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第三十六話「ロシア軍人との交流について」

再認識

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 三十分という短い時間で、美術館を一通り見て回った一行は、車を停めているパーキング場へと向かい始めた。その折、道中にあったアイスの屋台に、志度と心視のお子ちゃまコンビが引っ掛かった。

「冬に食べるアイスって乙だよな!」

「同感……」

 そんなことを言いながら、保護者組を置いて屋台の方へと駆けて行く二人。そして注文しようとして英語が通じないことに気付くと「グレコフ少尉ー!  通訳ー!」と声を上げた。

 すっかり二人の通訳担当になってしまったグレコフが苦笑して屋台に向かうのを、微笑ましく眺めていた他三人であったが、そこで想定外のことが起きた。

 人々の流れの中で浮いていた、浮浪者らしき男が志度の側に素早く近づいたかと思うと、志度が手に持っていたハンドバッグを引ったくったのである。

 志度が「あっ!」と驚いている隙に、その浮浪者は全力で駆け出し、数十メートル先にあった路地裏へと曲がって姿を消す。そして志度と心視が即座に追いかけ駆け出してしまった。カラシンの「ちょ、待て!」という制止の声も聞かず、二人は路地裏へと入って行く。

「まずいっ」

 思わずエリツィナも叫ぶ。これは拉致でよく使われる手だ。標的の持ち物を奪い、目立たない所に誘導して、そこで捕縛して連れ去るという、目立たずに個人を捉えるのに適したやり口である。

 もしや、自分達が知らない所で、他の部隊が自衛官三人の確保に動き出したのか――カラシンとエリツィナが血相を変え、慌てて路地裏の方へ向かおうとしたが、比乃がそれを手で制して止めた。

「あの二人なら大丈夫です。そんなに慌てる必要ないですよ」

「けどよ。あの手口はただのチンピラじゃないぞ。如何に訓練してるとは言え、二人とも子供だし」

「そうだ、楽観視が過ぎるぞ軍曹、グレコフ、早く行け!」

 別の部隊の手出しで自分達の客人が害されたとなっては、部隊の名折れである。エリツィナの鋭い指示を受け、二人に近かったグレコフが駆け足で路地裏へと向かう。それでも、比乃は冷静なまま言った。

「むしろ、拉致犯だか引ったくりだかの心配をした方がいいと思いますよ」

「それってどういう……」

 比乃の至極落ち着いた言いようにカラシンが聞き返した時、路地裏から打撃音の連続と、短い悲鳴が響き渡った。そして、路地裏へと駆け込もうとしたグレコフが「うっ」と呻いて足を止めた。

 それに少し遅れて路地裏の前まで来た三人は、そこで凄惨な現場を目にした。

 カラシンの言った通り、そこに居たのは黒い服を来た屈強な男達で、明らかにただのチンピラではなかった。しかし、そのいずれもが、一人残らず地に伏せていた。

 数人は壁に叩きつけられたのか、壁に寄りかかったままピクリとも動かない。他の何人かも、手足が変な方向に曲がっていたり、身動ぎも出来ずに呻き声をあげて地面に転がっている。薄暗い路地裏。そこに広がっている死屍累々の中で、二人の小柄な人影だけが平然と佇んでいた。

「最近の引ったくりって怖いなぁ、待ち伏せ要員までいるなんて」

「……でも、この人数で一人や二人襲っても……しょっぱくない?」

「だよなぁ、変な奴らだぜ」

 相手が何なのか、まったくわかっていない。倒れ伏す大男達の中心で、白髪赤目の少年と、金髪黒目の少女は、何事も無かったかのように話をしていた。

「もしかしなくても、二人だけで片付けたのか?  ……この人数を数十秒で?」

 信じられない物を見たようなカラシンの問いに、志度は逆に、当然のことを聞かれたように、不思議そうな顔をした。

「これくらいなら組手で何度も相手してるし、余裕だったぜ?  うちの上司一人を相手にした方が余程やばいな」

「……右に、同じ」

 それを聞いて唖然とするカラシン、エリツィナ、グレコフの三人に向けて、比乃はにこりと笑みを浮かべた。その笑みには、これまで浮かべていたものとは違う、薄暗いものが含まれていた。

「この二人をどうにかしたいなら、この三倍は連れてこないと駄目だって、伝えておいてください……彼らがロシア軍の関係者だったらですけど」

 そう皮肉っぽく言って、比乃は浮浪者役の男からハンドバッグを回収した志度と、ぱんぱんと埃を落とすように手を叩いている心視に声をかける。

「志度、心視、さっさと戻らないと訓練に間に合わなくなっちゃうよ。アイスはお預けだね」

「ちぇ、アイス食べ損ねたか、残念だぜ」

「……残念無念」

 自分達が蹴散らした男達をえっちらほっちらと跨いで、二人が比乃の所に戻ってくると「それじゃあ行こうぜ」と、本当に何事もなかったかのようにカラシンに言って、パーキング場に向かって歩き始めた。

 その背中をしばし呆然と眺めていた三人は、はっと我に返ると、路地裏の方を一瞥してから比乃達を追いかけた。倒れている男達を詰問してどこの所属かを聞き出す必要があったが、それをしてこれ以上彼らを不審がらせるのは得策ではない。
 今のところ、自分達は彼らの味方の程を取っているし、比乃はそれを承知の上で、ああ言ったのだ。

 比乃らに追いついて、その数歩後ろを歩くカラシン達は、彼らに悟られないようにロシア語で話し始めた。

「……前に日本で少佐殿が言ってた意味がよくわかった。あの二人を生身で捕まえるってのは、猛獣の檻に素手で入るのと変わらねぇ」

「その二人を従えている日比野軍曹も、一筋縄ではいかない相手だろうな……今頃、上層部は頭を抱えているだろう」

「頭抱えるのはこっちだぜ。これで、あいつらの確保をこっちでやれって命令が来たらどうする?  俺は正直なとこ嫌だぜ?」

「自分だって嫌ですよ……下手しなくてもこちらが損害を受けること必至ですし、心情的にもやりたくありません。エリツィナ中尉だってそうでしょう?」

「私は……」

 部下に問われたエリツィナは言い淀んだ。少し前の彼女ならば、命令であればそれに従うのは軍人が成すべきことだと即答できたはずだが、エリツィナは、その言うべき言葉をすぐに口に出すことが出来なかったのだ。

 目標に対して情が湧いたが?  自分の心に僅かな甘えが生じたことを自覚した彼女は、下唇を噛んだ。これでは軍人失格である。そんな同僚の心情に気付いてか気付かずか、カラシンは後頭部に両手を回して、曇り空を見上げてぼやいた。

「ま、少佐殿は無茶な作戦は跳ね除けるように努力してくれてるって言うし、それが上手く行ってることを祈るしかねぇな」

 彼のその言葉に、二人は同意するように頷いた。今回の失敗が原因で自分達にお鉢が回ってきても、相手の実力的にも、自分達の心情的にも、色々な意味で任務を遂行し難くて堪らない。

 そんなことを話している後ろの三人に気付いていた比乃が、こちらも内容を悟られないように日本語で話していた。

「……なんかロシア語で内緒話してるね」

「もしかして、あれか、さっきのが俺らを狙ったロシア軍だったとか?」

「それにしては……お粗末、だった」

「そうだね。多分、ただのチンピラだったんだと思うよ」

 真相に気付いていない二人にそんな嘘をつきながら、比乃は内心でこれっきりで終わりだといいけど、と思ったのだった。
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