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2章 一人のアルファで一人の兄で
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「だって、颯真はいつもセルフコントロールが出来ているから……」
颯真は自分よりも自己管理ができている、そう思ったのはいつだったか。
きっと、大晦日のことなど何とも思っていなくて、年末年始はバリバリと仕事をしていたに違いない……と、そう思って少しふてくされたのは、母茗子とカレーを作っていたときかと、潤は思い出す。
その時の自分は、颯真のことを受け止めきれずに、自室で休むことも叶わずに、リビングのソファの上で毛布に包まれ、みの虫のようになって睡眠を取り、部屋に一人でいられずに逃げ出していたりと、他人に見せるのも聞かせるのも憚るほどの混乱ぶりだった。
しかし、颯真はそれを小さく笑って「そんなことあるか」と蹴飛ばした。
「俺は、お前の反応に一喜一憂しているよ」
颯真の言葉を意外に思った。
「僕の?」
思わず問い返すほどに。
颯真が頷く。
「想像以上に、俺はお前に振り回されっぱなしだ。今は主治医をクビにされなかったことに安堵してる」
「そんなこと……」
思わず反論しようとして、潤は口を噤んだ。颯真の言葉は冗談のようにも聞けなくはないが、その口調が冗談には聞こえなかった。
主治医をクビ。その言葉に、颯真の本気具合を実感する。先程の和泉の紹介を受けるか、それとも引き続き自分で良いのかと迫った颯真は、間違いなく拒絶されることも想定に入れていたと思う。
正直、ここまで乗り込んできた颯真は、潤の気持ちなどお構いなしに診察して、次回はいつに来院せよと強引に事を決めていくのではないかと思っていた。
なのに少し様相は違っていた。
「颯真はもっとぐいぐい来るのかと思った」
そう潤が呟くと、颯真が小さく笑った。
「そんなことできるかよ。何なら、俺の残念な年末年始を聞くか?」
潤が首を傾げる。
「残念な年末年始?」
ああ、と颯真は頷く。
「いわば、懺悔と言い訳だな」
その言葉の意味が潤にはよく分からない。
「事の発端は大晦日だ」
颯真の切り出しに、潤が止まった。
大晦日。
それは辛い発情期が終わった日。前夜に颯真に抱かれて「愛している」と衝撃的な告白をされ、それを受け入れられず、「颯真はおかしい」と全力で拒絶した、あの日だ。
潤は颯真の気持ちが理解できず、颯真が触れることさえ拒絶した。そして彼の言葉を頭から拒み、考えることも放棄した。
颯真がワイシャツのボタンを一つ開けて、ネクタイのノットに指を入れて少し緩めた。
「正直、お前に拒絶されることは想定していた。当たり前だ。これまでそんなふうに接したことはなかったんだから。どう考えても青天の霹靂だ」
颯真が小さく笑う。その笑顔は少し自嘲めいていて、いつもの彼らしくはない。
「あの年末年始は、俺からみると、お前に与えたクールダウンの期間のつもりだった。落ち着いて考えてほしかったし、冷静になってほしいと思って設けた時間だった。いずれはちゃんと話したかったし。
で、俺はというと、がむしゃらに働いてた」
松也の話を思い返す。
年末年始の救急外来にアルファ・オメガ科の医師が常駐することになったが、それを一手に引き受けたのが颯真だったと。手が空くと他の患者を診て、救急センターのドクターに重宝がられていたと聞いていた。
「ちょうど年末年始で人手が足りないところに入り込んで、何も考えずに仕事に没頭した。正直、何もすることもなかったしな。身体と頭を酷使できる限りしてみた」
今年の年末年始は、おそらく初めて別々に過ごした。颯真は冷静に仕事をこなしているのだろうと、潤は思っていた。
「あんなに働いたの久しぶりだなっていうくらい頭と身体を酷使して、仕事が明けて帰宅して、お前とバッタリ会った」
一月四日。出社前に仕事帰りの颯真と家ですれ違った。あの時の再会はあまりに予想外で、まともに対応することができなかった。一瞬のことだったのに、気持ちの整理が付いていなかったから心を乱された。
「俺を見て、お前がすごく困っているのは分かったよ。俺もなんて言っていいか迷った。会うのはまだ早かったなって、あの時は思った。
ただ、あの直後に俺は自分の痛恨のミスを知った。お前に抑制剤を渡していなかったって、あの時になってようやく気が付いたんだ」
おそらくそれは、これまでの彼からすればあり得ないことだ。
「正直、自分が信じられなかったね。なんで頭から抜けていたのだろうと思った。
俺は冷静であるつもりだった。潤に対して爆弾を落としたんだから、俺は揺らぐことなく構えておくべきだと思っていたし、実際にそうだと思っていた。
だけど、この時になって、俺はずっと冷静じゃなかったんだって気が付いた」
でなければ俺が忘れるはずはないよなあと苦笑する。自覚がなかっただけで、お前から全力の拒否は案外堪えていたらしい、と自嘲の笑みを浮かべた。
潤から見れば、自分に拒絶された颯真は淡々と出勤の準備を整えて出て行ったように思えた。
それはそのような事情だからだったのかと思った。
「今思えば、仕事しかすることが無かったっていうのは、仕事に逃げていたんだろう。何もせずにあの部屋で二人きり、時間が過ぎることに、俺も耐えられなかったんだろうな」
潤が落ち着くまでって、それを言い訳にしていた部分もあるんだろう」
颯真にとって冷静でいられなかったというのは、痛恨の極みに違いないだろうが、潤はなぜか少し気分が慰められた。自分だけが動転していたわけではないと分かったからだ。
「最初は、抑制剤を廉からお前に渡してもらおうかと考えたこともあったんだ。でも、お前から見れば、いきなり抑制剤を渡されても誰が処方したんだって疑問に思うよな。結局、俺に辿り着いてしまう。
廉からは、お前が俺の名前に触れるたびに動揺していると聞いていた。俺が渡したと分かったら逆効果になりかねないと思った」
だから、お前が落ち着くまで待つことにしたと颯真が言った。
「なら、なんでいきなりおしかけてきて……」
先程、社長室に入ってすぐに颯真の姿を認めて、心臓が止まるほどに驚いた。
「ドイツ駐在時代に仲が良かったアルファから今回も香りを指摘されたと聞いて、正直なところ居ても立ってもいられなかったっていうのはある。あとは俺ではなく、産業医を頼られたっていう、わずかな悔しさかな。
でも、落ち着いてから俺が直接診て、今後を託せるドクターを決めたかったというのは本当だ。俺はもうお前にああいう発情期を越えさせたくないんだよ。だから、万が一でも、ちゃんとお前の体質を理解してくれるドクターにしか託したくなかった」
それが、和泉医師か自分かという選択肢につながったのかと潤は思う。颯真は本気で、自分が嫌ならば手を引くと考えていたのだ。
「……いや、違うな。本当は、それでそこで切れてしまうのが、本音では嫌だった」
颯真が潤から視線を外してひとりごちる。
「でも、潤が和泉先生を選ぶなら仕方がないとも思っていた。あんなに激しい発情期の後だ。主治医として……心配だった。ただ、それだけだ。潤がまた俺を頼りにしてくれて嬉しい」
潤は反応できなかった。
颯真のその言葉からは、後悔と誠意しか感じられなかった。
颯真はずっと自分のことを一番に考えてくれていたのだ。
颯真はちゃんと自分のことを分かっていて、考えるスピードに寄り添ってくれる。
最後まで自分に選択肢を残し、そして自分の選択を尊重してくれる。
早急に答えを求めることなんてしない。
そう考えて、潤は、否応なくもう一人のアルファの姿を思い浮かべた。
天野松也。
三十年近く一緒にいる颯真と比べてしまうのは酷なのかもしれない。しかし、やはり潤にとって、松也が求めるテンポが速すぎて、ついて行けないと思ってしまう。そんな気持ちの冷え込みをどう彼に説明しようか、どう伝えたら理解してもらえるのか、ずっと心の隅で考えていた。
もし断っても、何故どうしてと問い返されたら、自分はちゃんと流されずに結論を貫き通すことができるだろうか。
「少し話を変えてもいいか」
颯真の切り出しに、潤も頷く。
「うん」
「じつは、実家の天野先生のところの松也さんと頻繁に会ってるって聞いた」
潤は純粋に驚いた。
「え、なんで知ってるの」
「実は母さんから」
それはそうだ。颯真は今、実家にいる。
「……ああ、そうか。そういうこと」
潤は納得したが、颯真が苦笑を漏らす。
「あと、松也さん本人からも、ちょいちょい聞いてる」
「あー……」
十分想像できた。あの人は自分に自信がある。自分が断られるなんて、多分考えていない。だから今から義兄弟候補として颯真に近づいたと考えても納得できる。
松也自身は潤を落とすために、颯真の攻略は必須だと思っているに違いないのだ。
聞いたぞ、と颯真が切り出す。
「なんか乗り気だって」
それは不本意だ。
「僕じゃない。松也さんが」
「母さん達も」
「そんなの聞いてないし。第一、僕にはそんな気持ちは全くない」
そもそも松也と再会して一ヶ月ほど。
恋愛に時間は関係ない、とはいう。しかしそれでも、松也と同じ温度で、同じ速度で共に気持ちを育めない自分は、彼とうまくやっていくことは難しいと感じている。
「……そうか。よかった。俺は松也さんから牽制されてるから。少し心配していた」
「牽制?」
「うん。いろいろと報告してくれる。今日は潤君と一緒にランチをする予定だと、ご飯をする予定だと。そういえば、水族館に行く約束は、どうなったのかは知らないけど、報告してこなかったってことは行けなかったのかな」
潤は思わず松也の名前を呆れた気分で呟く。
「水族館は、僕の体調が優れなくて……」
「そうか……。今度は梅を見に行く予定だって聞いてる」
「……松也さんが忙しそうだから実現するかは分からないけどね」
「……お前も忙しいしな」
「そういうことだね」
颯真も潤の意図を察したらしい。
「……その程度か」
「母さんにはその気はないことを話したんだけどな」
「なら、松也さんにもはっきり言うべきだろう」
颯真の手厳しい正論に、潤も少し口ごもる。
「そうしたいんだけど、なかなか話を聞いてもらえなくて」
その言葉に、颯真が遠い目をした。
「あー……。わかる。あの人は、自分の聞きたい話以外は割とスルーしちゃうからな」
俺から言おうか? と颯真が提案してくれたが、さすがに潤も遠慮した。
自分の口からきちんと断るのが自分を選んでくれた人への誠意だ。
「ううん。大丈夫。いつも松也さんのペースに流されてしまうからいけないんだよね」
「そうだな。なんか困ったことがあれば、相談して」
颯真は心配性だね、と潤は微笑んだ。
「僕もいい大人だよ。大丈夫」
そこで潤はふと感じた。
どこか昔の空気に戻ってきたような気がしたのだ。
潤の望みは、颯真とは以前のような関係に戻りたいということ。それは諦めろと言われた。
どんなに心地よい関係でも、完全に元に戻ることはないと断言され、それは潤自身も分かっている。
しかし、わずかでも戻れるのではと期待してしまうのもまた事実。
しかし潤はいまここでまた新しい発見をしていた。
戻れるならば戻りたいが、今この空気も悪い感じはしなかった。
颯真は自分よりも自己管理ができている、そう思ったのはいつだったか。
きっと、大晦日のことなど何とも思っていなくて、年末年始はバリバリと仕事をしていたに違いない……と、そう思って少しふてくされたのは、母茗子とカレーを作っていたときかと、潤は思い出す。
その時の自分は、颯真のことを受け止めきれずに、自室で休むことも叶わずに、リビングのソファの上で毛布に包まれ、みの虫のようになって睡眠を取り、部屋に一人でいられずに逃げ出していたりと、他人に見せるのも聞かせるのも憚るほどの混乱ぶりだった。
しかし、颯真はそれを小さく笑って「そんなことあるか」と蹴飛ばした。
「俺は、お前の反応に一喜一憂しているよ」
颯真の言葉を意外に思った。
「僕の?」
思わず問い返すほどに。
颯真が頷く。
「想像以上に、俺はお前に振り回されっぱなしだ。今は主治医をクビにされなかったことに安堵してる」
「そんなこと……」
思わず反論しようとして、潤は口を噤んだ。颯真の言葉は冗談のようにも聞けなくはないが、その口調が冗談には聞こえなかった。
主治医をクビ。その言葉に、颯真の本気具合を実感する。先程の和泉の紹介を受けるか、それとも引き続き自分で良いのかと迫った颯真は、間違いなく拒絶されることも想定に入れていたと思う。
正直、ここまで乗り込んできた颯真は、潤の気持ちなどお構いなしに診察して、次回はいつに来院せよと強引に事を決めていくのではないかと思っていた。
なのに少し様相は違っていた。
「颯真はもっとぐいぐい来るのかと思った」
そう潤が呟くと、颯真が小さく笑った。
「そんなことできるかよ。何なら、俺の残念な年末年始を聞くか?」
潤が首を傾げる。
「残念な年末年始?」
ああ、と颯真は頷く。
「いわば、懺悔と言い訳だな」
その言葉の意味が潤にはよく分からない。
「事の発端は大晦日だ」
颯真の切り出しに、潤が止まった。
大晦日。
それは辛い発情期が終わった日。前夜に颯真に抱かれて「愛している」と衝撃的な告白をされ、それを受け入れられず、「颯真はおかしい」と全力で拒絶した、あの日だ。
潤は颯真の気持ちが理解できず、颯真が触れることさえ拒絶した。そして彼の言葉を頭から拒み、考えることも放棄した。
颯真がワイシャツのボタンを一つ開けて、ネクタイのノットに指を入れて少し緩めた。
「正直、お前に拒絶されることは想定していた。当たり前だ。これまでそんなふうに接したことはなかったんだから。どう考えても青天の霹靂だ」
颯真が小さく笑う。その笑顔は少し自嘲めいていて、いつもの彼らしくはない。
「あの年末年始は、俺からみると、お前に与えたクールダウンの期間のつもりだった。落ち着いて考えてほしかったし、冷静になってほしいと思って設けた時間だった。いずれはちゃんと話したかったし。
で、俺はというと、がむしゃらに働いてた」
松也の話を思い返す。
年末年始の救急外来にアルファ・オメガ科の医師が常駐することになったが、それを一手に引き受けたのが颯真だったと。手が空くと他の患者を診て、救急センターのドクターに重宝がられていたと聞いていた。
「ちょうど年末年始で人手が足りないところに入り込んで、何も考えずに仕事に没頭した。正直、何もすることもなかったしな。身体と頭を酷使できる限りしてみた」
今年の年末年始は、おそらく初めて別々に過ごした。颯真は冷静に仕事をこなしているのだろうと、潤は思っていた。
「あんなに働いたの久しぶりだなっていうくらい頭と身体を酷使して、仕事が明けて帰宅して、お前とバッタリ会った」
一月四日。出社前に仕事帰りの颯真と家ですれ違った。あの時の再会はあまりに予想外で、まともに対応することができなかった。一瞬のことだったのに、気持ちの整理が付いていなかったから心を乱された。
「俺を見て、お前がすごく困っているのは分かったよ。俺もなんて言っていいか迷った。会うのはまだ早かったなって、あの時は思った。
ただ、あの直後に俺は自分の痛恨のミスを知った。お前に抑制剤を渡していなかったって、あの時になってようやく気が付いたんだ」
おそらくそれは、これまでの彼からすればあり得ないことだ。
「正直、自分が信じられなかったね。なんで頭から抜けていたのだろうと思った。
俺は冷静であるつもりだった。潤に対して爆弾を落としたんだから、俺は揺らぐことなく構えておくべきだと思っていたし、実際にそうだと思っていた。
だけど、この時になって、俺はずっと冷静じゃなかったんだって気が付いた」
でなければ俺が忘れるはずはないよなあと苦笑する。自覚がなかっただけで、お前から全力の拒否は案外堪えていたらしい、と自嘲の笑みを浮かべた。
潤から見れば、自分に拒絶された颯真は淡々と出勤の準備を整えて出て行ったように思えた。
それはそのような事情だからだったのかと思った。
「今思えば、仕事しかすることが無かったっていうのは、仕事に逃げていたんだろう。何もせずにあの部屋で二人きり、時間が過ぎることに、俺も耐えられなかったんだろうな」
潤が落ち着くまでって、それを言い訳にしていた部分もあるんだろう」
颯真にとって冷静でいられなかったというのは、痛恨の極みに違いないだろうが、潤はなぜか少し気分が慰められた。自分だけが動転していたわけではないと分かったからだ。
「最初は、抑制剤を廉からお前に渡してもらおうかと考えたこともあったんだ。でも、お前から見れば、いきなり抑制剤を渡されても誰が処方したんだって疑問に思うよな。結局、俺に辿り着いてしまう。
廉からは、お前が俺の名前に触れるたびに動揺していると聞いていた。俺が渡したと分かったら逆効果になりかねないと思った」
だから、お前が落ち着くまで待つことにしたと颯真が言った。
「なら、なんでいきなりおしかけてきて……」
先程、社長室に入ってすぐに颯真の姿を認めて、心臓が止まるほどに驚いた。
「ドイツ駐在時代に仲が良かったアルファから今回も香りを指摘されたと聞いて、正直なところ居ても立ってもいられなかったっていうのはある。あとは俺ではなく、産業医を頼られたっていう、わずかな悔しさかな。
でも、落ち着いてから俺が直接診て、今後を託せるドクターを決めたかったというのは本当だ。俺はもうお前にああいう発情期を越えさせたくないんだよ。だから、万が一でも、ちゃんとお前の体質を理解してくれるドクターにしか託したくなかった」
それが、和泉医師か自分かという選択肢につながったのかと潤は思う。颯真は本気で、自分が嫌ならば手を引くと考えていたのだ。
「……いや、違うな。本当は、それでそこで切れてしまうのが、本音では嫌だった」
颯真が潤から視線を外してひとりごちる。
「でも、潤が和泉先生を選ぶなら仕方がないとも思っていた。あんなに激しい発情期の後だ。主治医として……心配だった。ただ、それだけだ。潤がまた俺を頼りにしてくれて嬉しい」
潤は反応できなかった。
颯真のその言葉からは、後悔と誠意しか感じられなかった。
颯真はずっと自分のことを一番に考えてくれていたのだ。
颯真はちゃんと自分のことを分かっていて、考えるスピードに寄り添ってくれる。
最後まで自分に選択肢を残し、そして自分の選択を尊重してくれる。
早急に答えを求めることなんてしない。
そう考えて、潤は、否応なくもう一人のアルファの姿を思い浮かべた。
天野松也。
三十年近く一緒にいる颯真と比べてしまうのは酷なのかもしれない。しかし、やはり潤にとって、松也が求めるテンポが速すぎて、ついて行けないと思ってしまう。そんな気持ちの冷え込みをどう彼に説明しようか、どう伝えたら理解してもらえるのか、ずっと心の隅で考えていた。
もし断っても、何故どうしてと問い返されたら、自分はちゃんと流されずに結論を貫き通すことができるだろうか。
「少し話を変えてもいいか」
颯真の切り出しに、潤も頷く。
「うん」
「じつは、実家の天野先生のところの松也さんと頻繁に会ってるって聞いた」
潤は純粋に驚いた。
「え、なんで知ってるの」
「実は母さんから」
それはそうだ。颯真は今、実家にいる。
「……ああ、そうか。そういうこと」
潤は納得したが、颯真が苦笑を漏らす。
「あと、松也さん本人からも、ちょいちょい聞いてる」
「あー……」
十分想像できた。あの人は自分に自信がある。自分が断られるなんて、多分考えていない。だから今から義兄弟候補として颯真に近づいたと考えても納得できる。
松也自身は潤を落とすために、颯真の攻略は必須だと思っているに違いないのだ。
聞いたぞ、と颯真が切り出す。
「なんか乗り気だって」
それは不本意だ。
「僕じゃない。松也さんが」
「母さん達も」
「そんなの聞いてないし。第一、僕にはそんな気持ちは全くない」
そもそも松也と再会して一ヶ月ほど。
恋愛に時間は関係ない、とはいう。しかしそれでも、松也と同じ温度で、同じ速度で共に気持ちを育めない自分は、彼とうまくやっていくことは難しいと感じている。
「……そうか。よかった。俺は松也さんから牽制されてるから。少し心配していた」
「牽制?」
「うん。いろいろと報告してくれる。今日は潤君と一緒にランチをする予定だと、ご飯をする予定だと。そういえば、水族館に行く約束は、どうなったのかは知らないけど、報告してこなかったってことは行けなかったのかな」
潤は思わず松也の名前を呆れた気分で呟く。
「水族館は、僕の体調が優れなくて……」
「そうか……。今度は梅を見に行く予定だって聞いてる」
「……松也さんが忙しそうだから実現するかは分からないけどね」
「……お前も忙しいしな」
「そういうことだね」
颯真も潤の意図を察したらしい。
「……その程度か」
「母さんにはその気はないことを話したんだけどな」
「なら、松也さんにもはっきり言うべきだろう」
颯真の手厳しい正論に、潤も少し口ごもる。
「そうしたいんだけど、なかなか話を聞いてもらえなくて」
その言葉に、颯真が遠い目をした。
「あー……。わかる。あの人は、自分の聞きたい話以外は割とスルーしちゃうからな」
俺から言おうか? と颯真が提案してくれたが、さすがに潤も遠慮した。
自分の口からきちんと断るのが自分を選んでくれた人への誠意だ。
「ううん。大丈夫。いつも松也さんのペースに流されてしまうからいけないんだよね」
「そうだな。なんか困ったことがあれば、相談して」
颯真は心配性だね、と潤は微笑んだ。
「僕もいい大人だよ。大丈夫」
そこで潤はふと感じた。
どこか昔の空気に戻ってきたような気がしたのだ。
潤の望みは、颯真とは以前のような関係に戻りたいということ。それは諦めろと言われた。
どんなに心地よい関係でも、完全に元に戻ることはないと断言され、それは潤自身も分かっている。
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