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溢れた話
アイリスの我儘
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「だから、ウッドバーンには行きたくないの!」
この話を父とは何回もしたけれど、父はわかってはくれない。
レインとの婚約が破談となった時、レインに「すまない。」と頭を下げられた時、私の心は凍りついた。
傷が付いた私には条件の良い婚約話なんて来っこない。
ウッドバーンにいけば良い、と父は簡単に言うけれど、見たこともない場所に1人で行く気にはなれない。
レインと共にあればこその覚悟だったのだから、レインがいなければ意味がない。
「後継」としての自覚なんてものはそもそも有りはしない。
話だけ聞かされて、行ったことすらない場所。ニルスからの渡航許可は下りたことがないし、もし行けたとしたら二度とここには帰って来れない。
私はエリールで生まれて、エリールを愛している。
父の様にザイモックを愛することなんて出来っこない。
「結婚なんてもうしない。」
「絶対にウッドバーンには行かない。」
そう決めてから3年経ち、私の心はしっかりと凍りついたままで、いまさら溶ける日が来るとは思えない。
レインに怒り、父を遠ざけ、一心に布を織り続ける日々がこれからも続いていくのだと思っていた。
「何これ?…羊毛よね?」
初めて見る糸だった。
出来るだけ滑らかな手触りの布に仕上げて欲しいと、新規の工房から新作の糸で試作の布を織る依頼を受けた。
絹のような手触りの艶やかな極細の糸。絹のようなとは思ったけれど、太さは絹の何倍も太い。なのに毛羽が少ない。
「すごい…。」
久しぶりに創作意欲が掻き立てられる。
注文主は…?
「…ボガード工房?」
ボガード…あのホセ?
レインの商会のひとつの工房で働いていたホセが独立したらしい。
まず試しに織ってみると、物凄く柔らかくて手触りがいい。ただひとつ気に入らないところがある。
追加で糸を納品しにきたホセに
「もう少し捻を減らせないかしら?」
と聞いてみた。
「これ以上減らすの?」
と強度の問題から難色を示される。
「服地なら良いと思うの、だけど捻を減らしたらドレープがもっと柔らかく出そうな気がするの。もしかしたら冬の肌着にも出来るかも…。」
「…肌着を羊毛で?…面白そうだね、やってみるよ。」
と微笑まれた。
温かい笑顔だった。
それから2人で試行錯誤をしながら、新しい糸を作り上げた頃、いつの間にか私の心は溶け始めていた。
ううん、既に熱くなっていたのかもしれない。
結婚したい、そう言われて素直にはいと答えた。
しかし父の反対は凄まじく、ウッドバーンはどうするんだの一点張り。
話にならない。
ホセがやりたい事はエリールにしかない。
私がいたいのはホセのいる処。
私と父との口論が増えただけで、状況は全く変わらない日々が続いた。
そんな時に降って沸いた「領主の初夜権」の話。
一晩レインと部屋で過ごす、それだけの話だった。前領主様と父と、多分レインとの企み。
「上手くいけばクララとお腹の子の存在を隠せる。」
「ホセとの結婚を許してやる。」
と言われた。
結婚適齢期の終わり頃の娘を持つ父に無理をさせたとは思っているし、巻き込んでしまったクララさんが健やかに子供を産み育てる事が出来るなら…。
ううん、綺麗事で片付けるのははやめておこう。本音は違う。
ホセと生きられるなら…。
そしてホセに全てを話した。
平民で職人のホセにはどうすることもできないのはわかっている。
レインの商会で働き、レインの支援を受けて独立しているホセ。
私の我儘できっとホセを永く苦しめることになる。
それでもホセと生きる道はここにしかない、そう思った。
ホセの目は真っ赤で、固く握られた拳には血が滲んでいて。
それでも
「僕が君を手に入れるために飲み込まないといけない煮湯ならいくらでも飲み込むよ。」
と言ってくれる。
だから
「あなたと結婚出来るなら、どんな煮湯でも私は飲むわ。」
と答えた。
その晩はホセと朝まで過ごした。もう私達は引き返せない。
ホセに見送られて領主館に入り、出迎えたレインと寝室に入り、別れてから初めてまともに会話をした。
あの時伝えられなかった悲しみや怒りをレインにぶつけた。とはいっても月日が経ち心の澱は一度沈みきっていた。
未来を見据えている私にとってレインは既に過去でしかなく、レインなりの葛藤があり、贖罪の気持ちはずっとあったらしい事もわかった。
お互いの近況を伝え、過去の思い出を語り、時々笑い合った。
私達の蟠りは消えた。
「…今、幸せ?」
幸せだと言って欲しくて口に出してしまった言葉。
しかしレインの答えは「否」だった。
私から愛する人を酷い形で奪った王妹はレインを愛したわけではなかった。
王妹が欲したのは、「ルーナの忘れ形見の父親役」というだけ。
「なにそれ!あり得ないわ。」
モーリに罪はないが、子を孕んでさえいなければ私達はきっと一緒になれた。
「政略結婚に全てを望むのは無理だよ。」
と私の怒りに静かに微笑むレインが急に過去から今に姿を変えた。
「ねえ、今夜の事は誰にも咎められないのよね?」
今夜のことは誰にもわからない。
魔がさしたのか、このまま妻に愛されず生きていくレインへの憐れみか。私から愛する人を奪った王妹への意趣返しか…。
昔に引き戻されたのか、また生まれた新たな気持ちなのか。
よくわからない。
目の前にいるレインになんとも名前がつけられない感情が溢れ出てしまった、だけ。
レインの熱い目が私を射抜いた。おずおずと手を伸ばし、震える手が肩に乗り、抱き締められた。しばらくそうしていて、それからゆっくりと離された。
「…ホセが許さない。」
領主という立場なのに領民を対等に見て決して踏み躙らないレイン、私が愛したのはそんなレインだったことを思い出した。
レインを許せるまでに何年も掛かったのに、一瞬で引き戻されて、だけどそれを手放すのもまた一瞬だった。
領主の初夜権の夜の出来事は2人だけのもの。誰にも問われる事はない。
この夜、揺れてしまった心はホセにもフランにも知られることがない2人だけの秘密となった。
誰にも話せない秘密を私達は持ってしまった。
その代償を支払い終えるまでに気が遠くなる程の永い月日が掛かることを、あの時の私は気付いていなかった。
この話を父とは何回もしたけれど、父はわかってはくれない。
レインとの婚約が破談となった時、レインに「すまない。」と頭を下げられた時、私の心は凍りついた。
傷が付いた私には条件の良い婚約話なんて来っこない。
ウッドバーンにいけば良い、と父は簡単に言うけれど、見たこともない場所に1人で行く気にはなれない。
レインと共にあればこその覚悟だったのだから、レインがいなければ意味がない。
「後継」としての自覚なんてものはそもそも有りはしない。
話だけ聞かされて、行ったことすらない場所。ニルスからの渡航許可は下りたことがないし、もし行けたとしたら二度とここには帰って来れない。
私はエリールで生まれて、エリールを愛している。
父の様にザイモックを愛することなんて出来っこない。
「結婚なんてもうしない。」
「絶対にウッドバーンには行かない。」
そう決めてから3年経ち、私の心はしっかりと凍りついたままで、いまさら溶ける日が来るとは思えない。
レインに怒り、父を遠ざけ、一心に布を織り続ける日々がこれからも続いていくのだと思っていた。
「何これ?…羊毛よね?」
初めて見る糸だった。
出来るだけ滑らかな手触りの布に仕上げて欲しいと、新規の工房から新作の糸で試作の布を織る依頼を受けた。
絹のような手触りの艶やかな極細の糸。絹のようなとは思ったけれど、太さは絹の何倍も太い。なのに毛羽が少ない。
「すごい…。」
久しぶりに創作意欲が掻き立てられる。
注文主は…?
「…ボガード工房?」
ボガード…あのホセ?
レインの商会のひとつの工房で働いていたホセが独立したらしい。
まず試しに織ってみると、物凄く柔らかくて手触りがいい。ただひとつ気に入らないところがある。
追加で糸を納品しにきたホセに
「もう少し捻を減らせないかしら?」
と聞いてみた。
「これ以上減らすの?」
と強度の問題から難色を示される。
「服地なら良いと思うの、だけど捻を減らしたらドレープがもっと柔らかく出そうな気がするの。もしかしたら冬の肌着にも出来るかも…。」
「…肌着を羊毛で?…面白そうだね、やってみるよ。」
と微笑まれた。
温かい笑顔だった。
それから2人で試行錯誤をしながら、新しい糸を作り上げた頃、いつの間にか私の心は溶け始めていた。
ううん、既に熱くなっていたのかもしれない。
結婚したい、そう言われて素直にはいと答えた。
しかし父の反対は凄まじく、ウッドバーンはどうするんだの一点張り。
話にならない。
ホセがやりたい事はエリールにしかない。
私がいたいのはホセのいる処。
私と父との口論が増えただけで、状況は全く変わらない日々が続いた。
そんな時に降って沸いた「領主の初夜権」の話。
一晩レインと部屋で過ごす、それだけの話だった。前領主様と父と、多分レインとの企み。
「上手くいけばクララとお腹の子の存在を隠せる。」
「ホセとの結婚を許してやる。」
と言われた。
結婚適齢期の終わり頃の娘を持つ父に無理をさせたとは思っているし、巻き込んでしまったクララさんが健やかに子供を産み育てる事が出来るなら…。
ううん、綺麗事で片付けるのははやめておこう。本音は違う。
ホセと生きられるなら…。
そしてホセに全てを話した。
平民で職人のホセにはどうすることもできないのはわかっている。
レインの商会で働き、レインの支援を受けて独立しているホセ。
私の我儘できっとホセを永く苦しめることになる。
それでもホセと生きる道はここにしかない、そう思った。
ホセの目は真っ赤で、固く握られた拳には血が滲んでいて。
それでも
「僕が君を手に入れるために飲み込まないといけない煮湯ならいくらでも飲み込むよ。」
と言ってくれる。
だから
「あなたと結婚出来るなら、どんな煮湯でも私は飲むわ。」
と答えた。
その晩はホセと朝まで過ごした。もう私達は引き返せない。
ホセに見送られて領主館に入り、出迎えたレインと寝室に入り、別れてから初めてまともに会話をした。
あの時伝えられなかった悲しみや怒りをレインにぶつけた。とはいっても月日が経ち心の澱は一度沈みきっていた。
未来を見据えている私にとってレインは既に過去でしかなく、レインなりの葛藤があり、贖罪の気持ちはずっとあったらしい事もわかった。
お互いの近況を伝え、過去の思い出を語り、時々笑い合った。
私達の蟠りは消えた。
「…今、幸せ?」
幸せだと言って欲しくて口に出してしまった言葉。
しかしレインの答えは「否」だった。
私から愛する人を酷い形で奪った王妹はレインを愛したわけではなかった。
王妹が欲したのは、「ルーナの忘れ形見の父親役」というだけ。
「なにそれ!あり得ないわ。」
モーリに罪はないが、子を孕んでさえいなければ私達はきっと一緒になれた。
「政略結婚に全てを望むのは無理だよ。」
と私の怒りに静かに微笑むレインが急に過去から今に姿を変えた。
「ねえ、今夜の事は誰にも咎められないのよね?」
今夜のことは誰にもわからない。
魔がさしたのか、このまま妻に愛されず生きていくレインへの憐れみか。私から愛する人を奪った王妹への意趣返しか…。
昔に引き戻されたのか、また生まれた新たな気持ちなのか。
よくわからない。
目の前にいるレインになんとも名前がつけられない感情が溢れ出てしまった、だけ。
レインの熱い目が私を射抜いた。おずおずと手を伸ばし、震える手が肩に乗り、抱き締められた。しばらくそうしていて、それからゆっくりと離された。
「…ホセが許さない。」
領主という立場なのに領民を対等に見て決して踏み躙らないレイン、私が愛したのはそんなレインだったことを思い出した。
レインを許せるまでに何年も掛かったのに、一瞬で引き戻されて、だけどそれを手放すのもまた一瞬だった。
領主の初夜権の夜の出来事は2人だけのもの。誰にも問われる事はない。
この夜、揺れてしまった心はホセにもフランにも知られることがない2人だけの秘密となった。
誰にも話せない秘密を私達は持ってしまった。
その代償を支払い終えるまでに気が遠くなる程の永い月日が掛かることを、あの時の私は気付いていなかった。
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