極上御曹司の裏の顔

槇原まき

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1巻

1-1

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「はぁあああぁぁ――……」

 重たく暗いため息をついた及川おいかわしろは、胸程の高さの柵に、そっと手を置いた。
 赤、白、ピンクに黄色。目の前には、見頃を迎えたローズガーデンが広がっている。ここはドイツの古城をモチーフにしたレストハウスと、アンティークな装飾がなされたガーデンが売りの、観光施設だ。山の頂上付近にあり、ロープウェイでしか来れないため観光客で大混雑するといったことこそないものの、空は青く、目映まばゆい太陽の光を浴びた花々はまさに絶景。おとぎ話のような美しさをバックに、訪れた人達は皆、思い思いに写真を撮っている。
 にぎやかなイベントやもよおし物はないが、それがまたゆったりとした大人の時間を楽しむのに一役買っていて、ここを退屈――いやいや、特別で、神聖で、ロマンティックな場所にしているのだ。
 そんな中で、真白ひとりが浮かない顔をしている。腕を絡ませあった若いカップルが、今にもキスをしそうなほど唇を近付けて自撮り写真を撮っているのがチラリと視界に入った。
 わざわざ新幹線に乗って、泊まりの予定プランまで立ててやって来た旅先で、なにが楽しくて他人がちちくりあっているさまを見せつけられなければならないのか。うらやましくてうらやましくて、泣いてしまいそうだ。

(ああ、もう、そういうの家でやって。お願い。ホントもう……お願いします。ああ……わたしだって今頃は、良平りょうへいと……)

 大学時代から付き合っていた恋人、中村なかむら良平を思いだして、真白は思いっきりズズズッと鼻をすすった。
 ここには、彼と来るはずだった。
 就職してから半年の秋。そろそろ仕事にも慣れてきたし、付き合って三年記念日に合わせて計画したのがこの旅行なのだ。
 旅行好きの真白がったプランは完璧だった。ロマンティックな雰囲気たっぷりなこのローズガーデンを見ながらふたりで手を繋いで歩き、次はロープウェイに乗ってふもとに下りて、観光バスで文化遺産を巡りながらの知的な会話。ワークショップを楽しんだら、夜はちょっと背伸びをしたラグジュアリーなホテルのレストランで食事。そのまま一泊して、キングサイズのベッドでいちゃいちゃするはずだった。
 なのに、前日にかかってきた彼からの電話は、予想外にも別れ話で――

『前々から思ってたんだけどさ、やっぱ俺、おまえとは合わない。旅行とか興味ないし。おまえ、セックスも下手だし、基本じゃん。おまえみたいなつまらない女、一緒にいる意味がない』

 完全に開き直った良平の口調を思いだしたら、じわっと涙がにじんできた。
 旅行には、今まで何度もふたりで行っていた。そのとき良平は、いつも楽しそうにしていたのだ。それを別れ際になって、実は興味ありませんでしたと言われても……困惑しかない。そして告げられた、女として魅力がないと言わんばかりの台詞せりふ
 良平は真白にとって、初めての彼氏だった。大学二年の頃に同じ授業を取っていたのがきっかけで話すようになり、彼からの告白で付き合うようになったのだ。
 キスもセックスも、初めては全部彼にささげた。真白は優しい良平が大好きだったし、趣味が合っていると思っていたのだ。
 地味な顔立ちなりに、彼好みの服を着たり、髪型をしたりして、小綺麗にしていた。料理も、彼好みの味付けを覚えた。ちょっと意地っ張りな自覚はあるけれど、良平に対しては可愛い彼女として振る舞っていたつもりだ。
 だからお互い別々の会社に就職して、会うのが週末に限定されても、約束がドタキャンされることが増えても――自分たちは大丈夫、うまくいっていると信じていた。それなのに――
 初めての恋に浮かれて、恋をしているという状況に夢中になっていたのかもしれない。その結果が、これだ。肝心の恋の相手をちゃんと見ていなかったんだろう。
 本当は良平にずっと無理をさせていたんじゃないか、良平はずっと前から別れたがっていたのに、間抜けな自分は彼の気持ちに気付こうともしていなかったんじゃないのか……
 付き合って三年記念だからと張り切ってこんな旅行を計画する前に、もっとやるべきことがあったのかもしれない。
 本当に馬鹿だ。
 そしてなにより真白をみじめにさせたのは、電話の向こうから聞こえてきた他の女の声で――

(……良平、ずっと浮気してたのかなぁ……わたしのこと、嫌いだったのかなぁ……)

 しょぼんと肩を落とした真白は、また大きなため息をついた。

(やっぱり、旅行なんかやめとけばよかったかも……)

 これは前々から予定していた旅行だったから、ホテルもレストランも、代金は全額払い込み済み。昨日は別れ話のショックで呆然としていたこともあって、キャンセルまで手が回らなかったのだ。
 ひと晩経てば、もう旅行当日。
「一緒に行かない?」と、友達に声をかけてはみたものの、当日の朝に、しかも泊まりの旅行の誘いはなかなかハードルが高い。当然のごとく誰も捕まらなかった。
 旅行自体をやめてしまうことも考えたのだが、ホテルの当日キャンセル料は問答無用で一〇〇%。もう代金は払っているのだから、行かねば損である。それに、ひとり暮らしのアパートにいても、気落ちするばかり。行けば気分転換になるかもしれないと思ってこうして出かけてきたのだが――

「あー」

 人生に疲れた声を出して、真白は気怠けだるげに宙を仰いだ。
 あのラブラブカップルが、まだ写真を撮っている気配を感じる。
 もしかしたら、撮った写真に加工アプリでハートマークなんか描いて、スマートフォンの待ち受け画面にしたに、「めっちゃラブラブなの~」なんて他人に自慢をするのかもしれない。いや、そうに決まっている。うらやましすぎる!

(…………)

 真白は斜め掛けしていたポーチから無言でスマートフォンを取り出すと、カップルに対抗するようにカメラアプリを起動した。
 いいのだ。ひとりでもリア充してやるのだ。世の中、〝おひとり様〟が流行はやっているというではないか。真白もローズガーデンを背景に笑顔で写る自分の写真を友達に見せて、「ひとり旅も悪くなかったよ!」と、言ってやるのだ。
 良平と別れたことを知った友達に、同情されるのなんて真っ平だ。
 そう意気込んで、ローズガーデンを背景に自撮りを試みる――が、上手く撮れない。
 腕をめいっぱい伸ばしても、ローズガーデンはちょこっとしか写らず、むくれた自分の顔がアップになるだけだ。

(あーあ。なんでよりによって自撮り棒を忘れたんだろ、わたしの馬鹿)

 旅行にマストアイテムの自撮り棒を忘れるなんて、普段は絶対にないのに。これも失恋の痛手か。
 自撮りは諦めて、ローズガーデンの写真を何枚か撮ってみる。
 だが何枚か撮ったところで、こうやって風景だけ撮影している自分が無性に寂しい人のように思えてきた。
 これではいけない! ひとり寂しい失恋傷心やさぐれ旅行の記録を残してどうする。ひとりでも、充実した旅行を楽しんでいるという記録を残さなくては!
 真白は誰かに写真を撮ってもらおうと辺りを見回した。

(誰かいないかな? カップル以外で!)

 もともと観光客はそう多くないし、いてもカップルやシニア世代のグループ客ばかりだ。
 ロープウェイでしか来ることのできない山頂のレストハウスと、アンティークなローズガーデンなんて時代錯誤なものを、わざわざひとりで見て回ろうなんて酔狂なやからは真白くらい――

(あ、いた)

 少し離れたベンチに、若い男の人がひとりで座っている。背凭せもたれに身体を預け、本を読むわけでも、スマートフォンをいじるわけでもない。青空の下で、ただ座っているだけだ。
 グレーのスラックスに包まれた長い脚を前に伸ばして、前髪を秋風にそよがせながら、彼は気持ちよさそうに目を細めていた。
 デートの最中で、レストルームへ行った彼女を待っている……というわけではなさそうだ。

(よかった。わたし以外にもぼっちな人がいる!)

 真白が直感的に彼がひとりだと感じたのは、こんなところにひとりで来る同志がほしかったからかもしれないし、彼にどことなく特別な雰囲気があったせいかもしれない。
 そんな自分の深層心理はそっちのけにして、真白は小走りで彼に近付いた。

「あの、すみません。写真を撮ってもらってもいいですか?」

 自分のスマートフォンを差し出しながら話しかけると、彼はゆっくりと目を開けて、真白の顔をじっと見た。
 遠くからでは気付かなかったが、恐ろしく綺麗な顔だ。青空もローズガーデンも、彼の引き立て役にしかなっていない。
 年は真白と変わらないか、少し上くらいだろう。白いシャツにジャケットを羽織はおっているだけなのに、さわやかでどこか気品がある。こんな美形はテレビや雑誌でしかお目にかかったことがない。サラサラな前髪から覗くすっきりとした切れ長の目に見つめられて、真白はドキリとした。

「ああ、写真ね。いいよ」

 少しばかり低くて、耳に優しい声だ。

(わぁ、声までイケメンだ)

 真白がスマートフォンを渡すと、彼は立ち上がって辺りを見回した。とても背が高い。

「ひとり?」
「え、ええ……」

 彼は真白が誰かと一緒だと思ったらしい。やっぱりひとりだと不自然なんだろうか。しかし次の瞬間には、彼はなんでもないように首を傾げた。

「じゃあ、どう撮る?」
「ローズガーデンをバックにお願いします。レストハウスも入ったら嬉しいです」

 通りすがりの観光客――しかも女ひとり旅――のスナップ写真の構図まで気にしてもらえたのは嬉しい。とても感じのいい人だ。さっきひとりかと聞いてきたのは、ただの確認だったのだろう。

「了解。じゃあ、もう少し下がって」

 言われた通りに後ろに下がって、柵の前で振り返る。ウェーブした栗色の髪を軽く整え、意識して口角を上げてみた。
 みじめな顔で写りたくない。少しでも可愛く写りたかった。失恋なんて本当になんでもないんだと、友達にも自分自身にもアピールしたかったのだ。

「撮るよ。ハイ、ポーズ」

 二、三枚シャッターを切ってくれた彼が、「これで大丈夫?」と、スマートフォンの画面を見せてくる。近付いた拍子にふと身体が触れ合って、思わず息をんだ。
 香水だろうか、強すぎないほのかな甘さと、男らしいセクシーな香りが漂ってくる。いい匂いのはずなのに、なぜだか身体が内側からゾクゾクしてきた。

「はいっ! 大丈夫です! ありがとうございます!」

 上擦うわずった声でそう言って、真白は受け取ったスマートフォンの画面をろくに見ずにポーチにしまった。どうにも落ち着かない。この人から早く逃げたほうがいい――本能がそう訴えている気がする。
 この人は写真を撮ってくれた親切な人なのに、なぜ?

「ありがとうございました」

 もう一度お礼を言ってから軽く会釈えしゃくをして、真白はすぐにその場を離れた。
 しばらくガーデンを歩いて、花を眺めるふりをしつつそっと背後を盗み見る。彼がさっきのベンチに座っているのが見えた。
 SNS映えする写真を撮ったら満足してさっさと次に移る観光客が多い中、彼だけは違う。確かにこのローズガーデンは見事なものだが、ひとりでずっと見ていて楽しいかというと、それは少し違うだろうに。

(……薔薇ばらが好きなのかな?)

 そんなことを考えながらポーチからスマートフォンを取り出し、さっき彼に撮ってもらった写真を表示した。
 そこにはリクエスト通りの、ローズガーデンとレストハウスを背景にした写真が収められている。中央にいる真白も、はにかみながらもちゃんと笑顔だ。アングルのせいか、それとも彼の撮影技術が高いのか。地味な顔立ちの自分が、実物以上に可愛くなったように見えた。
 今まで旅先でたくさんスナップ写真を撮ってきたが、こんなに可愛く写っている写真はない。

(わ~、こんなに綺麗に撮ってくれたんだ!)

 嬉しくなって振り返ったのだが、あのベンチに彼はもういなかった。



 ローズガーデンでいい写真を撮ってもらってからテンションの上がった真白は、良平のことを頭から追い出す勢いで、予定していた観光地を全部回った。
 異人館いじんかん旧居留地きゅうきょりゅうち。ワークショップでは、植物標本ともいわれる流行のハーバリウム作りにチャレンジしたし、中華街ではおいしいと評判の小籠包しょうろんぽうを買い食いした。そのあとは都市型の海浜公園を回り、展望タワーにも上った。
 そうして遊び倒してから、駅のコインロッカーに預けていた荷物を回収してホテルにチェックインしたのは、予定通りの午後六時半だ。
 ふたりで予約したのに、ひとりでチェックインしたらなにか言われるだろうかとドキドキしていたが、意外なことにフロントではなにも言われなかった。
 荷物を持ってひとりで部屋に入る。
 記念日を過ごすためにと選んだ客室は、無駄に豪華だ。部屋はオーシャンビューで、窓から一望できるのは、夜景と調和の取れた海。カーペットはふかふかで、置いてある調度品もランクが高いのがひと目でわかる。普段暮らしているひとり暮らしのアパートとの差は言うまでもない。
 ここは非日常だ。
 記念日でもなければ、こんな豪華なホテルなんか予約しなかった。
 極めつけは、キングサイズのベッド。

(…………)

 真白は軽くシャワーを浴びることにした。そして、持ってきていた白いワンピースに着替える。
 予約したホテル内レストランは、ミシュランガイドの三ツ星だ。
 披露宴会場も備わっているホテルだから、お客もドレスアップしている人が多い。外を歩き回ったチュニックとジーンズなんて格好でうろつくのは躊躇ためらわれた。
 落としたメイクをやり直して、部屋にしつらえられた美しいふち取りのされた大きな鏡に顔を映す。鏡の端に入り込んできたベッドから、真白は意識的に目をらした。
 これ以上、なにも考えてはいけない。

「さてと、ご飯食べに行こーっと! レビューだと超おいしいらしいし、楽しみっ!」

 自分以外に誰もいないのに、わざわざ声に出して部屋から出た。
 エレベーターに乗ってレストラン階に移動する。
 真白が予約したのは、イタリアンレストランだ。豪奢ごうしゃなシャンデリアが吊り下げられた広いホールには、ピアノが置かれている。とても雰囲気がいい。客層もよく、カップルや上品な家族連れが目立った。
 ボーイに名前を告げると「こちらへどうぞ」と案内される。辿り着いたホールのテーブル席を見た真白は、思わずギョッとした。
 席には当然のように、ふたり分のカトラリーセットが用意してあったのだ。

(しまった! 人数を変更するの完璧に忘れてた!)

 真白は既にコース料理を予約している。しかも良平を喜ばせようと思って無駄に張り切ったため、ワインやアニバーサリー用のホールケーキまで注文していた。

(どどどどどうしよう!?)

 席を目の前にして硬直こうちょくした真白は、内心冷や汗ダラダラだ。座るに座れない。
 席まで案内してくれたボーイがなにも言わなかったのは、真白の連れがあとから来るんだと思っているからかもしれない。
 アニバーサリーケーキまで予約した客が、ひとり寂しく料理を食べに来るなんて思いもしないのだろう。

(今からでも人数を変更してもらえるかなぁ……)

 そのためには、事情を説明しなくてはならないかもしれない。

『実は一緒に来るはずだった彼氏に昨日フラれまして、わたしひとりなんですよ。ハハハハハ。付き合って三年目記念日が、失恋記念日になりました』

 ……おお、神よ。こんな自分の傷口に自分で塩をりたくるようなことを言えというのか。あまりにも殺生せっしょうじゃないか。
 だが、言うしかない。
 けれど恥を忍んで事情を説明し、コース料理をひとり分にしてもらったところで、別注したアニバーサリーケーキだけはどうにもならないだろう。「Happy
Anniversary」なんて書いてもらうようお願いしていたから、他のお客には出せないはずだ。
 真白がいらないと言えば、確実にゴミになるケーキである。お店の人にわざわざ作らせておいて、ひと口も食べないなんて、そんな失礼なことをできる神経は真白にはない。

(ぐっ……ここは腹をくくってやけ食いを……)

 ふたりで食べるケーキだから一番小さな三号サイズにしたが、曲がりなりにもホールケーキ。ひとりで完食できるだろうか……想像するだけで胸焼けがしそうだが、ここは頑張るしかない。
 しかし、彼氏にフラれて旅行をドタキャンされたに、ひとりでアニバーサリーケーキをむさぼり食う女の姿なんて、「みじめ」のひと言以外にないじゃないか。絶対に周りのお客はドン引きすること間違いない。なんて恥ずかしい!

(ああ……やっぱり旅行自体をキャンセルするんだった……)

 友達が誰も捕まらなかった時点でそうすればよかったのだ。そうしたら恥をかかずに済んだのに。
 真白がそう考え肩を落としたとき、すぐ横を見覚えのある人影が通り過ぎた。

「あっ!」

 思わず声を上げる。するとボーイに先導されていたその人が、足を止めてゆっくりと振り返った。

「ああ、昼間の」

 その人は昼間のローズガーデンで、真白が写真を頼んだ男の人だった。あのときと変わらないジャケットと白いシャツ、そしてグレーのスラックスという出で立ちだ。簡素な服装でも、相変わらず整った顔立ちは際立っている。真白が彼にすぐ気が付いたのもそのためだろう。

「また会ったな」

 彼は真白に向き直ると、人好きのする笑みを浮かべた。

「旅行は楽しんでる?」
「ええ、とても」

 今の気分は最低最悪だが、真白は取りつくろって頷いた。

「あなたも旅行ですか?」
「ああ。ぶらりとね」
「おひとりで?」
「そうだよ。あんたもだろう?」

 そう言って笑った彼を前にして、真白は急にあることを思い立った。
 彼に頼めば、恥をかかずに済むかもしれない。

(この人には変に思われるかもだけど……)

 この広いホールで、周りの客に見られながらひとり寂しくアニバーサリーケーキをやけ食いすることに比べれば、断然マシというもの。背に腹は代えられない。
 真白はおずおずと口を開いた。

「あの……もうお食事は決められましたか?」
「ん? ここで食べるメニューを決めたかってこと? まだ来たばかりだからな。これからだよ」
(やった!)

 真白はわらをも掴む思いで彼に言った。

「あの、よかったらご一緒してもらえませんか?」
「俺が?」

 真白の急な申し出に驚いたようだったが、それでもこちらに事情があることは察してくれたらしい。速攻で断られてもおかしくなかったが、彼はそうしなかった。たぶん、いい人なんだろう。だから真白は勇気を振り絞って続けた。

「実は、ここに一緒に来るはずだった人が急に来られなくなりまして……。コースももう頼んでいて、お金も払っているんですけれど、キャンセルするしかなくて……。その……よかったら食べてもらえませんか? お金はいりませんから」
「ああ、そういうこと」

 真白が手を添えたテーブルに、ふたり分のカトラリーセットが並んでいるのを見て、彼は案内をしていたボーイにひと言ふた言なにか告げた。

「じゃあ、甘えるかな」
「ありがとうございます! 助かります」

 彼の答えに安堵あんどして、真白は大きく息をついた。

「どうぞ座ってください」

 ホクホク顔で真白が席をすすめると、彼はクスリと笑って、ゆったりと椅子に腰掛けた。
 ローズガーデンでも思ったが、この人はとても感じがいい。ちょっとぶっきらぼうな口調ではあるが、動作はとても洗練されている。
 宿泊客か、レストランに食事に来ただけかはわからないが、ひとり旅にこんなホテルディナーを選ぶくらいだ。実は育ちがいいのかもしれない。
 どうしてローズガーデンで、この人から逃げなくてはなんて思ったんだろう?

(かっこよすぎるから、かな)

 こんなイケメンが近くに来たから、あのときの自分は妙に焦ってしまったのかもしれない。本当に綺麗な男の人だ。どこか蠱惑的こわくてきですらある。
 真白が席につくと、彼はテーブルに添えてあったメニューの一覧表を手に取って眺めた。

「へぇ、一番いいコースじゃないか」
「それにプラス、ワインとケーキも頼んであります」
「そりゃ奮発ふんぱつしたな。なんかめでたいことでもあったのか?」

 なんでもない調子の彼の問いかけに、胸がズキンとする。
 そう、これはお祝いだった。少なくとも真白にとっては、大切な記念日だったのだ。そして、これからも一緒にいることを良平と誓い合えたらいいと……
 もっとも、そう思っていたのは、真白だけだったようだが。

「……まぁ、そんなところです。でもナシになったので……」
「ふぅん? まぁでも、俺にとってはラッキーだな。可愛い子とタダで飯が食える」

 ニッと笑った彼に見つめられて、真白ははにかみながらうつむいた。

(……可愛いって言われた……)

 場をなごませるためのお世辞だとわかりながらも、可愛いと言われれば嬉しくなる。
 そんなとき、カートを押したソムリエがやって来て、グラスにワインを注いでくれた。

「ご注文のシャトー・レ・ザムルーズ・コトー・ドー・ラルディッシュ・グルナッシュでございます」

 綺麗な赤色に満たされたグラスを見つめて、なんとも言えない気分を味わう。
 レ・ザムルーズ――フランス語で「恋人たち」を意味するこのワインは、記念日にピッタリだとホテルの人にすすめられたもの。
 就職してからワインにりはじめた良平が喜んでくれるかもしれないと思って注文したのだが、まさかこんなことになるとは……

(このワインはもう二度と頼まないだろうなぁ)

 真白が苦笑いしていると、向かいに座った彼がボソリと独りちた。

「……なるほどね」
「え?」

 思わず聞き返す。だが彼は答えずに、そっとグラスをかかげた。

「偶然の出会いに乾杯」

 自分達のことを言っているのだと気が付いて、真白は笑いながら同じようにグラスをかかげた。

「ありがとうございます。乾杯」

 ワインに少し口を付けて、運ばれてきた前菜に舌鼓したつづみを打つ。生ハムにイチゴがトッピングされていたり、人参にんじんにオレンジムースが合わせられていたりと、カラフルな見た目も可愛らしい。
 彼はナイフとフォークを綺麗に使いながら、話を振ってくれた。

「ローズガーデンのあとはどこを回ったんだ?」
「いっぱい行きましたよ。異人館いじんかんでしょ、中華街でしょ、それに展望タワーも。工房ではハーバリウムを作ったんです。知ってます? ハーバリウムって。乾燥させたお花をビンに入れて、特殊なオイルにひたして飾るんです。とっても綺麗なんですよ。わたし、体験型のイベントとか大好きなんです。思い出にもなるし」

 見知らぬ人相手に、饒舌じょうぜつに話す。楽しかったんだと彼に聞かせながら、その実、自分に言い聞かせているのかもしれない。


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