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第3章 揺れる心、秘密の会議室
3.2.課長からのアプローチ(6,383字)
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その夜、沙月は葛西課長と駅前の創作居酒屋にいた。すべてが個室タイプになっており、メニューもやや高級路線の、店主のこだわりが感じられる店だ。ここも、彼が気に入っている店の一つである。
店内には、木のぬくもりと、地酒の甘やかな香りが漂っている。個室タイプの掘りごたつ席。卓上には、香ばしい焼き魚と彩り豊かな小鉢が並び、醤油の匂いがふわりと鼻腔をくすぐった。
箸を手に、沙月は魚の身を口に運ぶ。ほろりとほどける柔らかな食感と、濃厚な旨味が舌に広がる。
向かいでは、葛西課長が透明な地酒を喉に流し込み、グラスが卓上に静かな音を立てた。
「いやぁ、この店の料理は、毎回期待を裏切らないね」
「そうですね」
ほろ酔いの葛西課長が、柔らかな笑みを向けてくる。 沙月は小さく微笑み、短く返した。
掘りごたつの下で膝を崩し、足を楽に伸ばす。そのとき、ふいに、彼の足が彼女のすねに触れた。
ビクリ、と背筋を走る嫌悪感。
肌越しに伝わる、靴下越しの感触が妙に冷たく、ぞわりと悪寒に似たものが広がった。
「あ、ごめんごめん! 沙月さんにぶつかっちゃった」
葛西課長が明るく謝り、手をひらひらと振る。無邪気なその態度に、沙月は逆に、自分自身に強い嫌悪を覚えた。
(どうして、こんな反応を……彼は悪くないのに)
「いえ、大丈夫です。お気になさらず」
無理やり作った笑顔でそう返す。けれど、胸の奥に、じわじわとモヤモヤが広がった。
箸を持つ手が一瞬止まり、焼き魚の香ばしい匂いが、急に遠く感じられる。
食事が進むうちに、葛西課長はさらに酔いが回り、ある瞬間――グラスを傾けすぎた。
地酒がテーブルに零れ、木の天板に透明な水たまりを作る。
「あっ、悪い悪い!」
とっさにおしぼりで拭いたが、まだまだテーブルは濡れている。
「いえいえ、慌てないでください。私、ティッシュ持ってますから」
慌てる彼に、沙月は愛想よく笑ってバッグに手を伸ばす。
化粧ポーチを開き、ティッシュを取り出し、零れた酒を丁寧に拭き取った。
布が木に擦れるかすかな音と、アルコールの香りが鼻をくすぐる。
ふと、葛西課長の目が、彼女のポーチに留まった。
「あれ? そのマスコット……可愛いけど、君が持っているのは意外だな」
沙月の手が、ぴたりと止まる。
ファスナーにぶら下がる、小さなキーホルダー。
丸い目と笑顔が愛らしい、カフェのマスコットキャラクター。
――それは、絢斗が差し入れてくれたカフェランチについていたものだった。
胸がドクリと跳ねる。
差し入れを渡すとき、笑いながら絢斗が言った言葉――。
――沙月さん、これ食べて、元気出してくださいね!
あのチャラい笑みと、意外な気遣いが、鮮やかに蘇る。
「えっ……あ、これ、ランチでよく行くカフェのマスコットなんです……」
ティッシュを持つ指先がわずかに震えた。
葛西課長は深く詮索する様子もなく、軽く笑う。
「ふーん……沙月さんも案外、女の子っぽいものが好きなんだね。そういうギャップ、いいんじゃない?」
穏やかで、何も疑わない笑顔。けれど、沙月の心は、ひどく乱れていた。
掘りごたつの下で、無意識に足を縮める。膝に触れる畳の感触が、妙にリアルだ。鼻腔には、地酒の甘い香りと焼き魚の香ばしさ。
それらすべてが、逆に彼女の感覚を研ぎ澄ましていく。
目の前には、穏やかな未来を約束してくれる男――葛西課長。
それなのに。
心を捉えて離さないのは――絢斗だった。
ラブホテルで見せた熱い視線。
汗と吐息にまみれながら、激しく、優しく、彼女を抱きしめた腕。
あの夜、沙月の身体も心も、彼に深く刻み込まれてしまった。
(どうして……こんな……)
胸の奥で、モヤモヤがさらに膨らんでいく。地酒の甘い香りも、焼き魚の旨味も、今はただ空虚だった。
沙月は小さく息を吐き、視線を落とした。
そして心の中で、そっと、認めた。
(私は、もう、絢斗を見過ごすことなんて、できない)
*
酒と料理をぞんぶんに楽しんで、沙月と葛西課長は、静かに創作居酒屋を後にした。
初夏の夜風が頬を撫でる。ほろ酔いの身体には、ひんやりと心地よい。
駅前の喧騒が徐々に遠ざかり、人気のない夜道へと足を踏み入れる。アスファルトに響く二人の足音だけが、静寂を刻む。
沙月のヒールが軽やかに地面を叩き、葛西課長の革靴が重たく落ち着いた音を重ねる。
鼻腔には、地酒の甘い余韻と、街に漂う排気ガスの匂い、そしてどこかから漂う花の香りが混じり合う。
ふと、隣にいた葛西課長が、そっと沙月の手を取った。
(な、なに……?)
反射的に、沙月は背を正す。心臓がドクンと跳ね上がり、掌に伝わる彼のぬくもりが、妙に鮮明に感じられる。けれど――そのぬくもりは、なぜか、胸を締めつけるような違和感を伴っていた。
葛西課長は、柔らかな微笑みを浮かべながら、沙月を見下ろす。
「たまには……沙月さんのぬくもりを、感じたいからさ」
「は、はい」
優しい声。ほろ酔いに緩んだ笑顔は、変わらず紳士的だった。沙月は一瞬、言葉を失う。無理やり微笑みを作り、掠れた声で答えた。
――私は、葛西課長と、オフィシャルに交際している。
その事実が、ずしりと胸に降りかかる。彼の温かく、まっすぐな気持ちを受け止めなければならない。頭ではそう理解しているのに、指先がぎこちなく彼の手を握り返すだけだった。
二人は黙ったまま、夜道を歩き続けた。
やがて、誰もいない公園へと差し掛かる。遠くの繁華街のネオンがぼんやりと夜空を染め、かすかに国道の喧騒が耳に届く。けれど、公園の中は、別世界のように静かだった。虫の音がやかましいほど響き、草の青い匂いが夜風に乗って流れてくる。木々の葉が擦れる、かすかな音。街灯の下、二人の影が地面に長く伸びて揺れていた。
葛西課長が、ふいに足を止める。そして、そっと沙月の手を離した。離された手が、ひどく心細く感じられる。
彼の心の内を察して、沙月は顔を上げた。
柔らかな街灯の光が、課長の表情を淡く照らす。穏やかな瞳が、静かに彼女を捉えていた。そして、低い声が、夜の静寂に溶けるように響く。
「沙月さん……最近、君と、君が面倒を見ている千堂絢斗くんの距離が近いこと、僕は知っているよ」
その言葉が、沙月の胸に鋭く刺さる。息が止まった。世界が、急に白く滲んで見えた。心臓がドクドクと脈打つ音だけが、耳の奥で反響する。掌に残る彼のぬくもりが、急激に冷たく変わっていく。
課長の穏やかな表情は変わらない。けれど、その奥に、押し隠された何か深い感情が、たしかに揺れていた。
沙月は無意識にスカートの裾を握りしめる。指先に感じる布のざらつきが、やけにリアルだった。
絢斗の顔が浮かぶ。きちんと整えたスーツ姿で、真剣に資料を渡してくる彼。ラブホテルで、汗と吐息にまみれながら、耳たぶを甘く噛んできた彼。そして目の前には、変わらずに優しい葛西課長の笑顔がある。
胸の痛みが、じわりと強くなる。
言葉を探して口を開こうとするが、声にならなかった。初夏の夜風が頬を撫で、遠ざかっていた虫の音が、ふたたび耳を満たす。
公園の静寂の中、二人の間に、重くて脆い空気が漂っていた。
沙月は唇を噛みしめ、葛西課長と向き合うように身体を向ける。
スカートの裾を掴む手がかすかに震え、汗ばんだ掌に布のざらりとした感触が擦れる。
(言わないと……葛西課長に、きちんと説明しないと……)
初夏の夜風が頬を撫で、公園の虫の音が耳に響く中、街灯の光が二人の姿を白く照らしていた。
遠くの繁華街のネオンがぼんやりと光り、国道の喧騒もここではかすかにしか届かない。
重く澱んだ静寂の中で、沙月は深く息を吸い込み、掠れた声で口を開いた。
「葛西課長、誤解されるような行動をしてしまい、申し訳ございませんでした」
頭を深々と下げれば、髪が顔に落ちる。胸が締めつけられ、喉の奥に苦いものが込み上げた。課長に対する罪悪感が、沙月を押し潰しそうだった。
驚いたように目を見開き、葛西課長は両手を前に広げる。
「沙月さん、ごめん。誤解しないでくれ。責めるつもりはなかったんだ。ただ、君が……」
慌てた声が、夜の空気に穏やかに響く。沙月はゆっくりと顔を上げた。街灯の光が彼の顔を照らし、優しげな表情を浮かび上がらせる。
「君が優秀な営業職で、新人教育に熱心なのは、もちろん理解している。ただ……君が手こずっていた新人の千堂絢斗くん、彼と君の距離が、四月より妙に近づいたって、社内でも噂になっていてね。僕も、それを聞いて、少し気になっただけなんだ」
静かに続く課長の言葉が、沙月の胸に静かに刺さった。瞳が潤み、零れそうになる涙を必死に堪える。罪悪感と、認めたくない恋心。両方が、沙月の心を締めつけた。
課長の目をまっすぐに見返す。潤んだ瞳に、複雑な感情が渦巻いていた。
課長に嘘をついているという重苦しい罪悪感。
そして、絢斗への思いを否応なく自覚してしまったことへの戸惑いと痛み。
手がスカートの裾を強く握りしめ、震えが止まらなかった。
虫の音が耳にやけにうるさく響き、夜風が頬を冷たく撫でる。
「課長……私……」
言葉を探しても、声が震えて途切れる。葛西課長の優しい視線が彼女を捉え、そのぬくもりがまた胸を締めつけた。
頭の中に絢斗の姿が浮かぶ。きちんと整えたスーツ姿で、真剣に資料を渡してきた彼。ラブホテルで、熱を帯びた瞳で耳元を甘く噛んだ彼。そして、今目の前にいる葛西課長――穏やかで、紳士的で、誰もが羨む安定した未来を差し出してくれる存在。二つの思いに板挟みにされ、沙月の胸は張り裂けそうだ。
街灯の光が、潤んだ彼女の瞳を柔らかく照らす。もう少しで、涙が零れ落ちそうになる。葛西課長がそっと一歩近づき、肩に手を置こうとした。けれど、沙月の身体はビクンと反応してしまう。
公園の静寂の中、二人の間に、冷たく重たい空気が漂った。
沙月は次に紡がれる言葉を待ちながら、必死で震える心を押さえつけていた。
沙月の心中を察してか、葛西課長がそっと一歩近づき、沙月の耳元でささやく。
「沙月さん、僕たちは恋人なんだから……ここでキスしようか?」
その声は低く優しく、あくまで紳士的だった。けれど、沙月の胸にずしりと圧し掛かる。
(キス? 私が、葛西課長と……?)
唇を噛み、俯いたままスカートの裾を握る手が震える。汗ばんだ掌に布の感触がじっとりと染み込む。真上から降り注ぐ街灯の白い光が二人を煌々と照らし、足元に濃い影を落としていた。
「は、はい……」
心臓がドクドクと鳴り響き、課長の言葉が頭の中で何度も反響する。沙月は意を決し、そっと頷いた。
ゆっくりと顔を上げると、潤んだ瞳が街灯の光にきらめき、今にも涙が零れそうになる。
(これで、いいのよね? だって、葛西課長は、私の公式の恋人)
葛西課長は穏やかに微笑みながら、彼女の肩にそっと手を添える。温かい掌の感触。
顔が静かに近づいてきて、沙月の息が詰まる。
目を閉じた、その瞬間――鼻腔を襲ったのは、強い酒の匂いだった。地酒の甘さに混じるアルコールの鋭い臭気。胸の奥に嫌悪感が広がり、胃が締めつけられるような感覚が全身を駆け巡る。
「……葛西課長、すみませんっ! ほんっとうに……申し訳ありませんっ!」
鋭い声が夜気を裂き、沙月は反射的に課長を突き飛ばしていた。両手で胸を押すと、課長の身体がよろめき、驚いたような顔が街灯の下で浮かび上がる。
(やっぱり……無理。自分に嘘は吐けない!)
沙月は踵を返し、全速力で走り去った。引き留めようとする葛西課長の手は、全力で振りほどく。
「私……こんな私じゃ、葛西課長とキスなんてできません」
ヒールがアスファルトを叩く硬い音が夜道に響き、息は乱れ、喉の奥が焼けるように熱くなる。虫の声が遠ざかり、風が髪を乱した。肩に残る掌の感触、酒臭い息の記憶。それらすべてが、沙月の背中を押すように追いかけてくる。
胸が張り裂けそうに痛み、堪えきれず、涙が頬をつうっと伝った。
(ああっ、私……最低最悪!)
絢斗の顔が浮かぶ。真剣な眼差し、資料を差し出す清潔な指先、ラブホテルでの熱い視線、耳たぶを甘く噛んだ唇。そして、葛西課長のあの優しい笑顔――本能では絢斗を求めつつ、理性が課長との安定を選ぼうとしていた。
だが、今、その理性は音を立てて崩れた。あの、絢斗と過ごした熱い夜のように。
沙月は公園から走り出し、そのまま駅へ向かった。
夜の電車に一人で乗り込むと、車内の冷たい空気が汗ばんだ肌にひやりと染みた。
慌てて走ったせいでヒールの片方が欠け、歩くたびにカツ、カツ……と不揃いな音が響く。
顔は涙でぐしゃぐしゃになり、頬に伝った涙が乾き、塩辛い感触だけが残っていた。
電車の窓に映る自分の姿――乱れた髪、赤く腫れた目、崩れたメイク。まるで見知らぬ誰かのようで、沙月の胸がさらに締めつけられる。
隣の乗客がちらりと視線を向けたが、沙月は気づかないふりをして目を伏せた。
車両の揺れが身体をかすかに揺らし、窓の外を流れる街灯の光が、ぼんやりと目に映る。
(今の私、何もかもがひどすぎる)
自宅に着くと、玄関先でスーツの紺色ジャケットを脱ぎ、靴を脱ぎ捨てた。
欠けたヒールが玄関先に転がり、カタン、と軽い音を立てる。
廊下とリビングを素通りし、そのままベッドに身を投げた。マットレスが深く沈み、シーツの冷たい感触が汗ばんだ背中にじんわりと染み込む。
息はまだ乱れていて、喉の奥に熱い塊が残っている。
枕に顔を埋めると、涙の塩辛さと汗の匂いが鼻腔を満たし、静かな部屋に荒い呼吸の音だけが響いていた。
ブルルルルッ。
ポケットの中で振動したスマホを、沙月は取り出した。画面には、葛西課長からのメッセージ。震える指で画面をタップすると、文章が目に飛び込んできた。
《すまない。公衆の面前でキスしようとするなんて、酔ってハメを外しすぎた。沙月さんが驚くのも無理はない。》
きちんとした謝罪の文面に、沙月の胸がぎゅっと締めつけられる。そして、さらに追い打ちをかけるように続いた。
《もし沙月さんが許してくれるなら、今後も僕と交際してほしい。無理にとは言わない。すぐにとも言わない。僕は君の優秀さと誠実さを愛しているから……待ち続けるよ。》
その言葉が、心の中で何度も反響する。胸が痛む。誠実さ――そんなもの、今の私にはない。スマホをそっと胸に抱きしめたまま、小さく呟く。
「私は……誠実なんかじゃない……」
掠れた声とともに、むせび泣きが喉の奥から漏れた。涙が止まらず、枕に滲んでいく。
冷たい濡れた感触が頬に伝わり、葛西課長の優しさが、むしろ鋭利な刃のように心をえぐった。
(私は大嘘吐き。恋人である葛西課長に、嘘を吐いているんだ)
絢斗との一夜を隠して、そのままの顔で課長の前に立っていた。その現実が、沙月を押し潰す。
葛西課長が認める優秀さも、誠実さも――今の沙月には、ただ虚しいだけだ。
スマホを抱きしめたまま、目を閉じる。
画面の光が暗い部屋に淡く揺れ、そこに浮かぶ葛西課長のメッセージと、絢斗の熱い視線、ラブホテルでの抱擁が重なる。
胸が張り裂けそうだった。本能が絢斗を求め、理性が葛西課長との関係をつなぎ止めようとする。けれどもう、その理性さえもひどく曖昧で脆くなっていた。
むせび泣きが、静まり返った部屋に滲み出す。シーツを握る手に自然と力が入り、涙が頬を伝って指先に落ち、ひんやりと冷たく感じた。
夜が更けても、沙月は答えを見つけられないまま、罪悪感と後悔の渦の中で、ただ身を丸めていた。
店内には、木のぬくもりと、地酒の甘やかな香りが漂っている。個室タイプの掘りごたつ席。卓上には、香ばしい焼き魚と彩り豊かな小鉢が並び、醤油の匂いがふわりと鼻腔をくすぐった。
箸を手に、沙月は魚の身を口に運ぶ。ほろりとほどける柔らかな食感と、濃厚な旨味が舌に広がる。
向かいでは、葛西課長が透明な地酒を喉に流し込み、グラスが卓上に静かな音を立てた。
「いやぁ、この店の料理は、毎回期待を裏切らないね」
「そうですね」
ほろ酔いの葛西課長が、柔らかな笑みを向けてくる。 沙月は小さく微笑み、短く返した。
掘りごたつの下で膝を崩し、足を楽に伸ばす。そのとき、ふいに、彼の足が彼女のすねに触れた。
ビクリ、と背筋を走る嫌悪感。
肌越しに伝わる、靴下越しの感触が妙に冷たく、ぞわりと悪寒に似たものが広がった。
「あ、ごめんごめん! 沙月さんにぶつかっちゃった」
葛西課長が明るく謝り、手をひらひらと振る。無邪気なその態度に、沙月は逆に、自分自身に強い嫌悪を覚えた。
(どうして、こんな反応を……彼は悪くないのに)
「いえ、大丈夫です。お気になさらず」
無理やり作った笑顔でそう返す。けれど、胸の奥に、じわじわとモヤモヤが広がった。
箸を持つ手が一瞬止まり、焼き魚の香ばしい匂いが、急に遠く感じられる。
食事が進むうちに、葛西課長はさらに酔いが回り、ある瞬間――グラスを傾けすぎた。
地酒がテーブルに零れ、木の天板に透明な水たまりを作る。
「あっ、悪い悪い!」
とっさにおしぼりで拭いたが、まだまだテーブルは濡れている。
「いえいえ、慌てないでください。私、ティッシュ持ってますから」
慌てる彼に、沙月は愛想よく笑ってバッグに手を伸ばす。
化粧ポーチを開き、ティッシュを取り出し、零れた酒を丁寧に拭き取った。
布が木に擦れるかすかな音と、アルコールの香りが鼻をくすぐる。
ふと、葛西課長の目が、彼女のポーチに留まった。
「あれ? そのマスコット……可愛いけど、君が持っているのは意外だな」
沙月の手が、ぴたりと止まる。
ファスナーにぶら下がる、小さなキーホルダー。
丸い目と笑顔が愛らしい、カフェのマスコットキャラクター。
――それは、絢斗が差し入れてくれたカフェランチについていたものだった。
胸がドクリと跳ねる。
差し入れを渡すとき、笑いながら絢斗が言った言葉――。
――沙月さん、これ食べて、元気出してくださいね!
あのチャラい笑みと、意外な気遣いが、鮮やかに蘇る。
「えっ……あ、これ、ランチでよく行くカフェのマスコットなんです……」
ティッシュを持つ指先がわずかに震えた。
葛西課長は深く詮索する様子もなく、軽く笑う。
「ふーん……沙月さんも案外、女の子っぽいものが好きなんだね。そういうギャップ、いいんじゃない?」
穏やかで、何も疑わない笑顔。けれど、沙月の心は、ひどく乱れていた。
掘りごたつの下で、無意識に足を縮める。膝に触れる畳の感触が、妙にリアルだ。鼻腔には、地酒の甘い香りと焼き魚の香ばしさ。
それらすべてが、逆に彼女の感覚を研ぎ澄ましていく。
目の前には、穏やかな未来を約束してくれる男――葛西課長。
それなのに。
心を捉えて離さないのは――絢斗だった。
ラブホテルで見せた熱い視線。
汗と吐息にまみれながら、激しく、優しく、彼女を抱きしめた腕。
あの夜、沙月の身体も心も、彼に深く刻み込まれてしまった。
(どうして……こんな……)
胸の奥で、モヤモヤがさらに膨らんでいく。地酒の甘い香りも、焼き魚の旨味も、今はただ空虚だった。
沙月は小さく息を吐き、視線を落とした。
そして心の中で、そっと、認めた。
(私は、もう、絢斗を見過ごすことなんて、できない)
*
酒と料理をぞんぶんに楽しんで、沙月と葛西課長は、静かに創作居酒屋を後にした。
初夏の夜風が頬を撫でる。ほろ酔いの身体には、ひんやりと心地よい。
駅前の喧騒が徐々に遠ざかり、人気のない夜道へと足を踏み入れる。アスファルトに響く二人の足音だけが、静寂を刻む。
沙月のヒールが軽やかに地面を叩き、葛西課長の革靴が重たく落ち着いた音を重ねる。
鼻腔には、地酒の甘い余韻と、街に漂う排気ガスの匂い、そしてどこかから漂う花の香りが混じり合う。
ふと、隣にいた葛西課長が、そっと沙月の手を取った。
(な、なに……?)
反射的に、沙月は背を正す。心臓がドクンと跳ね上がり、掌に伝わる彼のぬくもりが、妙に鮮明に感じられる。けれど――そのぬくもりは、なぜか、胸を締めつけるような違和感を伴っていた。
葛西課長は、柔らかな微笑みを浮かべながら、沙月を見下ろす。
「たまには……沙月さんのぬくもりを、感じたいからさ」
「は、はい」
優しい声。ほろ酔いに緩んだ笑顔は、変わらず紳士的だった。沙月は一瞬、言葉を失う。無理やり微笑みを作り、掠れた声で答えた。
――私は、葛西課長と、オフィシャルに交際している。
その事実が、ずしりと胸に降りかかる。彼の温かく、まっすぐな気持ちを受け止めなければならない。頭ではそう理解しているのに、指先がぎこちなく彼の手を握り返すだけだった。
二人は黙ったまま、夜道を歩き続けた。
やがて、誰もいない公園へと差し掛かる。遠くの繁華街のネオンがぼんやりと夜空を染め、かすかに国道の喧騒が耳に届く。けれど、公園の中は、別世界のように静かだった。虫の音がやかましいほど響き、草の青い匂いが夜風に乗って流れてくる。木々の葉が擦れる、かすかな音。街灯の下、二人の影が地面に長く伸びて揺れていた。
葛西課長が、ふいに足を止める。そして、そっと沙月の手を離した。離された手が、ひどく心細く感じられる。
彼の心の内を察して、沙月は顔を上げた。
柔らかな街灯の光が、課長の表情を淡く照らす。穏やかな瞳が、静かに彼女を捉えていた。そして、低い声が、夜の静寂に溶けるように響く。
「沙月さん……最近、君と、君が面倒を見ている千堂絢斗くんの距離が近いこと、僕は知っているよ」
その言葉が、沙月の胸に鋭く刺さる。息が止まった。世界が、急に白く滲んで見えた。心臓がドクドクと脈打つ音だけが、耳の奥で反響する。掌に残る彼のぬくもりが、急激に冷たく変わっていく。
課長の穏やかな表情は変わらない。けれど、その奥に、押し隠された何か深い感情が、たしかに揺れていた。
沙月は無意識にスカートの裾を握りしめる。指先に感じる布のざらつきが、やけにリアルだった。
絢斗の顔が浮かぶ。きちんと整えたスーツ姿で、真剣に資料を渡してくる彼。ラブホテルで、汗と吐息にまみれながら、耳たぶを甘く噛んできた彼。そして目の前には、変わらずに優しい葛西課長の笑顔がある。
胸の痛みが、じわりと強くなる。
言葉を探して口を開こうとするが、声にならなかった。初夏の夜風が頬を撫で、遠ざかっていた虫の音が、ふたたび耳を満たす。
公園の静寂の中、二人の間に、重くて脆い空気が漂っていた。
沙月は唇を噛みしめ、葛西課長と向き合うように身体を向ける。
スカートの裾を掴む手がかすかに震え、汗ばんだ掌に布のざらりとした感触が擦れる。
(言わないと……葛西課長に、きちんと説明しないと……)
初夏の夜風が頬を撫で、公園の虫の音が耳に響く中、街灯の光が二人の姿を白く照らしていた。
遠くの繁華街のネオンがぼんやりと光り、国道の喧騒もここではかすかにしか届かない。
重く澱んだ静寂の中で、沙月は深く息を吸い込み、掠れた声で口を開いた。
「葛西課長、誤解されるような行動をしてしまい、申し訳ございませんでした」
頭を深々と下げれば、髪が顔に落ちる。胸が締めつけられ、喉の奥に苦いものが込み上げた。課長に対する罪悪感が、沙月を押し潰しそうだった。
驚いたように目を見開き、葛西課長は両手を前に広げる。
「沙月さん、ごめん。誤解しないでくれ。責めるつもりはなかったんだ。ただ、君が……」
慌てた声が、夜の空気に穏やかに響く。沙月はゆっくりと顔を上げた。街灯の光が彼の顔を照らし、優しげな表情を浮かび上がらせる。
「君が優秀な営業職で、新人教育に熱心なのは、もちろん理解している。ただ……君が手こずっていた新人の千堂絢斗くん、彼と君の距離が、四月より妙に近づいたって、社内でも噂になっていてね。僕も、それを聞いて、少し気になっただけなんだ」
静かに続く課長の言葉が、沙月の胸に静かに刺さった。瞳が潤み、零れそうになる涙を必死に堪える。罪悪感と、認めたくない恋心。両方が、沙月の心を締めつけた。
課長の目をまっすぐに見返す。潤んだ瞳に、複雑な感情が渦巻いていた。
課長に嘘をついているという重苦しい罪悪感。
そして、絢斗への思いを否応なく自覚してしまったことへの戸惑いと痛み。
手がスカートの裾を強く握りしめ、震えが止まらなかった。
虫の音が耳にやけにうるさく響き、夜風が頬を冷たく撫でる。
「課長……私……」
言葉を探しても、声が震えて途切れる。葛西課長の優しい視線が彼女を捉え、そのぬくもりがまた胸を締めつけた。
頭の中に絢斗の姿が浮かぶ。きちんと整えたスーツ姿で、真剣に資料を渡してきた彼。ラブホテルで、熱を帯びた瞳で耳元を甘く噛んだ彼。そして、今目の前にいる葛西課長――穏やかで、紳士的で、誰もが羨む安定した未来を差し出してくれる存在。二つの思いに板挟みにされ、沙月の胸は張り裂けそうだ。
街灯の光が、潤んだ彼女の瞳を柔らかく照らす。もう少しで、涙が零れ落ちそうになる。葛西課長がそっと一歩近づき、肩に手を置こうとした。けれど、沙月の身体はビクンと反応してしまう。
公園の静寂の中、二人の間に、冷たく重たい空気が漂った。
沙月は次に紡がれる言葉を待ちながら、必死で震える心を押さえつけていた。
沙月の心中を察してか、葛西課長がそっと一歩近づき、沙月の耳元でささやく。
「沙月さん、僕たちは恋人なんだから……ここでキスしようか?」
その声は低く優しく、あくまで紳士的だった。けれど、沙月の胸にずしりと圧し掛かる。
(キス? 私が、葛西課長と……?)
唇を噛み、俯いたままスカートの裾を握る手が震える。汗ばんだ掌に布の感触がじっとりと染み込む。真上から降り注ぐ街灯の白い光が二人を煌々と照らし、足元に濃い影を落としていた。
「は、はい……」
心臓がドクドクと鳴り響き、課長の言葉が頭の中で何度も反響する。沙月は意を決し、そっと頷いた。
ゆっくりと顔を上げると、潤んだ瞳が街灯の光にきらめき、今にも涙が零れそうになる。
(これで、いいのよね? だって、葛西課長は、私の公式の恋人)
葛西課長は穏やかに微笑みながら、彼女の肩にそっと手を添える。温かい掌の感触。
顔が静かに近づいてきて、沙月の息が詰まる。
目を閉じた、その瞬間――鼻腔を襲ったのは、強い酒の匂いだった。地酒の甘さに混じるアルコールの鋭い臭気。胸の奥に嫌悪感が広がり、胃が締めつけられるような感覚が全身を駆け巡る。
「……葛西課長、すみませんっ! ほんっとうに……申し訳ありませんっ!」
鋭い声が夜気を裂き、沙月は反射的に課長を突き飛ばしていた。両手で胸を押すと、課長の身体がよろめき、驚いたような顔が街灯の下で浮かび上がる。
(やっぱり……無理。自分に嘘は吐けない!)
沙月は踵を返し、全速力で走り去った。引き留めようとする葛西課長の手は、全力で振りほどく。
「私……こんな私じゃ、葛西課長とキスなんてできません」
ヒールがアスファルトを叩く硬い音が夜道に響き、息は乱れ、喉の奥が焼けるように熱くなる。虫の声が遠ざかり、風が髪を乱した。肩に残る掌の感触、酒臭い息の記憶。それらすべてが、沙月の背中を押すように追いかけてくる。
胸が張り裂けそうに痛み、堪えきれず、涙が頬をつうっと伝った。
(ああっ、私……最低最悪!)
絢斗の顔が浮かぶ。真剣な眼差し、資料を差し出す清潔な指先、ラブホテルでの熱い視線、耳たぶを甘く噛んだ唇。そして、葛西課長のあの優しい笑顔――本能では絢斗を求めつつ、理性が課長との安定を選ぼうとしていた。
だが、今、その理性は音を立てて崩れた。あの、絢斗と過ごした熱い夜のように。
沙月は公園から走り出し、そのまま駅へ向かった。
夜の電車に一人で乗り込むと、車内の冷たい空気が汗ばんだ肌にひやりと染みた。
慌てて走ったせいでヒールの片方が欠け、歩くたびにカツ、カツ……と不揃いな音が響く。
顔は涙でぐしゃぐしゃになり、頬に伝った涙が乾き、塩辛い感触だけが残っていた。
電車の窓に映る自分の姿――乱れた髪、赤く腫れた目、崩れたメイク。まるで見知らぬ誰かのようで、沙月の胸がさらに締めつけられる。
隣の乗客がちらりと視線を向けたが、沙月は気づかないふりをして目を伏せた。
車両の揺れが身体をかすかに揺らし、窓の外を流れる街灯の光が、ぼんやりと目に映る。
(今の私、何もかもがひどすぎる)
自宅に着くと、玄関先でスーツの紺色ジャケットを脱ぎ、靴を脱ぎ捨てた。
欠けたヒールが玄関先に転がり、カタン、と軽い音を立てる。
廊下とリビングを素通りし、そのままベッドに身を投げた。マットレスが深く沈み、シーツの冷たい感触が汗ばんだ背中にじんわりと染み込む。
息はまだ乱れていて、喉の奥に熱い塊が残っている。
枕に顔を埋めると、涙の塩辛さと汗の匂いが鼻腔を満たし、静かな部屋に荒い呼吸の音だけが響いていた。
ブルルルルッ。
ポケットの中で振動したスマホを、沙月は取り出した。画面には、葛西課長からのメッセージ。震える指で画面をタップすると、文章が目に飛び込んできた。
《すまない。公衆の面前でキスしようとするなんて、酔ってハメを外しすぎた。沙月さんが驚くのも無理はない。》
きちんとした謝罪の文面に、沙月の胸がぎゅっと締めつけられる。そして、さらに追い打ちをかけるように続いた。
《もし沙月さんが許してくれるなら、今後も僕と交際してほしい。無理にとは言わない。すぐにとも言わない。僕は君の優秀さと誠実さを愛しているから……待ち続けるよ。》
その言葉が、心の中で何度も反響する。胸が痛む。誠実さ――そんなもの、今の私にはない。スマホをそっと胸に抱きしめたまま、小さく呟く。
「私は……誠実なんかじゃない……」
掠れた声とともに、むせび泣きが喉の奥から漏れた。涙が止まらず、枕に滲んでいく。
冷たい濡れた感触が頬に伝わり、葛西課長の優しさが、むしろ鋭利な刃のように心をえぐった。
(私は大嘘吐き。恋人である葛西課長に、嘘を吐いているんだ)
絢斗との一夜を隠して、そのままの顔で課長の前に立っていた。その現実が、沙月を押し潰す。
葛西課長が認める優秀さも、誠実さも――今の沙月には、ただ虚しいだけだ。
スマホを抱きしめたまま、目を閉じる。
画面の光が暗い部屋に淡く揺れ、そこに浮かぶ葛西課長のメッセージと、絢斗の熱い視線、ラブホテルでの抱擁が重なる。
胸が張り裂けそうだった。本能が絢斗を求め、理性が葛西課長との関係をつなぎ止めようとする。けれどもう、その理性さえもひどく曖昧で脆くなっていた。
むせび泣きが、静まり返った部屋に滲み出す。シーツを握る手に自然と力が入り、涙が頬を伝って指先に落ち、ひんやりと冷たく感じた。
夜が更けても、沙月は答えを見つけられないまま、罪悪感と後悔の渦の中で、ただ身を丸めていた。
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