とらぶるチョコレート

文月 青

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茂木編 カタツムリの恋

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部屋に荷物を全て運び込み、手伝いに来てくれた橋本さんがトラックで引き上げたところで、俺はまじまじと店長宅の外観を眺めた。今日からここが俺の家。といっても現段階ではただの下宿人だけれど、それでも清水家の一員になれるのだと思うとやはり嬉しさが込み上げてくる。

「お昼のお蕎麦が茹で上がりましたよ」

呼びに来た奈央さんの後を着いて玄関を通れば、いつもと違う感慨が湧いてくる。五月終わりのよく晴れた今日、俺はこれまで住んでいたアパートを引き払って、ただの茂木湊として店長宅に引っ越してきた。

「何だ、キューピーは帰ったのか」

一足先にダイニングに戻っていた店長が俺の背後に目をやる。鬼畜じゃないだけましだが、この家では橋本さんの名前がまともに呼ばれることはなさそうだ。

「はい。会社のトラックなので。後でまた顔を出してくれるそうです」

そう答えたところで店長がくくっと笑いを洩らす。キッチンからお蕎麦を持って現れたあやめさんも、妙に期待を込めて目を輝かせている。

「これから絶対面白くなるわよ」

実はつい十分ほど前。庭先で荷下ろしをしていた橋本さんと、近所に住むお店の常連さんだという女性が口喧嘩を始めたのだ。もともと女性に媚を売る人ではないが、奈央さんとのやり取りとも違う、本気でかっかしている橋本さんの姿は珍しく、俺は止めるのも忘れて呆然と眺めていた。

「えー、鬼畜に親分は勿体ないなぁ」

最後にお茶を持って席に着いた奈央さんが、心底不愉快そうにぼやく。

「親分?」

「子供の頃からのあだ名なんですって。名字がやぶだから。実際姉御肌で格好いいでしょ?」

確かにあの橋本さん相手に難なく言い返す、どちらかというと押さえ込める女性は少ない。ぽんぽんと言葉が止まずに飛び出してくるのがむしろ小気味いいくらいだった。

「親分は独身だからな。年齢はちょっと上だが」

蕎麦を啜りながら頷く店長。ちょっと待って下さい。それは誰と比べてですか。よもやあやめさんとよからぬ謀を企てていませんよね?

「キューピーさん、ちょうど三男だったわよね」

どうしてあやめさんが橋本さんの個人情報を知っているんだろう。

「前にそんなこと言ってたね」

奈央さんまでいつの間に? 怖いよ、清水家。

「仕事に行けなくなるような状況はご勘弁下さい」

よろしくお願いしますと挨拶するつもりが、明日からの橋本さんの怒りを予測して、何事も穏便にとお願いする羽目になった俺だった。





「さすが慣れてますね」

荷解きを手伝ってくれていた奈央さんが、夕方前にほぼ終了した片付けに感嘆のため息を洩らした。もともと一人暮らしで荷物が少なかったのと、効率よく捌いたり段ボールを畳んだりするのは得意なので、自分では特に意識していなかったけれど、奈央さんからするとワンコの意外な一面に触れたらしい。

「そういえばお仕事しているところ、ちゃんと見たことないですもんね。運転は上手いと思ってましたけど」

「ありがとうございます」

常に車に乗る仕事なので、運転を褒められるのは素直に嬉しい。

「ところで、本当によかったんですか? このままで」

奈央さんとの部屋を遮る壁を眺めて彼女が問う。俺に用意してもらったのは、泊りのときに使っていた奈央さんの隣の部屋。店長は壁をぶち抜いて繋げてしまおうと提案してくれたが、俺はそれを丁重に断った。

「いいんです」

早い話俺と奈央さんの関係は何も変わっていない。結婚どころか婚約もしていない。いつか気持ちが固まったらという、結婚の口約束めいたものを交わした程度。

「前科がありますしね」

先月店長にドタバタするなと釘を刺された日に、しっかりドタバタしてしまったので。自分をセーブするという意味でも、まぁ必要な処置と言えなくもない。それに奈央さんが俺に合わせようとするあまり、無理や我慢を重ねたのでは意味がない。だから。

「お互いの足並みが揃ったら、この壁を遠慮なくぶち抜かせて頂きましょう」

「はい」

迷いのない奈央さんの笑みに見惚れてしまう。やはり彼女にはずっとこんな顔をしていて欲しい。

「そうだ、茂木さん。夕食にはまだ早いので、お買い物につきあってもらえませんか?」

奈央さんから外出のお誘いとはこれまた珍しい。

「いいですよ。どこですか?」

「例のチョコレートショップです」

はにかみながら奈央さんが言う。記憶しているのは俺だけだけど、二人が初めて出会った場所だ。俺と奈央さんを結び付けた大切な…。当時を思い出してじーんとしかけた俺に、唐突に黄信号が点った。

ーーあの店にはえりかがいるのではなかったか?

さすがに今は俺が来るのを待ってはいないだろうが、せっかくの幸せの最中に鉢合わせするのはご免被りたい。

「茂木さん?」

急に黙り込んだ俺に奈央さんは不審そうな目を向けてくる。

「もーぎーさん?」

狼狽える俺に更に突っ込んでくる。

「えっと、実はですね」

頭を抱える俺に何を察したのか、奈央さんは「よく分かりました」と言い残して部屋を出ていった。

「誤解です!」

慌てて追いかける俺に、階段の途中で振り返ってあっかんベーをしてくる。うわぁ可愛い。でもそれどころじゃない。

「一人で行ってきますから大丈夫ですよ」

大丈夫じゃない! 全然大丈夫じゃない! 俺はひたすら奈央さんの背中に着いてゆく。あぁ、カタツムリの恋はまだまだ前途多難。





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