隣の他人

文月 青

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本編

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ちゅう、きみとちゅう。某アニメソングが耳の奥でこだまする。あれは確かにキスだった。例え相手を間違えただけだろうと、欲求不満が高じて体が勝手に動いただけだろうと、絶対。

いい年齢としして情けないけれど、今日は一日仕事が手につかなかった。「発注」や「中華」という単語を聞いただけで挙動不審になってしまい、星を始めパートさん達からも胡散臭い視線を浴びた。自分でも中学生並みの反応だとは思う。でも本当に予想外の展開だったのだ。驚きすぎてもはや喜びを感じる余裕もない程に。

この際理由なんか求めない。瀬戸が私を女という性別を持った人間だと認識してくれたのなら。

遅刻間際に駅の階段を駆け上がるような勢いで私は家路を急いだ。夜とはいえど五月の優しい風が頬を撫でる。帰ったら何を話そう。その前にどんな顔をすればいいのだろう。

「お疲れ」

内臓が全て心臓になったかの如くどっくんどっくん高鳴る鼓動を抑え、鍵を開けるのももどかしく屋内に飛び込んだ私に、ちょうど自室から出てきた瀬戸が労いの声をかけた。

「ただ、いま」

ぎこちなく返して瀬戸の後を追う。

「結構乾燥してるよな。喉が渇いてさ」

お風呂に入るつもりだったのか瀬戸は手に着替えを携え、ひとまずキッチンで冷蔵庫から取り出したペットボトルのお茶を含む。

「そうだ。明日は朝から会議があるから納豆はやめろよ」

私は横から冷蔵庫の中を覗き、作る約束をしていない朝食のメニューに物申す瀬戸に口を尖らせた。

「食べるの前提かい。賞味期限が近いの」

「たまにしらすとかいいよな」

「だから作るとは言ってない」

むきになって噛みついてからはっとすると、お前は朝に弱いんだからとっとと寝ろよと鼻で笑いながら、瀬戸はお風呂の方に歩いていってしまった。何なの今のやり取りは。まるで今朝の出来事などなかったかのような通常運転。そりゃ瀬戸にとってはあんなの挨拶みたいなものだろうし、私だってこの後に「あーれーお代官様」なんて展開に進むとは思っていないけれど、あまりにも反応がなさすぎないか。

ぎくしゃくするのは嫌だが、少しは意識してくれると期待した分肩透かしを食った私は、微かに届くシャワーの音を背にのろのろとその場にへたり込んだ。



瀬戸の様子は次の日も悲しいほど変化がなかった。朝食に納豆を出すなとケチをつけた割には、私が目覚めたときには既に出勤後で、帰宅したときには部屋に籠って仕事中。そんな日が一週間続いたところで、

「明日から出張だから」

今度は家を空けるという。まるで連絡事項を伝達するように告げた瀬戸は、キッチンの換気扇の下で煙草を吸いながら分厚いファイルを読み込んでいる。私が帰宅する時間まで待っていたのか、それとも偶然なのか、一向に目も合わせない問いたいことは山ほどあれど、重要な案件でも抱えているのか難しい顔つきの彼に、私的な質問などぶつけるわけにもいかず。

「分かった」

しばらく流れた沈黙を破るように瀬戸が換気扇を止めたのを合図に、私は頷いて自分の部屋に向かった。バッグを床に放り投げてベッドに倒れ込むと、隣室のドアがやけに大きな音を立てて閉まった。出張の準備をしているのだろう。室内を歩き回る気配がする。

たかがちゅう、されどちゅう。

壁一枚隔てただけなのに、とてつもなく遠く感じる瀬戸から逃げるように私は頭から布団を被った。

そういえば出張期間を知らされていなかったな。ぼんやりそんなことを考えたのは、瀬戸が帰ってこなくなって三日目の深夜一時。

自分の部屋でテレビを観ていたものの、内容が全く記憶に残らなくて、住人不在の隣室に繋がる壁に残業で疲れた体を預けては、何度目かのため息を吐く。

瀬戸の出張は初めてではないし、普段だって同じ建物の中にいるというだけで、別行動の方が多い。だから淋しいという感情は湧かないのだけれど、ろくに見送りもしないで別れた出張当日の朝が、変なわだかまりとして胸底に沈んでいる。
もちろんそんなふうに思っているのは自分だけで、仕事に忙しい瀬戸が私のことを気にかける筈はない。

どうせ眠れないし、明日は休みだから夜更かししよう。諦めてテレビのリモコンに手を伸ばしたとき、唐突にメールの着信音が響いた。こんな時間に誰だろう。一抹の不安が過ぎるなか、バッグに入れっ放しだったスマートフォンを取り出すと、そこにはついさっきまで私の心を占めていた男の名前があった。

「生姜焼き」

その四文字に目が点になる。これは何? 夜中に出前の依頼? もう一度差出人を確かめれば、正真正銘瀬戸陽生。彼は用もなく電話やメールを使わない。前例はないが、まさか他の女宛てのメールを誤送信したのだろうか。

意味不明の文字が残る画面を凝視していたら、まるでこちらの困惑を察したように第二便が届いた。

「明日帰る」

また四文字。いくら要件が伝われば問題ないとはいえ、短文にも程があろう。仕返しとばかりに返事を打ち込んだ私は、送信し終えたスマートフォンをぎゅっと抱き、嬉しさを噛み締めた。

「晩ごはん」

もちろん四文字で応えて。



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