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とうもろこし畑編
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後ろ髪を引かれる思いで地元を離れて一週間。ようやく役所や銀行、スーパー等の場所を突き止めて、何とか一人暮らしの体裁が整った。私桂文緒は四月から大学生になる。ふと見ればつけっ放しのテレビには、春の選抜高校野球大会の開会式が映し出されていた。
後輩は元気にしているだろうか。高校に入学して間もなく私が立ち上げた「女子軟式野球同好会」。経験の有無を問わず、本気で野球を楽しみたい女子限定のその会が、今年の春廃会の危機に瀕している。しかも現会員は新二年生の渡辺真琴一名。
運動音痴で鈍くさくて、でも野球が大好きな可愛い後輩。入学式から二週間の新入生勧誘期間中に、会員を五人揃えることができなければ、母校の同好会規定により自動的に廃会決定となる。なのでおそらく廃会は免れないだろう。
ただ真琴が一人で辛い思いをしないように、私はかつてのチームメイトである岸司に、二週間の間陰ながら彼女を見守ってくれるよう頼んだ。司は小学生の頃に所属していた少年野球チームの仲間であり、本人も気づいていないが真琴の初恋の相手でもあった。
「期待するなよ?」
パス、諦めろと散々渋った挙句、司は引き受けた。彼は野球チームの監督の息子で、筋金入りのお節介焼きなのである。だから必ず首を縦に振ってくれると確信していた。もちろんそれだけが理由ではない。司ならちゃんと最後まで真琴を見届けてくれると分かっていたからだ。
心配ではあるけれど、既に遠くにいる我が身に出来ることは何もない。司のみならず監督にも根回しはしておいたし、真琴が悪戯に傷つく結果にならぬよう祈るだけだ。
そしてもう一つ。選抜大会が始まる時期になると、必ず思い出すことがある。ダムに沈むことになった小さな田舎の村で過ごした、最後の春の日々を。
バットがボールを捉えた音に惹かれて、何気なく足を進めたグラウンドでは、大勢の野球部員が練習に励んでいた。私が入学した大学はスポーツに力を入れており、あらゆる活動が盛んに行われている。その一つである野球部も全国大会の常連らしい。
正直なところ大学野球のシステムはよく知らない。でもここには女子の軟式野球部があると聞いた。だから一度見学したくてグラウンドを探していたら、ふいに開けた視界から目の前の光景が飛び込んできたのだ。
「文緒…? 文緒じゃないか!」
フェンス越しに立ちはだかった部員の一人が、驚いたような表情で私を見下ろした。背が高く、まだ四月だというのに大粒の汗をかいているその男は、間違いなく私の名前を呼んでいる。知り合いも親戚も殆どいないような地で、親し気に声をかけてくる人物に心当たりなど当然ない。
「忘れたのか? 薄情だな、お前。俺だよ。農家の跡取り予定だった板倉大輔」
農家と大輔の二つでぼんやり浮かんだのは、五年ほど前にお祖父ちゃん家で一緒に遊んだ中学生男子。
「あんたまさか、あの大輔? 下手の横好きの見本とも言うべき野球馬鹿」
人差し指を向けて捲し立てると、一応先輩に該当するであろう男が苦笑した。
「ご名答と言うのが嫌になる比喩だな」
男ーー大輔はにかっと白い歯を見せて腰を落とした。
「本当に女だったんだな、お前」
目線が近くなっても敵わない、恵まれた体格を手に入れた奴の皮肉に、今となっては小柄な私は右足でフェンスを蹴っ飛ばした。入部希望なのか偵察なのか、周囲で真剣に見学していた新入生らしき面々がこちらを振り返る。
「すぐ熱くなる」
「やかましい。自分だって昔は擦り切れトンボだったくせに」
入学早々悪目立ちはしたくないので、声を潜めて罵倒してやる。
実際中学二年生のときの大輔は、身長も体重も私とあまり差がなく、子供が少ない土地柄練習もままならなかったせいか、べらぼうに野球が下手だった。キャッチボール一つ取っても、ソフトボールをしていた私の方が、よほど上手かったくらいだ。
「何年振りだ? 元気だったのか?」
懐かしそうに眦を下げる大輔。でも泥だらけのユニフォームはあの頃のままだ。
「野球はしてないのか?」
「趣味程度には」
「軟式か? 硬式か?」
「軟式」
矢継ぎ早に繰り出される質問に、憮然として答える私。はしゃぐなあほ。誰の目にも喜んでいるのが丸わかりだ。恥ずかしい。大体練習はどうした。
「ずっと会いたかったんだぞ」
「嘘ばっか」
子供の頃のノリなんだろうと、わざとあかんべーをしてやったら、大輔はいやに甘ったるい視線でみつめ返した。何なんだ、こいつは。気持ち悪い。変な物でも食べたんじゃないのか。
「楽しかったよな、あのとき」
大輔の双眸に宿る光が、ゆっくり過去へと誘ってゆく。
「おっちゃん達はどうしてるの?」
「みんなバラバラだけど元気だよ」
出会ってから別れるまでたったの六日間。でも今も鮮やかに蘇る、何も植えられることがなかった、とうもろこし畑の土の茶色と、薄汚れたボールのくすんだ白と、そこで暮らしていた人々の笑顔。
きっと一生忘れない。
後輩は元気にしているだろうか。高校に入学して間もなく私が立ち上げた「女子軟式野球同好会」。経験の有無を問わず、本気で野球を楽しみたい女子限定のその会が、今年の春廃会の危機に瀕している。しかも現会員は新二年生の渡辺真琴一名。
運動音痴で鈍くさくて、でも野球が大好きな可愛い後輩。入学式から二週間の新入生勧誘期間中に、会員を五人揃えることができなければ、母校の同好会規定により自動的に廃会決定となる。なのでおそらく廃会は免れないだろう。
ただ真琴が一人で辛い思いをしないように、私はかつてのチームメイトである岸司に、二週間の間陰ながら彼女を見守ってくれるよう頼んだ。司は小学生の頃に所属していた少年野球チームの仲間であり、本人も気づいていないが真琴の初恋の相手でもあった。
「期待するなよ?」
パス、諦めろと散々渋った挙句、司は引き受けた。彼は野球チームの監督の息子で、筋金入りのお節介焼きなのである。だから必ず首を縦に振ってくれると確信していた。もちろんそれだけが理由ではない。司ならちゃんと最後まで真琴を見届けてくれると分かっていたからだ。
心配ではあるけれど、既に遠くにいる我が身に出来ることは何もない。司のみならず監督にも根回しはしておいたし、真琴が悪戯に傷つく結果にならぬよう祈るだけだ。
そしてもう一つ。選抜大会が始まる時期になると、必ず思い出すことがある。ダムに沈むことになった小さな田舎の村で過ごした、最後の春の日々を。
バットがボールを捉えた音に惹かれて、何気なく足を進めたグラウンドでは、大勢の野球部員が練習に励んでいた。私が入学した大学はスポーツに力を入れており、あらゆる活動が盛んに行われている。その一つである野球部も全国大会の常連らしい。
正直なところ大学野球のシステムはよく知らない。でもここには女子の軟式野球部があると聞いた。だから一度見学したくてグラウンドを探していたら、ふいに開けた視界から目の前の光景が飛び込んできたのだ。
「文緒…? 文緒じゃないか!」
フェンス越しに立ちはだかった部員の一人が、驚いたような表情で私を見下ろした。背が高く、まだ四月だというのに大粒の汗をかいているその男は、間違いなく私の名前を呼んでいる。知り合いも親戚も殆どいないような地で、親し気に声をかけてくる人物に心当たりなど当然ない。
「忘れたのか? 薄情だな、お前。俺だよ。農家の跡取り予定だった板倉大輔」
農家と大輔の二つでぼんやり浮かんだのは、五年ほど前にお祖父ちゃん家で一緒に遊んだ中学生男子。
「あんたまさか、あの大輔? 下手の横好きの見本とも言うべき野球馬鹿」
人差し指を向けて捲し立てると、一応先輩に該当するであろう男が苦笑した。
「ご名答と言うのが嫌になる比喩だな」
男ーー大輔はにかっと白い歯を見せて腰を落とした。
「本当に女だったんだな、お前」
目線が近くなっても敵わない、恵まれた体格を手に入れた奴の皮肉に、今となっては小柄な私は右足でフェンスを蹴っ飛ばした。入部希望なのか偵察なのか、周囲で真剣に見学していた新入生らしき面々がこちらを振り返る。
「すぐ熱くなる」
「やかましい。自分だって昔は擦り切れトンボだったくせに」
入学早々悪目立ちはしたくないので、声を潜めて罵倒してやる。
実際中学二年生のときの大輔は、身長も体重も私とあまり差がなく、子供が少ない土地柄練習もままならなかったせいか、べらぼうに野球が下手だった。キャッチボール一つ取っても、ソフトボールをしていた私の方が、よほど上手かったくらいだ。
「何年振りだ? 元気だったのか?」
懐かしそうに眦を下げる大輔。でも泥だらけのユニフォームはあの頃のままだ。
「野球はしてないのか?」
「趣味程度には」
「軟式か? 硬式か?」
「軟式」
矢継ぎ早に繰り出される質問に、憮然として答える私。はしゃぐなあほ。誰の目にも喜んでいるのが丸わかりだ。恥ずかしい。大体練習はどうした。
「ずっと会いたかったんだぞ」
「嘘ばっか」
子供の頃のノリなんだろうと、わざとあかんべーをしてやったら、大輔はいやに甘ったるい視線でみつめ返した。何なんだ、こいつは。気持ち悪い。変な物でも食べたんじゃないのか。
「楽しかったよな、あのとき」
大輔の双眸に宿る光が、ゆっくり過去へと誘ってゆく。
「おっちゃん達はどうしてるの?」
「みんなバラバラだけど元気だよ」
出会ってから別れるまでたったの六日間。でも今も鮮やかに蘇る、何も植えられることがなかった、とうもろこし畑の土の茶色と、薄汚れたボールのくすんだ白と、そこで暮らしていた人々の笑顔。
きっと一生忘れない。
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