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2章 一人のアルファで一人の兄で
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潤はジャケットの内ポケットから情報公開請求書を取り出して、松也の前にかざして見せた。
「松也さんが、母に話すというのであれば、僕は明日にでも、これを誠心医科大学横浜病院に提出します」
情報公開請求の可否については、二週間程度で結論が出るとされている。潤は、その結論をもって、松也と彼の父である天野医師に対峙するつもりでいた。
両親は、天野医師と深い交流がある。このようなことをすれば、自分と松也だけではなく、実家の両親の交友関係にも影響を残すと思ったが、交渉材料がそれしかなければテーブルに上げるしかない。
もし懸念通りのことになったら、素直に両親に謝ろうと思う。
颯真が「お前なりに上手く使え」と教えてくれた松也のウィークポイントが、まさに父親との関係だった。
「あの人は父親に弱い」
松也は、父親を尊敬しているが故に、失望されるようなことだけは避けたいと思っていて、それが結果的に弱点になりうるポイントというのが颯真の見立てだった。
潤にとっては意外だったが、なるほど、実際に天野医師の話題を持ち出してみると、松也の反応は存外に分かりやすく、片割れの分析は間違いなさそうだと実感する。
……もっともなぜ、颯真がそれを知っているのかについては教えてもらえなかったが。
「へえ……」
松也がワントーン高い声で呟いた。先程とは少し様子が違っていて、かなりの打撃だったのだなと察するに十分だった。
「でも、君になんの権利があって、父に話すと?」
先日の冷徹な松也の一面が透けて見える。余裕がなくなってきているのかもしれない。彼の余裕を取り払い、ようやく同じ土俵に立てたと潤は感じた。
「僕は、貴方と同じことを申し上げているだけです」
やられたらやり返すの精神だ。
すると松也の眉間が歪んで、不快げに潤を見据えた。
「俺は、君を助けようと申し出ただけだけど?」
松也の言葉を落ち着いて受けられていると、潤は自分の平静を内心で安堵する。
「親に言われたくなればパートナーになれ。それが貴方にとって僕を助けるということですか?」
松也は苛立たしげに息を吐いた。
「卑怯な手段に出た颯真君に対するには、それくらいしないとならないだろう?」
ぐっと潤は腹のあたりに力を込めて、湧き上がる怒りを抑え込んだ。
そして疑問を差し込む。
「なぜ貴方はそんなに、颯真を目の敵にしてるんですか」
すると、松也は意外そうに目を丸くした。
「目の敵? そんなことはないよ」
「松也さんの言動を見ていると、颯真に対してあまりに辛口、いやそれより憎んでるのではないかとさえ思えます」
松也は少し考え込んで、否定するように首を横に振る。
「憎しみか。そんなふうに言われたのは初めてだよ」
「……そうですか。なら無自覚なんですね」
潤が切って捨てると、松也が視線を投げる。
「潤君は何を言いたいの?」
潤は一歩前に出ることにした。
「松也さんにとって、颯真は目障りなんだろうなって」
すると、分かりやすいほどに松也の眉間に皺が寄った。
「どうしてそんなことを、潤君が言うの?」
松也がぐっと潤の腕を掴む。
「つっ……。
痛いです、松也さん」
潤は戸惑うこともなく、はっきり抗議した。
トゥルルルル……。
不意にどこからか電子音が聞こえ、あたりを見回す。気がつけば、スーツの内ポケットからの着信音だった。そういえば、マナーモードにするのを忘れていたようだ。
無視しようと思ったが、音がかなり大きい。
スーツの上からスマホをさりげなく押さえてみたりしたが、音を抑えられるわけもない。
松也が潤の腕を離した。
「仕事じゃないの? 出てくれば?」
誰なのかは分からない。潤も躊躇ったが、その言葉に従い、すみませんと断り、席を外した。
ジャケットからスマホを取り出すと、ディスプレイに表示された発信元は、意外にも颯真。
店の外に出て、雨粒を避けられる軒下で応答した。
「もしもし……」
「お前、今どこだ?」
颯真の問いに潤は驚き、あたりを見回す。
「松也さんと一緒なのか?」
颯真は焦っている様子だった。
「待って、僕、さっき連絡入れたよね?」
潤の言葉に颯真が答える。
「一時間前にこれから松也さんと会うってメッセージをもらったけど、お前の居場所が掴めない。GPSが拾えてない」
「え」
潤が驚く。もしかして、ここはGPSが受信できない場所なのか。
「今、中目黒の高架線の下のカフェバーに松也さんといる。ほら、前に三人で入った、広い店だよ」
潤が説明すると、ようやく颯真が安堵の吐息を漏らした。
「ああ、分かった。バータイムにロイヤルミルクティーを出してくれた店だな」
颯真も覚えていた店で、ようやく安心した様子。
「そこにいる。大丈夫、ちゃんと松也さんにも無理ですって伝えられたから」
潤の言葉に、颯真もそうかと頷いた。今まさに颯真のことでもめているとはあえて言わなかった。
「颯真は今どこなの?」
「職場出て、そっちに向かってる。有料道路を下りたところ。お前がどこにいるかなと思って」
「心配させたね。話が済んだら、僕も帰るからうちに居て。鍵持ってるよね」
「もちろん」
「雨降ってるし……運転気をつけて」
「了解。大丈夫だよ」
挨拶を交わして通話を終了させた。店の外は恐ろしく寒いのだが、それでも颯真とわずかでも話すことができて、潤の心が暖まり、気持ちは落ち着いた。
大きな深呼吸を何度か繰り返して、肺の中の空気を入れ換える。
ついでに、スマホを操作してGPSを確認したが、やはりオンになっていた。ここは高架線の下だから、拾いにくい場所だったのかもしれない。そこまで考えが至らず、颯真に心配をかけてしまったのかと少し反省した。
「失礼しました」
席に戻ると、松也が大丈夫だった? と聞いてきた。
潤はいっそのこと颯真からの電話だったと言おうかと思ったが、下手に刺激するのもよくないと思い、部下からでしたが、問題はありませんでしたと応じた。
「そうか」
この時間は、互いにとってわずかな冷却時間として機能したようで、松也もこの時間で態勢を立て直した様子。先程よりも余裕が見えた。
しかし、事態が変わったわけではない。
二人の間に重い沈黙が降りた。
あまりにどんよりとしているため、潤は手持ち無沙汰になり、カップのロイヤルミルクティーを何度も飲んだ。なんだろう、冷めてしまったためか、あまり美味しくない。
しかし、特段やることもなく、何度もカップを口に運んだ。
「……話をもとに戻そうか。
潤君は俺の助けなど一切合切要らないということだ。
だけど、颯真君に対してはどうする? 彼は、弱っている君につけ込んで、自分の欲を発散させた」
潤は思わず声を上げる。
「そんな言い方はないと思いますが」
しかし、松也は小さく何度も頷きながら、潤の抗議を無視して話を続ける。
「確かに身内が苦しむ姿は見ていられない。きっと颯真君は潤君が苦しむ姿を見るのが辛くて、そういう行為に走ったのだろうと思う。
しかし、結局はそれはどんな理由をもってしても、颯真君が己の欲望を君にぶちまけた、という事実しかない」
松也が、潤の目を見据える。
「俺は、潤君にそんな即物的な関係を強いる颯真君に失望した。本当に医師として、兄として、人として最低だ」
その言葉に、潤の中で何かが弾けて飛び散った気がした。
「止めてください」
一気に沸点に持っていかれた腹の内は、ぐつぐつと煮えたぎる。今日は何度も、事情をよく知りもしない松也が、自分の片割れのことを……颯真をこき下ろしてきたのを耳にした。
それを、ずっと堪らない気持ちで聞かされた。そうではないと否定しても、聞き入れてもらえない。
「いい加減、聞くに耐えない」
腹の底から出た声だった。
松也の颯真への批判は、まるで自分に聞かせるためではなく、颯真をおとしめることで自分が満足したいかのようだ。
「貴方のコンプレックスに僕らを巻き込むのはやめてください。颯真はそんな人間じゃない」
そんなことにずっと付き合わされるこちらの身になって欲しい。なぜ、あの年末の出来事を、松也に許す許されないと言われなければならないのか。
そんなことは、颯真だって百も承知のうえでの選択に違いない。
それに、これほどおかしい、許されないと言われると、今颯真を愛おしいと思う自分の気持ちだって否定されているようなものだ。
いい加減切り上げたい。この不毛な会話を終わらせて帰りたい。潤の原動力はそれだけだった。きっと颯真はもう家にいる。この人を相手にするのはうんざりだ。
「コンプレックス? 誰が誰にコンプレックスを? 俺はそんな話は一切していない」
「いや。貴方が、颯真に。です」
潤が松也の目を見て、低い声で断じるように言い切った。
「なんて言った? 今」
松也の表情が一変した。図星であったことを潤は悟る。それは父親の話を持ち出した時よりも上を行くほどの急変ぶりだった。
潤も怯むことはない。いい加減うんざりしている。
「違いますか? なら、言い換えましょう。
貴方は颯真が羨ましくて仕方がないんでしょう」
潤は断言して、松也を見据えた。
「はっ?」
松也が、これまで見たことないような好戦的でギラギラとした視線を潤に投げつけている。さすがにアルファにこのような視線を向けられると少し怖いが、その怯みを悟られぬように目に力を込めた。
「だって、そうでしょう。
貴方は僕を見ているわけじゃない。僕を通じて颯真を見ているんだ。
最初は僕の警戒感を解くために颯真の話をしているのかと思いました。でも、この間……、貴方がアルファ・オメガ領域を諦めたという話を聞いて、どこか腑に落ちました」
もう、話しても無駄でしょう。
潤がそう言って立ち上がろうとする。
椅子から立ち上がろうとしたところで、思わず手で鼻先と口元を塞いだ。
あれっと思った。
なんか、変な匂いがする。
自分の香りではない。でも、そういった類のもので、潤の官能を惑わせる、アルファの香りだ。
思わず周りを見渡す。
ハンカチを取り出し、口元を押さえた。
気持ちや思惑に関係なく、オメガを誘惑する強引な香りに、潤は戸惑いを覚える。
ふいにぐっと腕を掴まれた。
その異様な香りがふわっと潤を襲う。
「効いてきたかな」
松也が興味津々の色を隠さずに潤を見てきた。
この人か、ととっさに思い、反射的に身体を離す。
「松也さん。何か、しました?」
潤がそう問うと、松也は少し気の毒そうに潤を見た。
「大丈夫。変なものではないよ。危険なものを飲ませたわけじゃないし、身体の負担は少ないものを選んだつもりだ」
その言葉で何かを盛られたと理解した。
どうやって……と記憶を引き戻す。記憶は、手元のマグカップに辿り着く。
さっき電話で席を離れたときに入れられた……?
「分かった? ちょっと仕込んでみた」
松也がポケットから出したのは小さな瓶。中には何か粉末が納められているようだ。
「何を……!」
血の気が引いた。しかし、松也は余裕の表情を崩さない。
「ちょっと嗅覚が敏感になるっていう、オメガ向けの媚薬」
大丈夫、フェロモン誘発剤じゃないよ、と松也は言った。
「もともと医薬品として開発していたものだけど、オメガの嗅覚異常が副作用として多発して、開発中止になったものなんだ。
まあ、安全性は確認されたから、今はオメガ専用の媚薬として、非正規ルートで売られている」
いくら番になるといっても、どちらが主で従か、はっきりさせておくべきだろう? 本来は使うつもりもなかったけど、潤君は有能だから弁も立つし、きちんとしておかないと……、と松也は言った。
それに、うまくやっていても喧嘩になると思いのほか遠慮もなくなるしね、と不穏な視線を向ける。
潤が松也から離れようと、椅子から立ち上がる。
しかし、その手を強く掴まれた。
「松也さ……!」
潤は悲鳴に近い声を上げる。
「散々失礼なことを言ってくれたけど、君はこうやって俺の香りで発情するんだよ」
ぐっと松也が潤の腕を握る。ハンカチが外れてすっと松也の香りが鼻孔に入り込んでくる。
ふざけるな。発情なんてしない!
潤は香りから逃れるように顔を背けた。
「松也さんが、母に話すというのであれば、僕は明日にでも、これを誠心医科大学横浜病院に提出します」
情報公開請求の可否については、二週間程度で結論が出るとされている。潤は、その結論をもって、松也と彼の父である天野医師に対峙するつもりでいた。
両親は、天野医師と深い交流がある。このようなことをすれば、自分と松也だけではなく、実家の両親の交友関係にも影響を残すと思ったが、交渉材料がそれしかなければテーブルに上げるしかない。
もし懸念通りのことになったら、素直に両親に謝ろうと思う。
颯真が「お前なりに上手く使え」と教えてくれた松也のウィークポイントが、まさに父親との関係だった。
「あの人は父親に弱い」
松也は、父親を尊敬しているが故に、失望されるようなことだけは避けたいと思っていて、それが結果的に弱点になりうるポイントというのが颯真の見立てだった。
潤にとっては意外だったが、なるほど、実際に天野医師の話題を持ち出してみると、松也の反応は存外に分かりやすく、片割れの分析は間違いなさそうだと実感する。
……もっともなぜ、颯真がそれを知っているのかについては教えてもらえなかったが。
「へえ……」
松也がワントーン高い声で呟いた。先程とは少し様子が違っていて、かなりの打撃だったのだなと察するに十分だった。
「でも、君になんの権利があって、父に話すと?」
先日の冷徹な松也の一面が透けて見える。余裕がなくなってきているのかもしれない。彼の余裕を取り払い、ようやく同じ土俵に立てたと潤は感じた。
「僕は、貴方と同じことを申し上げているだけです」
やられたらやり返すの精神だ。
すると松也の眉間が歪んで、不快げに潤を見据えた。
「俺は、君を助けようと申し出ただけだけど?」
松也の言葉を落ち着いて受けられていると、潤は自分の平静を内心で安堵する。
「親に言われたくなればパートナーになれ。それが貴方にとって僕を助けるということですか?」
松也は苛立たしげに息を吐いた。
「卑怯な手段に出た颯真君に対するには、それくらいしないとならないだろう?」
ぐっと潤は腹のあたりに力を込めて、湧き上がる怒りを抑え込んだ。
そして疑問を差し込む。
「なぜ貴方はそんなに、颯真を目の敵にしてるんですか」
すると、松也は意外そうに目を丸くした。
「目の敵? そんなことはないよ」
「松也さんの言動を見ていると、颯真に対してあまりに辛口、いやそれより憎んでるのではないかとさえ思えます」
松也は少し考え込んで、否定するように首を横に振る。
「憎しみか。そんなふうに言われたのは初めてだよ」
「……そうですか。なら無自覚なんですね」
潤が切って捨てると、松也が視線を投げる。
「潤君は何を言いたいの?」
潤は一歩前に出ることにした。
「松也さんにとって、颯真は目障りなんだろうなって」
すると、分かりやすいほどに松也の眉間に皺が寄った。
「どうしてそんなことを、潤君が言うの?」
松也がぐっと潤の腕を掴む。
「つっ……。
痛いです、松也さん」
潤は戸惑うこともなく、はっきり抗議した。
トゥルルルル……。
不意にどこからか電子音が聞こえ、あたりを見回す。気がつけば、スーツの内ポケットからの着信音だった。そういえば、マナーモードにするのを忘れていたようだ。
無視しようと思ったが、音がかなり大きい。
スーツの上からスマホをさりげなく押さえてみたりしたが、音を抑えられるわけもない。
松也が潤の腕を離した。
「仕事じゃないの? 出てくれば?」
誰なのかは分からない。潤も躊躇ったが、その言葉に従い、すみませんと断り、席を外した。
ジャケットからスマホを取り出すと、ディスプレイに表示された発信元は、意外にも颯真。
店の外に出て、雨粒を避けられる軒下で応答した。
「もしもし……」
「お前、今どこだ?」
颯真の問いに潤は驚き、あたりを見回す。
「松也さんと一緒なのか?」
颯真は焦っている様子だった。
「待って、僕、さっき連絡入れたよね?」
潤の言葉に颯真が答える。
「一時間前にこれから松也さんと会うってメッセージをもらったけど、お前の居場所が掴めない。GPSが拾えてない」
「え」
潤が驚く。もしかして、ここはGPSが受信できない場所なのか。
「今、中目黒の高架線の下のカフェバーに松也さんといる。ほら、前に三人で入った、広い店だよ」
潤が説明すると、ようやく颯真が安堵の吐息を漏らした。
「ああ、分かった。バータイムにロイヤルミルクティーを出してくれた店だな」
颯真も覚えていた店で、ようやく安心した様子。
「そこにいる。大丈夫、ちゃんと松也さんにも無理ですって伝えられたから」
潤の言葉に、颯真もそうかと頷いた。今まさに颯真のことでもめているとはあえて言わなかった。
「颯真は今どこなの?」
「職場出て、そっちに向かってる。有料道路を下りたところ。お前がどこにいるかなと思って」
「心配させたね。話が済んだら、僕も帰るからうちに居て。鍵持ってるよね」
「もちろん」
「雨降ってるし……運転気をつけて」
「了解。大丈夫だよ」
挨拶を交わして通話を終了させた。店の外は恐ろしく寒いのだが、それでも颯真とわずかでも話すことができて、潤の心が暖まり、気持ちは落ち着いた。
大きな深呼吸を何度か繰り返して、肺の中の空気を入れ換える。
ついでに、スマホを操作してGPSを確認したが、やはりオンになっていた。ここは高架線の下だから、拾いにくい場所だったのかもしれない。そこまで考えが至らず、颯真に心配をかけてしまったのかと少し反省した。
「失礼しました」
席に戻ると、松也が大丈夫だった? と聞いてきた。
潤はいっそのこと颯真からの電話だったと言おうかと思ったが、下手に刺激するのもよくないと思い、部下からでしたが、問題はありませんでしたと応じた。
「そうか」
この時間は、互いにとってわずかな冷却時間として機能したようで、松也もこの時間で態勢を立て直した様子。先程よりも余裕が見えた。
しかし、事態が変わったわけではない。
二人の間に重い沈黙が降りた。
あまりにどんよりとしているため、潤は手持ち無沙汰になり、カップのロイヤルミルクティーを何度も飲んだ。なんだろう、冷めてしまったためか、あまり美味しくない。
しかし、特段やることもなく、何度もカップを口に運んだ。
「……話をもとに戻そうか。
潤君は俺の助けなど一切合切要らないということだ。
だけど、颯真君に対してはどうする? 彼は、弱っている君につけ込んで、自分の欲を発散させた」
潤は思わず声を上げる。
「そんな言い方はないと思いますが」
しかし、松也は小さく何度も頷きながら、潤の抗議を無視して話を続ける。
「確かに身内が苦しむ姿は見ていられない。きっと颯真君は潤君が苦しむ姿を見るのが辛くて、そういう行為に走ったのだろうと思う。
しかし、結局はそれはどんな理由をもってしても、颯真君が己の欲望を君にぶちまけた、という事実しかない」
松也が、潤の目を見据える。
「俺は、潤君にそんな即物的な関係を強いる颯真君に失望した。本当に医師として、兄として、人として最低だ」
その言葉に、潤の中で何かが弾けて飛び散った気がした。
「止めてください」
一気に沸点に持っていかれた腹の内は、ぐつぐつと煮えたぎる。今日は何度も、事情をよく知りもしない松也が、自分の片割れのことを……颯真をこき下ろしてきたのを耳にした。
それを、ずっと堪らない気持ちで聞かされた。そうではないと否定しても、聞き入れてもらえない。
「いい加減、聞くに耐えない」
腹の底から出た声だった。
松也の颯真への批判は、まるで自分に聞かせるためではなく、颯真をおとしめることで自分が満足したいかのようだ。
「貴方のコンプレックスに僕らを巻き込むのはやめてください。颯真はそんな人間じゃない」
そんなことにずっと付き合わされるこちらの身になって欲しい。なぜ、あの年末の出来事を、松也に許す許されないと言われなければならないのか。
そんなことは、颯真だって百も承知のうえでの選択に違いない。
それに、これほどおかしい、許されないと言われると、今颯真を愛おしいと思う自分の気持ちだって否定されているようなものだ。
いい加減切り上げたい。この不毛な会話を終わらせて帰りたい。潤の原動力はそれだけだった。きっと颯真はもう家にいる。この人を相手にするのはうんざりだ。
「コンプレックス? 誰が誰にコンプレックスを? 俺はそんな話は一切していない」
「いや。貴方が、颯真に。です」
潤が松也の目を見て、低い声で断じるように言い切った。
「なんて言った? 今」
松也の表情が一変した。図星であったことを潤は悟る。それは父親の話を持ち出した時よりも上を行くほどの急変ぶりだった。
潤も怯むことはない。いい加減うんざりしている。
「違いますか? なら、言い換えましょう。
貴方は颯真が羨ましくて仕方がないんでしょう」
潤は断言して、松也を見据えた。
「はっ?」
松也が、これまで見たことないような好戦的でギラギラとした視線を潤に投げつけている。さすがにアルファにこのような視線を向けられると少し怖いが、その怯みを悟られぬように目に力を込めた。
「だって、そうでしょう。
貴方は僕を見ているわけじゃない。僕を通じて颯真を見ているんだ。
最初は僕の警戒感を解くために颯真の話をしているのかと思いました。でも、この間……、貴方がアルファ・オメガ領域を諦めたという話を聞いて、どこか腑に落ちました」
もう、話しても無駄でしょう。
潤がそう言って立ち上がろうとする。
椅子から立ち上がろうとしたところで、思わず手で鼻先と口元を塞いだ。
あれっと思った。
なんか、変な匂いがする。
自分の香りではない。でも、そういった類のもので、潤の官能を惑わせる、アルファの香りだ。
思わず周りを見渡す。
ハンカチを取り出し、口元を押さえた。
気持ちや思惑に関係なく、オメガを誘惑する強引な香りに、潤は戸惑いを覚える。
ふいにぐっと腕を掴まれた。
その異様な香りがふわっと潤を襲う。
「効いてきたかな」
松也が興味津々の色を隠さずに潤を見てきた。
この人か、ととっさに思い、反射的に身体を離す。
「松也さん。何か、しました?」
潤がそう問うと、松也は少し気の毒そうに潤を見た。
「大丈夫。変なものではないよ。危険なものを飲ませたわけじゃないし、身体の負担は少ないものを選んだつもりだ」
その言葉で何かを盛られたと理解した。
どうやって……と記憶を引き戻す。記憶は、手元のマグカップに辿り着く。
さっき電話で席を離れたときに入れられた……?
「分かった? ちょっと仕込んでみた」
松也がポケットから出したのは小さな瓶。中には何か粉末が納められているようだ。
「何を……!」
血の気が引いた。しかし、松也は余裕の表情を崩さない。
「ちょっと嗅覚が敏感になるっていう、オメガ向けの媚薬」
大丈夫、フェロモン誘発剤じゃないよ、と松也は言った。
「もともと医薬品として開発していたものだけど、オメガの嗅覚異常が副作用として多発して、開発中止になったものなんだ。
まあ、安全性は確認されたから、今はオメガ専用の媚薬として、非正規ルートで売られている」
いくら番になるといっても、どちらが主で従か、はっきりさせておくべきだろう? 本来は使うつもりもなかったけど、潤君は有能だから弁も立つし、きちんとしておかないと……、と松也は言った。
それに、うまくやっていても喧嘩になると思いのほか遠慮もなくなるしね、と不穏な視線を向ける。
潤が松也から離れようと、椅子から立ち上がる。
しかし、その手を強く掴まれた。
「松也さ……!」
潤は悲鳴に近い声を上げる。
「散々失礼なことを言ってくれたけど、君はこうやって俺の香りで発情するんだよ」
ぐっと松也が潤の腕を握る。ハンカチが外れてすっと松也の香りが鼻孔に入り込んでくる。
ふざけるな。発情なんてしない!
潤は香りから逃れるように顔を背けた。
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