明治維新奇譚 紙切り与一

きもん

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第八章

維新は、巡る  ーいしんは、めぐるー

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 西郷頼母の思惑によって武田惣吉の元に送られた側室は、厳密な人選の結果、最終的に五人となった。
 当初は生まれてきた子供の中から優秀な一人を選び、十頭の当主とする腹づもりだったのだが、そんな皮算用に天分の配剤でもあったのか、側室達は誰一人子宝に恵まれなかった。
 頼母の焦りが怒りに変わり始めた矢先、ようやく側室の一人が身籠もった。
 長らく待たされた分、懐妊の一方がもたらされたその場で頼母は小躍りしたという。それまでは、半ば無理強いされ他人事だった惣吉も、流石に己が実子の誕生には嬉々としてたのが、出産の吉報はその直後、二人を奈落へと突き落とされる凶報となった。
 生まれたのは、だった。
 文明開化などといっても、古い慣習、迷信が、まだまだ人の生涯を左右していた時代である。同姓の双子は畜生腹と蔑まれ疎まれて、片方が間引かれるのが世の慣わしであった。
 ましてや、将来の天下国家を治める身分の子である。双子であった事は厳重に秘匿され、直ちに一人が処分される事となった。
 だが、その顛末を耳にした双子の母は、実家を頼って生まれて間もなく葬り去られる命運となった我が子を逃がす算段をした。その側室の実家は、小さいながらも地方大名の武術師範をしていた武家の家柄だったである。
 連絡を受けた実家は、幾ばくもない財力から搾りだした資金で甲賀古士を雇い入れた。彼等は江戸時代以降の天下太平の世で活躍の場を失って経済的に困窮し、その技術を活かして諜報稼業として営んでいたのだ。
 普通なら叶わぬ願いであったが、しかし、側室の父は娘を目に入れても痛くないほど溺愛していた。今回の側室の話も快く思っていなかった事も手伝っての赤子の奪取であった。 
 密かに遂行されるはずだった誘拐劇は、その最後の瞬間、ただ座して成り行きを見守っている手筈だった双子の母が、耐えきれず逃走経路である裏山へと様子見に出てしまい、側室の行動を不審に思った屋敷の番人から誘拐がばれてしまったのだ。
 即座に追っ手が掛かった。天下の会津藩の手勢である。誘拐の実行犯である甲賀忍者崩れも手練れではあったが、ついには追いつめられてしまう。その時、彼を逃がす為に割って入ったのが、居合わせた双子の母である側室であった。そして、それが天為だったのか、誘拐犯を狙った矢が側室を貫いたのである。
 舞い散る側室の血飛沫が赤子の顔を赤く染めた。
 真紅にぼやけた視界の中で、母が手を差し伸ばし「与一」と優しく微笑んだ光景を見たであろう赤子は、その意味を理解する筈も無かったが、母の笑顔に呼応するように微笑んだ。
 そして、その後いくら時を経とうとも、その笑顔を張り付いたように崩さなかったという。
 赤子は、母親の遺志通り「与一」と命名され、側室の実家が昵懇にしていた行平という刀鍛冶の家に引き取られた。
 屋敷に忍び込んだ元甲賀忍者が、のちの「気楽亭おもちゃ」であったのは運命の巡り合わせである。
 この時の縁で、後年の行平家断絶に際して、与一を引き取ったのだった。

 地笑顔。
 何時の頃か、誰かがそう云った。
 自分が物心として覚えている一番古い記憶は、誰かに笑顔を褒められている場面だった。
 生まれついての顔に張り付いた微笑は自覚している。生まれつきの性質なのか、そうなるべき原因が、物心が無い記憶の中に存在しているのか。
 曖昧なまま、この地笑顔って奴と付き合って生きていた。
 だから。
 自分は心から笑った事がない。
 心で笑う前に顔が笑っているからだ。本当に笑おうとする前に、廻りの人間が良い笑顔だと云ってくるからだ。
 いつしか自分の心は「笑い」を忘れてしまった。
 自分は感情の一つを無くしたまま生きている。人の感情とは、喜怒哀楽の四つが全て揃っていて相互補完で正しく機能するのだと思う。だから、喜びの実感を失っている自分は、本当の怒りや悲しみを感じた事はないという自己嫌悪に苛まれてきた。表に出している喜怒哀楽の全てが、見よう見まねで真似ている上辺だけの飾り物なのだ。                                               自分の全ての言動は、無感動な反射にしか過ぎない。
 人を思いやる仕草も言葉も、理不尽に対する怒りも嗚咽も、別れの悲しみも涙も、所詮、そうすべきだから、そうしているだけに過ぎない。
 自分は本当に生きているんだろうかと、いつも悩んでいる。他の人間が、どうやって己の生を自覚しているのか、いつも不思議に思っている。
 与一は全力で走りながら、そんな物思いに耽っていた。次の任務、逃がした十頭社中の残党狩りに横浜へと向かっている最中である。
 その道中、与一に羅刹から文が届いていた。そこには、与一の氏素性、武田家、会津藩、十頭社中の兄弟姉妹との関係と、最期に戮という組織の行く末が書かれていた。
 読み終わった時、己が生い立ちの全貌を知った時、与一は得心した。自分は存在そのものが望まれず、人として生きていくのを否定される為に生まれてきたのだ。
 人として不完全なのは当然だった。そう思えた。
 恐らく、次が、十頭との最終決戦になる。
『兄弟』とも相見える事だろう。
「じきに相見えるさ…自ら対峙しろ」
 煌奉の最期の言葉が改めて蘇る。
 そこで、何かの答えを得られるとでも云うのだろうか?
 
 もうすぐ、港が見える。
 煙が上がっている?
 驚いた事に、何者か既に戦闘を始めていた。
 与一は桟橋に向かった。銃声が聞こえる。
 羅刹が、荷揚げ用の矢倉の上からレオニダに向かって、左腕の拳銃を発砲していた。
 与一も数回しか見た事はないのだが、左腕の掌に当たる部分に付いている銃の握りを右手で掴んで引き金を引いている射撃姿は奇異なものである。
 レオニダも、手近にあった大八車を抱え上げ、楯代わりにして銃弾を防いだりしているので、命のやり取りが展開しているにしては、どこか滑稽な光景であった。
 与一は迷い無く羅刹の援護に向かった。銃声の回数を数えながら、羅刹の銃が弾切れになる前にレオニダの死角である真後ろに回り込んだ。が、レオニダは視認するそぶりも見せず、即座に振り向いて、楯にしていた大八車を正確に与一めがけて振り回してきた。
 巨体に似合わぬ反射神経と視認せずに位置を定めた事に驚いて、後ろに跳び退く与一。
 大八車を後ろに振り回した反動で半身になったことでレオニダの顔が見えた。
 革紐の目隠しを確認した与一は呟く。
「音か」
 それを逆手に取る次の攻撃を考えていると、「与一!」と呼ぶ羅刹の声。
 与一が矢倉の上を振り向くと、羅刹が右手を大きく振って『行け!』と合図している。
 レオニダは声に導かれるように、与一を無視して矢倉へ向かっていく。
 羅刹は、もう与一を見ていない。
 これ以上の干渉は無用ということだ。仕方なく、与一は指示に従った。
 港の奥へ、荷捌き場へと進んだ。
 そこには所狭しと樽や木箱、米俵等が積まれていた。
 キン、キン、と鋭い金属音が、壁のように積み上がった荷箱に反響している。刃を合わせる音だった。
 大男の次は、フリルがやたらと目立つ西洋風のドレスを纏った少女と火夜が闘っている。
 火夜の手には刀喰いが握られていた。「修復できたのか」と与一は思った。
 少女の得物は、何かフワフワした布を纏った棒だった。与一が近づいて良く見ると、それは、なんと傘だった。
 先端が針のように尖った閉じた傘を、細身の剣のようにして巧みに操っていた。与一は、その動きを知っていた。上海で西洋人同士の試合を見た事があるのだ。フェンシングとかいう剣技だ。
 あの傘が、刀喰いより優れた武器とは思えないが、とにかく少女の身が軽い。更に、火夜がフェンシングの動きに慣れていないせいか、思いのほか苦戦している。
 しかし、加勢しようとした与一を制するように「いっちゃん、行って!」と火夜が叫んだ。取り付く島もない、毅然とした声音だった。 
「またか」と与一は呟いたが、羅刹も火夜も、与一が第一に成すべき事を理解しているようだった。
 ただ、二人の意を汲み先に進もうとした刹那、「寿々を…」と絞り出すような火夜の願いが、言霊となって背中の背中に刺さった。
 与一は振り返らず、その言葉を受け取る。皆が皆、各々のもどかしさとせめぎ合って行動しているのだった。
 荷揚げ場を抜け、桟橋へ。
 イルミナティの上陸船が見えた。その前に並んでいる、大頭、ぼろん坊、菖蒲、十騎男と、ぼろん坊の陰に隠れている寿々。
 ギルトとパールは、船の乗降口で控えている。いや、状況を見守り、何かあれば直ちにこの場から船で出立できる体勢を取っているようだ。つまり、現状では積極的に介入するつもりは無いらしい。
 与一は、十頭社中の残党と対峙した。
「なるほど」と大頭が言った。
 与一には、その意味が嫌気が差すほど充分に理解できた。十騎男の顔を見る。
「なるほど」と返す与一。
 それを聞いた十騎男は、今にも跳びかからんばかりに息巻いている。それを菖蒲が後手に遮り制していた。物事には序列がある。今は、長兄として、一番頭として、大頭が喋る番手である。
「期せずして、お前が我等と直接対峙する巡り合わせとなったな。あの二人、羅刹と寿々の母親には感謝せねば」
 この期に及んでの、与一の地笑顔を見て「へらへらしてるんじゃねぇ」と堪えきれずに十騎男が叫ぶ。
 大頭はそんな十騎男を見て溜息を吐く。
「こいつに、もっと堪え性があったらと思うよ。お前が十頭に残った方が良かったのかな」と与一に言った言葉が十騎男の心に刺さる。
「うがぁぁぁぁぁ!」
 もう、止まらなかった。大頭の言葉に対する怒りをも与一にぶつけるべく、十騎男は恐ろしく素早い身のこなしで突出した。
 だが武器は持っていない。素手である。与一の方は、お構いなく二刀流神斬りで対抗するが、相手の動きが早すぎて神斬りの切っ先が掠りもしない。
 その様を見て、「よし、よし」と小声で呟く大頭だったが、脇から菖蒲が自分を睨んでいる事には気付いていないようだった。
 一方、ぼろん坊は、与一と十騎男の私闘を冷めた眼で見ながら寿々を抱え上げ、独り言にしては大きめの声で独り言ちた。
「十騎男こそ、その戦闘力を究極にまで高めんがため、妖刀憑きに使った秘薬を長年与え続け作り上げた十頭の切り札じゃ。笛の音なんぞではなく、怒りが発動のきっかけとなるよう調整済み。まったく血も涙もない兄者よのぉ」
 大頭に対する当てつけに見せかけてはいたが、その余りにも説明的な内容は、他の目的を併せ持っているのは明白である。つまり、第三者に対するである。
 与一は、尚、翻弄されていた。一太刀も浴びせる事が出来ないまま、全身に拳や蹴りを受けている。急所は外しているが、何カ所かは骨折しているかも知れない。
 十騎男の動きは明らかに薬物の影響を受けている。たぶん妖刀憑きと同じ系統だ。とすれば、症状が発動する切っ掛けがあるはず。与一は、今しがた、ぼろん坊の発した『怒り』が切っ掛けという言葉を聞き逃してはいなかった。
 なぜ、ぼろん坊が不用意にそんな事を口走ったのか判らないが、今は、それを信じて打開策を立てるしかない。
 与一は、十騎男の攻撃をしのぎつつ辺りを探った。
 菖蒲を視界に捉える。
 先程から十騎男しか見ていない。姉が弟を思いやるというよりも、あからさまに一段色濃い視線だった。十騎男の身を案じ、顔面蒼白なのをを隠そうともしていない。ともすれば逆も真なり、十騎男もまた菖蒲に対して他の兄姉以上の気持ちを抱いている可能性が高い。
 与一は気付かれないように、じりじりと菖蒲の方に足場を移動していった。近すぎず、遠すぎず、微妙な距離まで詰めたところで菖蒲を背にする。同時に、自分の正面に十騎男が来るように。
 十騎男が、突進してくる。
 躱す与一。
 脇をすり抜ける十騎男。
 同時に、体勢として自分の後に位置している十騎男目掛けて、素早く神斬りの片刃を投げる。
 背中に眼があるかのごとく、避ける十騎男。予想通りの勘と反射神経である。
 が、「ぎゃっ」と短い叫びが辺りに響いた。
 声の方を見やる十騎男。その眼には、胸に神斬りの刺さった菖蒲が映った。
「菖蒲!」叫ぶ十騎男。
 顔が青ざめ身体が硬直している。筋肉が、一気に萎んだように見えた。
 与一はその隙を逃さない。いや、半ば予想していたその好機の為に古武道式の呼吸を整えて神斬りの片刃を腰だめに構えていた。
「ハァッ!」神魔威断の応用で、本来は腕に集中する力を足に振り向け、そのままぶつかるように十騎男の懐目掛けて神斬りを突き立てた。そうしないと、最早人間を殺すだけの力が神斬りに伝えられなかった。与一の身体は十騎男の攻撃を受けすぎていたのだ。
 折り重なるように倒れ込む与一と十騎男。
「戦っている最中もニヤニヤしてやがって、むかつく野郎だ」上になった十騎男が力無く言った。だが、グッタリと折り重なっている状態なのでお互いの顔は見えていない。
 与一は「地顔なもんで、すまんな」と無感動に返しながら、刺さっている神斬りを捻る。
 ぴくっと、十騎男が事切れた手応えを得た。脱力した身体の重さが与一を覆う。
「十騎男…」胸に神斬りが刺ったままの菖蒲が、ゆらゆらと近づいてくる。
 愛情故の執念か。しかし。もう与一には、覆い被さっている十騎男をはね除ける力が残っていなかった。
 菖蒲は自分の胸から神斬りを引き抜いた。血が噴水のように噴き出す。そんな事にはお構いなく、与一目掛けて神斬りを突き立てようと振りかぶった。 
 ゆっくりと、ゆっくりと、神斬りの切っ先が振り下ろされてくる。与一にはそう見えた。危機に際して人間の視覚は、そんな働きをするというが、これは違う。菖蒲の動きが実際に遅いのだ。
 ドンッ。緩慢な動きの菖蒲に高速の物体がぶつかった。
 吹き飛ばされる菖蒲。その衝撃で動かなくなった。
 その光景を目だけで追っていた与一は、命拾いをした事よりも、飛んできた物体が気になった。
 寿々だ。
「ぐわっ」
 息つく間もなく、今度は少し離れた所で悲鳴が聞こえた。先程まで十頭が並んで立っていた場所だ。
 与一は頭を廻らした。
 ぼろん坊が巨大な数珠の紐を打ち付け、大頭の頭を割っている光景が見えた。
 流石に驚く与一。
 ぼろん坊は、大頭の遺体の側でしゃがむと、その腰に吊してあった竹の筒を奪い取り上げていた。
 与一は、ほんの少しだが肢体に力が入るのを確かめた。十騎男の下で動かない時間を稼げたので、筋肉がほんの少しだけ回復していたのだ
 寿々とぼろん坊を各々視界の両端に収めながら、十騎男の遺体を自分の上からどける。
 寿々は、表情のない人形のように立ちつくしていた。やはり、妖刀憑きを応用した十騎男と同じ状態にされているようだ。操っている方法は、恐らく法螺貝の音だ。
 足元もおぼつかない状態で立ち上がる与一。
 ぼろん坊が、大股で与一との距離を詰めてくる。
 さすがにもう、この男と寿々の二人連携攻撃に対応する力は残っていない。与一は、生まれて初めて絶望を感じた自分に気付いた。ただし、それは死ぬ事に対してではない。寿々を火夜の元に返せぬ自分の不甲斐なさに対する絶望であった。
 神斬りの片刃を構える与一。菖蒲の遺体からもう一方を回収する余裕がない。
 ぼろん坊は、身構える与一にお構いなく、大頭から取り上げてきた竹筒をぐいっと差し出した。
「この中に御宸翰と御製が入っている」
 与一は、一瞬、ぼろん坊の意図が分からなかった。いや、先程から行動が全く意味不明である。 
「わしと組め、与一。いや、武田の血脈、会津の後継者よ」
 成る程、「そういうことか」と、与一は理解した。
 ぼろん坊の眼を見つめる。瞳の奥底まで穴が開くほど値踏みした。が、その眼力に淀みなく、誠に真剣な言葉のようだった。
「なぜだ」与一は、一直線に問うた。
 ぼろん坊は一頻り苦笑いをしつくしてから、ゆっくり口を開いた。
「養父・西郷頼母が、何故にわしを養子にとったのか。単に見誤ったのか、それとも何らかの意図があったのか、それは知らん。だが、わしは生まれながらの罪人だ。元々会津の門閥とはいえ傍系も傍系の小さな武家の子として生まれ、餓鬼の頃からやりたい放題。血は好む。快楽は貪る。挙げ句の果てが勘当同然に出家させられ、八つの時には仏門の徒って寸法だ。寺の隅っこで腐っていた処に突然、頼母の使いが現れて俺の力が欲しいと抜かしよる。まあ、腕っ節と悪知恵だけは誰にも負けぬ自負はあったがな。武田の悲願だの会津の怨念だのは心底どうでも良かったが、天下取りは何とも魅力的だったよ。だが、仲良くしろと引き合わされた義兄姉とかぬかす連中は偏った堅物とか色惚け揃いと来てやがる。何が会津の隠し刀だ。それでも天下さえ取れば後は何とでもなると大人しくしておれば、揃いも揃って無能と来てやがる。挙げ句の果てに訳のわからん南蛮人と手を組むとか言い出すわ、とてもじゃないが、付き合いきれん!」
 ぼろん坊は、途中から虚空に向かって吼えていた。自ら発した言葉に怒りをぶつけていたようだった。が、しきりに頭を振り感情を押さえ込むと、一度切ってしまった与一の視線を探して、再び真っ正面から見据えて言った。
「…では、理由にならんか?」
 人が本気で事を為そうとする時、その原動力が論理的な理屈である事の方が希だ。好き嫌いは、結局、全てに優先する。
「実に腑に落ちる理由だが」与一もぼろん坊の視線を真摯に受け止め真っ直ぐに答えた。「寿々は絶対に返して貰う。それは取りも直さず、御主が火夜と寿々にした仕打ち一切を許さんという事だ。ただその一点に於いて、お前に組みするは詮無き事と知れ」
 ぼろん坊は、再び、与一の視線を切った。空を見上げる。「そうか、どこか似たもの同士と思っていたが…」手首の数珠を『じゃら』と鳴らした。「残念だ」
 ハッと振り返る与一。寿々が、飛び掛かって来ているのが目に入った。
 不覚にも、発動音を法螺貝から変更している可能性に考えが及ばなかった。そういえば、先刻、寿々が菖蒲にぶつかった時にも法螺貝の音はしていない。
 寿々の手に握られているのは、刃の大半が失われ、鉈くらいの大きさになった刀喰い・焼写である。しかし、それでも急所に入れば致命傷となるだろう。
 与一は、もはや反応出来なかった。肉体的にも、精神的にも。が、いきなり視界が何かに覆われ真っ暗になる。同時に、肉に刃物が刺さる音がした。
「寿々…」火夜の声。
「火夜!」与一の叫び。
 火夜が、寿々と与一の間に割って入り、もはや残骸と化している刀喰い・焼写をその身に受けていた。 
 愕然とする間もなく、また背後で気配がする。
 ぼろん坊が、あの大数珠を振りかざしていた。
 今度こそ、与一には防ぐ手段が無い。
 銃声。
 数珠の先端が与一に届く直前で、ぼろん坊の体躯が横に飛ばされた。
 地面に転がったぼろん坊から、ぐるりと視野を半周回す。
 血塗れで立つ羅刹が見えた。左腕を前に伸ばしている。先からは硝煙が立ち昇っていた。レオニダを退けて駆けつけたらしい。
 それよりも、与一は火夜を抱き上げた。側には、惚けた寿々が立っている。
「火夜! 火夜!」叫ぶ与一。
「…うるさいよぉ。いっちゃん」眼を瞑ったまま喋る火夜。「何とか勝ったけどさ、あの異人の娘っこ。強いの何の、ほら」と、右手に握っている元は刀喰いの柄だった棒を見せる「さーすがに刀喰いでも、柄は普通の木だもの。そこを狙われちゃった。今度戦う時は気を付けなくっちゃ…」
 それっきり火夜は喋らなくなった。
 与一がもう一度呼びかけようとした時、火夜の瞼に涙が滲んだ。
 それが切っ掛けのように再び眼を開いた。先程までの力無い視線でなく、カッと見開ひらかれている。
 驚く与一。
 火夜は、魅入られたように寿々を見つめる。
「寿々」
 一言、それまでの羽音のような声とは比べものにならないハッキリとした声音で寿々を呼んだ。
 寿々は、それでも惚けたままだったが、火夜は満足そうな笑みを浮かべると与一に視線を移して言った。
「いっちゃん、御免ね。寿々が、いっちゃんの子じゃなくって。それだけが心残りだった。よかった、最期に言えて」
 そのまま戸が閉まるように、ぱたっと目を閉じる火夜。
 三度、その意識が蘇る事はなかった。
 与一が視線を上げると、立ちつくしたままの、人形のような表情のままの寿々の瞳に涙だけが溢れていた。
 与一は、寿々を抱き寄せると火夜の亡骸と両方を抱きしめた。
 そのまま、短く永い、動かない時間が流れる。
「こいつは、どうしょうかのぉ」と、その静寂を断ち切るように、いつの間にか彼等の側に立っている羅刹の言葉が
与一の意識を呼び戻す。
 与一の目には、右手に御宸翰と御製が入った竹筒を持った羅刹が映る。ぼろん坊から回収したのだろう。
「何故聞く? それの回収は戮の任務だろう」と与一。
 右手が塞がれているので、左手の銃口で頭を掻く羅刹。
「なーんか、十頭社中が壊滅したら戮も無くなるそうじゃけ、だったら、もうお前は戮士じゃねえってことじゃ、任務は反故じゃろう」わざとらしく顎に手を当て「じゃったら、これの持ち主は会津に関わり有る人間と言う事じゃ」
 何とも当てこすりなへ理屈で、くいっ、くいっと与一に向かって顎をしゃくる。
「俺に十頭の後を継げと?」
 羅刹の、まるで権力に対する耐性でも試しているようなに、与一は困惑した。
 人の欲望というものは、なんとも唐突で果てしないのだ。羅刹は身に染みていた。だが、ここで与一が権力欲に目覚める様なら、それはそれで面白い将来を羅刹は思い描いていた。
 少なくとも、十騎男と瓜二つの顔をした与一が、御宸翰と御製を手土産にして現れるような事になれば、西郷頼母を始めとする会津幕府の開府勢力にとっては渡りに舟。拒絶するとは考えられない。
 だが…。
「なんで?」
 与一は、にべもない。
 羅刹は苦笑いをしながら首を振った。その様子に、益々怪訝な顔をする与一。
「まあ、本家本元の持ち主に返すのが、筋かの?」
「太政官に渡さないのか」
「今の政府に都合の良い事だけが、日本の為になるとは限らんきに」
 そう言いながら、与一が抱き抱えている火夜の亡骸に手を合わせる羅刹。
 顔を上げると惚けている寿々の頭を撫でた。
「日本の為ね…」
 与一は、岩倉使節団と同道する為に上海を発つ日の朝、何故そこまでして国の為に尽くすのかと、羅刹に尋ねたのを思い出した。
 羅刹は、なんとも明快に答えたのだった。
『自分の為に生きるには人生は短すぎる。何せ人間の欲には際限がないけのぉ、死ぬ時、必ず後悔する。あれもこれも出来んかったとな。じゃが、世の為人の為にと割り切って生きてしまえば、やるだけやったと妥協するのも簡単じゃろ、何せ、しょせん他人事じゃ。それじゃと後悔せんでええ。最期くらい、すっきり逝きたいじゃろうが』
 羅刹に、利己的利他的などという価値観は存在しない。どちら重きを置こうとも、その結末は立場や視点の違いでいかようにも変質してしまう。だから彼の関心は自分の欲望にしかない。自分の近しい者の為に日本を良い国にする。例え、その為に手を血に染めようとも。それだけだ。
 それが結果的に、国の為に砕身した人間と世間に評されようとも、手段を選ばぬ無法者と蔑まれようと、本人は全く意に介さないのだろう。今思えば何ともこの人らしい、しなやかな思考なのだろうと思う。
 だが、自分には無理だ。顔に偽りの笑顔が張り付いて、人の感情を空虚に真似ているだけの人間の抜け殻には、とても到達できない境地だと、与一は思った。
「何、深刻な顔しとるんじゃ」羅刹が言った。
 深刻な顔? そういえば今まで云われた事無いな、と、与一は思った。
「どんな笑い顔なら、深刻そうに見えるんだい」と返す与一。
 羅刹は、わざわざ与一の正面に回り込んでから「お前、笑っとらんぜよ」と、上海で初対面の時と同じように、しげしげと与一の顔を眺めながら言った。
「えっ?」と、無意識に鏡を探す。が、こんな場所に有る訳がない。
 すると羅刹が海を指さした。与一は、その意味を察して桟橋から海を覗いた。
 丁度、空が明るかったので姿が海面に映った。波に揺れて歪んでいる顔は、しかし確かに笑っていない。
 何時から笑っていなかったのか自覚がない。十騎男と戦った時は笑っていたはずだ。十騎男がそう云って罵ってきたのだから。
 寿々を抱え上げながら羅刹が言った。
「こん子が泣いた時は、笑っちょらんかったぞ」
 それは十騎男との戦いの最中に起こった事だ…寿々は何故泣いたのだっけ…。
 ああそうか、火夜が死んだんだ。
 そう思い当たった途端、眼から涙が吹き出してきた。
 生まれて初めて本当に泣いている。そう自覚した。話しには聞いていたが、胸が締め付けられて痛いとは、本当に起こる事なのだ。
 恥も外聞もなく声を上げて泣いている与一に、羅刹が寿々を押しつけてきた。
 泣きながら、慌てて抱きかかえる与一。 
「ほんに、ちゃんと収まる所に収まるもんじゃ」
 羅刹は、寿々の無表情な顔を指さしていった。
「こりゃぁ、誰かさんそっくりじゃ、与一二世じゃのぉ」
 嗚呼。俺は人の為に生きられるかどうかは判らないが、とりあえず、この子の為には生きられる。
 与一は実感した。
 悲しみのどん底から一転、得も知れぬ高揚感を自覚する。
 その時、羅刹が与一の背中をバンッと叩いて言った。
「良え笑顔じゃ」
 与一は驚いた。
 なぜなら、自分が笑顔だと聞かされた事に、生まれて始めて喜びに感じているからだ。

 桟橋に止まっている大きな上陸船の甲板に立って、その一部始終を見守っていたギルトとパールは、一度だけ互い顔を見合わせてると上陸船内に消えていった。
 同時に出港の汽笛が鳴り、彼等を乗せた上陸船は桟橋を離れていく。
 他の船も荷を港に残したまま、兵員だけを急ぎ回収しすると、その後を追うように出向していった。
 与一と羅刹は、港外に停泊していたイルミナティの艦隊が水平線の向こう側へと消えるまで、閑散とした港の桟橋に佇んでいた。

 東京郊外、南千束。
 勝邸の前に、豪華な装飾を施した二頭立ての馬車が、その優雅な外観とは裏腹に、無秩序な地響きを立てて横付けした。
 停まると同時に客車から飛び出してきたのはトーマス・グラバー。
「勝サーン」
 大声で叫びながら、呼び鈴もノックも無しで玄関に飛び込むと、靴を脱がずに玄関を上がり、二、三歩進んだところで気が付いたのか、その場で靴を脱ぎ土間へと投げた。
 その一部始終を廊下の奥から見ていた勝は、「どうしたね。そんなに慌てて」と呑気な声を掛けた。用件は察しがついているのだ。
「イッチャンさんがヤリマシタよー。十頭ノ連中をブットバシテ、いるみなてぃハばいばいデース。アト、羅刹モ頑張ッタデース。電報キマシタ」
 イッチャンさんが与一の事だと直ぐには気づかず、返事に変な間の空いてしまった勝だったが、グラバーを客間に招き入れた。
「あなたの意見を聞いて、あの二人を信じてよかった。これでグラバー商会を潰してまで明治政府に投資した甲斐があったです。日本は民主国家へまっしぐらでーす。」
 グラバーの日本語がだんだん聞き取り易くなったきた。それが本音で喋り始める合図だと知っている勝は、自ら入れた番茶をグラバーに勧めながら言った。
「それで、トーマスさんは、これからどうするつもりなんです?」 
 何とも大雑把な質問だったが、その方がグラバーに回答すべき事柄の取捨選択が委ねられると勝は判断した。
 実のところ、戮の創設以前から江戸無血開城以降の日本の行く末について勝の心内に描いた図面は決まっていた。その最後の一枚である戮による旧会津勢力の排除が成った今、トーマス・グラバーの動勢が今後どうであろうと、勝にとっては一切預かり知らぬ事であった。
 だが、これまでの助勢に対して余り無下にも出来ないのも確かである。
「私は、大好きな日本で、こぢんまりした商売をしながら、つるさんと仲良く暮らしていくのか夢デース」グラバーが答えた。
 まあ、そうだろうな、と勝は聞き流した。しかし、グラバーは声を潜めて続ける。
「しかし、わたしの親会社ジャーディン・マセソン商会は、そんなに甘くありません。今のところ武器の売り買いで大儲け大丈夫ですが、いざとなれば英国政府たきつけて、戦争仕掛けてきます。チャイナのように阿片づけ、ありうる話しでーす」
 勝は、少し考えて答えた。
「今の太政官にいる連中は優秀ですよ。彼等に任せておけば大丈夫」
 グラバーも、半ば期待してた通りの返答に満足して聞き返す。
「勝さんは、どうするのですか?」
「引退です。人の一生五十年。わたしは、もうすぐ六十ですよ。いい加減ゆっくりしたい。トーマスさんとおなじです。日本も幕府から明治政府に代替わりした。表舞台に立つ人間も入れ替わらなくちゃね」
 グラバーは、うんうんと頷いていたが、突然何かを思いだしたのか、弾かれたように勝に詰め寄ってきた。
「イッチャンさんと羅刹さんはドウなるのですか? 勝さんが三条さんに罪人は始末だ、と云ったらしいですガ」
 最後の「ガ」に悪意を感じながら、女房に惚気たり隠居生活だとうそぶいたりしていても、「そうだった。トーマス・グラバーは食えない人だったな」と勝は苦笑した。世界を股に掛けた貿易商人。まだ概念すらない日本に存在しない情報戦というものに於いて、この人に勝てる人間は存在しないだろう。
「彼奴等が、おめおめ牢屋に入っていると思いますか?」
 勝は簡潔に応えた。 
「デスヨネー」
 グラバーの口調が、ひどい外人訛りに戻ったのを勝は心地よく聞いたのだった。

 一年後、長崎のグラバー邸でガーデン・パーティが開かれていた。日本人、外国人を問わずグラバーが商売で取引をしている賓客が集まっている。
 パーティの余興に、小さな女の子を助手として連れた紙切り芸人の寄席が行われていた。演目が書かれた段幕には『紙切り芸 気楽亭おもちゃ』と書かれている。
 紙切り芸は、子連れの客に大人気だった。 
 時を同じくして、世間を賑わせていた話題の一つに、義賊『真・新撰組』がというのがあった。その語呂の悪い賊名の頭目は、左手に西洋ピストルを仕込んだ土佐訛りの男という。
 余談だが、明治二六年、元会津藩藩主・松平容保が薨去こうきょした際、いつの間にか、その枕元に置かれていた竹筒には、松平容保が孝明天皇から賜った御宸翰と御製が収まっていたという。
 それは長く行方不明になっていた物を、松平容保の屋敷に押し入り、偶然手に入れた真・新撰組の頭目が、扱いに困って置いていった、という風説が長く巷に流布されていたが、その真相はついぞ明らかにされる事はなかった。

 日本刀とは、日本独自の鍛刀法で製作した鉄製の刀剣類を指す。遠く古事記、日本書紀の時代から数々の名刀が歴史に登場する。
 時は流れ、天下泰平、徳川の御世、変貌する日本に於いて、日本刀の需要は極端に減っていった。しかし、『天目一箇命あめのまひとつのかみ』を刀匠の祖神と仰ぎ、以来、連綿と受け継がれた実戦刀を鍛える機会に窮した数多の刀匠達が、己が技巧の朽ち果てるを恐れ、奥義のすべてを注いで作り出し業物。その多くは、御上の目を逃れるために日用道具を模されて民草のあいだに下野された。
 すなわち、野刃である。
 野刃は、各々の刀匠が持つ最高の業が集約された傑作揃いとなったが、その様な武器が、一般人に流通する事は文明国家の沽券に関わる。故に、明治政府は野刃の回収に心血を注いだという。
 その一方で、明治政府は、誕生間もなく未熟な警察や司法制度に代わり、政府の直属機関として政治犯や凶悪犯の処分を遂行する秘密組織の運用を目論んだ。
 組織の名は『戮』。
「戮す」則ち「罪ある者を殺す」を意味する組織の構成員は「戮す士師」転じて<戮士>と呼ばれていた。
 しかし、廃刀令の建前、秘匿の公僕である戮士の武装に日本刀を帯刀させられない。そこで一計されたのが、皮肉にも回収した野刃を所持させるというものだった。
 任務完遂のために特認された殺しのライセンス、<人切り鑑札>と共に。
      
 しかし、明治維新後の混迷期、確かに日本の命運を担い活躍した彼等の名は、その象徴である野刃の存在と共に、後世において語られる事はない。
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