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1巻
1-2
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あらわれたのは肌着代わりの黒いTシャツだ。襟ぐりが大きく開いているから、鎖骨までよく見える。それに結構身体にフィットしている。
(わぁ~何度見てもいい身体。わたしの人台はなんかちょっと猫背なんだよね……やっぱり啓くんの身体がわたしの理想かも)
胸の前で指を組み合わせ、目をキラキラさせながら見つめていると、啓が半目でいやそうな顔をした。
「……あのさ、俺が目の前で脱いでるんだから少しは恥じらえ。ドキドキしろよ。な?」
「え? なんで?」
「なんでって……おまえなぁ……」
啓は呆れているようだが、実はひなみは男の人に目の前で服を脱がれることに抵抗がない。
ひなみは過去何度も啓にプレゼントする服を作ってきた。ついさっきまで彼が着ていたニットも、実はひなみが作ったものなのだ。まだ手作りに慣れていない頃は、仮縫いの状態でのフィッティングモデルを繰り返し彼に頼んでいたし。それこそ、Tシャツ一枚、パンツ一枚の状態で、いやがる彼の全身を採寸しまくったこともある。
それに加えて、仕事でも男性のフィッティングモデルの身体をじっくりと見る機会は多くあるので、啓に限らず男性の下着姿は見慣れているのだ。
「相変わらず啓くんはいい身体してるね。啓くんの身体で型を取った人台がほしいな。ほんと理想的。元モデルにフィッティングを協力してもらえるなんて幸せだよ。眼福、眼福」
思っていることをそのまま言うと、啓はうへっと苦々しい顔をした。
「身体目当てみたいなこと言うな。気色悪い」
啓は小さくため息をつきながらも、黒Tシャツの上に新作のオックスフォードシャツを羽織ってくれる。
ひなみはボタンをとめるのを手伝ってから、彼のまわりを一周した。肩幅も袖の長さも丈も、啓にジャストフィットだ。爽やかな色も、彼によく似合っている。
「大丈夫そうだね。ちょっと腕を上げてみて?」
「ピッタリだ。動きやすい」
腕を上げながら啓が腰をひねる。アームホールが大きいほうがゆったりしていて着心地がいいと思われがちだが、実は違う。アームホールが大きいと、腕を上げた時に裾まで引き上がって重たく、動きにくく感じてしまう。しかしアームホールが小さいければ、そんなことにはならないのだ。
啓も含めて昨今の男性は細身の人が多いから、ひなみはパターンを引く時、意識的にアームホールを小さくして高い位置にしていた。こうすると袖も細く仕上がるから、重ね着をしても腕がもたつくこともない。
食器棚のガラス扉を鏡代わりにしていた啓に、ひなみはさっき彼が脱いだニットを差し出した。
「寒かったら上にこれを重ね着してみたらいいと思う」
啓は言われた通りにニットを重ねて、改めてソファに腰を下ろした。
「ちょうどよくなった。気に入ったから、もうこれ着て帰る」
試着の時の啓はいつもイヤイヤ仕方なくといった感じなのだが、なんだかんだ言いながらもちゃんと協力してくれる。そして最後には決まって「気に入った」と言って、服を受け取ってくれるのだ。そんな啓のぶっきらぼうな優しさに、いつも惹かれてしまう。
「ふふ、ありがとう。じゃあ、それがバレンタインの代わりね」
「ひなみ、バレンタインってのはチョコを渡すイべントなんだぞ」
「そう? 別にいいじゃない」
ひなみは一度も啓にバレンタインのチョコを渡したことはない。お菓子作りは得意でないから、どうしても買ってきたものになってしまう。それに啓はモテるから、チョコなんていろんな女の子からどっさりともらってくるのだ。それは昔からの恒例イベントで、ひなみをいつもヤキモキさせた。
自分なんかがチョコをあげても、きっと他の女の子たちからのチョコの山に埋もれてしまう。なら自分の得意なことで腕を振るいたい、とひなみが思うのは当然のことだろう。
(啓くん、それ本命なんだよ……。わたしが服をプレゼントするのは啓くんにだけなんだよ……)
それが精一杯の気持ちだ。
啓が脱いだ時よりも、自分が作った服を着てくれている時のほうが、自分があなたを包んでいるような気がしてドキドキするのだと言ったら、彼はどう思うだろうか?
ひなみが言えない気持ちを抱えていると、啓が軽く首を傾げた。
「どうした? ぼーっとして。なんかあったのか?」
「ん? ううん。なんでもない」
そう答えたのだが、啓はじっとひなみを見つめてくる。その視線に、探るようなものが含まれているのを感じる。気まずく思い、ひなみは後ろでゆるく団子にした髪を撫で付けた。
本当は転職することを話したほうがいいのかもしれない。でも言いたくなかった。上京することを知ったら、啓は幼馴染みのよしみであれこれ世話を焼こうとしてくれるだろう。そんなことになっては、せっかく彼を諦めようと決めたこの気持ちが鈍ってしまいそうだ。
「ほんと、大丈夫だから」
そう言いながら彼の横に座る。
「ならいいけど。なんかあるなら言えよ。おまえ裁縫以外なーんもできないんだから。中学の頃の調理実習で作った菓子を、黒焦げどころか消し炭にしてたろ」
「うっ……」
痛い過去を突かれて顔が引きつる。
幼馴染みというのはこれだから困る。知られたくない過去も忘れたい過去も、全部お互いがお互いに筒抜けなのだから。
ひなみはモゴモゴと口の中で弁解した。
「そ、それは子供の頃の話だってば。今は違うって。普通のご飯はちゃんと作れるんだから」
普通を強調すると、啓は楽しげに笑ってソファにふんぞり返った。
「ほぉ~? そいつは知らなかった。嫁に行く前に俺が一度味見してやろうか。旦那がひっくり返らないか心配だ」
「い、いいよ……そんなの」
普段通りのやり取りだが、ほんの少し切ない。
啓はひなみが他の男の人のところにお嫁に行くことを当たり前に思っているから、そんなことが言えるのだ。
幼馴染みの壁は強固で、ひなみと啓の世界を護ってくれる代わりに二人を隔てる。この関係が変わることはないだろう。当の本人であるひなみが、この関係を崩すことを恐れているのだから。
「はいはいはい。コーヒーが入りましたよ」
二人の会話に、コーヒーを持ったひなみの母が割って入ってきた。会話どころか、ひなみと啓の間に無理やり大きなお尻を捩じ込んで、啓の隣を横取りする始末だ。二人掛けのソファから押し出されたひなみは、哀れにも床に敷かれたラグの上に正座する羽目になった。
「ありがとうございます、おばさん。いただきます」
「どうぞ、どうぞ。啓ちゃん、お砂糖ひとつやもんね」
ひなみの母は、お節介にもコーヒーに角砂糖を入れて掻きまぜ、啓に差し出す。彼は迷惑そうな素振りさえ見せずに、笑顔で受け取っていた。
ひなみの父が淹れるコーヒーは、豆から挽いたこの店オリジナルの特製ブレンドだ。芳醇な香りと濃厚な味わいで、啓に限らずファンは多い。遠方から豆を買いに来るお客もいる。
本当は店で淹れたてを飲むのが理想なのだが、啓が喫茶店にいると彼のファンに目撃された時に大変なことになってしまうから、この瀬田家の住居スペースで飲んでもらうのが慣例になっていた。
「んー。うまい」
コーヒーを飲む啓を見ていた母親が、ニンマリと笑った。
「あ、啓ちゃん。もらってやってくれたんやね。ひなみのシャツ。ありがと~」
「どうです? 似合いますか?」
「似合う、似合う。啓ちゃんは何着ても似合うから、ひなみも作り甲斐があんでしょ~。啓ちゃんの服ばっかり作ってさ。たまにはあたしらの服も作ってくれたらいいのに」
「わたしはメンズパタンナーなんだけど……」
そりゃあ、レディースも作れないことはないが、人にはやはり得意分野というものがある。それに、店で父が着ているマスターの制服も、今母が着ているエプロンも、作ったのはひなみだ。母の私服だってサイズ直しくらいは普段からしているし、それなりに貢献しているつもりだと懇々と語るひなみの傍らで、まるっきり聞く耳を持たない母親は啓との会話に夢中だ。
「あのね、啓ちゃん。ひなみから聞いた? この子ったら会社辞めちゃったのよ~」
「は?」
母親のぶっちゃけトークに、啓の目が点になっている。
ひなみはアワアワと唇を震わせた。
「な、ななな、お、お母さん!?」
(啓くんには言わないでって言ったのに!)
転職を決めたひと月前にそう頼んでいたものを、もう忘れてしまったのだろうか?
慌てるひなみには一瞥もくれず、母の暴露は止まらない。
「石田さんだか、石坂さんだかいう人に誘われて、その人の会社に行くんやって。それが東京なんよー。初めての一人暮らし、大丈夫やろか?」
「まだ会社辞めてないし! あと一日行くし! それに石田さんでも石坂さんでもなくて石上さんだってば! ってか啓くんには黙っといてって言ったでしょ!?」
耐えきれずに叫ぶ。だが、母親は反省のかけらも見せずにペロッと舌を出し、「そーだっけ?」と、すっとぼけて立ち上がった。
「なんかひなみに怒られたぁ~。怖い、怖い。にーげよっと」
もうすぐ六十歳になろうというのに、女子高生も真っ青な弾けた声を残して、母親はすたこらさっさと店へと下りていってしまった。
そうなると、リビングにはひなみと啓の二人が残されるわけで――
「ひーなーみーさーん?」
意図的に啓から目を逸らしていたひなみだが、呼ばれて無視できるほど、図太い神経は持ちあわせていない。
恐る恐る声のするほうを見ると、ソファに座った啓がニッコリと満面の笑みを浮かべてひなみを見ているではないか。しかも目が笑っていない。三日月形に薄く開いた目は、さながら魔界の魔王様のようで、正直怖い。顔が整っているだけに余計に。
「えっと……あの、その……」
ひなみが言い訳を並べようとまごついていると、啓が自分の足元を指差した。
「おい、ひなみ。おまえ、ちょっとここに座れ」
「はひぃ!」
裏返った声で返事をしつつ、ジャンピング土下座で啓の足元に這いつくばる。すると、ぐいっと顎が持ち上げられた。
「聞いてないんですけどォ?」
「い、言ってませんので……」
なぜか敬語で応対してしまう。それがかえって啓の逆鱗に触れてしまったようで、ずいっと彼の顔が近付いてきた。その距離、わずか三センチ。鼻の頭が今にも触れ合いそうなほど近い距離に、ひなみはクラクラしてきた。しかもなんだか彼はいい匂いがする……
「なんでそんな大事なこと言わないんだよ。今まで、なんだって俺に話してただろ。おばさんに口止めまでして、水臭いじゃないか」
「なんでって……ま、まだ会社辞めてないし……引っ越しもまだ先だし……」
実は引っ越ししてからも言うつもりがなかったことは、この際だから言わないでおこう。相談しなかったことで、啓がこんなに不機嫌になるとは思わなかった。余計なことを言えば、火に油を注ぐどころかダイナマイトをぶち込む結果になりかねない。
啓は眉間に深々と皺を寄せながらも、不承不承といった体でひなみから手を離した。
ソファに凭れる彼は、まだ納得したようには見えない。だが、とりあえずは解放されたことにほっと息をつく。あんなに整った顔が急接近してくるのは、いくら幼馴染みとはいえ心臓に悪い。怒った顔でもイケメンはイケメンだ。ひなみの心臓は、口から飛び出しそうなほどバクバクと大きく脈打っていた。
「いつだ?」
「へ?」
聞かれた意味が瞬時には呑み込めず、きょとんと目を瞬く。すると啓はチッと鋭く舌打ちして、大きな声で言い直してきた。
「いつ引っ越すんだよ?」
「えと、来月中には住むところを見つけたいなって思ってて。実際に働くのは四月から……」
「ふーん。まだ家決まってないのか。で? その石田とかいうのは……まさか男?」
「だから石上さんだってば。男の人だよ。石上先輩は二年前まで同じ会社で働いてたの。わたしに工業パターンをいろいろと指導してくださった方で、とてもお世話になったの。今は独立して、自分のメンズブランドと会社を作って活動されてて。人手が足りないから来てくれないかって……わたしのこと必要だって仰ってくださって……」
自分が転職することになった経緯を話していると、みるみるうちに啓の表情が険しくなっていく。
「啓くん?」
「は……なんだよそれ。おまえ、そいつとデキてんのか? だから俺に相談しなかったのか?」
ひなみの呼びかけには応えず、啓はその整った顔を大きく歪めている。ひなみはというと、啓の言葉は聞こえてはいるものの、意味がわからずに呆然としていた。
「な、なに? それ、どういう意味……?」
「俺になんの相談もしなかったってことは、迷わなかったってことだろ? 同じ会社で働いてたって、まさかずっと男がいたのか? 俺に内緒で? その石上って奴と付き合ってるから、転職に迷わなかったんじゃ――」
目の前がカッと熱くなった。逆流した血液が一気に心臓に流れ込んできたかのように、胸が痛みを覚える。
啓への恋心を諦めようとしたひなみだが、この長年胸に秘めた想いを別の人に向けているなど思われたくない。しかも、よりによって啓に。
悩まなかったわけじゃない。迷わなかったわけじゃない。ひなみなりに必死によく考えて出した決断なのだ。それを言うに事欠いて、石上と付き合ってるのかだなんて!
昂った気持ちが涙になってあふれてきた。
「な、なんでそんなこと言うの? わ、わたしが好きなのはずっとずっと啓くんなのに……!」
言ってしまった。
啓の思い違いを否定するためとはいえ、ずっと言うつもりのなかった気持ちを、ここにきてついに言ってしまった。後悔と安堵が綯い交ぜになった複雑な気持ちが、胸いっぱいに広がっていく。
ひなみは俯いて、ギュッと唇を噛んだ。
まるで時間が止まってしまったのではないかと思うほど、長い時間が経った気がする。なのに啓は何も言わない。ソファに座ったまま、身じろぎひとつしていないようだ。
彼は今どんな表情をしているのだろう? 反応がないことが余計に怖くて、顔を上げられない。
ポタポタと流れ落ちた涙が、ひなみの手の甲を濡らした。
恋なんかしているから、こんなに苦しいのだ。どうせ叶わない恋なのだから、早く終わってほしい。
自分の意思で終わらせられないから環境を変えようとしたのに、それが啓の意に沿わないと言うのなら、もう彼に終わらせてもらう他ないではないか。
「もう、やだ。早く失恋しちゃいたい。啓くん、早く振ってよ……」
長い沈黙に耐えかねて、泣き声を押し殺しながら呟く。すると、ラグに啓が膝を突いた。
「なんで……そんなこと言う?」
そう言った啓の声が困惑している。自分の気持ちはやっぱり彼を困らせるだけのものだったのだと思って、ひなみはますます涙した。
「だって……、無理、だもん。啓くんは、西條要なんだから……。わたしなんか、絶対釣り合わない……」
ひた隠しにしてきたマイナス思考を吐露すると、頭の上に啓のため息が落ちてきた。それが呆れ果てたものに聞こえて、彼を困らせるどころか嫌われてしまったのではないかとひなみをビクつかせる。
(どうしよう……啓くんに嫌われるのはいやだ……絶対にいや……)
振られる覚悟はしていても、嫌われるのだけはいやだ。浅ましくも、幼馴染みの距離は保ち続けたくて彼から離れようとしていたのに、それすら叶わないなんて。
やっぱり告白なんてするんじゃなかった――
そうひなみが後悔していると、大きくて温かい手のひらに、よしよしと頭を撫でられた。
「そんなこと考えてたのか? えらく俺を買い被ってくれてんだな、おまえは」
呆れてはいるものの、啓の声色がいつもよりも優しい気がして、ひなみはおずおずと顔を上げた。
「ばーか。そんなに泣くなよ」
頭を撫でていた啓の手が、今度は涙を拭ってくれる。
頬を両手で包み込み、コツンと額を合わせるその仕草は、ひなみを嫌っている態度ではない。同情なのか優しさなのかまではわからなかったが、彼がそうしてくれるのが嬉しくて、ひなみは泣きながら目を閉じた。
「ひなみがそんなふうに考えてたなんて知らなかった……。でもさ、俺はひなみが思ってるような男じゃないかもしれない。実際に俺と付き合ったら、ついていけないって幻滅するかもしれないぞ?」
「……そんなこと、絶対にないよ。啓くんが優しいの、わたし知ってるんだから……」
時々、つっけんどんな物言いをしてくることもあるけれど、その裏ではいつも優しい。少し照れ屋なだけで、人一倍真面目で気を使う性格の啓。
西條要は世間の女性の王子様となっているが、そんな啓が自分には無骨な素顔を見せてくれる。その現実に優越感を持っていたことを、ひなみは否定できない。それが幼馴染みの特権であり、ひなみの足枷だったのだ。
啓の親指が頬の上を繰り返し滑るのを感じながら、ほっと息を吐く。頬と額から伝わる彼の体温に安心して、少し力が抜けた。
「あのさ、ひなみ」
呼ばれて、ゆっくりと目を開ける。同時に、啓との距離が近いことに気まずさを覚えて身体を引こうとしたのだが、彼の手に肩を抱かれて制止されてしまう。結局ひなみは、至近距離で視線を合わせることに耐えかねて、目を逸らして話を促した。
「な、なぁに?」
「ひなみが俺のこと好きならさ。俺と付き合ってみるか?」
「……え?」
思ってもみないことを言われ、驚いて啓を見ると、彼は優しい眼差しで笑っていた。
「俺さ、おまえのこと嫌いじゃないから、振ってくれって言われても無理なんだわ。どうせならトコトン付き合えばいいだろ?」
軽い口調で言うが、内容は衝撃的だ。唐突すぎて、涙も引っ込んでしまう。
「つ、付き合うの……? わたしと、啓くんが? なんで?」
「……なんでって。いやならいいよ」
途端に素っ気なくなった啓が、ひなみをあしらってソファに座り直す。それが心の距離をあけられたように感じ、ひなみは思わず彼を追いかけていた。
ラグに座ったまま、啓のニットの裾を握りしめ、彼を見上げる。だけど、言葉が出てこない。
「……」
「どうする? 俺と付き合う?」
振る理由がないと彼は言った。ひなみのことは嫌いではないとも。それは恋愛感情というより、友情の延長ではないのか。自分に対してそういう感情しか持たない相手と、付き合ってもいいのだろうか。
思えば、ひなみは啓が好きという気持ちをずっと持ち続けてきたが、彼とどうこうなりたいなどと考えたことはなかった。意図的に考えないようにしていたのかもしれないが、啓と付き合う自分が想像できない。
だが――、ひなみに断るという選択肢はなかった。啓が自分と付き合ってもいいと言ってくれたのだ。
一人、部屋でうじうじと悩んでいた時とは違うほうへ、啓の手によって引き上げられていくようだ。
気が付けばひなみは、こくんと頷いていた。
「よし。じゃあ、今からおまえは俺の彼女な」
啓が、座り込んだままのひなみの手を取ってぐいっと引き起こし、自分の隣に座らせる。そして彼は、不敵に笑った。
「そうだな……。ひなみが上京するなら、一緒に住むか」
「えっ、えっ?」
啓は「住むか?」とひなみの意思を聞いているわけではない。「住むか」と決めにかかっている口振りだ。
目を白黒させるひなみをよそに啓は大きく伸びをして、天井を仰いだ。
「俺の今のマンションな、あの記事のせいか記者が張り込んでてさ。実はあんまり帰ってないんだわ。ホテルとかマネージャーの家に泊まるのも飽きたし。どうせ他に部屋借りるつもりだったからちょうどいいや。ひなみの新しい職場はどこになるんだ?」
「青山だけど……。え、でも……」
啓が置かれている状況と言い分はわかったが、彼と付き合うことになったこともまだ信じられないのに、一緒に住む? 展開が速くて、頭がこんがらがってきた。
(啓くんと一緒に住むって……わたしが? 二人で? それ、いいの?)
もちろんそうなったら嬉しいが、西條要と一緒に住むなんて、世間の女性ファンが許してくれないような気がする。
しかし――
「青山な。わかった。ああ、おじさんとおばさんにちゃんと話してからじゃないとな。こういうのは早いほうがいい」
啓はひなみの心配とはまったく違う方向に気を回しているのか、言うなり立ち上がった。
「ちょっと行ってくる」
「へ? 行くってどこへ?」
「下に決まってるだろ」
未だに理解の追いつかないひなみを置き去りにし、啓は一人で瀬田家の玄関を抜けて、一階の喫茶店の勝手口を開ける。ひなみは慌てて彼のあとを追った。
「啓くん!」
ひなみの呼び声は聞こえているはずなのに、彼は止まらない。キッチンを抜けてホールにまで入っていく。
昼のピークからしばらく経っているので、喫茶店にお客の姿がないのが幸いだ。ホールの中央で立ち止まった啓は、のんびりと窓を拭いているひなみの両親に、明るい声で話しかけた。
「おじさん、おばさん。さっきひなみが、俺のこと好きって言ってくれたんです。俺もひなみのことずっと好きだったから嬉しくって。俺、ひなみが上京してくるなら一緒に住みたいんだけどいいですか?」
ついさっきまで二階で繰り広げていたことを、凄まじく歪曲した形で吐き出される。ひなみは啓の後ろ姿を見つめたまま、水から揚げられた金魚のように口をパクパクと動かした。
(お父さんとお母さんに何言っちゃってるの!? 一緒に住むって本気なの?)
いや、ひなみにとってそれ以上に衝撃だったのは、「俺もひなみのことずっと好きだったから」の部分だ。そんなこと、彼は二階で一言も言っていなかったではないか。
……冗談なのだろうか? それとも同棲の許可をもらうための方便なのだろうか?
(方便かもしれないけれど、いきなり同棲だなんて言ったら、お父さんもお母さんも驚くに決まってる――)
――そう思って両親を見ると、案の定、特に父親のほうが目も口もぽっかりと開けて驚いていた。
「は? おまえら、まだ付き合っとらんかったんか?」
「そっち!?」
思わずツッコミを入れてしまったひなみを遮って、母親は豪快に笑う。
「実はそうなのよぉ~。ひなみが素直じゃないからもたついちゃって。啓ちゃんが美人女優と噂になったもんだから焦ったんやない? 小川さんの奥さんと二人でヤキモキしとったんよぉ~。やっとまとまるところにまとまったみたいやね」
「なんだ。啓ちゃんの親父さんと、東京と神戸っちゅう距離があかんから、ひなみは転職するんやないかって、話しとったばっかりやったのに」
(いや、なんか違うんだけど……)
悩み抜いた末に出した転職という結論を、ものすごく妙な形で取り違えられて、軽く脱力してしまう。どうりで、両親に転職を反対されなかったはずだ。
それどころか、ひなみと啓が前から付き合っていたと思い込んでいたらしい父親を見ていると、一から説明する気も失せる。
啓への気持ちを一度も人に話したことはなかったのに、自分の両親だけでなく、啓の両親にまで筒抜けだったのか。恥ずかしいやら、悔しいやらで複雑だ。
しかも、
「ひなみが東京で一人暮らしやなんて心配やったけど、啓ちゃんが一緒に住んでくれるんやったら安心やわ」
「そやな。つーか俺は最初から二人は同棲するんやとばかり思ってたかんな。啓ちゃん、ひなみの面倒頼むわ~」
「はい。任せてください」
だなんて、三人して笑い合っているのだ。
(な、なんか……とんでもないことになったような……)
顔を引きつらせ何も言えないでいるひなみを、満面の笑みを浮かべた啓が振り返った。
「じゃあ、ひなみ。部屋見せてよ」
「へ、部屋? わたしの?」
繰り返すひなみに、彼は芝居がかった仕草で肩を竦めた。
「俺、今日の夜には東京に帰るからさ。俺が部屋を探しておくほうが効率いいだろ。ひなみが持ってくる荷物の量を、目安として知っておかなきゃなんないからな」
東京の地理に疎い上に、一度も一人暮らしをしたことのないひなみが物件を探すよりも、啓に見繕ってもらったほうが確かに効率がいい。それに、ひなみの荷物には、服作りに使う工業用ミシンや、人台、作業台などの大物がある。書籍類は置いていけても、服作りの道具は置いていけない。
「ひなみ。部屋のことは、啓ちゃんに全部任せんね。そのほうがええんちゃう?」
「う、うん……わかった……」
なんだかまだいろいろと釈然としない思いはあるが、今は何かと口を挟んできそうな両親の前から離れたくて、ひなみは頷いた。
(わぁ~何度見てもいい身体。わたしの人台はなんかちょっと猫背なんだよね……やっぱり啓くんの身体がわたしの理想かも)
胸の前で指を組み合わせ、目をキラキラさせながら見つめていると、啓が半目でいやそうな顔をした。
「……あのさ、俺が目の前で脱いでるんだから少しは恥じらえ。ドキドキしろよ。な?」
「え? なんで?」
「なんでって……おまえなぁ……」
啓は呆れているようだが、実はひなみは男の人に目の前で服を脱がれることに抵抗がない。
ひなみは過去何度も啓にプレゼントする服を作ってきた。ついさっきまで彼が着ていたニットも、実はひなみが作ったものなのだ。まだ手作りに慣れていない頃は、仮縫いの状態でのフィッティングモデルを繰り返し彼に頼んでいたし。それこそ、Tシャツ一枚、パンツ一枚の状態で、いやがる彼の全身を採寸しまくったこともある。
それに加えて、仕事でも男性のフィッティングモデルの身体をじっくりと見る機会は多くあるので、啓に限らず男性の下着姿は見慣れているのだ。
「相変わらず啓くんはいい身体してるね。啓くんの身体で型を取った人台がほしいな。ほんと理想的。元モデルにフィッティングを協力してもらえるなんて幸せだよ。眼福、眼福」
思っていることをそのまま言うと、啓はうへっと苦々しい顔をした。
「身体目当てみたいなこと言うな。気色悪い」
啓は小さくため息をつきながらも、黒Tシャツの上に新作のオックスフォードシャツを羽織ってくれる。
ひなみはボタンをとめるのを手伝ってから、彼のまわりを一周した。肩幅も袖の長さも丈も、啓にジャストフィットだ。爽やかな色も、彼によく似合っている。
「大丈夫そうだね。ちょっと腕を上げてみて?」
「ピッタリだ。動きやすい」
腕を上げながら啓が腰をひねる。アームホールが大きいほうがゆったりしていて着心地がいいと思われがちだが、実は違う。アームホールが大きいと、腕を上げた時に裾まで引き上がって重たく、動きにくく感じてしまう。しかしアームホールが小さいければ、そんなことにはならないのだ。
啓も含めて昨今の男性は細身の人が多いから、ひなみはパターンを引く時、意識的にアームホールを小さくして高い位置にしていた。こうすると袖も細く仕上がるから、重ね着をしても腕がもたつくこともない。
食器棚のガラス扉を鏡代わりにしていた啓に、ひなみはさっき彼が脱いだニットを差し出した。
「寒かったら上にこれを重ね着してみたらいいと思う」
啓は言われた通りにニットを重ねて、改めてソファに腰を下ろした。
「ちょうどよくなった。気に入ったから、もうこれ着て帰る」
試着の時の啓はいつもイヤイヤ仕方なくといった感じなのだが、なんだかんだ言いながらもちゃんと協力してくれる。そして最後には決まって「気に入った」と言って、服を受け取ってくれるのだ。そんな啓のぶっきらぼうな優しさに、いつも惹かれてしまう。
「ふふ、ありがとう。じゃあ、それがバレンタインの代わりね」
「ひなみ、バレンタインってのはチョコを渡すイべントなんだぞ」
「そう? 別にいいじゃない」
ひなみは一度も啓にバレンタインのチョコを渡したことはない。お菓子作りは得意でないから、どうしても買ってきたものになってしまう。それに啓はモテるから、チョコなんていろんな女の子からどっさりともらってくるのだ。それは昔からの恒例イベントで、ひなみをいつもヤキモキさせた。
自分なんかがチョコをあげても、きっと他の女の子たちからのチョコの山に埋もれてしまう。なら自分の得意なことで腕を振るいたい、とひなみが思うのは当然のことだろう。
(啓くん、それ本命なんだよ……。わたしが服をプレゼントするのは啓くんにだけなんだよ……)
それが精一杯の気持ちだ。
啓が脱いだ時よりも、自分が作った服を着てくれている時のほうが、自分があなたを包んでいるような気がしてドキドキするのだと言ったら、彼はどう思うだろうか?
ひなみが言えない気持ちを抱えていると、啓が軽く首を傾げた。
「どうした? ぼーっとして。なんかあったのか?」
「ん? ううん。なんでもない」
そう答えたのだが、啓はじっとひなみを見つめてくる。その視線に、探るようなものが含まれているのを感じる。気まずく思い、ひなみは後ろでゆるく団子にした髪を撫で付けた。
本当は転職することを話したほうがいいのかもしれない。でも言いたくなかった。上京することを知ったら、啓は幼馴染みのよしみであれこれ世話を焼こうとしてくれるだろう。そんなことになっては、せっかく彼を諦めようと決めたこの気持ちが鈍ってしまいそうだ。
「ほんと、大丈夫だから」
そう言いながら彼の横に座る。
「ならいいけど。なんかあるなら言えよ。おまえ裁縫以外なーんもできないんだから。中学の頃の調理実習で作った菓子を、黒焦げどころか消し炭にしてたろ」
「うっ……」
痛い過去を突かれて顔が引きつる。
幼馴染みというのはこれだから困る。知られたくない過去も忘れたい過去も、全部お互いがお互いに筒抜けなのだから。
ひなみはモゴモゴと口の中で弁解した。
「そ、それは子供の頃の話だってば。今は違うって。普通のご飯はちゃんと作れるんだから」
普通を強調すると、啓は楽しげに笑ってソファにふんぞり返った。
「ほぉ~? そいつは知らなかった。嫁に行く前に俺が一度味見してやろうか。旦那がひっくり返らないか心配だ」
「い、いいよ……そんなの」
普段通りのやり取りだが、ほんの少し切ない。
啓はひなみが他の男の人のところにお嫁に行くことを当たり前に思っているから、そんなことが言えるのだ。
幼馴染みの壁は強固で、ひなみと啓の世界を護ってくれる代わりに二人を隔てる。この関係が変わることはないだろう。当の本人であるひなみが、この関係を崩すことを恐れているのだから。
「はいはいはい。コーヒーが入りましたよ」
二人の会話に、コーヒーを持ったひなみの母が割って入ってきた。会話どころか、ひなみと啓の間に無理やり大きなお尻を捩じ込んで、啓の隣を横取りする始末だ。二人掛けのソファから押し出されたひなみは、哀れにも床に敷かれたラグの上に正座する羽目になった。
「ありがとうございます、おばさん。いただきます」
「どうぞ、どうぞ。啓ちゃん、お砂糖ひとつやもんね」
ひなみの母は、お節介にもコーヒーに角砂糖を入れて掻きまぜ、啓に差し出す。彼は迷惑そうな素振りさえ見せずに、笑顔で受け取っていた。
ひなみの父が淹れるコーヒーは、豆から挽いたこの店オリジナルの特製ブレンドだ。芳醇な香りと濃厚な味わいで、啓に限らずファンは多い。遠方から豆を買いに来るお客もいる。
本当は店で淹れたてを飲むのが理想なのだが、啓が喫茶店にいると彼のファンに目撃された時に大変なことになってしまうから、この瀬田家の住居スペースで飲んでもらうのが慣例になっていた。
「んー。うまい」
コーヒーを飲む啓を見ていた母親が、ニンマリと笑った。
「あ、啓ちゃん。もらってやってくれたんやね。ひなみのシャツ。ありがと~」
「どうです? 似合いますか?」
「似合う、似合う。啓ちゃんは何着ても似合うから、ひなみも作り甲斐があんでしょ~。啓ちゃんの服ばっかり作ってさ。たまにはあたしらの服も作ってくれたらいいのに」
「わたしはメンズパタンナーなんだけど……」
そりゃあ、レディースも作れないことはないが、人にはやはり得意分野というものがある。それに、店で父が着ているマスターの制服も、今母が着ているエプロンも、作ったのはひなみだ。母の私服だってサイズ直しくらいは普段からしているし、それなりに貢献しているつもりだと懇々と語るひなみの傍らで、まるっきり聞く耳を持たない母親は啓との会話に夢中だ。
「あのね、啓ちゃん。ひなみから聞いた? この子ったら会社辞めちゃったのよ~」
「は?」
母親のぶっちゃけトークに、啓の目が点になっている。
ひなみはアワアワと唇を震わせた。
「な、ななな、お、お母さん!?」
(啓くんには言わないでって言ったのに!)
転職を決めたひと月前にそう頼んでいたものを、もう忘れてしまったのだろうか?
慌てるひなみには一瞥もくれず、母の暴露は止まらない。
「石田さんだか、石坂さんだかいう人に誘われて、その人の会社に行くんやって。それが東京なんよー。初めての一人暮らし、大丈夫やろか?」
「まだ会社辞めてないし! あと一日行くし! それに石田さんでも石坂さんでもなくて石上さんだってば! ってか啓くんには黙っといてって言ったでしょ!?」
耐えきれずに叫ぶ。だが、母親は反省のかけらも見せずにペロッと舌を出し、「そーだっけ?」と、すっとぼけて立ち上がった。
「なんかひなみに怒られたぁ~。怖い、怖い。にーげよっと」
もうすぐ六十歳になろうというのに、女子高生も真っ青な弾けた声を残して、母親はすたこらさっさと店へと下りていってしまった。
そうなると、リビングにはひなみと啓の二人が残されるわけで――
「ひーなーみーさーん?」
意図的に啓から目を逸らしていたひなみだが、呼ばれて無視できるほど、図太い神経は持ちあわせていない。
恐る恐る声のするほうを見ると、ソファに座った啓がニッコリと満面の笑みを浮かべてひなみを見ているではないか。しかも目が笑っていない。三日月形に薄く開いた目は、さながら魔界の魔王様のようで、正直怖い。顔が整っているだけに余計に。
「えっと……あの、その……」
ひなみが言い訳を並べようとまごついていると、啓が自分の足元を指差した。
「おい、ひなみ。おまえ、ちょっとここに座れ」
「はひぃ!」
裏返った声で返事をしつつ、ジャンピング土下座で啓の足元に這いつくばる。すると、ぐいっと顎が持ち上げられた。
「聞いてないんですけどォ?」
「い、言ってませんので……」
なぜか敬語で応対してしまう。それがかえって啓の逆鱗に触れてしまったようで、ずいっと彼の顔が近付いてきた。その距離、わずか三センチ。鼻の頭が今にも触れ合いそうなほど近い距離に、ひなみはクラクラしてきた。しかもなんだか彼はいい匂いがする……
「なんでそんな大事なこと言わないんだよ。今まで、なんだって俺に話してただろ。おばさんに口止めまでして、水臭いじゃないか」
「なんでって……ま、まだ会社辞めてないし……引っ越しもまだ先だし……」
実は引っ越ししてからも言うつもりがなかったことは、この際だから言わないでおこう。相談しなかったことで、啓がこんなに不機嫌になるとは思わなかった。余計なことを言えば、火に油を注ぐどころかダイナマイトをぶち込む結果になりかねない。
啓は眉間に深々と皺を寄せながらも、不承不承といった体でひなみから手を離した。
ソファに凭れる彼は、まだ納得したようには見えない。だが、とりあえずは解放されたことにほっと息をつく。あんなに整った顔が急接近してくるのは、いくら幼馴染みとはいえ心臓に悪い。怒った顔でもイケメンはイケメンだ。ひなみの心臓は、口から飛び出しそうなほどバクバクと大きく脈打っていた。
「いつだ?」
「へ?」
聞かれた意味が瞬時には呑み込めず、きょとんと目を瞬く。すると啓はチッと鋭く舌打ちして、大きな声で言い直してきた。
「いつ引っ越すんだよ?」
「えと、来月中には住むところを見つけたいなって思ってて。実際に働くのは四月から……」
「ふーん。まだ家決まってないのか。で? その石田とかいうのは……まさか男?」
「だから石上さんだってば。男の人だよ。石上先輩は二年前まで同じ会社で働いてたの。わたしに工業パターンをいろいろと指導してくださった方で、とてもお世話になったの。今は独立して、自分のメンズブランドと会社を作って活動されてて。人手が足りないから来てくれないかって……わたしのこと必要だって仰ってくださって……」
自分が転職することになった経緯を話していると、みるみるうちに啓の表情が険しくなっていく。
「啓くん?」
「は……なんだよそれ。おまえ、そいつとデキてんのか? だから俺に相談しなかったのか?」
ひなみの呼びかけには応えず、啓はその整った顔を大きく歪めている。ひなみはというと、啓の言葉は聞こえてはいるものの、意味がわからずに呆然としていた。
「な、なに? それ、どういう意味……?」
「俺になんの相談もしなかったってことは、迷わなかったってことだろ? 同じ会社で働いてたって、まさかずっと男がいたのか? 俺に内緒で? その石上って奴と付き合ってるから、転職に迷わなかったんじゃ――」
目の前がカッと熱くなった。逆流した血液が一気に心臓に流れ込んできたかのように、胸が痛みを覚える。
啓への恋心を諦めようとしたひなみだが、この長年胸に秘めた想いを別の人に向けているなど思われたくない。しかも、よりによって啓に。
悩まなかったわけじゃない。迷わなかったわけじゃない。ひなみなりに必死によく考えて出した決断なのだ。それを言うに事欠いて、石上と付き合ってるのかだなんて!
昂った気持ちが涙になってあふれてきた。
「な、なんでそんなこと言うの? わ、わたしが好きなのはずっとずっと啓くんなのに……!」
言ってしまった。
啓の思い違いを否定するためとはいえ、ずっと言うつもりのなかった気持ちを、ここにきてついに言ってしまった。後悔と安堵が綯い交ぜになった複雑な気持ちが、胸いっぱいに広がっていく。
ひなみは俯いて、ギュッと唇を噛んだ。
まるで時間が止まってしまったのではないかと思うほど、長い時間が経った気がする。なのに啓は何も言わない。ソファに座ったまま、身じろぎひとつしていないようだ。
彼は今どんな表情をしているのだろう? 反応がないことが余計に怖くて、顔を上げられない。
ポタポタと流れ落ちた涙が、ひなみの手の甲を濡らした。
恋なんかしているから、こんなに苦しいのだ。どうせ叶わない恋なのだから、早く終わってほしい。
自分の意思で終わらせられないから環境を変えようとしたのに、それが啓の意に沿わないと言うのなら、もう彼に終わらせてもらう他ないではないか。
「もう、やだ。早く失恋しちゃいたい。啓くん、早く振ってよ……」
長い沈黙に耐えかねて、泣き声を押し殺しながら呟く。すると、ラグに啓が膝を突いた。
「なんで……そんなこと言う?」
そう言った啓の声が困惑している。自分の気持ちはやっぱり彼を困らせるだけのものだったのだと思って、ひなみはますます涙した。
「だって……、無理、だもん。啓くんは、西條要なんだから……。わたしなんか、絶対釣り合わない……」
ひた隠しにしてきたマイナス思考を吐露すると、頭の上に啓のため息が落ちてきた。それが呆れ果てたものに聞こえて、彼を困らせるどころか嫌われてしまったのではないかとひなみをビクつかせる。
(どうしよう……啓くんに嫌われるのはいやだ……絶対にいや……)
振られる覚悟はしていても、嫌われるのだけはいやだ。浅ましくも、幼馴染みの距離は保ち続けたくて彼から離れようとしていたのに、それすら叶わないなんて。
やっぱり告白なんてするんじゃなかった――
そうひなみが後悔していると、大きくて温かい手のひらに、よしよしと頭を撫でられた。
「そんなこと考えてたのか? えらく俺を買い被ってくれてんだな、おまえは」
呆れてはいるものの、啓の声色がいつもよりも優しい気がして、ひなみはおずおずと顔を上げた。
「ばーか。そんなに泣くなよ」
頭を撫でていた啓の手が、今度は涙を拭ってくれる。
頬を両手で包み込み、コツンと額を合わせるその仕草は、ひなみを嫌っている態度ではない。同情なのか優しさなのかまではわからなかったが、彼がそうしてくれるのが嬉しくて、ひなみは泣きながら目を閉じた。
「ひなみがそんなふうに考えてたなんて知らなかった……。でもさ、俺はひなみが思ってるような男じゃないかもしれない。実際に俺と付き合ったら、ついていけないって幻滅するかもしれないぞ?」
「……そんなこと、絶対にないよ。啓くんが優しいの、わたし知ってるんだから……」
時々、つっけんどんな物言いをしてくることもあるけれど、その裏ではいつも優しい。少し照れ屋なだけで、人一倍真面目で気を使う性格の啓。
西條要は世間の女性の王子様となっているが、そんな啓が自分には無骨な素顔を見せてくれる。その現実に優越感を持っていたことを、ひなみは否定できない。それが幼馴染みの特権であり、ひなみの足枷だったのだ。
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「あのさ、ひなみ」
呼ばれて、ゆっくりと目を開ける。同時に、啓との距離が近いことに気まずさを覚えて身体を引こうとしたのだが、彼の手に肩を抱かれて制止されてしまう。結局ひなみは、至近距離で視線を合わせることに耐えかねて、目を逸らして話を促した。
「な、なぁに?」
「ひなみが俺のこと好きならさ。俺と付き合ってみるか?」
「……え?」
思ってもみないことを言われ、驚いて啓を見ると、彼は優しい眼差しで笑っていた。
「俺さ、おまえのこと嫌いじゃないから、振ってくれって言われても無理なんだわ。どうせならトコトン付き合えばいいだろ?」
軽い口調で言うが、内容は衝撃的だ。唐突すぎて、涙も引っ込んでしまう。
「つ、付き合うの……? わたしと、啓くんが? なんで?」
「……なんでって。いやならいいよ」
途端に素っ気なくなった啓が、ひなみをあしらってソファに座り直す。それが心の距離をあけられたように感じ、ひなみは思わず彼を追いかけていた。
ラグに座ったまま、啓のニットの裾を握りしめ、彼を見上げる。だけど、言葉が出てこない。
「……」
「どうする? 俺と付き合う?」
振る理由がないと彼は言った。ひなみのことは嫌いではないとも。それは恋愛感情というより、友情の延長ではないのか。自分に対してそういう感情しか持たない相手と、付き合ってもいいのだろうか。
思えば、ひなみは啓が好きという気持ちをずっと持ち続けてきたが、彼とどうこうなりたいなどと考えたことはなかった。意図的に考えないようにしていたのかもしれないが、啓と付き合う自分が想像できない。
だが――、ひなみに断るという選択肢はなかった。啓が自分と付き合ってもいいと言ってくれたのだ。
一人、部屋でうじうじと悩んでいた時とは違うほうへ、啓の手によって引き上げられていくようだ。
気が付けばひなみは、こくんと頷いていた。
「よし。じゃあ、今からおまえは俺の彼女な」
啓が、座り込んだままのひなみの手を取ってぐいっと引き起こし、自分の隣に座らせる。そして彼は、不敵に笑った。
「そうだな……。ひなみが上京するなら、一緒に住むか」
「えっ、えっ?」
啓は「住むか?」とひなみの意思を聞いているわけではない。「住むか」と決めにかかっている口振りだ。
目を白黒させるひなみをよそに啓は大きく伸びをして、天井を仰いだ。
「俺の今のマンションな、あの記事のせいか記者が張り込んでてさ。実はあんまり帰ってないんだわ。ホテルとかマネージャーの家に泊まるのも飽きたし。どうせ他に部屋借りるつもりだったからちょうどいいや。ひなみの新しい職場はどこになるんだ?」
「青山だけど……。え、でも……」
啓が置かれている状況と言い分はわかったが、彼と付き合うことになったこともまだ信じられないのに、一緒に住む? 展開が速くて、頭がこんがらがってきた。
(啓くんと一緒に住むって……わたしが? 二人で? それ、いいの?)
もちろんそうなったら嬉しいが、西條要と一緒に住むなんて、世間の女性ファンが許してくれないような気がする。
しかし――
「青山な。わかった。ああ、おじさんとおばさんにちゃんと話してからじゃないとな。こういうのは早いほうがいい」
啓はひなみの心配とはまったく違う方向に気を回しているのか、言うなり立ち上がった。
「ちょっと行ってくる」
「へ? 行くってどこへ?」
「下に決まってるだろ」
未だに理解の追いつかないひなみを置き去りにし、啓は一人で瀬田家の玄関を抜けて、一階の喫茶店の勝手口を開ける。ひなみは慌てて彼のあとを追った。
「啓くん!」
ひなみの呼び声は聞こえているはずなのに、彼は止まらない。キッチンを抜けてホールにまで入っていく。
昼のピークからしばらく経っているので、喫茶店にお客の姿がないのが幸いだ。ホールの中央で立ち止まった啓は、のんびりと窓を拭いているひなみの両親に、明るい声で話しかけた。
「おじさん、おばさん。さっきひなみが、俺のこと好きって言ってくれたんです。俺もひなみのことずっと好きだったから嬉しくって。俺、ひなみが上京してくるなら一緒に住みたいんだけどいいですか?」
ついさっきまで二階で繰り広げていたことを、凄まじく歪曲した形で吐き出される。ひなみは啓の後ろ姿を見つめたまま、水から揚げられた金魚のように口をパクパクと動かした。
(お父さんとお母さんに何言っちゃってるの!? 一緒に住むって本気なの?)
いや、ひなみにとってそれ以上に衝撃だったのは、「俺もひなみのことずっと好きだったから」の部分だ。そんなこと、彼は二階で一言も言っていなかったではないか。
……冗談なのだろうか? それとも同棲の許可をもらうための方便なのだろうか?
(方便かもしれないけれど、いきなり同棲だなんて言ったら、お父さんもお母さんも驚くに決まってる――)
――そう思って両親を見ると、案の定、特に父親のほうが目も口もぽっかりと開けて驚いていた。
「は? おまえら、まだ付き合っとらんかったんか?」
「そっち!?」
思わずツッコミを入れてしまったひなみを遮って、母親は豪快に笑う。
「実はそうなのよぉ~。ひなみが素直じゃないからもたついちゃって。啓ちゃんが美人女優と噂になったもんだから焦ったんやない? 小川さんの奥さんと二人でヤキモキしとったんよぉ~。やっとまとまるところにまとまったみたいやね」
「なんだ。啓ちゃんの親父さんと、東京と神戸っちゅう距離があかんから、ひなみは転職するんやないかって、話しとったばっかりやったのに」
(いや、なんか違うんだけど……)
悩み抜いた末に出した転職という結論を、ものすごく妙な形で取り違えられて、軽く脱力してしまう。どうりで、両親に転職を反対されなかったはずだ。
それどころか、ひなみと啓が前から付き合っていたと思い込んでいたらしい父親を見ていると、一から説明する気も失せる。
啓への気持ちを一度も人に話したことはなかったのに、自分の両親だけでなく、啓の両親にまで筒抜けだったのか。恥ずかしいやら、悔しいやらで複雑だ。
しかも、
「ひなみが東京で一人暮らしやなんて心配やったけど、啓ちゃんが一緒に住んでくれるんやったら安心やわ」
「そやな。つーか俺は最初から二人は同棲するんやとばかり思ってたかんな。啓ちゃん、ひなみの面倒頼むわ~」
「はい。任せてください」
だなんて、三人して笑い合っているのだ。
(な、なんか……とんでもないことになったような……)
顔を引きつらせ何も言えないでいるひなみを、満面の笑みを浮かべた啓が振り返った。
「じゃあ、ひなみ。部屋見せてよ」
「へ、部屋? わたしの?」
繰り返すひなみに、彼は芝居がかった仕草で肩を竦めた。
「俺、今日の夜には東京に帰るからさ。俺が部屋を探しておくほうが効率いいだろ。ひなみが持ってくる荷物の量を、目安として知っておかなきゃなんないからな」
東京の地理に疎い上に、一度も一人暮らしをしたことのないひなみが物件を探すよりも、啓に見繕ってもらったほうが確かに効率がいい。それに、ひなみの荷物には、服作りに使う工業用ミシンや、人台、作業台などの大物がある。書籍類は置いていけても、服作りの道具は置いていけない。
「ひなみ。部屋のことは、啓ちゃんに全部任せんね。そのほうがええんちゃう?」
「う、うん……わかった……」
なんだかまだいろいろと釈然としない思いはあるが、今は何かと口を挟んできそうな両親の前から離れたくて、ひなみは頷いた。
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