【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな

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番外編・ふたりで紡ぐ、夏の記憶 ①

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「……え?」

思わず漏れた声は、我ながら間の抜けたものだったと思う。

金曜の夜。夕食の片付けを終えて、ふたりでソファに座っていた時のこと。
仕事の話をしていたはずなのに、ふとした間に崇雅が放った言葉は――あまりに唐突だった。

「7月のこの週、有給とってくれ。木金で。宿も取ってある」

「え、ちょ、待ってください。……旅行ってことですか?」

「ああ」

驚きに目を丸くする澪の横で、崇雅はごく普通に頷いてみせる。
あまりにもあっさりした口調に、一瞬、自分が何か聞き間違えたのかと錯覚した。

「……もしかして……新婚旅行、ですか?」

「違う」

一拍も置かずに返ってきた否定に、澪はさらに困惑する。

「じゃあ、どうして……?」

「澪が言ってただろ。“今年はゆっくり旅行したい”って」

「……え…?」

声にならない声が漏れた。

「覚えてないか?」

「い、いえ……覚えています。お正月に、確かに……ただ、あれは、なんとなく、で……」

本当に、なんとなくだった。

「澪は、半分冗談だったんだろうけど……俺は覚えてた」

少しだけ、声が低くなる。

「入籍して、落ち着いたら行こうって決めてた。澪に言わずに宿を押さえたのは、どうせ“仕事が忙しいから”とか“もったいない”とか言い出すと思ってな」

「……言いそう……ですね」

小さく呟いた澪に、崇雅がふっと微笑む。

「……ありがとうございます。本当に……驚きました」

「驚かせるつもりはなかったんだが」

「……すごく嬉しいです」

柔らかく笑ってから、少しだけうつむいて息を整える。

「でも、新婚旅行では……ないって……」

「ああ、それはまた別でちゃんと考えてる。今回は“澪の願いを叶える旅行”だ」

「……っ」

恥ずかしさと、それ以上の温かさが胸に広がって、澪は言葉を失う。
それでも、せめてこの気持ちだけは――と、そっと手を伸ばした。

隣にいた崇雅の手に、自分の手を重ねる。

「……本当に、ありがとうございます。行けるのが……楽しみです」

「ああ」

その静かな返事に、心がふわりと満ちていくのを感じた。


——————

そしてある週末——。
旅行に向けた買い物で、ふたりはデパートの水着売り場にいた。

「……決まった」

売り場に足を踏み入れてから、ものの3分も経たないうちだった。

「……え?」

澪が思わず聞き返すと、崇雅は何も気にした様子もなく、手にしていた黒いボードショーツを軽く掲げてみせる。

「これでいい。素材もサイズも問題ない」

「そ、そんなに早く……」

「男物は選択肢が少ないからな。基本は色か丈くらいしか差がない。正直、俺のものはどうでもいい」

「え……」

「澪のほうが大事だ」

当然のように言ってのけるその声音に、思わず言葉を詰まらせる。
冷房の効いたフロアなのに、頬がふわりと熱を帯びた。

「……ありがとうございます」

そう言って軽く頭を下げると、崇雅はすぐ横にある女性用コーナーへと視線を向けた。

そこには、可愛らしいものから大人っぽいものまで、デザインもカラーも実にさまざまな水着がずらりと並んでいる。

どれを見ても綺麗で――

「……どれがいいのか、さっぱりわかりません……」

澪は小さく息をついた。

「派手すぎるのは落ち着かないですし、でも……あまりに地味でも、浮いてしまいそうで……」

隣で黙って聞いていた崇雅が、ふと問いかける。

「ホテルの写真、もう一度見るか?」

「……はい」

スマホに映るのは、予約済ホテルの落ち着いたリゾートプール。
宿泊者専用の空間は広々として静かで、海外のような雰囲気が漂っている。

「宿泊者専用だから、そこまで人は多くないはずだ。騒がしくはならない」

「……そうなんですね。確かに、思っていたより落ち着いた雰囲気です」

澪は画面を見つめたまま、少し黙り込む。
露出が少ない方が安心――だけど。

せっかくなら、ほんの少しだけでも、可愛いと思ってもらえるものを選びたい。

「……どんなものが、似合うと思いますか?」

視線をスマホから上げて、そっと問いかける。
崇雅はほんの少しだけ目を見開き、それから、すぐに表情をやわらげた。

「澪が着たいと思ったものを選べばいい。……ただ」

「ただ?」

「あんまり露出が多いのは心配だし……澪がそういうのを着てるところを他人に見せたくない」

「……っ……」

「だが、“澪が可愛く見えるもの”なら、嬉しい。……それが、俺の本音だ」

穏やかで、けれど真剣なその声に、胸の奥がじわりと熱を帯びる。

「…………」

鼓動の音が一段と大きくなって、澪は急いで視線を水着売り場に戻した。

「……じゃあ、もう少し見てみます……」

「ああ。付き合う」

そうしてふたり並んで、再び棚を見ていく。
しばらくして、澪の目がふと止まった。

やわらかな淡いブルーに、上品な透け感のあるフリルが重なるオフショルダー。
ボトムスはスカート風で、脚のラインをふんわりと包んでくれる。

派手ではないけれど、控えめな中にちゃんと華やかさがある。

「……これ、試着してきてもいいですか?」

そっと声をかけると、崇雅はすぐに頷いた。

「ああ。行ってくるといい」

「……はい」

澪は静かにその一着を手に取り、カーテンの向こうへと歩いていった。

試着室のミラーに映る自分の姿に、少しだけ戸惑いながらも――
胸の奥にある、“見せたい”という気持ちが、そっと背中を押してくれるようだった。

「……お待たせしました」

カーテンの隙間から顔を出すと、崇雅の視線がぴたりと澪を捉えた。

露出は決して多くない。
けれど、いつもとは違う“自分”がそこにいて、胸が少しだけざわつく。

「これ、どう……でしょうか……」

澪がそっとカーテンを開けると、崇雅の動きが止まった。
ほんの一瞬、まばたきすら忘れたように。

「……似合ってる」

静かにそう告げた声が、すっと胸の奥に染み込んでくる。

「すごく、綺麗だ」

「……っ……」

短く、けれど確かに伝わる言葉。

ただの“可愛い”でも、“いいね”でもない。
そこに込められた気持ちの重さを、澪は敏感に感じ取っていた。

「丈もあるし、露出も控えめで安心だな……でも、ちゃんと華やかさもあって……」

言葉を選ぶように、丁寧に褒めてくれる。

「……俺、こういうの、すごく好きだ」

「…………」

視線を合わせるのが恥ずかしくて、澪はそっと俯く。
肩にかかる柔らかなフリルを指先でつまみながら、小さく息を吐いた。

「……それなら、よかったです」

「これにするか?」

「……はい」

答えながら、澪の声は自然と笑みを含んでいた。
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