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第五章:みんなと歩く日常
第62話・気づかれてしまった渇き
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夕暮れの光が柔らかく差し込む廊下。
訓練を終えたルナフィエラは、ひとり歩いていた。
身体に異常はない。
けれど、何かがひっかかっていた。
(……ちょっとだけ、身体が重い……?)
歩くたびに、胸の奥がじんと疼くような感覚。
意識しなければ流れてしまいそうな、けれど確かにそこにある“乾き”。
(……ううん、気のせい……。吸血しなくても大丈夫……)
けれど、そう思えば思うほど、
背中にひんやりとした汗が滲んでくる。
目を伏せて歩こうとしたとき――
廊下の角から現れた人影と、ふと目が合った。
「……ルナ様」
それはヴィクトルだった。
相変わらず穏やかな声。けれど、その眼差しにはわずかに探る色が宿っていた。
「少し、よろしいでしょうか?」
「え……? うん……」
導かれるように、近くの小部屋へ。
夕日が差し込む静かな空間で、ヴィクトルはそっと扉を閉めた。
「……ルナ様。最近、少し様子が変わられましたね」
「……そ、そう?」
「ええ。訓練中の動きも、体力の回復も、少しだけ遅れている。
そして……何より、視線がどこか宙に浮いているように見えます」
「…………」
ルナフィエラは咄嗟に言葉を返せなかった。
「……私の思い過ごしなら、それで構いません。
ですが――何かあれば、どうか隠さないでください」
ヴィクトルの声音がほんの少しだけ柔らかくなる。
「あなたが苦しむ姿を、私は……もう、見たくないのです」
ルナフィエラは思わず目を伏せた。
誤魔化そうとした。
けれど、唇はうまく動いてくれない。
「……その……ちょっとだけ、最近……」
「はい」
「身体が、なんか……変な感じで……」
「変な?」
「お腹が空いてるのとは違うんだけど……でも、似てるかも。
なんだか、胸の奥がずっと、じんじんする感じで……」
ヴィクトルは静かに頷いた。
「……吸血の衝動、ですね」
その言葉に、ルナフィエラは肩をびくりと震わせた。
「っ、やっぱりそうなの……?」
「はい。吸血衝動は、抑えられるものではありますが……
それは“必要ないふり”をするのとは違います。
あなたが感じているのは、生きるための自然な感覚です」
「でも……」
言いかけて、ルナフィエラは口を噤む。
「こわい、の。吸うって……こわい」
その言葉は、まるで自分の喉からではなく、
深く沈んでいた心の底から浮かんできたもののようだった。
ヴィクトルはそんな彼女に、一歩だけ近づく。
「……ルナ様。もし、よろしければ――私を使ってください」
「え……?」
「私の体であれば、何があっても大丈夫です。
たとえうまくいかなくても、たとえ痛くても……ルナ様なら、私は構いません」
「っ……ヴィクトル……」
「あなたが、あなた自身を怖がらないように――
私が、導きます」
その瞳には一切の迷いも、恐れもなかった。
ルナフィエラは迷いながらも、
その言葉と眼差しに引き寄せられるように、小さく頷いた。
「……教えて、くれる?」
「ええ、もちろん」
そっと、ヴィクトルは椅子に座り、首元をゆっくりとゆるめる。
夕日が差し込む静かな部屋。
ルナフィエラは、ヴィクトルの前に立っていた。
ヴィクトルは椅子に腰掛け、襟元を緩め、首を少し傾けている。
「さあ、どうぞ」と言わんばかりに、静かに彼女を見上げていた。
ルナフィエラは、緊張のあまり唇を噛みしめた。
(ほんとうに……吸って、いいの?)
手のひらが汗ばむ。
胸の奥で、鼓動が速くなる。
それでも、彼が待ってくれているから――
彼なら、大丈夫だと思えるから。
ゆっくりと、ルナフィエラは身をかがめる。
ヴィクトルの首元へ、顔を寄せていく。
その瞬間、
彼の手がそっとルナフィエラの腰へ回され、
やわらかく支えられた。
「……怖くありません。ゆっくりで、大丈夫です」
優しい声に後押しされて、
ルナフィエラはそっと口を開く。
牙が伸びる。
けれど――肌に触れたその瞬間、
「……っ」
刺さらなかった。
牙が、首筋の皮膚をかすめただけ。
痛みもなく、血の香りも広がらない。
「……ごめんなさい……」
小さな声が漏れる。
ルナフィエラは俯き、肩を落としかけていた。
けれど次の瞬間、
ヴィクトルの両腕がやさしく彼女を抱きしめた。
「謝る必要はありません。
これは、“できるかどうか”ではなく――“あなたが望むかどうか”です」
その言葉に、胸が熱くなる。
ルナフィエラの身体が少し震えているのを感じ取って、
ヴィクトルはそっと彼女を抱き上げる。
そして、自分の膝の上に、ルナフィエラをそっと座らせた。
「……この方が、安心できますね」
ルナフィエラは目を見開いたまま動けなかった。
でも、彼の手が彼女の背に添えられ、優しく包むように撫でてくれるそのぬくもりに、心がほどけていく。
ヴィクトルは自らの左手を持ち上げ、
右手の爪で――鋭く整えられた黒い爪で、手首を静かに切った。
にじんだ赤い血が、淡い月の光に照らされる。
「……どうぞ、ルナ様。
私の血で、あなたが満たされるなら――それが、何よりの幸せです」
ルナフィエラは、彼の胸元に顔を預けるようにして、
そっと手首に口をつけた。
初めて味わう――
生きた血の感触。
温かくて、どこまでも深くて、
涙が出そうなほど、優しい味だった。
(あぁ……これが、ヴィクトルの……)
それだけで、全身が満たされていく気がした。
生きていることを、
許されたような気がして。
彼の腕の中で、
ルナフィエラは静かに瞳を閉じながら、
深く、深く、吸い込んだ。
ヴァンパイアにとって吸血は“食事”であり、
“繋がり”でもあり、“赦し”だった。
そして、
“ここにいてもいい”と、
そっと肯定される魔法でもあった。
訓練を終えたルナフィエラは、ひとり歩いていた。
身体に異常はない。
けれど、何かがひっかかっていた。
(……ちょっとだけ、身体が重い……?)
歩くたびに、胸の奥がじんと疼くような感覚。
意識しなければ流れてしまいそうな、けれど確かにそこにある“乾き”。
(……ううん、気のせい……。吸血しなくても大丈夫……)
けれど、そう思えば思うほど、
背中にひんやりとした汗が滲んでくる。
目を伏せて歩こうとしたとき――
廊下の角から現れた人影と、ふと目が合った。
「……ルナ様」
それはヴィクトルだった。
相変わらず穏やかな声。けれど、その眼差しにはわずかに探る色が宿っていた。
「少し、よろしいでしょうか?」
「え……? うん……」
導かれるように、近くの小部屋へ。
夕日が差し込む静かな空間で、ヴィクトルはそっと扉を閉めた。
「……ルナ様。最近、少し様子が変わられましたね」
「……そ、そう?」
「ええ。訓練中の動きも、体力の回復も、少しだけ遅れている。
そして……何より、視線がどこか宙に浮いているように見えます」
「…………」
ルナフィエラは咄嗟に言葉を返せなかった。
「……私の思い過ごしなら、それで構いません。
ですが――何かあれば、どうか隠さないでください」
ヴィクトルの声音がほんの少しだけ柔らかくなる。
「あなたが苦しむ姿を、私は……もう、見たくないのです」
ルナフィエラは思わず目を伏せた。
誤魔化そうとした。
けれど、唇はうまく動いてくれない。
「……その……ちょっとだけ、最近……」
「はい」
「身体が、なんか……変な感じで……」
「変な?」
「お腹が空いてるのとは違うんだけど……でも、似てるかも。
なんだか、胸の奥がずっと、じんじんする感じで……」
ヴィクトルは静かに頷いた。
「……吸血の衝動、ですね」
その言葉に、ルナフィエラは肩をびくりと震わせた。
「っ、やっぱりそうなの……?」
「はい。吸血衝動は、抑えられるものではありますが……
それは“必要ないふり”をするのとは違います。
あなたが感じているのは、生きるための自然な感覚です」
「でも……」
言いかけて、ルナフィエラは口を噤む。
「こわい、の。吸うって……こわい」
その言葉は、まるで自分の喉からではなく、
深く沈んでいた心の底から浮かんできたもののようだった。
ヴィクトルはそんな彼女に、一歩だけ近づく。
「……ルナ様。もし、よろしければ――私を使ってください」
「え……?」
「私の体であれば、何があっても大丈夫です。
たとえうまくいかなくても、たとえ痛くても……ルナ様なら、私は構いません」
「っ……ヴィクトル……」
「あなたが、あなた自身を怖がらないように――
私が、導きます」
その瞳には一切の迷いも、恐れもなかった。
ルナフィエラは迷いながらも、
その言葉と眼差しに引き寄せられるように、小さく頷いた。
「……教えて、くれる?」
「ええ、もちろん」
そっと、ヴィクトルは椅子に座り、首元をゆっくりとゆるめる。
夕日が差し込む静かな部屋。
ルナフィエラは、ヴィクトルの前に立っていた。
ヴィクトルは椅子に腰掛け、襟元を緩め、首を少し傾けている。
「さあ、どうぞ」と言わんばかりに、静かに彼女を見上げていた。
ルナフィエラは、緊張のあまり唇を噛みしめた。
(ほんとうに……吸って、いいの?)
手のひらが汗ばむ。
胸の奥で、鼓動が速くなる。
それでも、彼が待ってくれているから――
彼なら、大丈夫だと思えるから。
ゆっくりと、ルナフィエラは身をかがめる。
ヴィクトルの首元へ、顔を寄せていく。
その瞬間、
彼の手がそっとルナフィエラの腰へ回され、
やわらかく支えられた。
「……怖くありません。ゆっくりで、大丈夫です」
優しい声に後押しされて、
ルナフィエラはそっと口を開く。
牙が伸びる。
けれど――肌に触れたその瞬間、
「……っ」
刺さらなかった。
牙が、首筋の皮膚をかすめただけ。
痛みもなく、血の香りも広がらない。
「……ごめんなさい……」
小さな声が漏れる。
ルナフィエラは俯き、肩を落としかけていた。
けれど次の瞬間、
ヴィクトルの両腕がやさしく彼女を抱きしめた。
「謝る必要はありません。
これは、“できるかどうか”ではなく――“あなたが望むかどうか”です」
その言葉に、胸が熱くなる。
ルナフィエラの身体が少し震えているのを感じ取って、
ヴィクトルはそっと彼女を抱き上げる。
そして、自分の膝の上に、ルナフィエラをそっと座らせた。
「……この方が、安心できますね」
ルナフィエラは目を見開いたまま動けなかった。
でも、彼の手が彼女の背に添えられ、優しく包むように撫でてくれるそのぬくもりに、心がほどけていく。
ヴィクトルは自らの左手を持ち上げ、
右手の爪で――鋭く整えられた黒い爪で、手首を静かに切った。
にじんだ赤い血が、淡い月の光に照らされる。
「……どうぞ、ルナ様。
私の血で、あなたが満たされるなら――それが、何よりの幸せです」
ルナフィエラは、彼の胸元に顔を預けるようにして、
そっと手首に口をつけた。
初めて味わう――
生きた血の感触。
温かくて、どこまでも深くて、
涙が出そうなほど、優しい味だった。
(あぁ……これが、ヴィクトルの……)
それだけで、全身が満たされていく気がした。
生きていることを、
許されたような気がして。
彼の腕の中で、
ルナフィエラは静かに瞳を閉じながら、
深く、深く、吸い込んだ。
ヴァンパイアにとって吸血は“食事”であり、
“繋がり”でもあり、“赦し”だった。
そして、
“ここにいてもいい”と、
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