失恋する方法、おしえてください

槇原まき

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1巻

1-3


「じゃあ、えと、行こ……」

 再び瀬田家の住居スペースに戻って、三階へと案内する。
 啓がひなみの部屋に入るのは本当に久しぶりだ。お互いの部屋を行き来していたのは高校生の頃までだった。啓が東京の大学に、ひなみは地元の四年制の服飾系学校に進学してからは、なぜか家族をまじえてリビングで会うことが多くなっていたのだ。

「ど、どうぞ」

 妙に緊張しながら自室のドアを開ける。
 普通の部屋にはない、ミシン台や、作業台代わりの折りたたみテーブル、人台が鎮座している。下手をすると作業部屋のような無機質なイメージになりかねないが、そこはひなみが取り揃えた白とピンクを基調にした家具のおかげで、全体的に可愛らしい雰囲気になっている。

「あの本棚は置いていこうかと思ってるの。本も荷物になるし。服も全部持っていくつもりはなくて、シーズン毎に実家に送ったりして入れ替えすればいいかなーって……」

 啓は部屋を見回しながら、ふんふんと頷いている。

「なるほどね。なんとなくわかった」
「あの、本当に一緒に住むの? ってか付き合うの? わたし……たち……」
(さっき下でお父さんとお母さんに言ったのは本当? わたしのこと、好き……なの?)

 一番聞きたかったことは聞けなかったが、それでも心に引っかかっていた質問を投げかける。部屋の中央に立っていた啓は、ゆったりとひなみを振り返ってきた。

「住むよ? 付き合うよ? 当たり前だろ。家賃の心配ならしなくていいぞ。俺の隠れ家だから俺が出すし」

 だいぶ軽い口調で返された。今ならこのノリで、自分のことを好きなのかどうかも聞けそうな気がする。
 ひなみはモジモジと下を向きながらも、自分が持てるすべての勇気を振り絞って、一番聞きたかったことを聞くべく一歩彼に近付いた。

「あ、あのさ……さっき――」
「ひなみー」

 くいっと腰を抱かれて慌てて顔を上げる。すると、なぜか啓が、そのまま後ろのベッドに背中からダイブした。彼に腰を抱かれていたひなみは、自然とそのまま彼の腹の上に伸し掛かってしまう。

「な、何を――」

 太腿ふとももまでめくれ上がったスカートを押さえ、啓の身体の上でアタフタしていると、彼の両手に頬を挟み込まれる。そうして引き寄せられてアッと声を漏らした時には、既に唇が啓のそれと合わさっていた。

(えっ、えっ?)

 目を見開くひなみを、啓は柔らかい眼差しで見つめ返す。そしてふっと微笑み、唇の合わせ目を舌先でなぞってきた。
 くちゅっ――と、本当に小さく濡れた音がして、思わずビクついてしまう。
 ゆっくりと唇を離した啓は、唇を引き結んだまま真っ赤になっているひなみの頭を掻き抱いて、自分の胸に押し付けた。後頭部の丸みに沿って、ゆっくり、ゆっくりと頭を撫でられる。
 啓の表情は見えないが、繰り返されるその動きはガチガチに固まっているひなみをきほぐそうとしているようだ。啓の身体から、心地よい体温といい匂いがする。
 ひなみが自分の身に起こったことを反芻はんすうする前に、啓が口を開いた。

「俺さ、付き合うからにはトコトンひなみのこと可愛がるつもりだから――」

 そう言った啓に強く抱き込まれる。
 ずっと好きだった人にキスされて、抱きしめられているのだ、ひなみの心臓はもう爆発寸前だ。彼の上から退くことができない。
 一方で啓は、ひなみの頭を優しく撫でていた手を、頬にすべらせてきた。あごをゆっくりと持ち上げられて目が合う。挑発するような目なのに、それでいて甘い声で彼はささやいてきた。

「――覚悟しとけよ」
「~~~~っ!」

 啓の声がお腹の底に響いてゾクゾクしてしまう。
 何も言い返せない。どんなふうに可愛がってもらえるのかと期待してしまっているのは、間違いなく自分の中にある女の部分だ。
 真っ赤になったまま引き結んだひなみの唇を、啓の指先がなぞった。

「そんな力いっぱいむなよ。跡が付くだろ。あとな、キスの時は目をつむれ」
「……け、ぃくんも、開けてた……」

 やっとの思いでかすれた声を出すと、彼は「へぇ?」と笑って、瞳をあやしくきらめかせた。

「なら今度は瞑るわ。おまえも瞑れよ」

 そう言った彼にぐっと引き寄せられ、軽く唇が触れ合う。しっとりと吸い付くような感覚に、ギュッと目を閉じる。

「んっ」

 意識していないのに声が漏れて、軽く息が上がる。新しい酸素を求めて薄く開いた口に、生暖かいぬめりを伴ったものが差し込まれた。

「ふぁ、んんっ」

 それが啓の舌だとわかって肩に力が入るが、彼は躊躇ためらいなくひなみの口内をまさぐり、舌を吸ってくる。
 強くはない。ゆっくりとした舌遣いだ。それが余計に生々しい感触を大きくさせる。ひなみは何もできない。ただ、啓にされるがままだ。心臓ばかりがドキドキして手に負えない。
 ようやく唇を解放してもらった時には、涙目になっていた。

「も、もぅ……」

 動揺しつつも、いきなりのキスに対する抗議として低くうなる。しかし啓は気にした素振りなど見せずに、ニヤニヤしながら濡れたひなみの唇を指先で拭ってきた。

「ンな顔するなよ」
「だ、だって……」
(初めてなんだからっ!)

 口籠くちごもりながら啓の上から退こうとしたのだが、彼の両手にがっちりと腰を掴まれて動けない。それに対して力任せに逃げようなんて気が起きないのは、結局ひなみがこの行為をいやがってないからだ。
 ひなみは啓の上にまたがったまま、彼の視線にさらされてコクリと息を呑んだ。見つめ返す勇気が持てない。でも、逃げようとも思わない。胸の奥にひそんでいたときめきが、血液に乗って全身を巡っていく。
 今、彼はどんな気持ちでこうしているのだろう?

(知りたいよ……。ねぇ、啓くん。わたしのこと好きって、本当? それとも――)
「あの――」

 聞こうとひなみが口を開きかけたその時、

「あのさぁ二人共、引っ越すんやったら――」

 ガチャッと、ノックもなしに部屋のドアが開け放たれる。その音に驚いて顔を向けると、ニヤニヤと笑いながら口元を押さえている母親と目が合った。

「あらあら……」

 自分が啓の上にまたがっている――というか、どこからどう見てもベッドに彼を押し倒しているようにしか見えないこの状況に、ひなみの顔が火を噴いた。

「えと……あの……こっ、これは、ち、違うの――」
「ぐふふ。ええよー。むしろグッジョブ! ひなみ!」

 何が「グッジョブ!」だ。ツッコミすら出てこない。
 母親はウィンクして右手の親指を立てると、そのままドアを閉めた。しかも階段を駆け下りる音と共に、「おとーさん! ねぇ、おとーさん! 孫を見れる日も近いかもよー」という嬉々とした叫び声まで聞こえてくる始末。
 ひなみは啓の上に跨ったまま、ぐったりと項垂うなだれた。

「なんか、ごめん……うちの親が」
「いいって。ひなみのおばさん楽しいじゃん。俺、おじさんもおばさんも好きだよ。すっげ気楽」

 そう言ってもらえるのはありがたいが、内心では複雑な気持ちだ。もしかすると、啓が自分に向けてくれている「好き」もそれと似たようなものなのではないのかと、少し思ってしまったからだ。
 幼馴染おさななじみとしての好きと、恋愛の好きは、ひなみにとっては違うのだが、彼にとっては?

(でも……キスしてくれたし。付き合うって、一緒に暮らすって……)

 確かに啓との関係は、今日一日で変わった。もう、ただの幼馴染みではない気がする。でも彼はひなみのことを「嫌いじゃない」と言うだけで、面と向かって好きとは言ってくれないのだ。

「ひなみー。下りないの?」

 呼びかけられてハッとすると、啓がニヤニヤと笑いながらひなみを見上げている。自分がまだ彼の上に跨ったままだったことに気が付き、途端に慌てふためいた。

「ご、ごめんっ。重いよね」
「いや、全然かまわないし。続きをしてほしいならするけど? なんかおばさんにも期待されてるみたいだし」
「なっ! そ、そんなわけないじゃないっ! 何言っちゃってるのよ!」

 既に真っ赤だった顔を更に赤くして、啓の上から下りる。
 ベッドから立ち上がった彼は、挑発めいた仕草でひなみのあごを持ち上げた。

「ざーんねん。続きは引っ越してから、かな? ねー、ひなみー?」
「~~~~!!」

 ひなみはもういっぱいいっぱいなのに、啓は余裕綽々よゆうしゃくしゃくでからかってくる。経験値の差を見せつけられている気分だ。
 悔しくって恥ずかしくって、でもちっとも本気で怒れなくて。彼の手のひらの上で転がされていることがわかっているのに、あらがえない。
 ひなみがうなりながら啓をにらむと、啓はふんわりととろけそうな笑みを浮かべた。
 それはまるで王子様で――

「ひなみ、可愛い。今は逃がしてやるけど、次は逃がさないよ?」

 ちゅっと軽く唇に口付けられる。
 その不意打ちにひなみがろくな反応もできないでいるうちに、啓は部屋のドアを開けた。

「さて。俺、帰るわ。物件見つけたら連絡するから。あと、本も服も好きなだけ持ってきていいよ。じゃあな」

 パタンと小さな音がしてドアが閉まってから、ひなみはヘナヘナとラグの上に座り込んだ。

(なに、今の……。あ、あんなの反則だよ)

 腰が抜けて、力が入らない。テレビでも見たことがない優しい眼差しで口説くどかれたら、そのうち心臓が止まってしまう。
 ちゃんと気持ちも聞けていないのに、啓にとって自分が特別なんだと思いたくなってしまう。
 恋愛なんて、れたほうが負けだ。
 もう出だしから完全に負けが決まった恋が、はじまっていた。



   3


 明日で三月が終わりという日に、ひなみは地元を離れた。

『昼まで撮影があるから、夕方に到着するように来て』

 あらかじめ、啓からそう連絡を受けていたひなみが品川しながわに降り立ったのは、予定通りの十八時四十七分。
 何度か新幹線に乗ったことはあるが、一人でとなると初めてだ。学生時代の修学旅行で感じた妙な興奮を再び体験することになり、ソワソワと落ち着かない。心細さというのはないが、無意識のうちにスマートフォンをお守りのように握りしめていた。
 キャリーバッグを片手で引きながら、人の流れに身を任せて改札をくぐる。そしてこれまたあらかじめ決められていた通りに、啓にメールを送った。啓が迎えに来てくれる手筈てはずになっているのだ。

『着いたよ』

 すると、すぐさま啓から折り返しの電話がかかってきた。

「もしもし、着いたか。今どこにいる?」
「改札出たばっかりのところ」
「わかった。そこ動くな。――改札にいるそうです――ひなみ、おまえ何着てる?」
「白のスプリングコートだけど」
「了解。――白のスプリングコートを着ている小柄な子を探してください」

 啓は、ひなみの言ったことを復唱している。違和感を覚える話し方に眉をひそめていると、ひなみの目の前に電話をしているスーツの男の人が立った。
 年の頃は、三十半ばといったところか。スーツのサイズが微妙に合っておらず、着られている感じが拭えない。気が弱く神経質そうな人だった。

「あのぉー。あなたが瀬田……ひなみ、さん?」
「は、はい……」

 スマートフォンを耳に当てたままの彼に話しかけられ、ひなみも同じようにスマートフォンを耳に当てたまま生返事を返す。と、その人が少しホッとした顔になった。

「要くん。彼女さん、見つけましたよ」
「ひなみ。その人、俺のマネージャーだから」
「要くんのところまでご案内します」

 電話越しと目の前と、ほぼ同時に言われては頷くしかない。知らない人ではあるが、啓がマネージャーだと言えば、ひなみにそれを疑う理由はないのだ。ひなみは素直に彼に付いて行った。
 案内されたのは、駅から信号を三つ、四つ離れた路肩に停めてあるワンボックスカー。黒いスモークフィルムがべったりと貼ってあり、中はよく見えない。

「どうぞ」

 スライドドアを手がやっと入る幅だけ開けて、マネージャーは運転席へと回った。乗りやすいようにドアを開け放ってくれるわけでもない。親切なのか不親切なのかあまり深く考えないようにしながら、ひなみはもう少しだけドアを開いた。

「よっ。ひなみ」

 中から啓の声がして、一旦は安堵あんどしたのだが、次の瞬間ぎょっとする。啓が大きなサングラスをかけていたのだ。真冬の、しかも車内でサングラスなんて、おかしいことこの上ない。不審者丸出しの上に、似合っていない。今時、やくざでももうちょっと似合うサングラスをかけているだろうに。
 ファッション業界の人間として、いや西條要のファンとしても、このサングラスはいただけない。

「啓くん、サングラス変。似合ってないよ……」
「……んなことわかってるよ。いいんだよ、これは!」

 啓はキャリーバッグを取り上げて、ひなみを自分の隣に座らせてくれた。

「オッケー。田畑たばたさん、行きましょう」

 啓の号令で車が動きだす。
 田畑というのはマネージャーの名前だと、啓が教えてくれた。

「今回借りた部屋も、田畑さんが探してくれたんだ」
「そうなんですね。ありがとうございます。すみません、自己紹介が遅れて……わたし、瀬田ひなみと申します」
「僕のほうこそ、すみません。あの、田畑です……。要くんのマネージャーやらせてもらってます」

 田畑はあまりひなみと話す気がないのか、啓の言ったことを改めて繰り返すばかりだ。心なしか啓の機嫌きげんうかがっているようにも見える。

「あ、あの、要くん。今日の撮影よかったよ。ノーミスなのも、さすが要くんって感じで。監督もめてたし」
「ありがとうございます!」

 啓はさわやかに受け答える。しかし割と素っ気ない。尊大でもないが、ひなみが見知っている彼とはどこか違う。
 赤信号で車が停止して、田畑がわずかに振り返った。

「それで……その、彼女さんと暮らすのはいいんだけど、くれぐれも周りにばれないようにね?」

 そう言ってチラチラとひなみのほうを見てくる。田畑が牽制けんせいしたいのは、啓よりもひなみのほうらしい。自分たちの同棲をよく思っていないことが、やんわりとだが伝わってくる。

(う……う~ん、これは……)

 苦笑いが自然と浮かぶ。どう反応したものかとひなみが考えていると、啓が身を乗り出した。

「大丈夫ですよ、田畑さん。同棲に当たっては社長とも約束したし。ひなみは他人ひとに言いふらすような性格じゃないし」

 確かにひなみは西條要が幼馴染おさななじみだということさえ、一度も他人に言ったことはない。一緒に暮らすからといって、その性格が急に変わるわけでもない。それに、口が堅いことには自信があった。
 むしろ、ひなみが驚いたのは別のこと。

「社長……?」

 ひなみの疑問に答えてくれたのは、やっぱり啓だった。

「うちの事務所の社長。俺をスカウトしてくれた人が、今は出世して社長やってるんだよ」
「あーあの時の……。そうだったんだ」

 ひなみが思い出していたのは、啓がスカウトされた日のことだ。ひなみもちょうど一緒に出掛けていたから、その時に会った。信頼できそうな雰囲気の人だったことを、なんとなく覚えている。今は社長となったその人は、啓の芸能界入りを後押ししたひなみを気に入ってくれているそうで、この同棲には賛成なのだと言う。

「僕はマネージャーってことになってますけど、要くんの実際のマネジメントやプロデュースは、社長がメインでやってるんです。それだけ要くんは事務所にとっても世間にとっても大事な俳優で、スキャンダルなんてとんでもない話なんです。しかも一般女性なんて……。今は要くんの全盛期と言ってもいいくらいなんだから、ファンに反感を持たれないようにしないと……」

 弱気ながらも田畑は、何度もスキャンダルだけはご法度はっとだと念を押してくる。その言い草に、まるで遠回しに身を引けと言われているような気がした。
 一般人だから人には知られてはいけないのだろうか? 啓と同じ芸能人だったらよかったのだろうか? そうしたら、誰もが納得してくれる?
 まだ部屋に着いてもいないのに、心が不安に侵食されていく。ひなみの表情かおが曇りかけた時、サングラスを取った啓がさわやかな王子様スマイルを浮かべた。

「俺はひなみがいなきゃ芸能界なんて入ってなかったから、ひなみと別れるくらいなら、芸能界を辞めてもいいぐらいの気持ちなんですよ。第一、オフのたびに地元に帰ってたのだって、ひなみに会うためなんだから。社長もそれがわかってるから、この同棲にOK出してくれたんですよ」
(芸能界を辞めてもいいとか嘘でしょ!?)

 思わず息を呑む。確かに当時芸能界入りを悩んでいた啓は、ひなみに相談してきた。「やりたいなら、やってみればいい」と彼の背中を押したのはひなみだ。
 しかしそれを今この場で持ちだされるとは思わなかった。

「ぼ、僕は……わ、別れろなんてそんな……」

 啓の極上スマイルからちくちくととげが出ているのを感じ取ったのか、もともと弱気そうな田畑は、より一層何も言えなくなったらしく口をつぐんだ。田畑の放つオーラがどんよりとしてきた気がする。

「啓くん、田畑さんは『気を付けてね』って言ってくださってるだけだから。わたしも気を付けるし、啓くんも気を付けよ?」

 そう啓をいさめつつも、心臓がバクバクする。
 地元にちょくちょく帰ってくる理由がひなみに会うためだったというのも、初耳だ。そこまで自分を想ってくれている? そう思いかけて、いやいやあれは自分に向けられた言葉ではないと気を引き締める。あくまでも田畑に、ひなみと住むことを認めさせるために言ったことだ。

「そうだな。ひなみの言う通りだ。俺も気を付ける」

 そう言った啓がじっとひなみを見つめてくる。
 テレビに出ている時のような王子様の眼差しでも、地元に帰ってきた時のようなぶっきらぼうな眼差しでもない。
 啓はもともと眼力のあるタイプだった。けれども今はぼんやりしているようにも見えるのに、視線自体が温度を持っている。
 ひなみでさえ初めて見る、陶酔とうすいに似た眼差しだった。見ているこちらの体温が勝手に上がっていくみたいだ。

(あれ……)

 目がらせない。それどころか、もっと彼を見ていたい。胸の奥がゾクゾクして、今まで感じていた恋心が凝縮していくような――

「さ、ひなみ、着いたよ。俺らの新しい家だ」

 啓を食い入るように見つめていた自分に気が付いて、ハッと意識を戻す。
 慌てて窓を見ると、啓が指差す先にはグレーのタイル張りのマンションがあった。
 六階建てで、地下一階は駐車場になっている。洗練された感じのする、オシャレなマンションだった。

「駐車場のシャッターゲートは専用キーでないと開きません。部外者は入れない仕組みなんです」

 田畑が話しながら運転席から操作する。目の前で、駐車場のシャッターが自動で持ち上がった。

「うわ……すごい……」
「シャッターゲートのリモコンは部屋の鍵と一体化していますから、落とさないように注意してください。駐車場へはタクシーの乗り入れも大丈夫ですから、マンションの前で下りるくらいなら駐車場の中までタクシーで乗り付けてください。写真を撮られるリスクは減らしていかないと。はい、これが鍵です」

 解説する田畑は、やはり啓に向かってというよりは、ひなみに向かって言っているようだ。
 田畑がくれた鍵はヘッドの部分が若干分厚い。きっとこの分厚い部分がシャッターゲートのリモコンなのだろう。
 鍵をしげしげと眺めるひなみに、啓は自分の尻ポケットからキーケースを取り出した。

「ひなみとお揃い」

 目の前で掲げられて、じわっと赤面してしまう。
 同じ家に住むのだから、鍵がお揃いなのは当たり前のことなのに、急に実感が湧いてきたと言うべきか。お腹の底あたりがもぞもぞしてくる。
 啓は嬉しそうではあるものの、軽い口調で言ってくるから、余計に自分だけが意識している気がして落ち着かない。
 ひなみがうまい返事を返せずにいるうちに、車は駐車スペースに駐まった。

「あれ? 啓くんの車は?」

 啓はシルバーの国産車を一台持っている。彼が実家に乗って帰ってきた時に、ひなみも何度か乗せてもらったことのある車なのだが、駐車場には見当たらない。

「まだ前のマンションにあるから、今度取りに行くわ」

 啓がそう言い、田畑の案内でエレベーターに向かう。エレベーターを一度一階のエントランスで乗り換えて、住居スペースへ上がる仕組みらしい。
 エントランスには警備員の詰め所がひっそりとあるが、天井を見ると監視カメラの数がすごい。きっと詰め所の中は、監視カメラのモニターでいっぱいなのだろう。

「ずいぶん厳重なんですね」
「当然です。記者だけじゃなくて、面白半分で芸能人の住居に突撃しようなんてやからもいますからね。念のため、です。ちなみにワンフロア一部屋しかありません。上下階の人にはもう僕が引っ越しの挨拶あいさつをすませています。上が漫画家さんの事務所で、下は海外から赴任して来られた外国人の方です」

 このマンションは田畑が探してきた物件らしいが、彼の用心深い性格がうかがえる。
 警備員詰め所を通り過ぎた奥にあるエレベーターに乗って、住居スペースまで上がる。
 三階が、これからひなみと啓が暮らす部屋だということだった。
 啓が鍵を開けて玄関に足を踏み入れた途端、田畑がスケジュール帳を取り出した。

「要くん。約束した通り明日はオフだけど、明後日はモルッアのCM撮影と、雑誌の撮影と、ラジオの収録。明々後日しあさってはシグさんのトークショーにゲスト出演だから――……」

 延々と一週間の予定を述べる田畑に啓は苦笑いすると、小さく肩をすくめた。

「なんか詰まってません? スケジュール」
「要くんが明日はオフにって言うから……調整してこれなんだけど……」

 急に弱気になった田畑が上目遣いで啓の機嫌きげんを窺っている。自分より年上の、しかも三十路みそじを過ぎているであろう男の上目遣いというものに、何やら思うところがないわけではない。が、ひなみがこのスケジュールに対して何か言う立場にあるわけでもなく、田畑と同じように啓のほうを見る。
 彼は「ん~」っと、宙を仰いで頷いた。

「ま、無理を言ったのは俺だし、頑張ります」
「うん、頑張ろう! 要くんならやれるよ! 車ないでしょ? 明後日は十時スタジオ入りだから、八時半には迎えに来るからね!」
「ありがとうございます」

 田畑はホッと頬の緊張をゆるめて手帳をしまった。

「じゃあ、僕は事務所に戻るね。お疲れ様!」
「はい、わかりました。お疲れ様です」

 玄関先で啓が見送る素振りを見せたので、ひなみも田畑にその場で一礼した。

「田畑さん。今日はありがとうございました」
「いえ。また何かあったら遠慮なく言ってください。要くんの芸能活動をサポートするのが僕の役目ですから」

 と言いつつも、田畑は少し考えてひなみに向き直った。

「あの……彼女さんにこんなこと言うのもおかしいと思うんですが、要くんのことよろしくお願いします。食生活もそうですけど、メンタル面は特に。要くんは役者なんです。帰りが遅くなることもあるし、付き合いもあるし、不測の事態も――」
「たーばーたーさーん?」

 啓の呆れ声に、田畑は「あわあわ」とにごしたと思ったら、またたく間に回れ右をした。

「あ、あの――」
「でっ、ではっ! 明後日迎えに来るから! お疲れ様!!」

 彼の駆け出して行く様は、脱兎だっとごとく――という比喩ひゆがぴったりな程だ。ひなみが話しかける暇なんてない。

「ふぅ――悪い人じゃないんだけどな。気にさわったなら俺から謝るわ」

 啓が頭を掻きながらぶっきらぼうに言うので、思わずクスッと笑った。


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