顔がイイだけのチャラ男なんて、大嫌いです! 〜カタブツ営業職女子が、美貌の新入社員に堕ちるまで〜

冬島六花

文字の大きさ
6 / 6
第1章 心を惑わす新入社員

1.6.夜の廊下、燃える距離(3,845字)

しおりを挟む
 水曜日、午後六時半。オフィスからは、仕事を終えた社員が一人ずつ消えていく。沙月は書類を片づける手を止めた。指先は冷え切っているのに、スーツの袖の内側には汗が滲んでいて、肌にしっとりと張りつく。髪が首筋に触れれば、こもった熱が空調の風で冷やされ、ピクリと震えた。

(今日はノー残業デー。でも夜の予定はなし。夕食はどこで食べよう。コンビニで買って帰ってもいいかな)

 バッグを肩にかけながら、ちらりと窓を見る。窓の外では、ビルの谷間に沈む夕陽がガラスに溶け込み、オレンジと紫のグラデーションが夜の帳に溶けていく。

(ずいぶんと日が長くなってきたわね。すぐに帰宅するのはもったいないかな。……なんて、予定もないのに)

 廊下に出ると、ヒールの音がタイルに反響して、孤独な足音を刻む。カツ、カツ。無人の空間に溶けていくそのリズムが、どこか胸の奥をざわつかせた。  
 ふと、視界の端に絢斗の後ろ姿が映る。

(あ、あれは……)

 白いシャツ、茶色くウェーブした髪。蛍光灯に照らされた背中が緩やかに揺れ、彼がエレベーターに向かっているのがわかる。沙月の心臓が、理由もなくぎゅっと縮んだ。昼間に飲んだミルクティーの甘い後味が、まだ舌に残っている。

「……絢斗くん」
  
 自然に零れた声。喉がひそかに震えていた。

 彼が振り返る。あの人なつっこい、でもどこか底の見えない笑み。
 沙月の足が勝手に前へ出る。指先がバッグの革をぎゅっと握った。
  
「おつかれさま。お昼ご飯のお礼に、今夜は……私がご馳走させてくれないかしら?」
  
 言葉が唇から滑り出る。思ったよりも、ずっと柔らかくて、震えていた。

 絢斗の表情がふと変わった。微笑みが、どこか奥行きを帯びる。彼が一歩、近づいてくる。  
 ふわり、と香る。甘くて軽いシトラスの香り。だが、どこか湿度を帯びた男の体温に包まれて、その香りが妙に艶っぽく感じられる。沙月の指先が、ほんの少し震えた。

「私、あなたのことを軽薄でいい加減な新人だと思ってた。でも……あなたの気遣いはピカイチ。……メンティの魅力に気づけない私は、メンター失格だわ」
  
 吐き出すように言った瞬間、胸の奥に熱い何かが走った。

「沙月さん? 本当に……そんなふうに思ってくださるんですか?」

 そのときだった。  
 絢斗の視線が鋭く光り、次の瞬間、ぐんと距離が縮まった。  
 背中が壁に押しつけられる。スーツ越しに伝わるタイルの冷たさと、絢斗の腕が壁にドンと伸びる音が重なる。壁ドン。文字通り、沙月の身体が絢斗の存在に包囲された。

 彼の顔が近い。  
 頬をかすめる温かい吐息。肌が粟立つ。首筋に感じる熱は、彼の体温か、自分の火照りか。  
 シャツの袖からのぞく前腕が、沙月の肩にわずかに触れる。かすかに汗ばんだその肌は、驚くほど熱く、ざらりと男の身体を感じさせた。

「お礼なら……夕食じゃなくて、あなたの唇がいいです。俺、沙月さんがいいんです」

 沙月の身体がビクリと震えた。  
 唇が自然に開く。喉が鳴り、呼吸が浅くなる。

「……な、何? 冗談が過ぎるわよ」
 
 絢斗の指が、そっと顎に触れた。ごつごつとした男の指先。だがその動きは驚くほど優しくて、顎をクイと持ち上げられたとたん、沙月は絢斗の瞳に捕らえられた。

(なんなの? まるで映画みたいな展開……)

 瞳の奥にあるのは、熱。欲望。そして――たしかな意志。

 沙月の頬が熱を帯び、首筋を一筋の汗が滑り落ちる。呼吸が喉の奥で揺れ、背中に当たる壁の冷たさがその火照りを浮かび上がらせる。髪が額に張りつき、視界が揺れる。  
 絢斗の唇が近づく。シトラスの香りが鼻腔をくすぐる。彼の声も息も、すべてが近い。あまりにも――。

(どうしよう。ドキドキしてきた。こんなの……いつもの私じゃない)

 彼の存在が、触れていない部分にまで染み込んでくる。指、吐息、香り。どれもが、沙月の五感をやすやすと支配していく。  
 嫌いだ。嫌いなのに――なぜか、逃げたくなかった。

 絢斗の指が、そっと沙月の唇に触れる。
 そこに残っていたのは、昼のミルクティーの記憶。あの甘さが、なぜか今、たまらなく切ない。  
 絢斗の瞳は相変わらず、沙月を離さない。まるで彼女の心の奥をのぞき込むように、まっすぐに、静かに。

 静寂の廊下に、二人の息遣いだけが重なり合う。時間が止まったような、あるいは加速しているような、不可思議な感覚。  
 沙月の胸の奥で、何かがチリチリと燃え上がる。熱が、彼女をまるごと包み込んでいた。  
 窓の外は、もうすっかり夜の街。けれど、彼女の視線は、ただ絢斗の唇に落ちたまま――もう戻れない場所へ、静かに踏み出そうとしていた。

「冗談に見えますか? 俺がいつもふざけているから? ……俺だって、本気になる瞬間はあるんですよ。こんなふうに」

 絢斗は、そっと沙月の唇を指先で撫でた。触れるか触れないかの距離。けれど、その柔らかな圧に、彼女の全身がピクリと反応する。
 壁に押しつけられた背中は冷たい。一方で頬は熱を帯び、肌の奥が火照って疼く。首筋に浮かんだ汗が冷えて、細い産毛とともに肌に張りついている。  

(だめ……こんなの、心臓がもたない……)

 彼女の鼓動は、ひときわ強く高鳴っていた。胸の奥から駆け上がる熱い血が、耳の奥で脈を打つように響いている。乾いた唇がほんのわずかに開き、熱を孕ん吐息が漏れた。喉がきゅっと締まり、声にならない声が震える。  

「……私みたいな女、絢斗くんから見たら、つまらないでしょ……?」

 その声は、まるで自分でも信じられないほど弱々しかった。バッグを握る指に力が入る。肌が粟立ち、ぞわりと首筋に走った熱が一瞬、冷たくなる。絢斗の茶色い瞳がまっすぐ彼女を捉え、その奥に彼女自身が揺れて映っていた。

 彼は一瞬だけ眉を寄せ、何かを選び取るようにゆっくりと笑みを浮かべた。唇の端が上がるその仕草が、妙に艶めかしい。  

「……どうしてそう思うんですか? 沙月さんの魅力は、その貞淑さから滲み出る、じれったいくらいの色気ですよ。……オフィスであれだけ澄ましてるのに、夜はどんなふうに啼くのか。男としては、気になります」  

 その低く、熱を帯びた声が、沙月の耳元に忍び込むように響いた。甘やかでいて、芯のある声。彼女の胸の奥がチリ、と音を立てて疼いた。熱がせり上がり、頬が紅潮する。絢斗の顔がさらに近づく。吐息が、彼女の頬を優しく撫でた。そこにまた、爽やかな彼の香りがふわりと混ざっていた。

 ――もう、だめ。  

 沙月は、目を閉じた。まぶたの裏に深い闇が広がる。彼の唇が、来る――そう思った瞬間。身体の奥が緊張で震え、唇の内側で舌が無意識に動いていた。  

 ――けれど。

(……え? 今度は、何……?)

 ふいに、くすくすという小さな笑い声が耳に触れた。  
 目を開けると、絢斗は一歩、ふわりと距離を取っていた。壁についた手を離し、軽く背筋を伸ばす彼。茶色い髪が蛍光灯に照らされて淡く光り、白いシャツが揺れた。表情には、いたずらな少年のような笑み。

「……ごめんなさい、からかいすぎましたね」 
 
 言いながら、絢斗はウインクした。

「葛西課長という彼氏がいる先輩に、職場でキスなんて。俺、そんなに無神経じゃないですよ?」

 その一言で、沙月の心がぎゅっと締めつけられた。背中のタイルの冷たさが、現実へと一気に引き戻す。首筋の熱が急激に引いていく感覚。バッグを握る手から力が抜け、唇がわずかに震える。

 絢斗は、少しだけ声のトーンを明るくして続けた。
 
「……でも、今日みたいな日は、辛くて熱い料理が合う気がしません? 駅近に、俺の行きつけのタイ料理屋があるんです。ビールも、めっちゃ美味いですよ」

 沙月の心臓が、また跳ねた。わずかにずれたリズムで、胸の奥が温かく揺れる。彼の軽やかな超えが廊下にこだました。
 沙月は壁から身を起こし、スーツの裾を整える。火照っていた頬に冷たい廊下の空気が触れて、ゆっくりと引いていく。

「タイ料理、ね……悪くはないかも」

 思わず漏れた一言の端に、笑みが滲む。先ほど飲んだミルクティーの甘い後味が、まだ舌の奥にわずかに残っている。その甘さと、さっきの彼のささやきが、喉の奥で絡み合うように疼いた。

 絢斗が目を輝かせ、弾むような声を投げた。
  
「行きましょうよ、沙月さん!」

 彼の軽やかに揺れ、白いシャツが蛍光灯の光を弾く。沙月はバッグを肩にかけ直し、ヒールの音を響かせてその後を追った。

 ビルの外に出ると、夜の風が彼女の頬を撫でていった。残っていた熱を少しずつ冷ましていく。髪が風に揺れて耳に触れ、そこに残る彼の香りに、また胸がきゅっと締めつけられる。

 絢斗の隣を歩きながら、沙月はその香りの余韻に包まれていた。さっきまで彼に触れられていた場所――顎も、頬も、唇さえも。そこだけがまだ、じんわりと火照っている。

 嫌いなはずだった。  
 けれど、彼の笑顔も、からかう声も、あの熱い視線さえも――すべてが、沙月の五感に焼きついて離れなかった。

 初夏の夜。遠くで街のネオンがちらちらと瞬いていた。タイ料理屋のスパイスの香りが、夜風に混じって漂ってきそうな気がした。彼女の唇に、自然と小さな笑みが浮かぶ。絢斗の後ろ姿に、そっと視線を重ねながら。

 鼓動はまだ、落ち着いてはいなかった。  
 でも、それでいい。今夜の沙月の身体は、彼に点けられた熱を、まだ覚えていた。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

乳首当てゲーム

はこスミレ
恋愛
会社の同僚に、思わず口に出た「乳首当てゲームしたい」という独り言を聞かれた話。

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。

海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。 ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。 「案外、本当に君以外いないかも」 「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」 「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」 そのドクターの甘さは手加減を知らない。 【登場人物】 末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。   恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる? 田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い? 【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】

今日の授業は保健体育

にのみや朱乃
恋愛
(性的描写あり) 僕は家庭教師として、高校三年生のユキの家に行った。 その日はちょうどユキ以外には誰もいなかった。 ユキは勉強したくない、科目を変えようと言う。ユキが提案した科目とは。

初体験の話

東雲
恋愛
筋金入りの年上好きな私の 誰にも言えない17歳の初体験の話。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

ハイスペック上司からのドSな溺愛

鳴宮鶉子
恋愛
ハイスペック上司からのドSな溺愛

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

処理中です...