旅路の果てで、また会おう。

孤子

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愛すべき我が家に別れを。

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 冬が終わり、春の息吹が感じられるようになった今日この頃。長い間鞭打ってきたこの老体には抗えぬほどに心地よい陽気が、涼し気なそよ風と共に儂の体を包み込む。

 日は遥か高く中天にあり、どんなに寝坊助な者でも空いた腹を鳴らして起き上がり、食欲をそそる匂いを漂わせた食堂へと赴く昼中。儂はいつものように欠伸を掻きつつ乱雑に切った野菜や肉を鍋に放り込み、釜土の火を強くして煮込んでいく。

 もう十数年以上も世話になっている台所じゃが、その間に使った調理器具といえば、包丁とまな板と大きな鉄鍋のみ。野菜や肉を切るのでさえ、もう何十年もしているというのに一向に上手くはならない。作れるものもこのある物をとにかく鍋に放り込んで煮込んでいくだけの、もはや料理とも呼べないようなものだけ。

 早く作れるからと強めた火を適当に弱まらせて、木の棒でかき混ぜていけば、何十年も変わらないあまりうまそうには思えない匂いを含んだ湯気が立ち上り、儂の鼻腔をくすぐる。

 うまそうではないが、それでも儂にとっては慣れ親しんだ匂い。衰えた体でも変わらずに主張する意に住まう虫が、早く平らげろと大きな音を上げる。

 そう焦らずともよかろうに。ここまでくれば、あとはほんの少し塩を足して完成じゃ。香りづけに庭で採れたハーブも加えてしまえば、うまそうではないこの料理も少しはましになるじゃろう。

 釜土の火を消してからさっと塩の瓶を傾けて一まわしかけ、まな板の傍に置いてあったハーブを1枚だけ上に乗せる。

 ふわっと香るハーブのすっきりとした匂いが料理の匂いを引き締め、いつもの料理よりも少しだけ美味しくなったのではないかと錯覚させる。

 胃の中の虫が騒ぎ立てるのを左手で腹をさすってなだめながら、右手だけで重そうな鉄鍋の柄を持ち、ひっくり返さないようにとゆっくり食卓へと運ぶ。

 一人で食べるのに、わざわざ皿など使わない。鉄鍋を机に置き、儂はそっと椅子を引いてそこに座る。

 古びた机は鉄鍋が置かれるとほんの少しだけ歪み、グラグラと揺れるが、まだどうにかバランスを保っていられるようであった。

 同じく古い椅子に儂が腰かけると、椅子も同じく歪むように動き、ギシギシと木が軋む音をたてる。まるでもう限界だとばかりに悲鳴を上げているようじゃ。

 儂はそっと椅子と机に手をやり、優しくさする。

 「そうじゃなあ。お主たちもよう働いてくれたのじゃよなあ。今日までよく持ち堪えたものじゃ。ありがとう。」

 心の底から湧き出る感謝の言葉を長年支えてくれた友に捧げ、儂は鉄鍋に大きめのスプーンとフォークを使い、鉄鍋にある煮物を平らげていく。

 胃の中の虫も満足そうに音を立てずに膨らませ続け、鍋の中が空になるころには目に見えて膨れ上がった腹が、何とも情けないことになっていた。

 「儂も随分と腑抜けな体になってしもうたのう。」

 儂は不自然に膨れ上がった腹から順に、自分の老いぼれた体を服越しに眺める。

 全盛期の頃には服の下からでもわかるほどに筋肉がついていて、袖から見える腕の筋肉も美しくついていたものじゃが。それも今は昔。ぴったりだったはずの服はぶかぶかで、今は腹だけがちょうどの大きさになっている。袖から覗く腕や足はもはや骨と皮ばかり。まだ多少は力を入れれば筋肉があるとわかるものの、それでも半分以上も減っている。

 さりとて今更全盛期と同じように体を鍛えることなどかなわず、諦めるしかないとため息を吐く。

 「こんな体で、はてさてどこまで行けるのじゃろうかのう。まさか半分も回れぬことはなかろうな。」

 儂はこれからの予定を頭に描き、それが夢に潰えやしないかと恐ろしくなる。目的の半分も達成できないようでは、皆に顔向けできないではないか。

 もう70を過ぎた体じゃ。そうそう贅沢なことを言ってはいられないが、これでも数十年前には世界中を奔走したのじゃ。ただただ各地を巡る程度の事で動かなくなってしまっては困る。

 ゆっくりと立ち上がり、寝室のベッドの近くに置いておいたズタ袋を背負い、立てかけてあった片手剣を鞘ごと持ち、紐を使って腰に縛り付ける。久方ぶりの重みにほんの少しバランスを崩してよろめきかけるが、何とか持ち堪えて平静を装う。が、ここには儂だけ。装う必要ないと思い出して年甲斐もなく耳を赤らめた。

 こんなことでは本当に先が思いやられる。まだ家の中にいてこれとは。やはり少しは運動しておいた方が良かったのじゃろうか。

 家を建て、のんびり過ごすと決めてからはめっきり体を動かすことがなくなってしまった。たまに買い物に出かけたり、近くの友人に会いに行ったりするときは歩いたりもしたが、所詮はその程度。ここまで筋力が落ちたのは、やはり日頃ほとんど運動という運動を行ってこなかったせいじゃろう。

 「やはり馬車を買った方が良いのじゃろうか。しかし、そうなると行けん所も出てくるしのう。」

 頭に浮かぶ風景には、到底馬車や馬などで進むことができない場所も多くあり、結局は歩き回るはめになることが目に見えていた。

 しかし、それでもその間の移動だけは馬車でのんびりとしたいという思いが沸き立ち、心と同じく体も揺れて唸り考える。

 「むう。やはり歩くとしようかのう。金がないわけではないが、いちいち買い直すのは面倒じゃ。あるけん距離でもないじゃろうし、多めに水と食料を買っておけば大丈夫じゃろうて。」

 儂は一人で何度もうなずいて答えに満足したのち、他に持っていくものはないかと確かめる。

 何日も前から準備してきたことで、忘れ物などあるはずもなく、ただ長年染み付いた習慣のようなものに動かされてした確認を終え、玄関へと向かう。

 そして、最後に振り返り、自分の家の部屋を眺める。

 二階はなく、部屋も寝室と居間のみであり、玄関からは部屋のほとんど隅々まで見渡すことができた。

 「これでもう見納めになるのじゃな。」

 最後ならぬ、最期。もうこの家に戻ることはなく、生涯でただ一つの帰る場所は、今日を持って儂の人生から無くなってしまう。

 誰が何をしたわけでもない。これは儂自らが決めたこと。儂が考え、そして決断したこと。

 儂は目にしっかりと焼き付け、それから玄関の扉に向き直る。

 「未練など残すな。前だけを向き、選んだ道を歩き続けろ。」

 幼いころから言われ続け、言い続けてきた言葉を、儂自らに叱咤し、扉のドアノブに手をかけて、ゆっくりと開く。

 外の光が隙間から入り込み、完全に開けば、まるで背中を押されるように、部屋から風が外に向かって吹き抜けた。

 「今まで本当にありがとう。旅路の果てで、また会おう。」

 儂は振り返らず、ただただ近くにある街まで伸びる林道を進みながら、長い余生を支えてくれた敬愛すべき友らに、小さく別れを告げたのじゃった。
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