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本編
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怒涛のゴールデンウィークが過ぎた。人手不足の折、連日出勤に見舞われた私は、ようやく落ち着きを取り戻した平日にしみじみ安らぎを感じている。そういえば今年の春は友人の結婚式を始め、何かとばたばたしていたから、ゆっくり桜を愛でる余裕もなかった。
もっとも仕事が忙しくて助かっていた面もある。連休の殆どを休んでいた瀬戸とは顔を合わせずに済んだから。けれど同居して一ヶ月が過ぎた今日、生活費についての話し合いの場を設けることになった。というと物々しいけれど、つまりかかった金額の割り出しと清算をする。
「あの男の考えは分からんが、払うと言ってるもんは素直に受ければ?」
星は呆れたように私を諭したけれど、やはり瀬戸が食費を出すことは阻止したい。
「相変わらずお月さんは不器用だな。そんなに五分の関係でいたいなら、自分の分は体で払ってご破算にするとか」
「げす」
星が本当は何を心配しているのか分かっている。おそらく私と同居してからの瀬戸には特定の彼女はいない。ただ性欲処理をどうしているかまでは知らないし、友人の私が口を挟める筋合いでもない。
女と同居していながら別の女を抱いているかもしれない男と、その男を好きなのに同居してさえも抱いてもらえない女。
ある意味ホラーだ。
「お前はそれで平気なのか?」
らしくないその優し気な声色に、私は満面の笑みでとっくに慣れたよと答えたのだった。
「今月の生活費は全て俺が持つ」
瀬戸が澄ましてそう断言したのは夜も更けた0時過ぎのことだった。遅番勤務を終えて帰宅した後、ダイニングで通帳やレシートと首っ引きで必要経費を計算していたところ、合計額の数字をちらっと一瞥した瀬戸がいきなり切り出したのだ。
「一人も二人もさして変わりない」
もはや食費がどうとかいうレベルではない。テーブルの上に散らかしたレシートを纏めつつ、私はうんざりしながら向かいに座る瀬戸に首を振った。
「いやいや瀬戸さん、それ同居の条件から逸れているよね? 却下」
大きな差額がなかったとしても、一人より二人の方が生活費はかかるに決まっている。食費として使うように渡された通帳を使わなかったことに業を煮やしたのかもしれないが、あまりにも突飛な申し出に驚く気にもなれない。無駄を省いて節約する筈じゃなかったのか。
「そんなことより共有物の購入ルールなんだけど」
レシートの合算も悪くはないが、最初に雑費用として一万でも二万でも用意しておいて、そこから使うようにしていくのは駄目だろうか。残った分は翌月に繰り越せばいいし。
現実的に対処が急務な議題に方向転換すると、瀬戸は機嫌を損ねたのか、不貞腐れたように洩らした。
「相変わらず素直じゃねーな。ありがたく世話になればいいだろ」
どこかで聞いた台詞だと苦笑してしまう。確かに素直ではないのだろう。でも私には瀬戸の世話になる理由が存在しないし、生活の面倒を全てみてもらったら、そもそも同居人じゃなくてただの居候だ。対等な友人ですらなくなる。ただの意地なのかもしれないけれどやはりそこは譲れない。
「じゃあ私の分は体で払ってもいい?」
星の影響だとは認めたくないが、つい冗談めかして訊ねてみた。
「は?」
あっさり流すだろうと目していた瀬戸は、不満だらけの様相から一転あんぐりと口を開けて間抜け面を晒している。
「間に合ってるよね」
久々の三枚目ぶりに私がお腹を抱えていると、瀬戸は珍しくしどろもどろ気味に喚き出した。
「間に合ってなんか、じゃなくて、な、何だよ突然」
数多の女性と関係してきたであろう男の狼狽える姿は、なかなか新鮮で可愛いらしいものがある。
「瀬戸さん意外と純情だったのね」
たった今抱いた本音をぽろっと零したら、瀬戸はばしっとテーブルを叩いて立ち上がった。
「話にならん。明日も早いからもう寝る」
そのまますたすたと自室に消えてしまう。耳の後ろが赤かったのは気のせいだろうか。つきあって十年。お互い良いところも悪いところも見せてきたけれど、いつも飄々としている瀬戸の新たな素顔に私の心は和んだ。
翌朝ご機嫌状態の私がキッチンで食事を作っていると、逆に瀬戸は苦虫を噛み潰したような表情で現れた。すぐに出勤するつもりだったのか既にスーツに着替えている。
「今日は早番なのか」
「いいえ、遅番です」
生活費については解決していないけれど、今朝はとても気持ちよく起きられたので、ついでに瀬戸にも希望の和食を振る舞う。彼は渋々席について味噌汁を啜る。不味いと連発されても不思議と口元が綻んでしまうのは、きっと昨夜の余韻のせいに違いない。そんな私に更にプライドを傷つけられたらしい瀬戸は、無言でご飯をかき込んで玄関に向かった。
「行ってらっしゃーい、陽生さん」
追いかけてきた私が揶揄うように両手を振ると、ドアノブに手をかけていた瀬戸はせっかく整えた髪をがしがし掻き毟った。
「お前なぁ」
ちょっと悪乗りしすぎただろうか。勘弁してくれと言いたげに瀬戸が息を吐く。
「ごめ」
謝ろうとした私の視線の先で瀬戸が踵を返した。同時に右腕を乱暴に引っ張られる。崩したバランスを立て直す間もなく、何かが私の唇をさっと掠めた。
「行ってくる」
一瞬止まった思考が復活したときには、もう瀬戸はドア外の人となっていた。
今のは一体何? 仕返し? 私の頭の中でキから始まる単語がぐるぐる回る。直立不動で約三十分動揺しまくった私が、半ば現実逃避に近い形で導き出したのは、歯磨きをしていないという小さいのか大きいのか判断しかねる事実だった。
もっとも仕事が忙しくて助かっていた面もある。連休の殆どを休んでいた瀬戸とは顔を合わせずに済んだから。けれど同居して一ヶ月が過ぎた今日、生活費についての話し合いの場を設けることになった。というと物々しいけれど、つまりかかった金額の割り出しと清算をする。
「あの男の考えは分からんが、払うと言ってるもんは素直に受ければ?」
星は呆れたように私を諭したけれど、やはり瀬戸が食費を出すことは阻止したい。
「相変わらずお月さんは不器用だな。そんなに五分の関係でいたいなら、自分の分は体で払ってご破算にするとか」
「げす」
星が本当は何を心配しているのか分かっている。おそらく私と同居してからの瀬戸には特定の彼女はいない。ただ性欲処理をどうしているかまでは知らないし、友人の私が口を挟める筋合いでもない。
女と同居していながら別の女を抱いているかもしれない男と、その男を好きなのに同居してさえも抱いてもらえない女。
ある意味ホラーだ。
「お前はそれで平気なのか?」
らしくないその優し気な声色に、私は満面の笑みでとっくに慣れたよと答えたのだった。
「今月の生活費は全て俺が持つ」
瀬戸が澄ましてそう断言したのは夜も更けた0時過ぎのことだった。遅番勤務を終えて帰宅した後、ダイニングで通帳やレシートと首っ引きで必要経費を計算していたところ、合計額の数字をちらっと一瞥した瀬戸がいきなり切り出したのだ。
「一人も二人もさして変わりない」
もはや食費がどうとかいうレベルではない。テーブルの上に散らかしたレシートを纏めつつ、私はうんざりしながら向かいに座る瀬戸に首を振った。
「いやいや瀬戸さん、それ同居の条件から逸れているよね? 却下」
大きな差額がなかったとしても、一人より二人の方が生活費はかかるに決まっている。食費として使うように渡された通帳を使わなかったことに業を煮やしたのかもしれないが、あまりにも突飛な申し出に驚く気にもなれない。無駄を省いて節約する筈じゃなかったのか。
「そんなことより共有物の購入ルールなんだけど」
レシートの合算も悪くはないが、最初に雑費用として一万でも二万でも用意しておいて、そこから使うようにしていくのは駄目だろうか。残った分は翌月に繰り越せばいいし。
現実的に対処が急務な議題に方向転換すると、瀬戸は機嫌を損ねたのか、不貞腐れたように洩らした。
「相変わらず素直じゃねーな。ありがたく世話になればいいだろ」
どこかで聞いた台詞だと苦笑してしまう。確かに素直ではないのだろう。でも私には瀬戸の世話になる理由が存在しないし、生活の面倒を全てみてもらったら、そもそも同居人じゃなくてただの居候だ。対等な友人ですらなくなる。ただの意地なのかもしれないけれどやはりそこは譲れない。
「じゃあ私の分は体で払ってもいい?」
星の影響だとは認めたくないが、つい冗談めかして訊ねてみた。
「は?」
あっさり流すだろうと目していた瀬戸は、不満だらけの様相から一転あんぐりと口を開けて間抜け面を晒している。
「間に合ってるよね」
久々の三枚目ぶりに私がお腹を抱えていると、瀬戸は珍しくしどろもどろ気味に喚き出した。
「間に合ってなんか、じゃなくて、な、何だよ突然」
数多の女性と関係してきたであろう男の狼狽える姿は、なかなか新鮮で可愛いらしいものがある。
「瀬戸さん意外と純情だったのね」
たった今抱いた本音をぽろっと零したら、瀬戸はばしっとテーブルを叩いて立ち上がった。
「話にならん。明日も早いからもう寝る」
そのまますたすたと自室に消えてしまう。耳の後ろが赤かったのは気のせいだろうか。つきあって十年。お互い良いところも悪いところも見せてきたけれど、いつも飄々としている瀬戸の新たな素顔に私の心は和んだ。
翌朝ご機嫌状態の私がキッチンで食事を作っていると、逆に瀬戸は苦虫を噛み潰したような表情で現れた。すぐに出勤するつもりだったのか既にスーツに着替えている。
「今日は早番なのか」
「いいえ、遅番です」
生活費については解決していないけれど、今朝はとても気持ちよく起きられたので、ついでに瀬戸にも希望の和食を振る舞う。彼は渋々席について味噌汁を啜る。不味いと連発されても不思議と口元が綻んでしまうのは、きっと昨夜の余韻のせいに違いない。そんな私に更にプライドを傷つけられたらしい瀬戸は、無言でご飯をかき込んで玄関に向かった。
「行ってらっしゃーい、陽生さん」
追いかけてきた私が揶揄うように両手を振ると、ドアノブに手をかけていた瀬戸はせっかく整えた髪をがしがし掻き毟った。
「お前なぁ」
ちょっと悪乗りしすぎただろうか。勘弁してくれと言いたげに瀬戸が息を吐く。
「ごめ」
謝ろうとした私の視線の先で瀬戸が踵を返した。同時に右腕を乱暴に引っ張られる。崩したバランスを立て直す間もなく、何かが私の唇をさっと掠めた。
「行ってくる」
一瞬止まった思考が復活したときには、もう瀬戸はドア外の人となっていた。
今のは一体何? 仕返し? 私の頭の中でキから始まる単語がぐるぐる回る。直立不動で約三十分動揺しまくった私が、半ば現実逃避に近い形で導き出したのは、歯磨きをしていないという小さいのか大きいのか判断しかねる事実だった。
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