結局、彼らは麗華の車椅子がドラフト会議会場へと消えていくのを漫然と見送る羽目になってしまった。
ドラフト会議本会場は、ホテルでも最大の催し物会場を使用していた。
広大な会場の中央近く、東京シティー・ジャイアンツの関係者に割り当てられたテーブルで、麗華は静かにその時を待った。
会場は、先刻発表になったばかりの各球団が自由獲得で得た選手達の話題でザワついている。
この年は、目玉選手が不在だった事も手伝って、これから始まる指名入札に人々の関心は薄かった。
しかし、麗華は知っている。その無関心も入札選手一巡目の発表までだ。
そう、彼の名前が読み上げられるまで…。
唯一自由獲得枠を二つとも行使しなかった東京シティー・ジャイアンツの指名入札順位は最上位だった。つまり、指名一巡目の最初に麗華の指名した選手が読み上げられる。
そして、その時は来た。
『東京シティー・ジャイアンツ。入札指名選手。大河大、投手、芝浦学園高校』
アナウンスが会場に響いた。
会場の時間が一瞬凍りつく。続く地響きの様などよめき。
その場にいた誰もが我が耳を疑った。
『大河大』
その名前が今回のドラフトで呼ばれる事などあり得なかったのだ。
甲子園における問題発言。酷使による右腕肩と肘の重大な故障。これは大河側から公式な診断書が野球連盟に提出されている。しかも致命的な事に、彼はマスコミを逃れて現在失踪中だったのだ。
大河大を日本プロ野球界から閉め出す事は、球界関係者において『暗黙の了解』だった。
登場した時以上に注視を浴びる麗華。
無数に浴びせられる視線の中で、静かに微笑んでいた。
会議が終わり、会場を後にする麗華にマイクの砲列が襲いかかった。
今度は、彼女の眼力に怯む者はいない。
彼らにも報道人としてのプライドがある。
カメラのファインダーを覗いているカメラマンは、戦火の中でも恐怖を感じないというが、記者も同じだ。取材対象に一旦マイクを向けてしまえば、如何なる障害があろうとも彼らは取材を敢行する。
テレビ、ラジオ、新聞等あらゆるメディアの取材陣が殺到していた。怪我人が出てもおかしくない状況だった。
「霧島オーナー、大河選手は現在行方不明との事ですが、所在は確認しているのですか」
「大河の右腕は、再起不能と聞いてますが!」
「彼の言動は、球界の盟主たる球団のイメージを傷つけるとは思われないのですか?」
群がった記者達が発する矢継ぎ早の質問を無視して、麗華はホテルのロビーに横付けされたリムジンに向かった。
クラクションと怒号の飛び交う中、純白のリムジンは会場を離れていく。
各マスコミの車輌群がその後を追う。
激しい人々の怒号が渦巻くホテルのロータリーを道路一つ隔てた反対側の歩道から、静かに麗華のリムジンを見送る人影があった。
その人物は、厚手のトレンチコートにハンチング帽を深々と被るという出で立ちだ。もちろん、冬が近いとはいえ未だ秋の陽が心地よい晴天のもとでは、多少季節はずれな服装程度の印象でしかないのだろうが、少なくとも、この服装の主が『女性』だと知れれば、誰もが奇異に感じるだろう。
麗華のリムジンを追いかける喧噪がビル街に遠く響く微かな反響音となるまで見送ると、トレンチコートの立てた襟に少し隠れた口元で、その女性はそっと囁いた。
「いよいよ始まったわね、麗華。道のりは遠く厳しいけれど、貴女が何かに打ち込んでいる姿をまた見られるなんて、こんなに嬉しい事は無いわ」
彼女は一度立ち去りかけて立ち止まり、自らの言葉に、もう一言添えた
「死にたい…は、もう無しよ」
東京都港区臨海公園併設少年野球場。
高い金網に囲まれた人工芝のグラウンドをランニングする青年が一人。
規則正しいブレスで吐きだされた息が、凍りついた大気に触れて白く曇る。
黒いジャージに黒のウインドブレーカーを羽織り、そのフードで頭部を覆った全身黒ずくめのランナーは、一時間近くグラウンド内を周回すると球場を出た。
埋め立て地の倉庫街を抜け、芝浦埠頭沿いを走り抜ける。
大晦日の埠頭などは、およそ賑わいなぞには程遠い閑散とした血色の無い風景だった。 振り仰げば、レインボーブリッジの橋脚がその威容を誇っている。
青年は、俯き加減に黙々と走り続けた。が、ふと前方に人の気配を感じて顔を上げる。
彼の視線の先には、車椅子に座った麗華が東京湾を眺めながら佇んでいた。
潮風になびいた長い髪が顔にまとわりつき、それを静かに掻き上げる。
無視しきれずに麗華の少し手前で立ち止まる青年。息が弾んでいる。
先に沈黙を破ったのは、彼の方だった。
「球団オーナーっていうのは、暇なんですね」
「やっとの思いで会えたっていうのにご挨拶ね。大河大君。随分探したんだから…勝手に雲隠れされて、こっちはいい迷惑だわ。結局、灯台もと暗し、ずっと自宅にいたとはね」
大河大と呼ばれたその青年は、ウインドブレーカーのフードを後ろに撥ね下ろした。
フードの陰に隠れていた顔が現れる。
数限りなく観たテレビ画面や写真からは計り知れない、やたらと澄んだ大河大の瞳に魅せられ、麗華は不覚にも彼の顔を魅入ってしまった。
顔を見つめたまま身動きしない麗華に、気恥ずかしさがと不快感を同時に覚える大河。
堪らず、其の場凌ぎに口を開く。
「入団の件でしたら、スカウトの女性…に、ドラフト前にお断りしたはずです」
麗華は、「女性」という単語に言い詰まった大河の言葉に、心の中で星野環に感謝した。色々と考えあぐねていた会話のきっかけを得たからだ。
「ええ、確かに環から聞いてたわ。あっ、環っていうのは、あのトレンチコートの『彼女』ね。びっくりしたでしょ? 野球に詳しいっていうんで、スカウト頼んだら、一人でみょ~に盛り上がっちゃって…ごめんね、私も迷惑してんのよ」
大河、黙って聞いている。怒るべきか、いなすべきか、対応を迷ったのだ。
麗華はたたみ掛けた。
「『遊び半分に俺の邪魔するな!』って感じね。ママごとでオーナーやってる女に、大事なメジャー行きの夢を邪魔されて、お先真っ暗でしょ」
「えっ?」となる大河。
麗華は間髪入れない。
「何で、それを知ってるんだって顔ね…ふふっ」
その微笑みが合図だったかのように、それまでの戯けた口調から一転して、厳しい表情になる麗華。
「全く、アナタには驚かされるわ。自分の腕を一本犠牲に…スケープゴートにして日本のプロ球界を逃れようとするなんて」
麗華は、紙飛行機を投げて寄越した。
「単にメジャーに挑戦するだけなら、もっと簡単で目立たない方法があったでしょうに」
コントロール良く大河の胸に当たったその紙飛行機を開いてみると、それは、大河の右腕に関する診断書だった。
麗華は続けた。
「もし日本のプロ球団にドラフトで指名されたら、日米球界の紳士協定でメジャー球団は手が出せなくなってしまう。まして入団なんかした日には、FA権を取得するまで8年待つか、球団にポスティングを認めてもらうかない、メジャー移籍の可能性は極めて不確実なものになってしまう。伸び盛りの貴重な時間を無駄に費やす事になるわ 」
大河、診断書に眼を落としたまま黙って聞いている。
「だからアナタは、重大な故障を引き起こすまで故意に右腕を酷使した上に、甲子園という最大に衆目を集める場で人格的に問題のある人間だと思わせ、日本の球団が獲得を断念するように万全の策を弄した」
沈黙したままの大河。
それを見て、今度は笑い出す麗華。人差し指を一本立てて、諭すように言った。
「あらあら。またしても、何故知ってるんだって顔ね。プロのスカウトにさえ、気づかれなかったのにぃぃぃ、って」
最後はからかう様に言った。もちろんワザとである。これから話す本題へよりシリアスな印象づけをするための下準備だった。
「それはね、大河君。このママごとオーナーは、貴男が思っている程、遊び半分では無いって事で、あのちょっと…すごくかナ…変わった、自称スカウトのお姉さんも見かけ以上に凄腕って事なのよ」
麗華は軽く深呼吸をして自らの呼吸を整えた。
「長話になっちゃったわね。アナタの身体が冷えてしまうから単刀直入に云うわ」
車椅子を大河の正面に向くように移動させ、佇まいを正す麗華。その姿は巨大組織を束ねる首長としての威厳に満ちていた。
「我が『東京シティ・ジャイアンツ』は、米大リーグ所属のチームを買収し、ワールドシリーズ制覇を目指します。それを足掛かりに、メジャーリーグを母胎としたベースボールの国際競技連盟『パンゲア・リーグ』を組織し、恒久的なインターナショナル・ベースボール・トーナメントを実現させます」
一瞬、麗華の言葉が理解できない大河だったが、混乱したまま対応に苦慮した挙げ句の反応は、オーバーに両手を広げてと茶化す事だった。
「え~と。俺は、その栄光あるチームの一員に選ばれたってことですか?」
麗華は容赦無く言い放った。
「うぬぼれないで! 私は、この事業に命を懸けているの! 私の興味はたった一つ。アナタに、その一員たる資格があるのかどうかなのよ!」
命令口調で通達する。
「大河大。三日後、東京シティー・ジャイアンツのホームグラウンド、メガロ・ドームにて、入団テストを行います。世界を相手に闘おうという、アナタの決意が本物なら、そこで自らの覚悟と実力を示しなさい!」
レインボーブリッジの欄干から寒風が吹き下ろされる。
刀のように冷たく身を切り裂くその風にも怯む事無く、麗華は大河の瞳を真っ直ぐ見据えて、その視線同様にブレのない言葉を彼に放った。
「およそスポーツを志す者の最終的な到達点が、『世界』という舞台でないは、とても不幸な事だわ。現実に多くの日本人プレーヤーがメジャーリーグでプレーしている現在でさえ、日本球界は世界を相手に戦う事をその視野に入れていない。もし、個々のプレーヤーでなく、日本野球そのものが世界を相手に戦う、という事に価値があるというのなら、日本野球を取り巻く今の状況は、その目的を永遠に達成する事無く、限りある優秀な日本人プレーヤーを消耗しているに過ぎない」
麗華の視線は更に鋭く大河を突き刺す。
「私はこの状況を変えたい! 変えたいわ、大河君! 世界を目指す者が、普通に頂点を目指せば、それが当たり前に『世界一』の称号となる! そんなプロ野球界に変えたい!」
再び、視線を東京湾に向ける麗華。
「メジャーリーグの記録を塗り替える日本人選手。主軸バッターやエースとしてチームに貢献する日本人選手。彼らは尊敬されている。偏見無く最大級の讃辞を送られ、数々の栄誉も与えられる。さすが民主主義の宗主、他民族国家の雄、アメリカ合衆国。でもね、彼等が心の底から愛される事はないわ…それは何故か?」
麗華、大河を見る。
「アメリカ人ではないから」
大河は黙っている。が、視線を麗華から外さない。
「イチロー・スズキは、決して、デレク・ジーターにはなれない。これは現実よ。日本において、外国人選手を未だに『助っ人』と呼ぶのと同様に」
大きくため息をつく麗華。
「そして、単なるアメリカ国内リーグの決勝戦が『ワールドシリーズ』と呼ばれるのを看過している限り、永遠に変わらない現実…」
湧き出たアドレナリンを抑えるように、意識して和らいだ表情をつくり、視線を大河から東京湾のパノラマに移した。
「今夜は積もるそうよ。早く帰んなさい」
返事も聞かずにその場を離れる麗華。
立ち尽くす大河。
いつの間にか、辺りに小雪が舞っている。
薄く降り積もった雪の絨毯に、車椅子の轍が続いていた。
メガロ・ドーム。東京シティ・ジャイアンツのフランチャイズ球場である空気膜構造の密閉式ドーム球場とその周囲の遊園施設には、門松や注連縄などの飾り付けが施され新たな年を祝っていた。
本来、正月休みでひっそりとしているはずだった球場内部には、グラウンド上に人だかりが出来ている。特に一塁側ベンチ横の一画は、記者や大口径の望遠レンズを構えたカメラマンで賑わっていた。
「松も取れてない、この時期にいったい何のイベントだ?」
「さ~てね。この時期、ストーブリーグも一休みで、紙面づくりに苦労するからねエ、面白いネタ提供してくれりゃ御の字さ」
「やめてくれ、俺なんか、たまの休みでガキと来ていた隣の遊園地から急遽直行だぜ。埋め合わせにお年玉3倍だぜ。お嬢様の気まぐれは勘弁して欲しいぜ」
「ご愁傷様」
「おっ噂の主、お成~り~」
バックネット裏のスタンド二階に施設されたオーナー専用の観覧室に麗華が現れた。
傍らに環が寄り添っている。いつも通りのトレンチコートにハンチング帽姿である。
「来るかしら」
麗華が発したのは、返事ではなかった。
「準備を!」
それを合図に、三塁側のベンチから真っ白なユニフォームに身を包んだ選手達が、各々の守備位置に散らばっていった。白無垢なユニフォームには、背番号はおろか、チーム名さえ記されていない。
彼らから一歩遅れて、バットを持った男が出て来た。
男は他の選手達とは違い、東京シティ・ジャイアンツの正式なユニフォームを着ている。
背番号は1。
記者連中が反応した。
「おっ、国武じゃん」
「いったいどうしたんだ? この間の記者会見で、カナダに移住してセミ・リタイヤするとかなんとか、どっかの大物タレントみたいな事を云ってたぜ」
「それにしちゃ。バット真剣に振ってるじゃん」
「つーか。これだけの人間呼び出しといて、何の説明も無しって云うのは、俺ら舐められてないか?」
オーナー室では、そんな記者席の様子を見て環が麗華に言った。
「そろそろ、何か情報を提供した方がいいわよ。ただでさえ、あなた、あの連中に良く思われてないんだから」
環の言葉に無反応の麗華。素振りを終え、ネクストバッターズサークルで静かに瞑想する国武を見ている。
麗華自身も瞑想しているかのようなアルカイックな表情を浮かべている。
肩をすくめる環。
麗華の意識は、二週間前に跳んでいた。
自室の応接セットで向き合って座っている麗華と国武。
国武は激昂していた。
「俺は、引退すると発表したんだ。男がいったん口にした事を翻らせるか」
「では、負け犬のまま、消えていかれると云う事ですか?」
「何だと!」
「過去二シーズンの極端な不振を、体力の衰えと無理矢理自分に納得させ、己のやるべき事を道半ばで放り出す人間を負け犬と云わずに何というのですか?」
屈辱的な言葉を浴びせられたにも関わらず国武は、トーンダウンした。
「自分の身体の事は、自分がよく知っている。引退は…」
「嘘です」
「…」
「貴方は、常に『敵』を求めていた。自分の力を百パーセントぶつけられる強敵を、です」
国武は言い返さない。
「しかし、自分の技量に見合ったライバルたるべきピッチャーが引退したり、メジャーへ移籍をしたりで、国内にはもう自分を本気にさせるピッチャーが居なくなってしまった貴男は、打者としてのモチベーションを維持できなくなってしまった。その結果が近年の不振です。かといって、ジャイアンツと複数年契約してしまっているので、貴男自身は簡単にメジャー移籍も出来ない。年齢もネックでしょうが、何より義理堅い貴男には、世話になった先代オーナー、つまり私のお爺様を裏切るような真似は死んでもできない。その挙げ句、辿り着いた結論が引退です」
国武は最後の抵抗を試みた。
「勝手な憶測でモノを云うな! 仮に、本当にあんたの云う通りだったとしても、気力が萎えたのであれば、選手として引退の選択は当然だろう!」
「でも、御自分の身体には嘘をつけないでしょ? この二年間、曖昧な調整をされ続けた貴方の肉体は、押さえつけられた欲求の出口を求めて、シーズンオフのこんな中途半端な時期に、皮肉にも生涯最高のコンディションを迎えている…違いますか?」
驚く国武。
「私だって、仮にも世界を相手に戦ったプロのアスリートです。それくらいの事はわります」
麗華は、国武の前に分厚いリーフレットを差し出した。
「ここに、私がこれから成そうとしている全てが書いてあります。これを読んで、もし御賛同いただけるのなら、三日後メガロ・ドームに来て下さい」
一度言葉を句切り、意味有りげに句を継ぐ麗華。
「最高のコンディションを維持したまま」
国武は書類を受け取りしばらく見つめると、黙って席を立った。
無言で見送る麗華。
窓の外に視線を移すと、外界は夜の雪景色だった。
街のイルミネーションに照らされた積雪が七色に輝いている。
そして、国武は来た。
後は…。
麗華は、輝く瞳で未だ無人のマウンドを見やり、心の中で叫んだ。
「さあ、望みうる最高の舞台を用意したわよ。いらっしゃい! 大河大!」
その時、記者団が、スコアボード下のゲートから歩いてくる人影に気付いた。
開幕戦やオールスター戦など、特別なイベントで選手がパレード入場する為の特別な入り口である。
「おっ。誰か来るぜ」
「…芝浦学園の大河じゃないか!」
「へぇ。やっぱり、日本に居たんですねぇ」
大河は無言のまま、マウンドに向かって歩いていく。
射るような視線で大河を一瞥する国武。再び素振りを始める。
「国武の様子といい。なんかありそうだぜ、こりゃ」
記者達は喜々として、それまでの倦怠ムードを断ち切ってセッティングしたカメラの再チェックを始めた。
マウンドに立ち、スッと深呼吸をする大河。
グラブを右手にはめ、左手に握りしめたボールを見つめる。
静まり返る球場。
見守る麗華。
二年前。夏。
ウインブルドン・センターコート。
純白のテニスウェアを身に纏った麗華が、サービスラインに立っている。
テニスボールを二度、三度と毬つきのようにバウンドさせ、集中力を高めている。
トス。
ファーストサービス。
相手コートでワンバウンドしたボールは、対戦相手が懸命に伸ばすラケットをかすめて行った。その瞬間に、湧き起こる歓声。
麗華は両手を振り上げ、全身で喜びを表現した。
翌日の新聞には、優勝カップを掲げ、満面の笑みをたたえた麗華の写真が掲載された。 見出しには、『日本女子テニス界史上初の快挙!』『全英オープンシングルス制覇!』その他、あらゆる美辞麗句が踊っている。
数日後。
南欧の穏やかな田舎町に、ランニングをしている麗華の姿があった。
ファンらしい少年から声をかけられ、気さくに笑顔で応えている。
ウィンブルドンのウィナーである彼女は、こんな小さな外国の田舎町でも有名人だった。
突然。静かな田舎町に不似合いな、もの凄い爆音が轟く。
麗華が後ろを振り返ると、パトカーに追われた大型のバンが一台、もの凄いスピードで迫ってくる。
その前方には、ついさっき麗華に声を掛けてくれた男の子が道の真ん中で立ちすくんでいた。
思わず飛び出す麗華。
叫ぶ顔。
差し出される手。
ブレーキの音。
破壊音。
救急車のサイレン。
暗転。
次に麗華が気づいたのは、病院のベッドの上だった。
辺りをゆっくりと見回す。
窓が開いていて、さわやかな風がカーテンを揺らしていた。
その隙間から、柔らかな木漏れ日が差し込んでいる。
更に見回す。
個室らしく、他にベットは無かった。
「すみません」と、声を掛けてみたが、特に返事はない。
仕方無いので、起き上がろうと頭を持ち上げたが、腰から下が動かない。
感覚もない。
「!」
見る見るうちに麗華の表情が強ばった。
不吉な予感に、自分の足を布団の上から叩いてみる。
何も感じない。
もっともっと、狂った様に叩いた。
一瞬の静寂の後。
病棟に麗華の悲鳴が響き渡った。
「麗華、麗華!」
ハッとする麗華。目の前に環の顔。
「皆さんお待ちかねよ。とりわけ彼がね」と、マウンドを指さす。
大河がオーナールームを見上げていた。
軽く頷いた麗華は、手元にあるマイクを手に取った。
グラウンドに麗華の声が鳴り響く。
「大河大君。新年の挨拶は割愛して本題を述べます。テスト項目は、ただ一つ」
麗華の声は、観客のいないドーム内で木霊している。
「バッターの国武選手を討ち取る事です。勝負は一打席のみ。特別なルールは何もありません。三振でも、凡打でも、スリーバント失敗でも。とにかく一打席、彼を抑えれば合格です」
麗華の言葉が終わったのを確認すると、大河は、後ろで守備についている男たちを親指で指さし、オーナールームに届くように大声で叫んだ。
「このバックは、信用していいのか!」
予想外の問いに、麗華はあっさりと本音で答えた。
「…さあ? 私も彼等には今日初めて会ったので判らないわ。信用するか、しないかは、アナタ次第よ」
あからさまに不満げな大河。なにやらブツブツ言っている。
当然、このやりとりはバックを守る選手達に軽い不快感もたらす効果があった。それに対して、反骨心でやる気をだす者、ふて腐れる者、様々な反応があるだろう。はからずもこれは、麗華の目論見に沿った展開だったのかも知れない。この勝負は、大河大のみならず彼等の入団テストも兼ねていたのだ。
麗華は、この機とばかりに大河を挑発した。
「野球において、初対面の一発勝負は、投手に絶対有利なのよ。それくらい我慢なさい! ウォーミングアップは好きなだけどーぞ」
環が麗華の傍らでクスクス笑っている。
そんな環に、振り向きもせず麗華が言った。
「な~にが、そんなに可笑しいのかしら?」
「別にぃ。あなた達、姉弟喧嘩みたいな会話するのね。こないだ会った時、何かあった? それとも恋人同士の痴話喧嘩かなぁ?」
「何よ、それ…にしても、そんなに可笑しい事かしら」
笑いすぎて、涙目を拭う環。
「可笑しいんじゃないわ。嬉しいのよ」
「嬉しい?」
「そっ。男の子と会話しているアナタを見るのも、真剣に何かに打ち込んでいるアナタを見るのも…普通に生きて、普通に何かをしているアナタを見るのが、とーっても嬉しいの」
麗華黙っている。真顔に戻って続ける環。
「事故に遭った後の姿。今でも目に焼き付いているわ。実際、こんなに早く立ち直ってくれるなんて思ってなかったもの。何より。テニス以外に、こんなに情熱を傾けられる事を見つけるなんて信じられない。アナタ、現役時代よりも活き活きしている感じよ」
その言葉尻を聞く間もなく「…違う」と遮る麗華。
「?」となる環。
麗華の瞳に冷たい炎が宿っていた。激しい激情を押さえるかのように腕が小刻みに震えている。
「違う…情熱なんかじゃない…復讐よ」
驚く環。
「え?」
キャッチャーミットが霞んで見える。
その原因が、真夏の太陽に灼かれたグラウンドから立ちのぼる陽炎だけでない事を、長時間の激痛に晒され、もはや感覚が消え失せてしまった己の右腕が教えた。
超満員の観衆が発する歓声が甲子園の大銀傘に反響し、音の津波となって球場全体を飲み込んでゆく。
ゲームセットまで、あとワンアウト…いや、ワンストライク。
セットアップしようと身体を動かした途端、無感覚だった右腕に再び激痛が奔った。
それでも、握っているボールごと右の拳をグラブに無理矢理ねじ込むと、辛うじてセットポジションした。
朦朧とした意識のさなかであっても、投手の本能と日頃の練習によって身体に染み込んだルーチンにより、走者が大きくリードしないようにと二塁を振り返り一瞥する。
その時、眼の端にバックを守るチームメイトの姿が映った。
一人一人の表情は帽子のひさしで出来た影に隠れてよく見えないが、緊迫した鼓動は伝わってくる。だが、不安は微塵も感じられない。彼らの信頼を大河は受け止めていた。
「心配するなよ…約束は守る」と、大河はそう呟いて、ギシギシと軋む股関節に構わず左足を振り上げ、投球動作に入った。
続いて、振り上げた足を前方に踏み出し、その下半身から連動した腰の回転に引っ張られるようにスローイングを開始した右腕が、遠心力で千切れそうになる。
良く言えば無心。実際は気絶寸前。で、日頃の鍛錬の成果として放たれたボールは、ストライクゾーンを切り裂くように、鋭くアウトコースにスライドすると、そのまま捕手のミットに吸い込まれていった。
打者のバットが空を切る。
主審が大きく右手を差し上げて、ストライクをコール。続くゲームセットのコールは、音量が頂点に達した球場の歓声で掻き消された。
『芝浦学園高校初優勝~!』と、日本全国のテレビやラジオのスピーカーから、アナウンサーの興奮した絶叫が響いたに違いない瞬間、大河大はマウンド上にへなへなと尻餅をついた。力無く。
と、その無様な尻餅姿と大歓声がピタッと停止してポーズ画像になり、それが大画面のモニターに映しだされた録画映像だと判る。
100インチはあろうかというその巨大モニターが設えられた部屋は、呆れるほど広かった。無秩序に飾り立てた装飾品や豪華な家具の数々が幾分か空間を狭めてはいたが、それでも尚、車が数台停められそうな空間に取り囲まれた広大な部屋の中央に、彼女は居た。
だが、彼女が座っているのは、その豪華な部屋に二組置かれた高価な応接セットのソファーでも、紫檀の執務机と組になっている革張りのアームチェアでもない。
簡素な車椅子であった。
液晶テレビの画面は、甲子園優勝投手の尻餅画像から切り替わり、試合後のインタビューを映し出す。
大河大の右腕は痛々しく三角帯で肩から吊られていた。通常のアイシングとは違い、物々しいギプスで固められている。
クローズアップされた彼の表情は、傍目にも憮然としたものだ。
だが、そんな事にはお構いなく放送のタイムスケジュール消化が至上命令と言わんばかりに局アナがインタビューを始めた。
「放送席、放送席、それでは、芝浦学園高校優勝投手の大河選手に話をお聞きします」
「大河選手、優勝おめでとうございます」
「あ。どうも…」
「予選大会から一人で投げ抜いてきて、それだけに喜びも一入ではないですか?」
うわの空で大河が答える。
「え? あー、えーと、チームメイトとのいい想い出が出来て嬉しいです」
それから、数分間は、試合経過に関するやりとりが淡々と続いた。
「そう言えば、右手の状態はどうですが? 試合前の報道ではかなり悪いという事でしたが?」
そろそろ感動的なエピソードが欲しいとでも感じたのか、局アナは、物々しい右腕のギブスについて尋ねた。
このタイミングでそこに触れるのは、大河の状況を熟知した上でのネタ振りである事は明らかだ。本来なら度し難い無神経さに怒りを覚えただろうが、それは、彼が待ち望んでいた質問だった。
三年間綿密に準備した大いなる計画の第一歩。
「…たぶん、もう使い物にならないと思います。主治医からも忠告されましたし、その覚悟で今日、投げましたから」
予想よりも深刻な返答に狼狽える局アナ。
「えっ? それは…えーっと、大河選手にとって今日が本当に大事な試合だったという事ですね。では、最後に、優勝した今の気持ちを一言お願いします」
「…ほんとに言って良いんですか?」
局アナは、大河の真意が解らず生返事をする。
「えっ? はい、どうぞ?」
軽く深呼吸をしてから、大河は一気に捲し立てた。
「未だに参加選手の健康を無視した日程を強行する大会主催者とそれを黙認する高野連。たかだか高校生を英雄か何かの様に祭り上げるマスコミとそれを利用して知名度や面子にこだわる学校関係者。それに何の疑問も持たず、未成熟な身体を酷使する馬鹿な俺たち高校球児。何より、『甲子園』という空虚な金看板に目が眩み、その不都合な全てを是とし美化する歪んだ日本社会で、有意義な高校生活を送れました。とっても幸せです!」
言い終えると、深々と一礼し、さっさと引き上げる大河。
唖然とする局アナ。そのまま凍り付く。
いや、局アナが凍り付いたのではない。車椅子の女性がテレビ画面をポーズしたのだ。
彼女は、傍らの巨大な机に視線を落とした。彼女の執務机だ。
机上には大量の資料が散乱している。
それらの資料が入っていたと思われる厚手の封筒には『東京シティ・ジャイアンツ球団社長 霧島麗華殿』と書かれていた。
車椅子の彼女の名前である。
「まだ正式なオーナーじゃないわよ、専務兼スカウト部長さん…」
封筒の差出人欄に書かれた星野環という文字に向かって呟く麗華。
資料に眼を通しながらあれこれと思案していた麗華だったが、突然、鳴り響く電話のベルに、ハッと現実世界へ引き戻された。
優雅な操作で車椅子を電話のそばに寄せると、その動きにあわせて彼女の長い髪がシルクのドレスが舞うように揺れた。
アンティックなデザインの電話から受話器を取り上げる。
「ああ、環…うん、今観てる。この子ね…大河大。色々派手にやらかしてるわねぇ」
資料の中には、新聞の切り抜きが多数スクラップされていた。『堕ちた甲子園の英雄』『高校球児にあるまじき発言』『勇気ある若人の主張』等々、大河の発言に対する賛否両論の見出しが躍っている。
「…わかったわ。それでは当初の予定通り、ドラフト会議の一位指名は、彼にしましょう」
麗華は静かに受話器を置いた。
TV画面のポーズをリモコンで解除すると、大河のインタビューまでリバースした。音を消していたので、ただ口をパクパクさせている大河の顔がアップでリピートされている。
麗華は、画面の大河に向かって不敵に微笑み、そっと囁いた。
「私に見込まれたのを不運と思って諦めるのね。大河大君」
日本最初のドラフト会議が行われたのは、昭和四十五年十一月十七日。場所は日比谷の日生会館である。
米大リーグを模して始まったドラフト制度であったが、当初は各球団が希望選手三十名以内の名簿をコミッショナー事務局に提出し、他球団と重複した場合は抽選、外れた場合は提出した自球団の名簿順位に従い選手を指名するという日本独自の方式だった。
指名方式は、より良いドラフト制度を目指して、その後幾度となく改正されたが、球団経営者やスポンサー達の経済的事情や権力志向、更には中途半端な選手達への人権擁護が絡み合った複雑怪奇な選手分配システムへと変貌していった。
この年のドラフトも一読しただけでは全く理解できない選定規則の要項集が配られ、関係者はその内容把握に四苦八苦していた。
「何度読んでも複雑怪奇ね。おまけに毎年制度が変わるし、さすがペナントレース三位の球団が何故か日本一になれちゃう『クライマックスなんたら』っていうシステムを考えつくような組織が決めただけの事はあるわ」
特に皮肉を意識したわけではないのに毒舌たっぷりの独り言。ドラフト会議会場に向かうリムジンの中で選択手順の再確認していた麗華は、何度目かのため息を吐いた。
車載の小型テレビに視線を移すと、ライブ映像でドラフト会議会場があるホテルのロータリーが映し出されていた。国際会議も催される都内の一流ホテルだ。辺りは新聞や雑誌、テレビ等マスメディアの人間とプロ野球関係者で賑わっている。
その画面に、続々と到着する各球団の代表の乗る黒塗りのリムジンに混じって、一段と目を引く純白のロールスロイス・ファントムがフレームインしてきた。
麗華は、自分の乗っている車が画面に映っている不思議な感覚を楽しみながら、駆け寄ってくるホテルのドアマンが観音開きのリアドアを開けるのを待った。
車内から特注のリフトがせり出し、車椅子に乗った麗華を車外へと送り出す。同時に、帯同してきた黒いワゴン車からプロレスラー顔負けの大柄な黒人のセキュリティー・サービスが数名下車すると、麗華の廻りを取り囲む様に付き添った。
同時に浴びせられる無数のフラッシュ。
名実共に球界の盟主である『東京シティー・ジャイアンツ』に、新たな球団代表が就任しただけでも十分なニュースソースだったが、その人物が若干二十二歳のうら若い女性だという事実は、いまだに純然たる男社会であるプロ野球界にとっては、ある意味、ドラフト会議以上の大ニュースであった。
麗華自身も、つい最近まで一流テニスプレーヤーにして不運にも事故で引退を余儀なくされた悲劇のヒロインであり、更に前代表の孫娘にして球団の母体である巨大コングロマリット、霧島コンツェルンの御令嬢とあれば、その存在は一般大衆の下世話な好奇心を満たすに充分であった。
それにも増して、モデルばりの容姿を兼ね備えているとあれば、羨望を通り越し、反感を持つ輩も少なからず存在する。その代弁者を気取る先鋒が古株のスポーツ記者連中という訳である。
意地の悪い質問を並べ立て、お嬢様のオーナー業なんぞが、如何に浅はかで愚かな行為であるかを思い知らせてやろうと、捻れた社会正義を拠り所に手ぐすね引いて待ちかまえていた。
しかし、彼らの野望は、霧島麗華本人が彼らの眼前に現れた瞬間に潰え去る。
現役を退いたとはいえ、彼女は世界最高レベルのアスリートだったのだ。彼女の眼力は記者連中の機先を制し、彼らの言語中枢を麻痺させる足る強大なオーラを発していた。
ただ、当の麗華といえば、別に睨み付けていたわけでもなく、ただ微笑みかけていただけだったのだが、彼女と眼が合った途端、海千山千のベテラン記者でさえ、金縛りにあったように何も喋る事が出来なかったのだ。掌に冷や汗をかく者さえいた。
結局、彼らは麗華の車椅子がドラフト会議会場へと消えていくのを漫然と見送る羽目になってしまった。
ドラフト会議本会場は、ホテルでも最大の催し物会場を使用していた。
広大な会場の中央近く、東京シティー・ジャイアンツの関係者に割り当てられたテーブルで、麗華は静かにその時を待った。
会場は、先刻発表になったばかりの各球団が自由獲得で得た選手達の話題でザワついている。
この年は、目玉選手が不在だった事も手伝って、これから始まる指名入札に人々の関心は薄かった。
しかし、麗華は知っている。その無関心も入札選手一巡目の発表までだ。
そう、彼の名前が読み上げられるまで…。
唯一自由獲得枠を二つとも行使しなかった東京シティー・ジャイアンツの指名入札順位は最上位だった。つまり、指名一巡目の最初に麗華の指名した選手が読み上げられる。
そして、その時は来た。
『東京シティー・ジャイアンツ。入札指名選手。大河大、投手、芝浦学園高校』
アナウンスが会場に響いた。
会場の時間が一瞬凍りつく。続く地響きの様などよめき。
その場にいた誰もが我が耳を疑った。
『大河大』
その名前が今回のドラフトで呼ばれる事などあり得なかったのだ。
甲子園における問題発言。酷使による右腕肩と肘の重大な故障。これは大河側から公式な診断書が野球連盟に提出されている。しかも致命的な事に、彼はマスコミを逃れて現在失踪中だったのだ。
大河大を日本プロ野球界から閉め出す事は、球界関係者において『暗黙の了解』だった。
登場した時以上に注視を浴びる麗華。
無数に浴びせられる視線の中で、静かに微笑んでいた。
会議が終わり、会場を後にする麗華にマイクの砲列が襲いかかった。
今度は、彼女の眼力に怯む者はいない。
彼らにも報道人としてのプライドがある。
カメラのファインダーを覗いているカメラマンは、戦火の中でも恐怖を感じないというが、記者も同じだ。取材対象に一旦マイクを向けてしまえば、如何なる障害があろうとも彼らは取材を敢行する。
テレビ、ラジオ、新聞等あらゆるメディアの取材陣が殺到していた。怪我人が出てもおかしくない状況だった。
「霧島オーナー、大河選手は現在行方不明との事ですが、所在は確認しているのですか」
「大河の右腕は、再起不能と聞いてますが!」
「彼の言動は、球界の盟主たる球団のイメージを傷つけるとは思われないのですか?」
群がった記者達が発する矢継ぎ早の質問を無視して、麗華はホテルのロビーに横付けされたリムジンに向かった。
クラクションと怒号の飛び交う中、純白のリムジンは会場を離れていく。
各マスコミの車輌群がその後を追う。
激しい人々の怒号が渦巻くホテルのロータリーを道路一つ隔てた反対側の歩道から、静かに麗華のリムジンを見送る人影があった。
その人物は、厚手のトレンチコートにハンチング帽を深々と被るという出で立ちだ。もちろん、冬が近いとはいえ未だ秋の陽が心地よい晴天のもとでは、多少季節はずれな服装程度の印象でしかないのだろうが、少なくとも、この服装の主が『女性』だと知れれば、誰もが奇異に感じるだろう。
麗華のリムジンを追いかける喧噪がビル街に遠く響く微かな反響音となるまで見送ると、トレンチコートの立てた襟に少し隠れた口元で、その女性はそっと囁いた。
「いよいよ始まったわね、麗華。道のりは遠く厳しいけれど、貴女が何かに打ち込んでいる姿をまた見られるなんて、こんなに嬉しい事は無いわ」
彼女は一度立ち去りかけて立ち止まり、自らの言葉に、もう一言添えた
「死にたい…は、もう無しよ」
東京都港区臨海公園併設少年野球場。
高い金網に囲まれた人工芝のグラウンドをランニングする青年が一人。
規則正しいブレスで吐きだされた息が、凍りついた大気に触れて白く曇る。
黒いジャージに黒のウインドブレーカーを羽織り、そのフードで頭部を覆った全身黒ずくめのランナーは、一時間近くグラウンド内を周回すると球場を出た。
埋め立て地の倉庫街を抜け、芝浦埠頭沿いを走り抜ける。
大晦日の埠頭などは、およそ賑わいなぞには程遠い閑散とした血色の無い風景だった。 振り仰げば、レインボーブリッジの橋脚がその威容を誇っている。
青年は、俯き加減に黙々と走り続けた。が、ふと前方に人の気配を感じて顔を上げる。
彼の視線の先には、車椅子に座った麗華が東京湾を眺めながら佇んでいた。
潮風になびいた長い髪が顔にまとわりつき、それを静かに掻き上げる。
無視しきれずに麗華の少し手前で立ち止まる青年。息が弾んでいる。
先に沈黙を破ったのは、彼の方だった。
「球団オーナーっていうのは、暇なんですね」
「やっとの思いで会えたっていうのにご挨拶ね。大河大君。随分探したんだから…勝手に雲隠れされて、こっちはいい迷惑だわ。結局、灯台もと暗し、ずっと自宅にいたとはね」
大河大と呼ばれたその青年は、ウインドブレーカーのフードを後ろに撥ね下ろした。
フードの陰に隠れていた顔が現れる。
数限りなく観たテレビ画面や写真からは計り知れない、やたらと澄んだ大河大の瞳に魅せられ、麗華は不覚にも彼の顔を魅入ってしまった。
顔を見つめたまま身動きしない麗華に、気恥ずかしさがと不快感を同時に覚える大河。
堪らず、其の場凌ぎに口を開く。
「入団の件でしたら、スカウトの女性…に、ドラフト前にお断りしたはずです」
麗華は、「女性」という単語に言い詰まった大河の言葉に、心の中で星野環に感謝した。色々と考えあぐねていた会話のきっかけを得たからだ。
「ええ、確かに環から聞いてたわ。あっ、環っていうのは、あのトレンチコートの『彼女』ね。びっくりしたでしょ? 野球に詳しいっていうんで、スカウト頼んだら、一人でみょ~に盛り上がっちゃって…ごめんね、私も迷惑してんのよ」
大河、黙って聞いている。怒るべきか、いなすべきか、対応を迷ったのだ。
麗華はたたみ掛けた。
「『遊び半分に俺の邪魔するな!』って感じね。ママごとでオーナーやってる女に、大事なメジャー行きの夢を邪魔されて、お先真っ暗でしょ」
「えっ?」となる大河。
麗華は間髪入れない。
「何で、それを知ってるんだって顔ね…ふふっ」
その微笑みが合図だったかのように、それまでの戯けた口調から一転して、厳しい表情になる麗華。
「全く、アナタには驚かされるわ。自分の腕を一本犠牲に…スケープゴートにして日本のプロ球界を逃れようとするなんて」
麗華は、紙飛行機を投げて寄越した。
「単にメジャーに挑戦するだけなら、もっと簡単で目立たない方法があったでしょうに」
コントロール良く大河の胸に当たったその紙飛行機を開いてみると、それは、大河の右腕に関する診断書だった。
麗華は続けた。
「もし日本のプロ球団にドラフトで指名されたら、日米球界の紳士協定でメジャー球団は手が出せなくなってしまう。まして入団なんかした日には、FA権を取得するまで8年待つか、球団にポスティングを認めてもらうかない、メジャー移籍の可能性は極めて不確実なものになってしまう。伸び盛りの貴重な時間を無駄に費やす事になるわ 」
大河、診断書に眼を落としたまま黙って聞いている。
「だからアナタは、重大な故障を引き起こすまで故意に右腕を酷使した上に、甲子園という最大に衆目を集める場で人格的に問題のある人間だと思わせ、日本の球団が獲得を断念するように万全の策を弄した」
沈黙したままの大河。
それを見て、今度は笑い出す麗華。人差し指を一本立てて、諭すように言った。
「あらあら。またしても、何故知ってるんだって顔ね。プロのスカウトにさえ、気づかれなかったのにぃぃぃ、って」
最後はからかう様に言った。もちろんワザとである。これから話す本題へよりシリアスな印象づけをするための下準備だった。
「それはね、大河君。このママごとオーナーは、貴男が思っている程、遊び半分では無いって事で、あのちょっと…すごくかナ…変わった、自称スカウトのお姉さんも見かけ以上に凄腕って事なのよ」
麗華は軽く深呼吸をして自らの呼吸を整えた。
「長話になっちゃったわね。アナタの身体が冷えてしまうから単刀直入に云うわ」
車椅子を大河の正面に向くように移動させ、佇まいを正す麗華。その姿は巨大組織を束ねる首長としての威厳に満ちていた。
「我が『東京シティ・ジャイアンツ』は、米大リーグ所属のチームを買収し、ワールドシリーズ制覇を目指します。それを足掛かりに、メジャーリーグを母胎としたベースボールの国際競技連盟『パンゲア・リーグ』を組織し、恒久的なインターナショナル・ベースボール・トーナメントを実現させます」
一瞬、麗華の言葉が理解できない大河だったが、混乱したまま対応に苦慮した挙げ句の反応は、オーバーに両手を広げてと茶化す事だった。
「え~と。俺は、その栄光あるチームの一員に選ばれたってことですか?」
麗華は容赦無く言い放った。
「うぬぼれないで! 私は、この事業に命を懸けているの! 私の興味はたった一つ。アナタに、その一員たる資格があるのかどうかなのよ!」
命令口調で通達する。
「大河大。三日後、東京シティー・ジャイアンツのホームグラウンド、メガロ・ドームにて、入団テストを行います。世界を相手に闘おうという、アナタの決意が本物なら、そこで自らの覚悟と実力を示しなさい!」
レインボーブリッジの欄干から寒風が吹き下ろされる。
刀のように冷たく身を切り裂くその風にも怯む事無く、麗華は大河の瞳を真っ直ぐ見据えて、その視線同様にブレのない言葉を彼に放った。
「およそスポーツを志す者の最終的な到達点が、『世界』という舞台でないは、とても不幸な事だわ。現実に多くの日本人プレーヤーがメジャーリーグでプレーしている現在でさえ、日本球界は世界を相手に戦う事をその視野に入れていない。もし、個々のプレーヤーでなく、日本野球そのものが世界を相手に戦う、という事に価値があるというのなら、日本野球を取り巻く今の状況は、その目的を永遠に達成する事無く、限りある優秀な日本人プレーヤーを消耗しているに過ぎない」
麗華の視線は更に鋭く大河を突き刺す。
「私はこの状況を変えたい! 変えたいわ、大河君! 世界を目指す者が、普通に頂点を目指せば、それが当たり前に『世界一』の称号となる! そんなプロ野球界に変えたい!」
再び、視線を東京湾に向ける麗華。
「メジャーリーグの記録を塗り替える日本人選手。主軸バッターやエースとしてチームに貢献する日本人選手。彼らは尊敬されている。偏見無く最大級の讃辞を送られ、数々の栄誉も与えられる。さすが民主主義の宗主、他民族国家の雄、アメリカ合衆国。でもね、彼等が心の底から愛される事はないわ…それは何故か?」
麗華、大河を見る。
「アメリカ人ではないから」
大河は黙っている。が、視線を麗華から外さない。
「イチロー・スズキは、決して、デレク・ジーターにはなれない。これは現実よ。日本において、外国人選手を未だに『助っ人』と呼ぶのと同様に」
大きくため息をつく麗華。
「そして、単なるアメリカ国内リーグの決勝戦が『ワールドシリーズ』と呼ばれるのを看過している限り、永遠に変わらない現実…」
湧き出たアドレナリンを抑えるように、意識して和らいだ表情をつくり、視線を大河から東京湾のパノラマに移した。
「今夜は積もるそうよ。早く帰んなさい」
返事も聞かずにその場を離れる麗華。
立ち尽くす大河。
いつの間にか、辺りに小雪が舞っている。
薄く降り積もった雪の絨毯に、車椅子の轍が続いていた。
メガロ・ドーム。東京シティ・ジャイアンツのフランチャイズ球場である空気膜構造の密閉式ドーム球場とその周囲の遊園施設には、門松や注連縄などの飾り付けが施され新たな年を祝っていた。
本来、正月休みでひっそりとしているはずだった球場内部には、グラウンド上に人だかりが出来ている。特に一塁側ベンチ横の一画は、記者や大口径の望遠レンズを構えたカメラマンで賑わっていた。
「松も取れてない、この時期にいったい何のイベントだ?」
「さ~てね。この時期、ストーブリーグも一休みで、紙面づくりに苦労するからねエ、面白いネタ提供してくれりゃ御の字さ」
「やめてくれ、俺なんか、たまの休みでガキと来ていた隣の遊園地から急遽直行だぜ。埋め合わせにお年玉3倍だぜ。お嬢様の気まぐれは勘弁して欲しいぜ」
「ご愁傷様」
「おっ噂の主、お成~り~」
バックネット裏のスタンド二階に施設されたオーナー専用の観覧室に麗華が現れた。
傍らに環が寄り添っている。いつも通りのトレンチコートにハンチング帽姿である。
「来るかしら」
麗華が発したのは、返事ではなかった。
「準備を!」
それを合図に、三塁側のベンチから真っ白なユニフォームに身を包んだ選手達が、各々の守備位置に散らばっていった。白無垢なユニフォームには、背番号はおろか、チーム名さえ記されていない。
彼らから一歩遅れて、バットを持った男が出て来た。
男は他の選手達とは違い、東京シティ・ジャイアンツの正式なユニフォームを着ている。
背番号は1。
記者連中が反応した。
「おっ、国武じゃん」
「いったいどうしたんだ? この間の記者会見で、カナダに移住してセミ・リタイヤするとかなんとか、どっかの大物タレントみたいな事を云ってたぜ」
「それにしちゃ。バット真剣に振ってるじゃん」
「つーか。これだけの人間呼び出しといて、何の説明も無しって云うのは、俺ら舐められてないか?」
オーナー室では、そんな記者席の様子を見て環が麗華に言った。
「そろそろ、何か情報を提供した方がいいわよ。ただでさえ、あなた、あの連中に良く思われてないんだから」
環の言葉に無反応の麗華。素振りを終え、ネクストバッターズサークルで静かに瞑想する国武を見ている。
麗華自身も瞑想しているかのようなアルカイックな表情を浮かべている。
肩をすくめる環。
麗華の意識は、二週間前に跳んでいた。
自室の応接セットで向き合って座っている麗華と国武。
国武は激昂していた。
「俺は、引退すると発表したんだ。男がいったん口にした事を翻らせるか」
「では、負け犬のまま、消えていかれると云う事ですか?」
「何だと!」
「過去二シーズンの極端な不振を、体力の衰えと無理矢理自分に納得させ、己のやるべき事を道半ばで放り出す人間を負け犬と云わずに何というのですか?」
屈辱的な言葉を浴びせられたにも関わらず国武は、トーンダウンした。
「自分の身体の事は、自分がよく知っている。引退は…」
「嘘です」
「…」
「貴方は、常に『敵』を求めていた。自分の力を百パーセントぶつけられる強敵を、です」
国武は言い返さない。
「しかし、自分の技量に見合ったライバルたるべきピッチャーが引退したり、メジャーへ移籍をしたりで、国内にはもう自分を本気にさせるピッチャーが居なくなってしまった貴男は、打者としてのモチベーションを維持できなくなってしまった。その結果が近年の不振です。かといって、ジャイアンツと複数年契約してしまっているので、貴男自身は簡単にメジャー移籍も出来ない。年齢もネックでしょうが、何より義理堅い貴男には、世話になった先代オーナー、つまり私のお爺様を裏切るような真似は死んでもできない。その挙げ句、辿り着いた結論が引退です」
国武は最後の抵抗を試みた。
「勝手な憶測でモノを云うな! 仮に、本当にあんたの云う通りだったとしても、気力が萎えたのであれば、選手として引退の選択は当然だろう!」
「でも、御自分の身体には嘘をつけないでしょ? この二年間、曖昧な調整をされ続けた貴方の肉体は、押さえつけられた欲求の出口を求めて、シーズンオフのこんな中途半端な時期に、皮肉にも生涯最高のコンディションを迎えている…違いますか?」
驚く国武。
「私だって、仮にも世界を相手に戦ったプロのアスリートです。それくらいの事はわります」
麗華は、国武の前に分厚いリーフレットを差し出した。
「ここに、私がこれから成そうとしている全てが書いてあります。これを読んで、もし御賛同いただけるのなら、三日後メガロ・ドームに来て下さい」
一度言葉を句切り、意味有りげに句を継ぐ麗華。
「最高のコンディションを維持したまま」
国武は書類を受け取りしばらく見つめると、黙って席を立った。
無言で見送る麗華。
窓の外に視線を移すと、外界は夜の雪景色だった。
街のイルミネーションに照らされた積雪が七色に輝いている。
そして、国武は来た。
後は…。
麗華は、輝く瞳で未だ無人のマウンドを見やり、心の中で叫んだ。
「さあ、望みうる最高の舞台を用意したわよ。いらっしゃい! 大河大!」
その時、記者団が、スコアボード下のゲートから歩いてくる人影に気付いた。
開幕戦やオールスター戦など、特別なイベントで選手がパレード入場する為の特別な入り口である。
「おっ。誰か来るぜ」
「…芝浦学園の大河じゃないか!」
「へぇ。やっぱり、日本に居たんですねぇ」
大河は無言のまま、マウンドに向かって歩いていく。
射るような視線で大河を一瞥する国武。再び素振りを始める。
「国武の様子といい。なんかありそうだぜ、こりゃ」
記者達は喜々として、それまでの倦怠ムードを断ち切ってセッティングしたカメラの再チェックを始めた。
マウンドに立ち、スッと深呼吸をする大河。
グラブを右手にはめ、左手に握りしめたボールを見つめる。
静まり返る球場。
見守る麗華。
二年前。夏。
ウインブルドン・センターコート。
純白のテニスウェアを身に纏った麗華が、サービスラインに立っている。
テニスボールを二度、三度と毬つきのようにバウンドさせ、集中力を高めている。
トス。
ファーストサービス。
相手コートでワンバウンドしたボールは、対戦相手が懸命に伸ばすラケットをかすめて行った。その瞬間に、湧き起こる歓声。
麗華は両手を振り上げ、全身で喜びを表現した。
翌日の新聞には、優勝カップを掲げ、満面の笑みをたたえた麗華の写真が掲載された。 見出しには、『日本女子テニス界史上初の快挙!』『全英オープンシングルス制覇!』その他、あらゆる美辞麗句が踊っている。
数日後。
南欧の穏やかな田舎町に、ランニングをしている麗華の姿があった。
ファンらしい少年から声をかけられ、気さくに笑顔で応えている。
ウィンブルドンのウィナーである彼女は、こんな小さな外国の田舎町でも有名人だった。
突然。静かな田舎町に不似合いな、もの凄い爆音が轟く。
麗華が後ろを振り返ると、パトカーに追われた大型のバンが一台、もの凄いスピードで迫ってくる。
その前方には、ついさっき麗華に声を掛けてくれた男の子が道の真ん中で立ちすくんでいた。
思わず飛び出す麗華。
叫ぶ顔。
差し出される手。
ブレーキの音。
破壊音。
救急車のサイレン。
暗転。
次に麗華が気づいたのは、病院のベッドの上だった。
辺りをゆっくりと見回す。
窓が開いていて、さわやかな風がカーテンを揺らしていた。
その隙間から、柔らかな木漏れ日が差し込んでいる。
更に見回す。
個室らしく、他にベットは無かった。
「すみません」と、声を掛けてみたが、特に返事はない。
仕方無いので、起き上がろうと頭を持ち上げたが、腰から下が動かない。
感覚もない。
「!」
見る見るうちに麗華の表情が強ばった。
不吉な予感に、自分の足を布団の上から叩いてみる。
何も感じない。
もっともっと、狂った様に叩いた。
一瞬の静寂の後。
病棟に麗華の悲鳴が響き渡った。
「麗華、麗華!」
ハッとする麗華。目の前に環の顔。
「皆さんお待ちかねよ。とりわけ彼がね」と、マウンドを指さす。
大河がオーナールームを見上げていた。
軽く頷いた麗華は、手元にあるマイクを手に取った。
グラウンドに麗華の声が鳴り響く。
「大河大君。新年の挨拶は割愛して本題を述べます。テスト項目は、ただ一つ」
麗華の声は、観客のいないドーム内で木霊している。
「バッターの国武選手を討ち取る事です。勝負は一打席のみ。特別なルールは何もありません。三振でも、凡打でも、スリーバント失敗でも。とにかく一打席、彼を抑えれば合格です」
麗華の言葉が終わったのを確認すると、大河は、後ろで守備についている男たちを親指で指さし、オーナールームに届くように大声で叫んだ。
「このバックは、信用していいのか!」
予想外の問いに、麗華はあっさりと本音で答えた。
「…さあ? 私も彼等には今日初めて会ったので判らないわ。信用するか、しないかは、アナタ次第よ」
あからさまに不満げな大河。なにやらブツブツ言っている。
当然、このやりとりはバックを守る選手達に軽い不快感もたらす効果があった。それに対して、反骨心でやる気をだす者、ふて腐れる者、様々な反応があるだろう。はからずもこれは、麗華の目論見に沿った展開だったのかも知れない。この勝負は、大河大のみならず彼等の入団テストも兼ねていたのだ。
麗華は、この機とばかりに大河を挑発した。
「野球において、初対面の一発勝負は、投手に絶対有利なのよ。それくらい我慢なさい! ウォーミングアップは好きなだけどーぞ」
環が麗華の傍らでクスクス笑っている。
そんな環に、振り向きもせず麗華が言った。
「な~にが、そんなに可笑しいのかしら?」
「別にぃ。あなた達、姉弟喧嘩みたいな会話するのね。こないだ会った時、何かあった? それとも恋人同士の痴話喧嘩かなぁ?」
「何よ、それ…にしても、そんなに可笑しい事かしら」
笑いすぎて、涙目を拭う環。
「可笑しいんじゃないわ。嬉しいのよ」
「嬉しい?」
「そっ。男の子と会話しているアナタを見るのも、真剣に何かに打ち込んでいるアナタを見るのも…普通に生きて、普通に何かをしているアナタを見るのが、とーっても嬉しいの」
麗華黙っている。真顔に戻って続ける環。
「事故に遭った後の姿。今でも目に焼き付いているわ。実際、こんなに早く立ち直ってくれるなんて思ってなかったもの。何より。テニス以外に、こんなに情熱を傾けられる事を見つけるなんて信じられない。アナタ、現役時代よりも活き活きしている感じよ」
その言葉尻を聞く間もなく「…違う」と遮る麗華。
「?」となる環。
麗華の瞳に冷たい炎が宿っていた。激しい激情を押さえるかのように腕が小刻みに震えている。
「違う…情熱なんかじゃない…復讐よ」
驚く環。
「え?」
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