54 / 101
3章
行かないで
しおりを挟む麻耶は驚いたように見上げ、片喰の嘘ではない真剣な瞳に気圧されて押し黙る。怒りと悲しみを湛えた苛烈なこの表情を疑う必要はない。何ヶ月も経過していてまだ治療が済んでいない手足の証拠まで揃えられたら現実逃避もできない。麻耶は目を見開いたまま絶句して硬直し、全身の力が抜けて丸まった体勢でベッドに伏せた。
「そ…んな……こと…」
「別れの古城までは噂も届かないかもね。具合を悪くしてたなら以ての外だ。ドクターはかたばみの手足を治して、そのまま植物状態になってる」
敵対していたというだけではなく、レイの弟を植物状態にまで追い込んだ上で図々しく助けてくれと言いに来たということに気が付いた麻耶は病状ではない心臓の早鐘に吐き気を感じて口に手を当てた。
レイのためなら人の心など要らないと、すぐ死ぬ命なのだからどんなことでもたったひとりを喜ばせて死のうと考えていながら、実際に人の命を奪わんとする事実に残りもしないと思っていた良心が痛んでいるのかもしれない。
痛みにはとっくに慣れているのに罪悪感という重しが今にも体を押し潰しそうだった。
一方で、ルイが目覚めていない以上もうレイを救う手立てがないという事実にも胃袋がひっくり返っていた。
「…………」
衝撃に謝罪すらも口に出せず、何も言えなくなってただその場で蹲って嗚咽する麻耶を見てアスクと片喰は顔を見合わせる。
今まできちんと会話をしたことがなかった。一方的に敵意を向けられ、理不尽に傷付けられ、話をする機会などあるはずがなかった。
何もかもを奪っていく敵はこんなに小さかっただろうか。
空間に沈黙が帳を下ろす。
片喰とアスクからはこれ以上伝えられることはなにもなく、麻耶も言葉を放つことはない。
狼狽えるたくあんの上に寝そべっていた足がぴくりと痙攣した。
「…………藤…」
掠れて上擦った声はルイのものとよく似ていて、呼ばれた片喰は一瞬体を強張らせる。
麻耶はすぐに顔を上げると誰よりも早くたくあんの毛を掻き分けてレイの体を抱き起こした。
「レイ!レイ!?意識が……!」
「まぁや……おま、え、こんな…ところまで……」
「そりゃァ……お前、もうどれくらい目ェ覚ましてねェと思って…!」
昏倒していたレイが薄らと目を開けていた。
麻耶に預けている体には殆ど力が入っておらず元より呼吸も浅く荒い。いつもう一度意識を失ってもおかしくはなかったが、間違いなくしっかりと目を覚ましていた。
ルイの声ではないことはわかっていたが、同じ声で名前を呼ばれてほんの少しだけ期待をしてしまった片喰は目頭が熱くなって目線を外す。
レイはぐったりとしたまま目だけで片喰の方を向いた。
「藤……ルイ、が、ずっと…目を覚ましてない、って…聞こえた……」
「…そうだ」
淡々とした質問に誰のせいだと叫びたくなる気持ちを悲しさが覆い潰す。
目覚めないルイと何ヶ月も過ごした片喰に、これ以上激しい怒りを抱く力は残っていなかった。
もう感情の枷が狂ってしまっているのかもしれない。
ぽつりとした片喰の声にレイは身動ぎをして自分で体を支えた。
「レイ…」
「……俺が、ルイを…起こそう。だから………」
「…は?」
レイの言葉を脳が処理しきれずに、片喰は言葉を被せて聞き返す。不安定にぐらつく体をなんとか支えながら立ち上がり、レイは緩慢に片喰を見上げた。
「ルイを、起こすって…レイ…お前には…治せるのか…?」
レイの瞳には不安と期待でボロボロになって随分と幼く見える片喰が映っている。
「俺に…移し身できない、事象は無い……ルイが死を待つなら、俺が…引き受ける……」
「やめろ!レイ!」
今までに聞いたことのない麻耶の大声が響き渡る。
出し慣れていない絶叫で焼けたように痛む喉も麻耶は気にせず、ベッドからレイの白衣の袖を掴んで引き寄せる。
「…これ以上自分を犠牲にして、死に急がないでくれ……」
力もなくただ駄々をこねる子供のように袖を引く麻耶の手を優しく払い、レイは数歩進むと片喰に体を預けた。
部屋着越しに人にあるまじき体温が伝わってくる。
レイはほんの少しだけ口角を上げるとゆっくりと目を閉じた。
「ルイは……俺の、全てだ。俺が、殺すわけには、いかない…殺したい、わけでは…なかった、んだ…藤。ルイは起こす…だから、ルイが目覚めたら…まぁやを、よろしく頼むと…伝えてくれ…」
「レイ、お前、でも」
「俺は…浄化ができる……運が良ければ、助かる……藤、ルイのところに、連れてってくれ」
手を伸ばして抱き上げるようねだるレイを片喰は抱き上げる。片喰は正常な判断ができなくなっていた。ルイを殺そうとしたルイの兄を見殺しに、ルイを助けようとしている。何が正しくて、何が悪いのか誰にもわかるはずがない。ルイならどう判断するか、そう考えたくてもルイがレイを実際にどう思っているかなど知る由もない。本能のまま欲望のまま、正直にレイを抱いて部屋を出る。
「行かないでくれ……レイ…やめ……」
抵抗しようにも今の麻耶の体ではぼんやりとした光を纏う以上のことはできない。
ただ片喰に抱かれるがまま連れられたレイは部屋のドアが閉まる瞬間に一度だけ、崩れ落ちる麻耶を見て少しだけ目を細めた。
0
あなたにおすすめの小説
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
公爵家の末っ子に転生しました〜出来損ないなので潔く退場しようとしたらうっかり溺愛されてしまった件について〜
上総啓
BL
公爵家の末っ子に転生したシルビオ。
体が弱く生まれて早々ぶっ倒れ、家族は見事に過保護ルートへと突き進んでしまった。
両親はめちゃくちゃ溺愛してくるし、超強い兄様はブラコンに育ち弟絶対守るマンに……。
せっかくファンタジーの世界に転生したんだから魔法も使えたり?と思ったら、我が家に代々伝わる上位氷魔法が俺にだけ使えない?
しかも俺に使える魔法は氷魔法じゃなく『神聖魔法』?というか『神聖魔法』を操れるのは神に選ばれた愛し子だけ……?
どうせ余命幾ばくもない出来損ないなら仕方ない、お荷物の僕はさっさと今世からも退場しよう……と思ってたのに?
偶然騎士たちを神聖魔法で救って、何故か天使と呼ばれて崇められたり。終いには帝国最強の狂血皇子に溺愛されて囲われちゃったり……いやいやちょっと待て。魔王様、主神様、まさかアンタらも?
……ってあれ、なんかめちゃくちゃ囲われてない??
―――
病弱ならどうせすぐ死ぬかー。ならちょっとばかし遊んでもいいよね?と自由にやってたら無駄に最強な奴らに溺愛されちゃってた受けの話。
※別名義で連載していた作品になります。
(名義を統合しこちらに移動することになりました)
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
強制悪役劣等生、レベル99の超人達の激重愛に逃げられない
砂糖犬
BL
悪名高い乙女ゲームの悪役令息に生まれ変わった主人公。
自分の未来は自分で変えると強制力に抗う事に。
ただ平穏に暮らしたい、それだけだった。
とあるきっかけフラグのせいで、友情ルートは崩れ去っていく。
恋愛ルートを認めない弱々キャラにわからせ愛を仕掛ける攻略キャラクター達。
ヒロインは?悪役令嬢は?それどころではない。
落第が掛かっている大事な時に、主人公は及第点を取れるのか!?
最強の力を内に憑依する時、その力は目覚める。
12人の攻略キャラクター×強制力に苦しむ悪役劣等生
希少なΩだと隠して生きてきた薬師は、視察に来た冷徹なα騎士団長に一瞬で見抜かれ「お前は俺の番だ」と帝都に連れ去られてしまう
水凪しおん
BL
「君は、今日から俺のものだ」
辺境の村で薬師として静かに暮らす青年カイリ。彼には誰にも言えない秘密があった。それは希少なΩ(オメガ)でありながら、その性を偽りβ(ベータ)として生きていること。
ある日、村を訪れたのは『帝国の氷盾』と畏れられる冷徹な騎士団総長、リアム。彼は最上級のα(アルファ)であり、カイリが必死に隠してきたΩの資質をいとも簡単に見抜いてしまう。
「お前のその特異な力を、帝国のために使え」
強引に帝都へ連れ去られ、リアムの屋敷で“偽りの主従関係”を結ぶことになったカイリ。冷たい命令とは裏腹に、リアムが時折見せる不器用な優しさと孤独を秘めた瞳に、カイリの心は次第に揺らいでいく。
しかし、カイリの持つ特別なフェロモンは帝国の覇権を揺るがす甘美な毒。やがて二人は、宮廷を渦巻く巨大な陰謀に巻き込まれていく――。
運命の番(つがい)に抗う不遇のΩと、愛を知らない最強α騎士。
偽りの関係から始まる、甘く切ない身分差ファンタジー・ラブ!
(無自覚)妖精に転生した僕は、騎士の溺愛に気づかない。
キノア9g
BL
※主人公が傷つけられるシーンがありますので、苦手な方はご注意ください。
気がつくと、僕は見知らぬ不思議な森にいた。
木や草花どれもやけに大きく見えるし、自分の体も妙に華奢だった。
色々疑問に思いながらも、1人は寂しくて人間に会うために森をさまよい歩く。
ようやく出会えた初めての人間に思わず話しかけたものの、言葉は通じず、なぜか捕らえられてしまい、無残な目に遭うことに。
捨てられ、意識が薄れる中、僕を助けてくれたのは、優しい騎士だった。
彼の献身的な看病に心が癒される僕だけれど、彼がどんな思いで僕を守っているのかは、まだ気づかないまま。
少しずつ深まっていくこの絆が、僕にどんな運命をもたらすのか──?
騎士×妖精
悪役令息を改めたら皆の様子がおかしいです?
* ゆるゆ
BL
王太子から伴侶(予定)契約を破棄された瞬間、前世の記憶がよみがえって、悪役令息だと気づいたよ! しかし気づいたのが終了した後な件について。
悪役令息で断罪なんて絶対だめだ! 泣いちゃう!
せっかく前世を思い出したんだから、これからは心を入れ替えて、真面目にがんばっていこう! と思ったんだけど……あれ? 皆やさしい? 主人公はあっちだよー?
ご感想欄 、うれしくてすぐ承認を押してしまい(笑)ネタバレ 配慮できないので、ご覧になる時は、お気をつけください!
ユィリと皆の動画つくりました! お話にあわせて、ちょこちょこあがる予定です。
インスタ @yuruyu0 絵もあがります
Youtube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます
プロフのWebサイトから、両方に飛べるので、もしよかったら!
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
異世界転移して美形になったら危険な男とハジメテしちゃいました
ノルジャン
BL
俺はおっさん神に異世界に転移させてもらった。異世界で「イケメンでモテて勝ち組の人生」が送りたい!という願いを叶えてもらったはずなのだけれど……。これってちゃんと叶えて貰えてるのか?美形になったけど男にしかモテないし、勝ち組人生って結局どんなん?めちゃくちゃ危険な香りのする男にバーでナンパされて、ついていっちゃってころっと惚れちゃう俺の話。危険な男×美形(元平凡)※ムーンライトノベルズにも掲載
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる