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彼女の世界に近づくために

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 手駒はまだ戻っていない。今さらは僕の犯行を警官に知らせているのかもしれないけれど、最早どうでもいい。
 後は、が計画を進めてくれる。

《アンタ今どこ》

 手駒の少女からメールがあったのは、ガラスで切った左足の処置を終えた時だった。
 僕は家を出る準備の傍らで返事を打つ。

《まずは君の位置から教えてくれ》
《家》
《そこに至るまでの経緯は》
《警官にマンションまでの道を聞く→牟田ちゃんについて聞く→何も教えてもらえなかったから、代わりにアンタが牟田ちゃんをやったんだって教えて来た。それだけ》

 思ったよりも事態の進行は遅いらしい。警官は手駒と別れて交番に戻るまで、裏口の犯行現場を知らなかったということだ。
 僕は口を歪めて返信する。

《悪いけど、居場所を教えるわけにはいかないな。僕は潜伏中で、もうあの家にいないんだ》

 もちろん嘘だ。今日中に家を空けるつもりではあるけれど。

《報酬は郵便箱に入れてある。331で開くから、君と弟君はそれで自由になる》
《いらない。そんな汚い金》
《そう言うなよ。もう僕に財布はいらないんだ》

 しばらく返信はなかった。
 僕は銀行のカードだけポケットに突っ込んで立ち上がる。
 こちらの意図を探るような沈黙が、携帯から流れてきた。締め切った部屋の外から漏れ入る蝉の潮騒と、静かな呼吸の音だけが空間に寄り添っている。
 ややあって、短いメールが届く。そこには警戒心を剥き出しにした言葉があった。

《何が目的なの?》

 僕は必要最低限の生活物資を詰め込んだリュックを背負って、玄関に座り込む。
 三足しかない靴の中から長距離の移動に耐えられそうなものを選んで、靴紐を結ぶ。そして返信を打った。

《氷雨を懲らしめるためだ》

 送信に指をかける前に、交番から盗んだ武器に手を添えて、それから本文を全て削除する。

《別に、警察が嫌いなだけだよ》

 どちらも嘘ではない。けれど本当のことも言っていない。
 計画は僕の手を離れている。詳細を把握しているのは僕だけで、そのほんの少しだけ後に、全てを知った氷雨が絶望すればそれでいい。
 メールを返した後は携帯の電源を切って、家を出た。
 適度に監視カメラのある通りを歩いて、空が青いうちに山へ入る。
 草木に腐葉土、虫に動物。濃密な夏の匂いが、容赦なく鼻を突く。
 今まで街路樹や家の壁から聞こえていた蝉の声は、もうどこで鳴いているのかすら分からない。
 あまりにも近すぎるところで反響するヒグラシは、僕の胸を寂寥感で満たしていた。
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