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君の手を握る時に想うこと
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氷雨が一度何かを考えるような沈黙を挟んだ時、僕はずっと気になっていたことを彼女に訊ねた。
「どうして、牟田を殺そうとしたんだ?」
「……ああ」
深い傷口に触れたときのように、氷雨は笑顔は苦しげだった。
「あれは、っスね」
きっとその両手が、階段から牟田を突き落としたのだろう。
氷雨は自分の両手をぼんやりと見つめながら、取り返しのつかないことをした時のような顔で言う。
「ケジメっスよ、アタシなりの。そして何より、晴悟くんに嫌われるためでもありました」
「僕に?」
数秒たって、氷雨がうなずく。
「アタシね、また晴冴くんに恋がしたかったんスよ」
「恋」
それは何度も聞いて、何度も体験してきた生理現象の名前ではなかった。
どこかで聞き覚えがあって、けれど意味を聞いてみれば全くそれを知らなかった時のような。そんな違和感があった。
「でもそれには、どっちかの愛結晶が邪魔です。だから距離をとって、晴冴くんにアタシへの気持ちを忘れてもらおうと思って」
ふざけるな、と思った。
それでは結局、自分だけが変わらないでいようとしているんじゃないか。僕には変化を求めて、自分だけが停滞した感情の中で安心しようとしてたんじゃないか。
氷雨は目尻に涙を浮かべて、けれど吹っ切れたような顔で笑った。
「でも、ダメでした。やっぱり晴冴くんみたいな人、この先も見つけらんないや」
この少女は、誤魔化し笑いがよく似合う。
自分の中の怒りも悲しみも、全部を無理矢理塗り潰したような、見せかけの笑顔だ。
もし彼女がつけた笑顔の仮面を、心の感じる通りに崩してしまえたなら、どんなにか素敵なことだろう。けれどそんなことが出来ないのは、ずっと前から知っている。
「ああ、見つからないだろうね。君はもう取り返しのつかないことをしてしまったから」
僕は彼女の涙を指で拭って言った。
「だって、僕達は殺人鬼なんだ。それぞれが違う場所で、違う人を殺してきた」
氷雨がうなずく。
僕は続ける。
「ここから先も、きっと殺してしまう。望む望まないに関わらず、僕らの愛情は人を殺してしまう」
蝉の声が僕らを包んでいた。
夏の朝に漂う澄んだ空気をいっぱいに吸い込んで、僕は「だから」と言葉を区切る。
その言葉を伝えるには、どんな愛の言葉を囁くよりも勇気が必要だった。
「僕達が一緒になろう」
もう誰も殺さないように、誰にも愛情を向けなくていいように。人殺しの僕らが、死の瞬間まで寄り添いあって生きていく。
氷雨は初めてそのヘーゼルの瞳を大きく見開く。
笑顔を忘れて、頬を赤く染め、けれどすぐに理不尽な現実を思い出して。そして、泣き出しそうな顔を足元に向けた。
「でも、でも。愛結晶があったら、また晴冴くんを──愛したいって、思っちゃうっスよ。絶対」
ばらりと垂れた髪の奥から、涙に沈んだ瞳が僕を見上げる。
「その時は、どうするんスか……?」
「ああ、その時は」
もう迷う必要はなかった。
宙ぶらりんな氷雨の手をそっと取る。冷たい指先を解すように指を絡める。
触れ合う葉の匂いや、眩い木漏れ日が、僕らを柔らかく山に含んでいた。
頬を染めた氷雨に、たぶん、僕は笑ったのだろう。
「──君の手を握るよ、精一杯。強く、強くね」
空いた腕でゆっくりと、けれど力をこめて胸元に抱き寄せる。心臓がドクンと嫌な音を立てた。
「それも、いいっスね……」
顔を見せないようにうつむいたまま、氷雨が僕を抱き締め返してくる。
頭を撫でてやっても、握りしめた手の力は緩まらなかった。華奢な肩が震えている。
氷雨の願いは何一つ叶うことはなくて、すべての行動は無駄に終わって。
僕の願いは、あと一歩の所まで進んでいる。
願いが叶うその時まで、僕は氷雨との一瞬一瞬を、宝物よりも大切にするつもりだ。
「どうして、牟田を殺そうとしたんだ?」
「……ああ」
深い傷口に触れたときのように、氷雨は笑顔は苦しげだった。
「あれは、っスね」
きっとその両手が、階段から牟田を突き落としたのだろう。
氷雨は自分の両手をぼんやりと見つめながら、取り返しのつかないことをした時のような顔で言う。
「ケジメっスよ、アタシなりの。そして何より、晴悟くんに嫌われるためでもありました」
「僕に?」
数秒たって、氷雨がうなずく。
「アタシね、また晴冴くんに恋がしたかったんスよ」
「恋」
それは何度も聞いて、何度も体験してきた生理現象の名前ではなかった。
どこかで聞き覚えがあって、けれど意味を聞いてみれば全くそれを知らなかった時のような。そんな違和感があった。
「でもそれには、どっちかの愛結晶が邪魔です。だから距離をとって、晴冴くんにアタシへの気持ちを忘れてもらおうと思って」
ふざけるな、と思った。
それでは結局、自分だけが変わらないでいようとしているんじゃないか。僕には変化を求めて、自分だけが停滞した感情の中で安心しようとしてたんじゃないか。
氷雨は目尻に涙を浮かべて、けれど吹っ切れたような顔で笑った。
「でも、ダメでした。やっぱり晴冴くんみたいな人、この先も見つけらんないや」
この少女は、誤魔化し笑いがよく似合う。
自分の中の怒りも悲しみも、全部を無理矢理塗り潰したような、見せかけの笑顔だ。
もし彼女がつけた笑顔の仮面を、心の感じる通りに崩してしまえたなら、どんなにか素敵なことだろう。けれどそんなことが出来ないのは、ずっと前から知っている。
「ああ、見つからないだろうね。君はもう取り返しのつかないことをしてしまったから」
僕は彼女の涙を指で拭って言った。
「だって、僕達は殺人鬼なんだ。それぞれが違う場所で、違う人を殺してきた」
氷雨がうなずく。
僕は続ける。
「ここから先も、きっと殺してしまう。望む望まないに関わらず、僕らの愛情は人を殺してしまう」
蝉の声が僕らを包んでいた。
夏の朝に漂う澄んだ空気をいっぱいに吸い込んで、僕は「だから」と言葉を区切る。
その言葉を伝えるには、どんな愛の言葉を囁くよりも勇気が必要だった。
「僕達が一緒になろう」
もう誰も殺さないように、誰にも愛情を向けなくていいように。人殺しの僕らが、死の瞬間まで寄り添いあって生きていく。
氷雨は初めてそのヘーゼルの瞳を大きく見開く。
笑顔を忘れて、頬を赤く染め、けれどすぐに理不尽な現実を思い出して。そして、泣き出しそうな顔を足元に向けた。
「でも、でも。愛結晶があったら、また晴冴くんを──愛したいって、思っちゃうっスよ。絶対」
ばらりと垂れた髪の奥から、涙に沈んだ瞳が僕を見上げる。
「その時は、どうするんスか……?」
「ああ、その時は」
もう迷う必要はなかった。
宙ぶらりんな氷雨の手をそっと取る。冷たい指先を解すように指を絡める。
触れ合う葉の匂いや、眩い木漏れ日が、僕らを柔らかく山に含んでいた。
頬を染めた氷雨に、たぶん、僕は笑ったのだろう。
「──君の手を握るよ、精一杯。強く、強くね」
空いた腕でゆっくりと、けれど力をこめて胸元に抱き寄せる。心臓がドクンと嫌な音を立てた。
「それも、いいっスね……」
顔を見せないようにうつむいたまま、氷雨が僕を抱き締め返してくる。
頭を撫でてやっても、握りしめた手の力は緩まらなかった。華奢な肩が震えている。
氷雨の願いは何一つ叶うことはなくて、すべての行動は無駄に終わって。
僕の願いは、あと一歩の所まで進んでいる。
願いが叶うその時まで、僕は氷雨との一瞬一瞬を、宝物よりも大切にするつもりだ。
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