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死に損ないの六月、折られた傘
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氷雨とはそれからしばらく話をした。
僕はいじめについての言及を。氷雨はそれをかわして、学校の話を覆い被せてくる。
若は一年生の間でも人気らしい。
なんでも密かにファンクラブまで設立されたとか。
氷雨がストローをタバコみたいに咥えて唸る。
「怖いっスよねーガチ恋勢。アイドル扱いしてるのに恋愛対象にしちゃうって、なんか矛盾してません?」
若がアイドル。
字面のインパクトが強すぎる。思わず吹き出した僕に、氷雨がニンマリと笑った。
「やーっと笑ってくれた。仏頂面より笑ってる方がいいっスよっ、笑顔笑顔ー!」
「表情筋が乏しくてね」
「もう指で笑えばいいじゃないッスか、ほらほら」
氷雨の細い指が口角を吊り上げる。僕はその額を軽く弾いた。
「心からは笑えないよ。君が心配だからな」
「なんすか急に~。アタシ別に赤点とかないっすよ?」
「誤魔化すなよ、この期に及んで」
玄関の傘立てを指差す。
そこに立てられた氷雨の傘は、リビングからでも歪みがはっきり見えた。
「いじめの話をしてるんだ。僕は最初、君に「嫌なことでもあったのか」と聞いた。そして君はそれに「例えば?」と聞き返した。本当に何もないなら、その場で否定してもおかしくなかったはずなのに、だ」
彼女のグラスは半分が空になっていた。
涙を流したグラスの水面で、反転した氷雨の顔が歪んでいる。
視線を戻す。彼女の表情が変わっている。
困ったような、悲しんでいるような。それは氷雨が僕に対してよく見せる、弱々しい笑顔だった。
「いじめかどうかは、アタシにとって大したことじゃないんスよ」
「それは、どうして?」
結論さえもすっ飛ばして、次の話題に移ってしまったような違和感があった。
それでも僕は何かしらの答えを得ようと、氷雨の言葉に耳を傾ける。
彼女は見た目よりもずっと理性的な人間だ。その彼女が回答の第一声としてそう言ったのなら、きっと結論は別にあるのだろう。
雨音が塗り固めた沈黙を剥がすようにして、氷雨は一度伏せた顔を上げた。
「牟田ちゃんのヘイトは、今アタシに向いています。よぎセンでも、カモりやすい他の誰かでもありません」
言葉を並べる度に、氷雨の視線が足元に零れていく。
僕は何度も溜め息を堪えて頷く。彼女の弱い声には微かな震えが混じっていた。
「だから、アタシが頑張ればいいんです。そうすれば、みんなは平和に暮らせます」
僕はもう溜め息を殺さなかった。
肺の底から抜けた空気が口腔を通過して、力んだ全身から力を抜き去っていく。
「ヒーローのつもりか、君は」
僕は落胆していた。
まるで子供だ、これでは。何の解決にもなっていない、ただのやせ我慢じゃないか。
しぼんだ肺に空気が溜まるまで目をつぶって、僕は氷雨を睨みつける。どれもが台本染みたテンプレートだらけの人生で、数少ない本心からの怒りだった。
「変身も出来ない、必殺技も使えない。そんな君がヒーローになれるとでも思っているのか?」
瞳の震えが止まって、氷雨が真っ直ぐ僕を見据える。
「はい。どんな人だって、信念があればヒーローになれます」
「それで君一人が不幸を背負って、「周りの皆はそこそこ幸せに見えます」って? 幸福に平均値を求める気か。それで君が幸せになれなきゃ意味がないんだよ」
「みんなの幸せが、アタシの幸せってことです」
とっさに詰まった呼吸が、僕の視界を狭めていく。
ひりつく喉の奥から引きずり出した言葉は、無様に震えていた。
「どうして、その「みんな」の中に、君はいないんだ」
氷雨とはそれからしばらく話をした。
僕はいじめについての言及を。氷雨はそれをかわして、学校の話を覆い被せてくる。
若は一年生の間でも人気らしい。
なんでも密かにファンクラブまで設立されたとか。
氷雨がストローをタバコみたいに咥えて唸る。
「怖いっスよねーガチ恋勢。アイドル扱いしてるのに恋愛対象にしちゃうって、なんか矛盾してません?」
若がアイドル。
字面のインパクトが強すぎる。思わず吹き出した僕に、氷雨がニンマリと笑った。
「やーっと笑ってくれた。仏頂面より笑ってる方がいいっスよっ、笑顔笑顔ー!」
「表情筋が乏しくてね」
「もう指で笑えばいいじゃないッスか、ほらほら」
氷雨の細い指が口角を吊り上げる。僕はその額を軽く弾いた。
「心からは笑えないよ。君が心配だからな」
「なんすか急に~。アタシ別に赤点とかないっすよ?」
「誤魔化すなよ、この期に及んで」
玄関の傘立てを指差す。
そこに立てられた氷雨の傘は、リビングからでも歪みがはっきり見えた。
「いじめの話をしてるんだ。僕は最初、君に「嫌なことでもあったのか」と聞いた。そして君はそれに「例えば?」と聞き返した。本当に何もないなら、その場で否定してもおかしくなかったはずなのに、だ」
彼女のグラスは半分が空になっていた。
涙を流したグラスの水面で、反転した氷雨の顔が歪んでいる。
視線を戻す。彼女の表情が変わっている。
困ったような、悲しんでいるような。それは氷雨が僕に対してよく見せる、弱々しい笑顔だった。
「いじめかどうかは、アタシにとって大したことじゃないんスよ」
「それは、どうして?」
結論さえもすっ飛ばして、次の話題に移ってしまったような違和感があった。
それでも僕は何かしらの答えを得ようと、氷雨の言葉に耳を傾ける。
彼女は見た目よりもずっと理性的な人間だ。その彼女が回答の第一声としてそう言ったのなら、きっと結論は別にあるのだろう。
雨音が塗り固めた沈黙を剥がすようにして、氷雨は一度伏せた顔を上げた。
「牟田ちゃんのヘイトは、今アタシに向いています。よぎセンでも、カモりやすい他の誰かでもありません」
言葉を並べる度に、氷雨の視線が足元に零れていく。
僕は何度も溜め息を堪えて頷く。彼女の弱い声には微かな震えが混じっていた。
「だから、アタシが頑張ればいいんです。そうすれば、みんなは平和に暮らせます」
僕はもう溜め息を殺さなかった。
肺の底から抜けた空気が口腔を通過して、力んだ全身から力を抜き去っていく。
「ヒーローのつもりか、君は」
僕は落胆していた。
まるで子供だ、これでは。何の解決にもなっていない、ただのやせ我慢じゃないか。
しぼんだ肺に空気が溜まるまで目をつぶって、僕は氷雨を睨みつける。どれもが台本染みたテンプレートだらけの人生で、数少ない本心からの怒りだった。
「変身も出来ない、必殺技も使えない。そんな君がヒーローになれるとでも思っているのか?」
瞳の震えが止まって、氷雨が真っ直ぐ僕を見据える。
「はい。どんな人だって、信念があればヒーローになれます」
「それで君一人が不幸を背負って、「周りの皆はそこそこ幸せに見えます」って? 幸福に平均値を求める気か。それで君が幸せになれなきゃ意味がないんだよ」
「みんなの幸せが、アタシの幸せってことです」
とっさに詰まった呼吸が、僕の視界を狭めていく。
ひりつく喉の奥から引きずり出した言葉は、無様に震えていた。
「どうして、その「みんな」の中に、君はいないんだ」
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