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観覧車の終点、中天の星

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 氷雨とは彼女のアパートの前で別れた。
 以前彼女が訪れた時には遠いと聞いていた家も、想像よりは遠くない。距離にして三キロも離れていなかったから、歩いて家まで送っていた。

「じゃあ、よぎセンが帰る頃にはメッセ送れてると思うんで」
「わかった。たぶん何があっても、僕は鼻で嗤うだろうさ」
「ちゃんと返信はしてくださいよ」

 氷雨が唇を尖らせる。
 それから思いついたように僕を見上げた。

「さてさて。アタシたちはここで今日はお別れな訳ですが」
「ああ。次は学校で、だよな」

 ちっちっち、とたおやかな指先がコミカルに揺れた。
 氷雨の唇がにゅっと突き出される。僕は意図が読めずに混乱した。

「タコ……?」
「ぶっとばしますよ朴念仁。ちゅうっスよ、ちゅう!」

 氷雨がぽかりと僕を叩く。
 力の抜けた、縋りつくように弱弱しい手が僕の胸元を伝う。
 扉を背に、繊細な造りの顔は伏せられていた。僕はその顔を覗き込もうとはしなかった。
 視界の端では、宵の明星が瞬いている。
 長い時間を沈黙で語って、氷雨はもう一度僕を見上げた。

「アタシ、勘違いしてもいいっスよね。今日の、デート」

 彼女の声は震えて、消え入りそうなほど霞んでいた。
 きっと暑い夏でも、震える夜はあるのだろう。だったらせめて、素敵な夢を見られたらいい。僕は彼女の肩にそっと手を置く。
 まだ蒸し暑い夏夜の奥で、見たこともない虫がジーと鳴いている。単調な音は古い映写機のようだった。
 演目の一つが終わって、途絶えて、また再開して。ちょうど誤魔化してしまった恋心のように。
 そっと胸元に彼女の頭を押し付けて、細い体の震えに寄り添っていた。

「返信。楽しみにしてますから」

 濡れた声が胸元で曇っていた。
 僕は笑って、同じくらいの小さな声でうなずく。

「ああ、わかった」

 そうして五分ほど、僕らは体温を共有してから別れた。
 空から宇宙が降ってきたような、暗い夜のことだ。
 僕はその日、ヒーローが怪物になった瞬間を知ることになる。

 街灯のほとんどない、夜の暗いところを歩いていく。
 少ない光源は家の灯りと、口元をぼんやりと照らす咥えタバコだけ。想定外の遭遇もあって、出来るだけ広い道を通って帰る。
 家につく頃、氷雨からメッセージがあった。
 長い文章だ。けれど何度も推敲して投函した手紙のように、とても丁寧に書かれている。
 寝間着に着替えてからタバコを取り出して、僕はメッセージを開く。
 文面は今日のお礼から始まっていた。

《今日は有り難う御座いました。楽しかったです。本気で水族館の飼育員目指してみようかな、とか思っちゃったりしました》

 ふと、彼女に手紙を書いてみたいと思った。
 氷雨がどんな字を書くのか、苦手な漢字はあるのか。言葉使いから漂う空気感は暖かいのか、冷たいのか。その一つ一つを噛み締めて、彼女と手紙のやり取りをしてみたかった。

《それで、ここからが本題。アタシが人殺しになった原因の、同級生の話です》

 ページを下に送ると、本題に入る。
 氷雨が自殺させた男子生徒について。その書き出しは簡潔にまとめられていた。

《アタシは彼が死んでいくのを、ずっと眺めていました》

 始まりは入学式の後でした、と文章は続く。
 これは長く、丁寧で、だからこそ吐き気を催すような英雄譚だ。
 変身も必殺技も使えないヒーローがいたとしたら、行き着く先は悲劇しかない。
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