顔がイイだけのチャラ男なんて、大嫌いです! 〜カタブツ営業職女子が、美貌の新入社員に堕ちるまで〜

冬島六花

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第3章 揺れる心、秘密の会議室

3.3.日常に戻りたい(3,522字)

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 葛西課長にキスされそうになったあの夜から、沙月の心には、重たい石が沈んだままだった。
 数日が過ぎても胸の奥に残るモヤモヤは晴れず、ふとした瞬間に視界がぼんやりと滲むことがある。
 それでも沙月は、プライベートな感情を仕事に持ち込むわけにはいかないと、自らを律した。スーツの袖をまくり、キーボードを叩く音を響かせ、以前よりもさらに仕事に打ち込むようになった。沙月は内に渦巻く感情を押し込め、淡々と日々のタスクをこなしていく。

 その日の午後、沙月はデスクで新人の絢斗を呼び寄せた。ネクタイをきちんと締め、シャツの襟も整えられた姿で彼は現れる。入社当初のゆるさは影をひそめ、その代わりに、真剣な目と落ち着いた態度がそこにあった。沙月はタブレットを手にしながら、まっすぐに彼に目を向ける。

「絢斗くん、あなたも入社してからずいぶんと成長したわね。ここでひとつ、大きな仕事を任せてみようと思うの。来月、予定されている展示会イベントを、あなたに主担当として進めてもらいたいの」

 沙月の声は落ち着いていて、そこには自然な評価と信頼の色が滲んでいた。オフィスのざわめき、遠くで誰かが電話越しに話す声が聞こえる中、絢斗の瞳が一段と輝いた。

「沙月さん……俺、嬉しいです。沙月さんがそんなに俺のことを買ってくれてたなんて」

 絢斗は顔を綻ばせた。沙月は思わず小さく笑い、タブレットを静かにデスクへ置く。コーヒーカップの縁にそっと指を添え、立ち上る湯気の温かさが皮膚に伝わった。

「あら、あなたが持ち前のチャラさの中に有能さを隠していることは、入社時から見抜いていたわよ。……ただ、私がそれに気づいて引き出すのに、少し時間がかかっただけ」

 その冗談めいた言葉に、絢斗の顔に素直な笑みが広がる。沙月もまた、彼の無垢な反応に釣られて、自然と微笑みを返していた。

「わっ! そうだったんすね。もっともっと有能さを引き出してもらえるように、俺も頑張ります。で、何ですか、仕事って。俺、がむしゃらに努力します」 

 二人の視線が、ふと交わる。
 オフィスの喧騒が遠のき、窓から差し込む午後の陽射しが絢斗の茶色い髪に反射した。
 沙月の胸に沈んでいた重たい石が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。絢斗の成長がたしかにそこにあり、沙月が導いてきた時間が無駄ではなかったと、初めて素直に思えた。

 ラブホテルでの熱く甘い一夜がふと脳裏をよぎる。けれど今、二人の間にあるのは、メンターとメンティとしての揺るぎない信頼だった。視線を交わし合ううちに、言葉はなくても通じ合えるような静かな絆が流れ始める。オフィスの空気がふたたび動き出し、いつもの日常がそっと戻ってきた。

「期待しているわ。叩き台を作ってみたの。見て」

 手元の資料を指差しつつ、沙月は説明を始める。
 彼女が絢斗に任せた仕事は〝企業向け展示会の仕切り〟だ。二人が勤める会社は、年に数回、東京ビッグサイトのような大規模展示場での業者向けイベントに、広報目的でブース出展する。スーパーや飲食店向けのレジシステムや事務機器のリースに関して、新規顧客の獲得を目的に、機器の紹介や個別相談会を行うのだ。その準備から当日の運営までを担うのが、今回の任務である。

 絢斗が主担当とはいえ、昼間は通常業務もあるため、客先から戻った夕方や定時後に、沙月とともに準備を進めることとなった。
 こうして、オフィスの喧騒が落ち着いた時間、二人は自然と、二人きりで向き合う場面が増えていった。
 それはたしかに業務だったが、どこか逢瀬のような、静かで濃密な時間でもある。

 その日の夕方、沙月と絢斗は十七階の会議室に予約を取り、本格的な打ち合わせを行うことにした。
 顧客向けプレゼン資料のレイアウトを、実際に会議室の大きなプロジェクターで確認するためだ。
 テーブルの上には展示会用の資料が広げられ、沙月がノートパソコンを開き、画面に映るレイアウト案を見ながら説明を始める。

「展示会のブースは、こんな感じで配置しようと思うの。メインは新型レジシステムのデモと、相談コーナー。パンフレットもこれで刷る予定だけど、絢斗くん、あなたの方で数字の確認、もう一度お願いね」

 落ち着いた声に、指先が資料の紙を軽く叩くと、かすかな音が静かな室内に響いた。絢斗は頷きながらタブレットを手に取る。

「了解っす。沙月さんの指示通り、数字はバッチリ揃えておきました。五回は確認したんだ、さすがにもう、ミスはないはずです」

 軽い口調とは裏腹に、その瞳は真剣だった。沙月はふっと笑みを浮かべ、胸を押さえた。彼の落ち着きぶりに、内心では深く安堵する。

「素晴らしいわね。入社時とは大違い。……絢斗くん、頼もしくなったわ」

 窓の外で夕陽が沈み、空は橙色から藍色へと移り変わった。
 二人は資料を広げながら、レイアウトの細部を詰めていく。沙月がペンを手に持ち、資料に手を入れていく。一方で絢斗の指先は、タブレットを軽快に動かす。

(やだ、なんだか……あの夜のこと、意識しちゃう……)

 時折、ふとした瞬間に視線が交わり、ラブホテルで過ごした夜の記憶がよぎる。

(って、ここはオフィスよ! 真面目に仕事をしなきゃ)

 ともすれば二人の逢瀬に戻ってしまいそうな思考を理性で打ち消し、沙月は仕事に意識を戻した。

「このデモの流れ、クライアントに刺さると思いますか?」

 絢斗が問いかける。沙月は頷き、タブレットの画面を示しながら答えた。

「ええ、視覚的に訴えるのが大事だから、デモはシンプルに、でもインパクト強くね。それに、あなたのノリが活きる場面よ」

 絢斗が面白いという表情になる。

「じゃあ、俺のチャラさも少し復活させますか?」

「……うん。やりすぎず、スパイス的に使うといいかも」

 定時を過ぎ、オフィスはすっかり静まり返っていた。遠くで誰かが退社する足音が響き、二人だけが会議室に残っていた。机の上には資料の束。準備は順調に進んでいたが、それ以上に、二人の距離は確実に近づいていた。

 *

 夜七時を過ぎると、日はすっかり落ちていた。
 会議室からは、眼下にビルのネオンがきらめき、窓の向こうには静かな月と星が浮かんでいた。ガラス越しの光が会議室の空間をうっすらと照らし、蛍光灯の白い明かりと混じり合う。
 展示会の準備で残業となった沙月と絢斗は、テーブルいっぱいに広げられた資料の前で、ふっと小さなため息をついた。空になったコーヒーカップ。オフィスの喧騒はすでに遠く、ふたりきりの空間には、静かで張り詰めたような、どこか甘い緊張感が漂いはじめていた。

(少し、疲れたわね。……絢斗くんも、今日はもう帰らせた方がいいかも)

 沙月が資料を揃えてペンを置くと、絢斗もタブレットをテーブルに載せ、椅子の背にもたれて天井を仰いだ。
 口を開こうとした瞬間、絢斗が彼女にそっと顔を近づけてくる。香水と汗の匂いが混じった彼の香りが漂い、茶色い瞳が月光に反射してかすかに揺れる。

「そうだ! 沙月さん、立派な社会人になって、何か大きな仕事を成功させたら……ヤらせてくれるって、言ってましたよね? まぁ、すでにヤッちゃいましたけど……大きな仕事を成功させる前祝いってことで、とりあえず今、キスしませんか?」

 甘く、低い囁きが耳元に落ちた瞬間、沙月の心臓がドクンと跳ねる。唇を噛み、必死に目を逸らす。

「な、何……!? そんなこと、言ってないわよ」

 否定のつもりの言葉はどこか掠れて、まるで力を失っていた。絢斗が笑い、椅子の背から身を起こして、さらに彼女へと近づいてくる。

「言ってたっすよ。冗談でも本気でも、俺には変わりません。それに今の俺と沙月さんの関係なら……キスくらい許してくれてもいいんじゃないっすか?」

 沙月の指がテーブルの縁をぎゅっと握りしめる。冷たい感触が掌に食い込み、胸の奥では、あの夜の記憶が鮮やかにフラッシュバックする。絢斗の熱い視線、耳たぶを噛んだ感触、肌に触れた手の熱。理性は抗っているのに、身体が、心が、あの甘い記憶にノックオンされてしまう。

 絢斗の指が、そっと彼女の頬に触れる。硬い指先が柔らかな肌をなぞり、そこに汗ばんだ掌の温もりがじんわりと伝わってくる。
 ――沙月の息が、一瞬止まった。窓の外のネオンが滲み、月光が差し込む会議室。二人の影が細長く床に伸びる。

「絢斗くん……だめよ……」

 沙月の声はかすかに震えていた。けれど、止める力はこもっていなかった。
 絢斗の顔がさらに近づく。
 会議室の空気がぴんと張り詰め、甘く熱を帯びていく中、沙月の唇がわずかに開きかけ、絢斗の顔があと数センチまで迫る。

 ――沙月はもう、抗えなかった。
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