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とうもろこし畑編
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中学二年生になる前の春休み。母方のお祖母ちゃんから一本の電話があった。もちろんスマホではなく、固定電話の方にである。
「最後に遊びにおいで」
母の実家である祖父母が二人で住む家は、高速を使っても自宅から三時間はゆうにかかる田舎だ。ここ数年は野球チームや部活の練習で忙しく、帰省する母に着いていくこともなくなっていた。
「都合がついたらね」
なのではっきり断るのも悪いと思い、曖昧な返事をして受話器を置いた。その後に最後って何のことだろうと気づき、念のため母に確かめてみた。
「お祖母ちゃん達の村に、今度ダムを作ることになってね。住民が立退くことになったの」
過疎化を食い止める努力も虚しく、と母はしんみり呟く。
「じゃお祖母ちゃんとお祖父ちゃんの家も?」
「そうよ。三月いっぱいで引っ越すの。来年の今頃はそこに誰もいないわ」
そう言って母は遠い目をした。考えてみれば母が育った家も、親しかった友達の家も、学校も病院も公園も、町の一部として成り立っていたものも場所も、いずれダムの底に沈む。つまり故郷を失うのだ。
そして長年そこで暮らしていた祖父母は、故郷を失くすだけではなく、終の住処を新天地に求めなければならない。
私は生まれたときから、この街で生きている。だから故郷がどういう感覚のものなのか分からない。でも突然この街から出ていくよう告げられたら、数年後に街が消えてしまうのだとしたら、子供でもやはり辛く淋しいと思う。
「もしもしお祖母ちゃん? 都合ついたから。急だけど明日行くね」
慌てて両親の許可を取った私は、翌日祖父母の家に発つ約束を再び電話で交わした。両親は仕事があるので、引越しの直前に手伝いも兼ねて向かうことになった。
「ありがとう文緒、ありがとう。待ってるね」
お礼の言葉を何度も繰り返す、本気で嬉しそうなお祖母ちゃんの声が、くすぐったくてやけに耳に残っていた。
新幹線と在来線を乗り継いで、母の実家の最寄駅に着くと、お祖父ちゃんが軽トラで迎えに来てくれていた。長時間座っていたせいで、足も腰も痛かったので、歩かずに済むのがとてつもなく有り難かった。
「寒くないか?」
今年は温かくなるのが早かったとはいえ、山間部の空気はまだまだ冷たい。夕方が近いともなれば尚更だ。
「大丈夫だよ」
正直かなり寒かったが、私は予備で持ってきた厚手のパーカーを着込んで暖を取った。
あと五分ほどで祖父母の家に到着するという辺りで、ふいにさーっと視界が開けた。おそらく野菜か何かの畑だったのだろう。夕日をすっかり吸い込んで、そこだけ土の色が違う。しかも棒切れででも書いたのか、土を掘り起こすように引かれたラインが、見事に歪な菱形を形どっている。
「やってるな」
行き交う車は少なくても、ちゃんと道の端に軽トラを停めたお祖父ちゃんは、いきなりクラクションを鳴らした。畑の跡地(仮称)の隅で、頭を突き合わせていた三人の男ーー二人の大人と一人の子供が一斉に振り返る。
「おっ? 荒木が女連れてる」
彼らの足元には今にも折れそうなバットと、かなりくたびれたグローブ、白というよりは灰色に近い軟球が置かれてあった。
「しかも若い」
呼んでもいないのに近づいてきた三人は、あっという間に軽トラを囲んだ。といっても運転席と助手席、フロントガラスに一人ずつの配置では、迫力も恐怖もあったものではない。
「俺と同じくらい?」
助手席の窓から車内を覗き込んでいるのは、限りなく坊主に近い短髪に、童顔で華奢な雰囲気の男の子だった。子供でもここまでは汚さないであろう、ジャージが泥んこ塗れなのが笑える。
「お前の方が一つ上だ。仲良く頼むぞ」
そう言ってお祖父ちゃんは私に彼を紹介した。
「こいつは板倉大輔だ。ついでに運転席側にいるのが小沢。正面にいるのが上福元だ。みんな近所の悪ガキだ」
お祖父ちゃんは呑気にからから笑ったが、JAの帽子が似合う小沢さんも、ぽってりお腹の上福元さんも、どう見てもお祖父ちゃんと同世代の六十代。きっと全員悪ガキ仲間だったのだろう。
「初めまして、桂文緒です」
運転席から降りたお祖父ちゃんに続き、私も助手席を降りて元気よく挨拶をした。
「お前女なの?」
途端に大輔から素っ頓狂な声が上がった。
「あんたこそ男なの?」
つられて私も大輔の肢体を上から下まで眺める。身長百六十センチ、体重四十八キロの私と、おそらく体重のみ少し多め(あくまで願望)の大輔の背格好はほぼ同じ。私の髪がショートなこともあり、並び立つとどちらが男で、どちらが女か分からない。
「文緒は俺の孫だぞ。女だからと侮るなよ、お前ら」
にやっと口の端を上げるお祖父ちゃん。何故か喜ぶ小沢さんと上福元さん。
「よし、腕試しといこうや」
そう言って小沢さんが畑の跡地(仮称)の中央を指すと、上福元さんがグローブを拾って走ってゆく。その背中にお祖父ちゃんと大輔も続く。
「何ですか?」
全員がこちらを向いてグローブを構えたところで、小沢さんが訝しむ私の肩をぽんと叩いてふふんと得意げに笑んだ。
「ここはな、とうもろこし畑だったんだよ」
だったということは過去形か。考えてみたら種まき(?)していたら、こんなずかずか踏んでは歩けない筈だ。
「つまり球場だ」
「はあ?」
意図していることが掴めなくて首を傾げる私に、小沢さんは不服そうに口を尖らせた。
「本当に荒木の孫かよ。”フィールド・オブ・ドリームス”だろ」
「最後に遊びにおいで」
母の実家である祖父母が二人で住む家は、高速を使っても自宅から三時間はゆうにかかる田舎だ。ここ数年は野球チームや部活の練習で忙しく、帰省する母に着いていくこともなくなっていた。
「都合がついたらね」
なのではっきり断るのも悪いと思い、曖昧な返事をして受話器を置いた。その後に最後って何のことだろうと気づき、念のため母に確かめてみた。
「お祖母ちゃん達の村に、今度ダムを作ることになってね。住民が立退くことになったの」
過疎化を食い止める努力も虚しく、と母はしんみり呟く。
「じゃお祖母ちゃんとお祖父ちゃんの家も?」
「そうよ。三月いっぱいで引っ越すの。来年の今頃はそこに誰もいないわ」
そう言って母は遠い目をした。考えてみれば母が育った家も、親しかった友達の家も、学校も病院も公園も、町の一部として成り立っていたものも場所も、いずれダムの底に沈む。つまり故郷を失うのだ。
そして長年そこで暮らしていた祖父母は、故郷を失くすだけではなく、終の住処を新天地に求めなければならない。
私は生まれたときから、この街で生きている。だから故郷がどういう感覚のものなのか分からない。でも突然この街から出ていくよう告げられたら、数年後に街が消えてしまうのだとしたら、子供でもやはり辛く淋しいと思う。
「もしもしお祖母ちゃん? 都合ついたから。急だけど明日行くね」
慌てて両親の許可を取った私は、翌日祖父母の家に発つ約束を再び電話で交わした。両親は仕事があるので、引越しの直前に手伝いも兼ねて向かうことになった。
「ありがとう文緒、ありがとう。待ってるね」
お礼の言葉を何度も繰り返す、本気で嬉しそうなお祖母ちゃんの声が、くすぐったくてやけに耳に残っていた。
新幹線と在来線を乗り継いで、母の実家の最寄駅に着くと、お祖父ちゃんが軽トラで迎えに来てくれていた。長時間座っていたせいで、足も腰も痛かったので、歩かずに済むのがとてつもなく有り難かった。
「寒くないか?」
今年は温かくなるのが早かったとはいえ、山間部の空気はまだまだ冷たい。夕方が近いともなれば尚更だ。
「大丈夫だよ」
正直かなり寒かったが、私は予備で持ってきた厚手のパーカーを着込んで暖を取った。
あと五分ほどで祖父母の家に到着するという辺りで、ふいにさーっと視界が開けた。おそらく野菜か何かの畑だったのだろう。夕日をすっかり吸い込んで、そこだけ土の色が違う。しかも棒切れででも書いたのか、土を掘り起こすように引かれたラインが、見事に歪な菱形を形どっている。
「やってるな」
行き交う車は少なくても、ちゃんと道の端に軽トラを停めたお祖父ちゃんは、いきなりクラクションを鳴らした。畑の跡地(仮称)の隅で、頭を突き合わせていた三人の男ーー二人の大人と一人の子供が一斉に振り返る。
「おっ? 荒木が女連れてる」
彼らの足元には今にも折れそうなバットと、かなりくたびれたグローブ、白というよりは灰色に近い軟球が置かれてあった。
「しかも若い」
呼んでもいないのに近づいてきた三人は、あっという間に軽トラを囲んだ。といっても運転席と助手席、フロントガラスに一人ずつの配置では、迫力も恐怖もあったものではない。
「俺と同じくらい?」
助手席の窓から車内を覗き込んでいるのは、限りなく坊主に近い短髪に、童顔で華奢な雰囲気の男の子だった。子供でもここまでは汚さないであろう、ジャージが泥んこ塗れなのが笑える。
「お前の方が一つ上だ。仲良く頼むぞ」
そう言ってお祖父ちゃんは私に彼を紹介した。
「こいつは板倉大輔だ。ついでに運転席側にいるのが小沢。正面にいるのが上福元だ。みんな近所の悪ガキだ」
お祖父ちゃんは呑気にからから笑ったが、JAの帽子が似合う小沢さんも、ぽってりお腹の上福元さんも、どう見てもお祖父ちゃんと同世代の六十代。きっと全員悪ガキ仲間だったのだろう。
「初めまして、桂文緒です」
運転席から降りたお祖父ちゃんに続き、私も助手席を降りて元気よく挨拶をした。
「お前女なの?」
途端に大輔から素っ頓狂な声が上がった。
「あんたこそ男なの?」
つられて私も大輔の肢体を上から下まで眺める。身長百六十センチ、体重四十八キロの私と、おそらく体重のみ少し多め(あくまで願望)の大輔の背格好はほぼ同じ。私の髪がショートなこともあり、並び立つとどちらが男で、どちらが女か分からない。
「文緒は俺の孫だぞ。女だからと侮るなよ、お前ら」
にやっと口の端を上げるお祖父ちゃん。何故か喜ぶ小沢さんと上福元さん。
「よし、腕試しといこうや」
そう言って小沢さんが畑の跡地(仮称)の中央を指すと、上福元さんがグローブを拾って走ってゆく。その背中にお祖父ちゃんと大輔も続く。
「何ですか?」
全員がこちらを向いてグローブを構えたところで、小沢さんが訝しむ私の肩をぽんと叩いてふふんと得意げに笑んだ。
「ここはな、とうもろこし畑だったんだよ」
だったということは過去形か。考えてみたら種まき(?)していたら、こんなずかずか踏んでは歩けない筈だ。
「つまり球場だ」
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