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観覧車の終点、中天の星

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 月の近いところに、宵の明星が薄っすらと瞬いている。
 夜と夕方の隙間に街灯の灯りが漏れ出していた。
 僕らはその下に佇んで、帰るでもなくくだらない話をしていた。

「いつ撮ったんだ、そんな写真」
「えー、アタシが立ち上がったときっスよ~」
「消せ」
「いやっス。レアもんっス」

 観覧車の中で目をつむる僕を収めた写真を消すよう交渉していると、氷雨の表情がわずかに曇った。
 視線を追いかける。
 僕の後ろ。振り返った少し先に、見覚えのある少女が立っている。
 蹴られた右手が、微かな熱を帯びた。

「あれが牟田か」

 つぶやくと、視界の端でワインレッドの頭が縦に振れる。
 牟田と目が合う。黒い瞳の奥には何も映っていない。
 氷雨は怯えているようだった。僕は彼女を牟田の目から隠すように背に庇う。

「僕のかわいい後輩に、何か用かな?」

 顎を引く。眉根に力を込めて、声音を低く落とす。
 わかりやすく威嚇しても、牟田は胡乱な目を僕らに向け続けた。

「あー。なるほど」

 ゾッとするほど感情のない声だった。
 人間の声というよりも、機械の出力した音だと言ったほうがしっくりくる。
 それが、真夏の夕暮れ時に嫌に響く。
 僕らだけが夏なら置き去りにされているような、不穏な空気だった。
 僕はとっさに身構える。逆立ったうなじの毛先が、常に何かに触れているような感覚。
 頭のおかしい人間を眼の前にした時と、同じ危険信号を脳が発していた。

「なんだ、もう取り巻きはいないんだな。愛想を尽かされたらしいね」

 発破をかけながら、牟田の動きに神経を尖らせる。
 喧嘩は若ほど慣れていない。自分から殴りかかったことだって、数えるほどだ。
 それでも牟田が漂わせる不穏な空気は、「手を抜けない」という緊張を僕に植え付けていた。
 慎重ににじり寄る。
 あと一歩で足が届く距離に入る。
 踏み込んだ足をゆっくりと抜く。そして地面を踏み込む瞬間──

「にっげろ~!」

 底抜けに明るい声が緊迫感を打ち壊して、僕の体が後ろに引かれた。
 氷雨に手を引かれて走り出す。隣に並んだ氷雨は、どこか晴れやかな笑顔で走っている。
 訳もわからずに僕は振り返る。
 牟田はその場で立ち尽くして、走り去る僕らを見送っていた。
 ビルの角を曲がって牟田の姿が見えなくなっても、不気味な笑顔がずっと頭から離れなかった。
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