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茂木編 カタツムリの恋
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人前で酷いことを言ってしまったかな。涙ぐむえりかの姿を見てそう思った。でも余計な期待をさせることはもとより、奈央さんに誤解を与えたままにしたくなかった。信じるかどうかは奈央さんに委ねるしかないけれど。
「えりか、帰ろう」
俺はえりかの背を押した。いくら他にお客様がいなくても、店内で泣いている人がいるのはよろしくない。
「すみません、お騒がせしました」
言葉を発せずにいる奈央さんに謝り、いつもなら俺のために用意してくれているお菓子も受け取らずにお店を出る。きっとバックルームで店長とあやめさんが聞き耳を立てていただろう。これは後で怒られるかも。
「ごめんね、湊」
数歩進んだところでえりかが立ち止まった。
「本当は湊に好きな人ができたこと、ちゃんと知ってたの」
驚いて俺も足を止める。
「私ね、湊にやったこと、そっくり返されちゃった」
えりかは苦しげに笑う。さっきまでの陽気さは形を潜めていた。
「知り合いに有名企業に勤める人を紹介されたの。でも何度か食事したらあっさり振られた」
「どうして」
「小さな会社で営業でも商品開発でもなく、ただの事務をだらだらしてる人間なんて意味がないって」
この場合問われているのは、事務職ではなくえりか自身なのだろう。だがそれまでちやほやされていた彼女は、自分に問題があるとは捉えなかった。けれど新人時代は大目に見てもらえても、勤務年数が増えればそれだけの能力を要求される。努力を怠っていたえりかは確実にステップアップする同僚を横目に、日々減っていく職場での自分の役割に居づらくなって退職したのだという。
「茂木さん」
会話が一旦途切れたところで、お店から体を半分覗かせた奈央さんに声をかけられた。
「お菓子取り置きしておきますから、帰りにでも寄って下さい」
腕時計で時刻を確認する。ちょうど閉店時間になっていた。これ以上仕事の邪魔をするわけにはいかない。
「ありがとうございます。でもすみませんが今日はこれで。お菓子は明日橋本さんにでも渡して頂けると助かります」
そういって軽くお辞儀をすると、奈央さんは分かりましたと静かにお店の中に消えた。やがて店内のブラインドが下ろされ、ウインドウの向こうの視界が遮られた。
「あの人なんだよね、湊の好きな人」
灯りの漏れる店内を眺めながら、淋しそうにえりかがぽつりと呟く。俺は目を瞬いた。まさか奈央さんの存在を知った上でこの店に踏み入ったのだろうか。
「ここに足繁く通っている姿と、あの人をみつめる湊を見たらすぐに気づきますって。私のときはあんな顔してくれたことないもの」
一体どんな顔だ。そういえば橋本さん達にも奈央さんのことはともかく、好きな人ができたことは一発でバレたんだよな。
「たぶん想いが強すぎて隠したくても隠せないのよ」
自分の頬を押さえる俺に肩をすくめつつ、えりかはチョコレートショップを転職先に決めた理由を白状した。
「バレンタインデーの前日だったかな。嬉しそうにチョコを選んでいる湊を見かけてね」
男の俺がチョコレートを、しかも贈り物として購入しているのを知ったえりかは、俺の行動を不可解に思いつつも、それを受け取る相手が奈央さんだと直感したらしい。邪魔をするつもりではなかったけれど、自分を好きだった男が他の女を想っていることが癪に触って、俺の目に留まるようあえて未経験の職種に就いたのだそうだ。
「だけど待てど暮らせど湊は現れない。だから痺れを切らして自分から会いに行ったってわけ。今日だってあの人に何か無礼を働くつもりはなかったのよ? ただどんな人なのか近くで見てみたかっただけなの」
もう満足したとえりかは再び歩き出す。
「これからどうするかは未定だけど、湊やあの人につきまとうつもりは毛頭ないから安心して。職場の人達にも嫌な思いさせてごめんね」
久し振りに歩調を合わせていると、えりかがくすくすと肩を揺らした。
「さっきの湊、別人みたいだったな」
「何が?」
「あの人年上っぽいもんね。大人の対応をしてるんだ?」
別れ際の挨拶のことだろうか。でもあれはえりかがいたからお客と店員を装っただけだ。奈央さんの前では大人ぶったところで、俺なんかワンコだからね。でも昔なら格好悪いと感じていたことも、あの人といると無意識のうちにやってしまうから不思議だ。
「いや、どっちかっていうと子供。素に戻る」
「そっか。あ、ここでいいよ」
えりかは奈央さんの勤務先からすぐの所にあるバス停を指した。一緒にバスを待つ必要はないということだろう。
「元気でね、湊」
「えりかも」
お互いに手を振りあって俺は踵を返した。よく考えたら車で来ていたのだ。奈央さんのお店の駐車場まで結局戻らなければいけない。何だか間抜け。まだ閉店作業に忙しいのか、明日の準備に勤しんでいるのか、店内の灯りは点ったままだ。
奈央さんと話がしたい。でも今日は帰るって言っちゃったしな。
「遅いですよ、浮気者」
願いが届いていたらしい。一台残された俺の車の前には、お菓子の入った袋を掲げた奈央さんが佇んでいた。
「えりか、帰ろう」
俺はえりかの背を押した。いくら他にお客様がいなくても、店内で泣いている人がいるのはよろしくない。
「すみません、お騒がせしました」
言葉を発せずにいる奈央さんに謝り、いつもなら俺のために用意してくれているお菓子も受け取らずにお店を出る。きっとバックルームで店長とあやめさんが聞き耳を立てていただろう。これは後で怒られるかも。
「ごめんね、湊」
数歩進んだところでえりかが立ち止まった。
「本当は湊に好きな人ができたこと、ちゃんと知ってたの」
驚いて俺も足を止める。
「私ね、湊にやったこと、そっくり返されちゃった」
えりかは苦しげに笑う。さっきまでの陽気さは形を潜めていた。
「知り合いに有名企業に勤める人を紹介されたの。でも何度か食事したらあっさり振られた」
「どうして」
「小さな会社で営業でも商品開発でもなく、ただの事務をだらだらしてる人間なんて意味がないって」
この場合問われているのは、事務職ではなくえりか自身なのだろう。だがそれまでちやほやされていた彼女は、自分に問題があるとは捉えなかった。けれど新人時代は大目に見てもらえても、勤務年数が増えればそれだけの能力を要求される。努力を怠っていたえりかは確実にステップアップする同僚を横目に、日々減っていく職場での自分の役割に居づらくなって退職したのだという。
「茂木さん」
会話が一旦途切れたところで、お店から体を半分覗かせた奈央さんに声をかけられた。
「お菓子取り置きしておきますから、帰りにでも寄って下さい」
腕時計で時刻を確認する。ちょうど閉店時間になっていた。これ以上仕事の邪魔をするわけにはいかない。
「ありがとうございます。でもすみませんが今日はこれで。お菓子は明日橋本さんにでも渡して頂けると助かります」
そういって軽くお辞儀をすると、奈央さんは分かりましたと静かにお店の中に消えた。やがて店内のブラインドが下ろされ、ウインドウの向こうの視界が遮られた。
「あの人なんだよね、湊の好きな人」
灯りの漏れる店内を眺めながら、淋しそうにえりかがぽつりと呟く。俺は目を瞬いた。まさか奈央さんの存在を知った上でこの店に踏み入ったのだろうか。
「ここに足繁く通っている姿と、あの人をみつめる湊を見たらすぐに気づきますって。私のときはあんな顔してくれたことないもの」
一体どんな顔だ。そういえば橋本さん達にも奈央さんのことはともかく、好きな人ができたことは一発でバレたんだよな。
「たぶん想いが強すぎて隠したくても隠せないのよ」
自分の頬を押さえる俺に肩をすくめつつ、えりかはチョコレートショップを転職先に決めた理由を白状した。
「バレンタインデーの前日だったかな。嬉しそうにチョコを選んでいる湊を見かけてね」
男の俺がチョコレートを、しかも贈り物として購入しているのを知ったえりかは、俺の行動を不可解に思いつつも、それを受け取る相手が奈央さんだと直感したらしい。邪魔をするつもりではなかったけれど、自分を好きだった男が他の女を想っていることが癪に触って、俺の目に留まるようあえて未経験の職種に就いたのだそうだ。
「だけど待てど暮らせど湊は現れない。だから痺れを切らして自分から会いに行ったってわけ。今日だってあの人に何か無礼を働くつもりはなかったのよ? ただどんな人なのか近くで見てみたかっただけなの」
もう満足したとえりかは再び歩き出す。
「これからどうするかは未定だけど、湊やあの人につきまとうつもりは毛頭ないから安心して。職場の人達にも嫌な思いさせてごめんね」
久し振りに歩調を合わせていると、えりかがくすくすと肩を揺らした。
「さっきの湊、別人みたいだったな」
「何が?」
「あの人年上っぽいもんね。大人の対応をしてるんだ?」
別れ際の挨拶のことだろうか。でもあれはえりかがいたからお客と店員を装っただけだ。奈央さんの前では大人ぶったところで、俺なんかワンコだからね。でも昔なら格好悪いと感じていたことも、あの人といると無意識のうちにやってしまうから不思議だ。
「いや、どっちかっていうと子供。素に戻る」
「そっか。あ、ここでいいよ」
えりかは奈央さんの勤務先からすぐの所にあるバス停を指した。一緒にバスを待つ必要はないということだろう。
「元気でね、湊」
「えりかも」
お互いに手を振りあって俺は踵を返した。よく考えたら車で来ていたのだ。奈央さんのお店の駐車場まで結局戻らなければいけない。何だか間抜け。まだ閉店作業に忙しいのか、明日の準備に勤しんでいるのか、店内の灯りは点ったままだ。
奈央さんと話がしたい。でも今日は帰るって言っちゃったしな。
「遅いですよ、浮気者」
願いが届いていたらしい。一台残された俺の車の前には、お菓子の入った袋を掲げた奈央さんが佇んでいた。
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