文月帳〜短編&番外編〜

文月 青

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読み切り編

上司の恋

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ーーどうしてこんな人に連絡なんてしたんだろう。

看護師さんから入院についての説明を受け、ついでに治療の際に脱いで忘れたらしい長谷川はせがわ主任のジャンパーを預かった私は、外来の診察室から戻るなり病室の前で拳を握り締めた。

「全く自己管理がなってない」

少し開いていたドアの隙間から洩れてくるのは、仕事中に倒れた長谷川主任を罵倒する聞き覚えのある声。

「無理をするのは勝手だけど、皆に迷惑かけてどうするの」

「ごもっともです」

「人の上に立っているという自覚が足りない」

「確かに」

おそらくはいつものように苦笑しているのだろう。短く答える長谷川主任から怒りは微塵も感じられない。私は危うく揉みくちゃにしそうだったジャンパーを抱えなおし、背後から静かに近づく足音の主を振り返った。

「どうして連絡なんかしたんですか」

先程浮かんだ疑問をぶつける。

「仕方がないだろ。あいつの希望だ」

病室の様子を窺いながら、主任と同期の小此木おこのぎさんがため息まじりにぼやく。

長谷川主任は勤務時間終了直後に倒れた。医務室に運ばれてまもなく目を覚ましたものの、その顔色は青を通り越して真っ白く、私と小此木さんが付き添って半ば無理やり病院に連れてきたのだ。案の定念の為今日は入院となった。

頭では分かっている。病院に急ぎ走らせる車の中、苦しげに呻く長谷川主任が洩らしたただ一つの名前。小此木さんはその人に事情を知らせただけに過ぎないと。

このところ残業続きで疲れは溜まっていただろうけれど、それとは違う寝不足や食欲不振の原因と同時に特効薬になれるのも、またその人一人であることも。

でも長谷川主任にもしものことがあったら、この世からいなくなってしまったらと、不安に押し潰されそうな気持で寄り添う自分より、心配どころか大丈夫の一言もなく、ベッドに横たわる病人を責めるだけの人が必要とされるなんて。

「ありがとう」

ふとくぐもった声が耳に届いた。思わず小此木さんと顔を見合わせる。その不似合いな言葉は間違いなく病室から発せられたものだ。緊急時に何を血迷っているのだと、ドアを蹴っ飛ばしてやろうかと思った矢先、

「ありがとう。名前を呼んでくれて」

掠れながらもどこか力強く繰り返される。

「そうでなければ、私はここには来れなかった」

思考が止まった。代わりに頭上で息を飲む音がやけに大きく響いた。

「心配かけて、ごめん」

これまで私が一度も聞いたことがない、長谷川主任の優しい呟きと共に空気が震えているのが伝わってくる。これでもかというほどの激しい怒りが沸いた。

一体何なのこの会話。こんなの狡い。あの人には長谷川主任よりも大切な人がいるのに。長谷川主任が一番じゃないのに。

「やめろ日下くさか

見境なく病室に踏み込もうとした私を、小此木さんが背後から押さえつけた。

「だって」

言いかけた私を黙らせるが如く、頭上の案内表示を確認しながらいとも簡単に引きずってその場を離れる。

「だってこんなの、ただの不倫じゃない」

我慢できずに洩らした事実に唇を噛み締める私を、病棟の中程に設けられた休憩コーナーの椅子に座らせ、しまった禁煙だったなとスーツの胸元から取り出した煙草をまた戻してから、小此木さんはついでのように自動販売機で買った清涼飲料水を放ってよこした。

「日下の言っていることは、きっと正しいんだろうな」

自分の手の中にあるペットボトルと、返しそびれた長谷川主任のジャンパーを凝視しつつ、先程の病室のやり取りに打ちのめされていると、缶コーヒーを一口飲んでから小此木さんが向かいに腰を下ろした。

「だから信じる信じないはあんたの自由だ」

訳の分からない話にのろのろと首を動かす。

「長谷川と藤田ふじたは一線を越えていない。それどころか好きの一言も伝えていない」

たぶん私はかなり凶悪な顔で小此木さんを睨んでいると思う。

「ありえない」

悔しいけれど二人を見ていればお互いを想いあっていることなど一目瞭然だ。私が入る隙間もないくらいに。第一いい大人が清い間柄なんて逆におかしい。どんな綺麗事を並べようと不倫は不倫だし、長谷川主任にそれを強いているのはあの人に違いない。

「でもあの二人はお互いの電話番号すら知らない」

主任に頼まれてさっきあの人に連絡を取った男が寝ぼけたことをほざく。私の不満を感じ取ったのか、だから俺が電話しただろうとつけ加える。

「詭弁かもしれないけれど嫌なんだと」

「何が」

どこまでも声を尖らせる私に、小此木さんは何故か酷く優しいような悲しいような曖昧な表情を浮かべた。

「自分のせいで、相手が後ろ指を指されることになるのが」




長谷川主任とは大学卒業後に就職した、自動車メーカーで出会った。謂わゆるディーラーの整備部門を担当する長谷川主任は、口数が少なく、いつもオイルに塗れて黙々と作業に勤しんでいる人だった。

業務以外では自ら話しかけてこないし、言葉も端的で親しみも感じない。主に整備の受付を担当することになった私は、長谷川主任と関わるのが億劫で仕方がなかった。

入社して半年を過ぎた頃だったろうか。ようやく車の部品に関する知識もつき始め、妙な余裕が生まれていたのだと思う。急ぎで受けた整備車の部品の発注を漏らしてしまったのだ。しかもその車は大分前に生産終了になったもので、部品の在庫そのものが少なくなっていた。

幸い長谷川主任の機転のおかげで、お客様に迷惑をかけることは免れたが、一歩間違えばクレームを受けるのはもちろん、大事なお得意様と会社の信用を失っていたかもしれない。それ以来私は自分の犯した過ちに、日々の仕事に携わることが怖くなった。

「俺、言葉が足りないから。悪かったね」

もう辞めてしまおうか。甘い考えとは分かっていても、逃げ出すことで頭がいっぱいになっていたとき、初めて長谷川主任の方から声をかけられた。

「部品の種類や納品期限について、もう少し詳しく伝えておくべきだった。今回のミスは俺の責任だ」

驚いた。彼がこれまで目にしたことがない、とても優しい表情をしていたからだ。

「日下さんは新人だけど、てきぱきと仕事をこなしていたからすっかり甘えていた。今後は気をつける」

そう言って頭を下げた。

よくよく長谷川主任を観察していると、彼は誰に対しても素っ気ない対応をしていたが、それが単なる口下手によるものだと気がついた。性格や機嫌に左右されたものではなかったのだ。

しかももの凄い照れ屋だ。同期の営業の小此木さんに揶揄われては、困ったように頬をかく姿は、二十七歳の男にしては可愛い過ぎる。第一印象が悪かった分、私の中で長谷川主任の株は急上昇した。

「よろしくお願いします」

長谷川主任に認めてもらえるよう、辞めるのではなく努力しようと、仕事に励んでいた入社一年後。その女性は現れた。

「お預かりします。気になることはございますか?」

先日私が案内状を送付した藤田さんは、ご主人共々うちで車をお買い上げ頂いているお得意様でもあった。このときは早速車検の依頼に来店されたのだが、私は営業スマイルとは違う、長谷川主任のはにかむような笑顔に息を呑んだ。

「長谷川主任は藤田さんと知り合いか何か?」

ちょうど近くにいた小此木さんに訊ねると、彼は一瞬眉を顰めたが、二人が並んで車を眺めているのを確認して頷いた。

「藤田は俺の高校時代の同級生なんだ」

小此木さん情報によれば、藤田さんのご主人も同級生だったのだという。その縁で二人ともうちをご贔屓にしてくれているらしい。

「でも十代からつきあって結婚なんて純愛ですね」

高校時代の彼氏とは、別れて以来ろくに接触もなかった私には、長い間同じ人を想い続けての結婚は、一種の憧れであり夢物語に等しくもあった。

「そうだな」

同じように一人の人と長続きしないという噂の小此木さんは、嘆息しながら静かに相槌を打った。そして私は同期の旧友ゆえに親しげだったのだと、長谷川主任の珍しい笑顔の理由に、訳もなくほっとしていた。

「擦ってしまって」

次に藤田さんがやって来たのは、車検から二ヶ月が経過した頃だった。

「体は大丈夫なんですか?」

明らかに長谷川主任は動揺していた。仕事柄こういったことは時々あるし、藤田さんの車の状態はさほど酷くはない。むしろ簡単な修理で済む。なのにいつも淡々と対処する彼にはやはり珍しいことだった。

「外出先の駐車場に駐めていたときに、隣の車が少し擦っただけだから、大したことないし私は無傷よ」

案の定藤田さんは苦笑した。その返事に長谷川主任は目に見えて安堵していた。表情が大きく動かないので、他の従業員は特に気に留めてもいない。

「びっくりさせないで下さい。寿命が縮まるところでしたよ」

「あら、心配してくれるの?」

「当然でしょう」

「お得意だものね」

長谷川主任はそこで軽く藤田さんを睨んだ。けれどやがて二人の視線は、お互いを慈しむように絡まる。

ーーまさかこの二人は。

私は瞠目した。同時に深い胸の痛みを覚えた。その原因にようやく思い至り、ぎゅっと唇を噛み締める。これは嫉妬だ。私は長谷川主任が好きなのだ。でも彼がその双眸に映しているのは……。

「何も言うなよ」

頭上に怖ろしいほど低い声が降った。振り返るといつのまにか背後には小此木さんが立っていた。




高校卒業以来音信不通だった小此木さんと藤田さんが再会したのは、三年前に出席した同窓会だった。そのとき彼女は兼ねてからつきあっていたもう一人の同級生と、めでたく結婚したばかりだった。

「祝いにぎりぎりまでサービスしてやるよ」

こんな冗談のやり取りから、藤田夫妻は小此木さんの顧客としてうちの店を利用するようになった。そうして関わっているうちに見えてきたのは、私が純愛と評した二人の闇。

「藤田の旦那には愛人がいる」

浮気の二文字とは異なる重い響き。

「正確にはそっちが本命だ」

藤田さんとご主人は結婚前に一度別れているのだそうだ。その間にご主人は愛人である女性と知り合ったものの、離婚して子供が二人いることを理由に両親につきあいを反対され、よりを戻した藤田さんと結婚したらしい。

「藤田は旦那に他に女がいることを知らずに結婚した」

けれど結婚早々家には寄りつかず、堂々と愛人との家庭を築いているご主人に、自分が隠れ蓑に使われていることを知った。

「だったら離婚すればいいんじゃないですか?」

それこそ子供がいないのだから、打ち捨てられた可哀想な妻を演じていないで、さっさとご主人に見切りをつければいいではないか。

「旦那が拒んでるんだよ」

ふいに小此木さんが渋面を作った。

「藤田さんのことも手離したくないと?」

「いいや。世間体の為だ。身内や会社の手前」

ずいぶん勝手な人に思えた。でも結局そんな人の妻でいることを選ぶ藤田さんも、何らかのメリット故に夫婦関係を続けているような気がして、夫がいながら長谷川主任に色目を使っているのが許せなかった。

「勘違いするな。藤田はずっと離婚を申し出ているし、長谷川にちょっかいをかけているわけでもない」

苛立つ私に小此木さんは釘を刺した。

「あいつらはあくまで客と整備士だ。妙な邪推で傷つけるような真似は慎め」

「長谷川主任が人の道から外れたとしても?」

「一方的に成り立つ関係じゃないだろう。第一もし本当にそうなったら、二人を結びつけたのは俺だ」

苦しげに小此木さんは目を伏せた。




この出来事からほぼ一年。長谷川主任と藤田さんにつきあっている節は微塵もなかった。定期点検やオイル交換、愛車の調子が悪いときなど、彼女が来店するのは年に二、三回。もちろん隠れて逢瀬を重ねているのかもしれないが、少なくとも普段の長谷川主任から、人に言えないことをしているような疚しさは感じられなかった。

「調子は如何ですか?」

なのにその二、三回の、十分にも満たないような会話や仕草の中に、私は二人のお互いに対する愛情めいたものを見てしまう。人前なのだから特別な話は一つもしないし、実際車のことしか口にしない。

「少しブレーキの効きが甘いみたいなんだけど」

「暴走させていませんか?」

「バレた?」

もちろん小此木さんを介した知人なのだから、たまにはこんな冗談で笑い合うこともある。けれど労わり、信頼し合っているような何かが、穏やかな視線で伝えられている気がした。

長谷川主任が倒れる一ヶ月前。小春日和の中、藤田さんのご主人が来店された。彼女ではない女性と二人の子供を伴って。

「大き目の車に買い換えたいんだ」

大事なお得意様だ。含みはあるにせよ、小此木さんは懇切丁寧な対応をした。

「パパ、この車格好いいね」

小学生の子供達は、当然のように藤田さんのご主人を父親と呼んだ。

「気に入ったならこれにするか」

ご主人も優しい親として振る舞い、年上であろう女性は嬉しそうに目を細めていた。事情を知らなければ、微笑ましい家族と信じて疑わなかっただろう。

ご主人は子供達が選んだ車を契約した。営業成績が上がったのに、小此木さんは浮かない表情をしていた。そしてその日から長谷川主任は元気を失った。

仕事に支障を起こすことはないが、ぼんやりと考え事に耽ったり、明らかに沈んでいるのが受け取れた。よく眠れていないのか、顔色も悪いし食も細い。

「藤田さん絡みで揉め事に巻き込まれたりしていませんよね?」

「それは絶対ない」

小此木さんは断言した。周囲も忙しい時期に被っていたせいか、残業続きで疲れているのだろうと解釈していた。

大丈夫だろうか。心ここに在らずの状態を心配していた矢先、長谷川主任は倒れた。病院に向かう小此木さんの車の中、朦朧とする彼が呻くように洩らしたのは。

「ふ……じ」

分かっていた。長谷川主任が誰を求めているのか。どんなに近くにいたところで、私には代わりすらできないことも。

こんなに想われていながら、長谷川主任を幸せにしてくれない、不道徳な道を行かせる藤田さんが憎かった。どうせ涙を使って憐れな妻を装ったのか、体を使って脅迫まがいに落としたに違いない。

「ふじ……た」

長谷川主任の顔が歪む。彼が苦しんでいるのに、こんな醜いことを考える自分が嫌だった。助けたいのに助けたくない、己の心の狭さが辛かった。

ーー何より無意識のときすら、下の名前ではなく名字を口にする彼が、この上なく哀しかった。




「いつからかはっきりしないが、長谷川と藤田はお互いに惹かれている」

やっぱりという顔をした私に、小此木さんは飲み終えた缶コーヒーをゴミ箱に捨てて、やんわりと首を振った。面会時間終了間近なせいか、騒ついていた院内は静まりつつある。

「外でこそこそ逢引して、人様には顔向けできないことを、長谷川主任にさせているんですよね。あの人は」

今でも長谷川主任から後ろ暗さは感じない。けれど藤田さんはどうだろう。ご主人に離婚を拒まれても、妻の座から降りることはできる。藤田さんはそれをせずに、世間的には貞淑な妻であろうとする一方で、長谷川主任を誘惑している。自分の生活が保障されている状況で、もしもご主人が愛人の元から戻ってきたら、迷わず長谷川主任を切り捨てるに違いない。

「老婆心で俺が個々に確かめただけで、あいつらはそのことを知らない」

会うのは職場であるうちの販売店のみ、交わす言葉もそこでのものが全て。年に数回の機会を除けば一切の関わりがないなどと、そんな形で恋をするなどと、一体誰が信じられるのだ。

「でも」

「でも?」

「相手のことを考えているからこそ、たぶん気持ちが通じていると分かっていても、知人のままなんじゃないかと、ついさっき思った」

ーーこんなのただの不倫じゃない。

日下の言葉が一般的な意見なのだろうから。小此木さんはそう付け加えて苦く笑む。

「本人達もその自覚があるから、後ろ指を指されないようにと言っていたんでしょう」

「かもな。けれど現状は違うだろ?」

どんなに好きでも、相手の手を取りたくても、お互いの意思で心も体も触れ合わない。

「それでも道徳に反するか? 二人は責められなくてはいけないか?」

ひっそり想うだけでも許されないのか。抑揚のない声で問う小此木さん。院内には面会時間終了のアナウンスが流れる。

「ジャンパーを返さなくちゃ」

力一杯握り締めていたので、長谷川主任のジャンパーはよれよれだ。明日これを着て退院させるのが忍びない。

「小此木くん」

椅子から立ち上がると、遠慮がちな女性の声がした。顔を見なくても分かる。これはさっき長谷川主任の病室で、彼を罵倒していた人のもの。

「あの、連絡、ありがとうございました」

おそらく頭を垂れているのだろう。小此木さんが手で制しながら腰を上げたが、私は背を向けたまま挨拶もしなかった。

「俺は何も。長谷川の希望を叶えただけだから」

一瞥されて私は奥歯を噛んだ。長谷川主任の希望がこの人が傍にいることだなんて、悔しくて腹立たしくて体中が沸騰しそうだ。

「薬が効いてきたみたいで、今眠ったところなの。それで」

そこで藤田さんは言い淀んだ。間を置いておずおずと口を開く。

「こんなこと私が言える立場にはないけれど、彼のこと、よろしくお願いします」

「ふざけないで下さい!」

私は間髪入れずに怒鳴った。振り返って全身全霊で背後の人物を睨みつける。

「あなたは長谷川主任の何だって言うんですか。恋人ですか? 妻ですか? 違いますよね?」

「違い、ます」

切なげな表情を浮かべながらも答える。私がここにいることも、こうして憤ることも予め承知していたように、驚きもしない藤田さんに苛々が募ってゆく。

「そもそも長谷川主任が倒れた原因はあなたでしょう」

「よせ、日下」

止めに入った小此木さんを無視して私は続けた。

「先日あなたのご主人がいらっしゃいました。新車を購入したいと、ご家族お揃いで」

目を瞠る藤田さん。

「長谷川主任はそれ以来心労を重ねたんです」

家に帰らぬ夫に嘆いているのか、倒れた長谷川主任に責任を感じているのか、どんな気持ちでいるのか私には想像できない。けれど少なくともこの人に傷つく権利はない。

「あなたが傍にいると長谷川主任が苦しめられます。あなたがしていることはご主人と同じ」

「日下!」

「ただの不倫です」

私の腕を掴んだ小此木さんの手を振り解き、私は長谷川主任の病室に小走りで向かった。灯りが消えた部屋を幾つか過ぎて、先程も入らずに後にしたドアをそっと開ける。

「主任……」

薄暗がりに辛うじて聞こえる規則的な呼吸。久し振りに穏やかな眠りに就いているのだろう。名残惜しいけれど、ジャンパーをベッド横のパイプ椅子にかけて病室を出た。

ーー私なら長谷川主任だけを見て、想って、大切にして……藤田さんよりも絶対幸せにするのに。

けれどそう強く思う一方で、ほんの一瞬捕らえた悲しみを湛えた人の顔が、脳裏に焼きついて離れなかった。




「おめでとう!」

祝福の声が飛び交う中、新郎新婦は幸せそうに微笑み合う。お似合いの二人の姿に和みながらも、私の胸は隣の席で眦を下げる人に、ずしっと重い石を飲み込んだような錯覚に落とされた。

「よかったな」

同僚に向けた短い言葉には、しみじみとした喜びが感じられる。

「ああ」

応える新郎も静かに頷くだけだ。

長谷川主任が倒れた日からまもなく五年が経つ。その間に私達を取り巻く状況は変わった。どの女性とも長続きしないと揶揄されていた小此木さんは、同じ系列の販売店で事務をしている社員と結ばれ、六月吉日の今日、華燭の典を上げた。

「俺は一生独身だろうな」

自他共に認める独身主義者は、四歳上の自立したしっかり者の女性にすっかり絆され、肩肘張っていたのが嘘のように、目に見えて一途な男に変わった。

「悪阻は大丈夫?」

主役の二人に見惚れて食が進んでいない私の顔を、隣の長谷川主任が心配そうに覗き込んだ。この人の素っ気ない優しさはむしろ変わらない。

「はい。幸せそうな小此木さんには悪酔いしそうですけど」

「言えてる。あいつが女性に骨抜きにされるなんて、同期の連中は皆想像もしていなかったよ」

内緒話をするように囁いて、長谷川主任は楽しげにくすくす笑う。

「君も幸せでしょ?」

何気ない問いに胸が軋む。あの日私が藤田さんに酷い言葉を投げつけたことを彼は知らない。だから私の幸せを素直に喜んでいる。

「そうですね」

他に答えようがなくて俯いてしまう。

昨年の春、私も縁あって結婚した。友人の紹介で知り合った同い年の会社員で、これといった特徴はないが、私のことをとても大事にしてくれる。現在新たな命も授かり、来年にはママになる予定だ。

「迷惑をかけて済まなかったね。いろいろありがとう」

五年前。念の為に一晩入院した長谷川主任は、まだ顔色は優れないのに、退院したその足で職場に来た。

「とんでもありません。それより大丈夫なんですか?」

「体を動かしている方が落ち着くんだ」

驚く私にトレードマークの作業服姿で笑った長谷川主任。せめてもう一日自宅で休むよう、全員で説得しても聞く耳を持たず、結局通常通り仕事をこなした。

もしかしたら藤田さんが来店するのではと、私は一日中身構えていたけれど、お客としても電話一本寄越さなかった。

「長谷川主任が退院したこと、あの人に知らせなかったんですか?」

暗躍担当の小此木さんを皮肉ると、彼はにこりともせずに呟いた。

「電話したが、通じなかった」

「主任の一大事に? まさかご主人が家に帰ってきたとか?」

自分でも口を滑らせたと思う。珍しく小此木さんは凄みのある表情で私を睨みつけた。

「藤田が傍にいると長谷川が苦しむ。そう言ったのは日下だろう」

「事実じゃないですか」

「これで日下は満足か?」

吐き捨てて小此木さんはもう何も語ろうとはしなかった。彼が後に同級生からもたらされた噂によれば、藤田さんは弁護士の協力を得て、ご主人と離婚を成立させたのだという。ご主人は愛人と暮らしているだけではなく、藤田さんが仕事で収入を得ているからと、生活費も渡していなかったらしい。

それならすぐにでも長谷川主任と結婚するつもりかと、私はもはや嫉妬を隠せずにいたのだが、藤田さんはいつまで経っても現れない。

「長谷川の為に自ら消えたんだよ」

黙々と作業に取りかかる長谷川主任を眺めながら、小此木さんが己の無力を嘆いた。

「俺は友人二人の、何の役にも立てなかった」

「そんな馬鹿な。せっかく離婚して自由になったのに」

「初めから巻き込む気なんてなかったんだよ。でもせめて長谷川にだけは証を立てたかったんだろ。本気で好きだと」

その意見を肯定するように、藤田さんは二度とうちの店に姿を見せることはなかった。

「日下さんは二次会は……無理かな」

盛り上がった披露宴も終わり、招待客がそれぞれ目的の場所へと移動を始めた。

「はい。旦那が迎えに来ますので」

「そうか。じゃあ気をつけて」

同期仲間に呼ばれて、長谷川主任は二次会へと流れてゆく。きっとそれなりにモテる筈なのに、今夜も一人で家路を辿るのだろう。何故なら彼はどんなアプローチをされても、首を縦に振ることがないからだ。

藤田さんがいなくなってしまった後も、長谷川主任はずっと彼女を想い続けている。二人を遮っていた壁は取り払われたのに、肝心の彼女の行方は知れないままだ。

「無理に忘れる必要はないが、そろそろ他に目を向けてもいいんじゃないのか?」

ひたすら藤田さんを想う長谷川主任に、小此木さんがもう彼女のことは諦めるよう諭したことがあったそうだ。

「無理なんてしていない。他の人に気持ちが動かないだけだよ。堂々と待てるようになれたんだ。彼女がいつでも帰ってこれるよう、俺はずっとここにいる」

まるで藤田さんが帰ってくると確信しているような口振りで、双眸に柔らかな光を宿す長谷川主任に、小此木さんも分かったと応じるしかなかった。

そうして出世が絡む異動の話も断り、彼は日々仕事に打ち込みながら、たった一人の人を待ち続けている。好きと告げたことも、告げられたこともない相手を。

「やり切れなかったとはいえ、日下には余計な八つ当たりをした。お前は正しい。気に病まないでくれるとありがたい」

藤田さんが消えてしばらく経った後、小此木さんから謝罪を受けた。自分が間違っていたとは思っていない。

ーーこれで日下は満足か?

でも果たして正しかったのだろうか。その答えが明らかになる日はくるのだろうか。私はため息をついて長谷川主任の背中を見送った。




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