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「私、馬鹿なんです」
唐突に切り出すと、腑に落ちなかったらしい修司さんは、更に困惑した表情になった。
「私の両親も姉も従兄弟達も、とても優秀な人達なんですけど、残念ながら私だけ何の取り柄もなくて」
高校受験を控えた頃、勉強のみならず芸術やスポーツにも秀でた、二歳上の姉や従兄弟達と私を比較して、両親は毎晩のようにため息をついていた。自分達はもちろん、それぞれの兄弟達も一流の大学、企業に入った経緯を持つ両親にとって、長女と同じ教育を施した筈なのに、何一つ誇れるものがない次女の私は、頭痛の種でしかなかった。
それでも気立てが良ければまだ救いがあったが、要領が悪く何をさせても失敗ばかりの私は、周囲に迷惑を及ぼすことはあっても、間違っても役に立つことはなかった。幸い姉や従兄弟達とは別の学校に通学していたので(同じ学校には入れなかった)、軋轢を感じる繊細さもなく伸び伸び生活する次女の行く末に、両親はある意味恐怖を覚えていたらしい。
「お前は良いところが一つもない、うちの家系始まって以来の馬鹿だ。とにかく目立とうとせずに、自分の意思を持たずに、いつも人の真似をしていなさい。例え間違っていることでも、周囲が正しいと判断するならそれに倣いなさい。くれぐれもこれ以上親に恥をかかせないように」
到底認められぬ高校への入学を控えたある日、両親はせめて世の中の邪魔にならぬよう私に苦言を呈した。新生活に胸を弾ませていた私は、その一言に高校の制服を破り捨てたくなった。
私は自分が馬鹿だと自覚している。だからそのことを諭す両親を恨んではいない。むしろ期待を裏切ることしかできず申し訳ないと思っている。でもわざとではなかった。やることなすこと裏目に出てしまうけれど、私なりに頑張っていたつもりだった。
ーーうちに馬鹿はいない。いらない。
そこまで存在価値がないのなら、いっそのこと心を持たない石にでもなれたらいいものを。そんなことを本気で願った。
高校時代の三年間も、大学時代の四年間も、もちろん就職してからも、私はとにかく周囲におもねることに徹した。決して出しゃばらず、文句を言わず、ひたすら笑顔で相手に合わせる努力をした。
「なぎさは馬鹿じゃなくて、めちゃくちゃ普通なの。なぎさの家族が規格外なの」
子供の頃からの友人は、変わってしまった私に嘆いた。
「仕事ちゃんとやってるし、どこが馬鹿なの」
会社で親しくなった同僚達も、滞りなく仕事を進めているのにと首を傾げていた。でも私はそれが思いやり故の嘘だとちゃんと知っていた。
「ちょっとたんま。あんたどこの学校出てるわけ?」
ふいに修司さんが口を挟んだ。私が出身高校と大学を告げると、俺が通ったところと偏差値大差ないけどと顔を歪める。私は迷惑ばかりかけているのに、周囲にいる人達はみんな気を使ってくれる。
特に問題も揉め事も起こさず、日々をやり過ごしていたある日、友人の誘いで出席した飲み会で、彼女の同期の一ノ瀬丈さんと出会った。彼はとても朗らかで、その場にいる誰とでも気軽に言葉を交わし、不快にさせることなく楽しませていた。
「どうやったらあんな技が身につくんだろう」
羨ましくて遠目に眺めていたら、友人が声をかけようかと言った。私はとんでもないと首を振った。おそらくうちの両親や姉のような人生を歩く人だ。私が関わっていい相手ではない。だから私は友人と美味しくお酒を飲めるだけで満足だった。
ところが一ノ瀬さんは自ら私の傍にやってきた。話しかけられるなどと夢にも思っていなかった私は、正直馬鹿だと知られる前に家に帰りたくなった。けれど彼の口から紡ぎ出される話は面白くて、しかも馬鹿な私にも理解できるよう噛み砕いてくれるので、自分の頭が良くなったと錯覚してしまいそうだった。
飲み会の席だしこの場限りのことと、一次会が終わって早々席を立った私に、一ノ瀬さんは慌てて連絡先を訊ねてきた。
「また会ってほしいんだけど」
何か粗相をしただろうかと身構えていた私は、その言葉がすぐに呑み込めなかった。うんともすんとも答えない私に業を煮やし、一ノ瀬さんは強引にデートの約束を取り付けた。
「本当に私なんかでいいんでしょうか?」
おずおずお伺いを立てる私に一ノ瀬さんは苦笑した。
「君がいいんだよ」
その一言は私の心を鷲掴みにするのに充分だった。一体これまで誰が私をそんなふうに思ってくれただろう。そうして私達のつきあいは始まり、私の正体に幻滅しなかった一ノ瀬さんに望まれるまま結婚へと至った。
結婚生活は穏やかだった。私は専業主婦となって、夫のために家事をする幸せを味わっていた。優しい夫に不満など微塵もなかった。
「なぎさの控えめで笑みを絶やさないところに惹かれた」
でもその一方で、私の笑顔の理由を誤解している夫の言葉が重く圧しかかった。そのうちほんの少し夫が不機嫌な表情を見せたり、いつもと違う態度を取るだけで、今の生活が終わってしまうような不安に駆られるようになった。
私は夫のことが好きだった。でもそれはきっと恋愛感情とは別のもので、ただ一人私を必要としてくれた男性を失いたくないだけだった。だから常に笑っていた。嫌われたくなかった。夫のためにいつでも「はい」と答える従順な妻でいた。
「なぎさはいつもにこにこ笑っているけれど、本当に嬉しいのか楽しいのか俺には分らなくなった」
当然夫はいつしか私との生活に息を詰まらせていった。外に女性を作って別れを切り出されても、本来誠実であろう夫を浮気に走らせた私に、否と唱える権利はなかった。
離婚の報告をしたとき、両親はもう私を詰ることもしなかった。結婚したときからこうなることは分かっていたと。
「この先お前がどうしようと関知しない。ただ頼むから姉さんの枷にだけはなるな。せめて身内だと分からぬよう、うちの名を名乗らない配慮ぐらいはしなさい」
姉は一流企業に勤めていたエリートと結婚し、子供を一人設けて立派な家庭を築いていた。現在はその子供の教育に心血を注いでいるのだという。両親の望んだ道を歩き続ける姉。
私は承諾して両親の前から辞した。それ以来家族とは会っていない。一ノ瀬なぎさとして、別れた夫の名字を使って生きている。結局石にもなれずに。
唐突に切り出すと、腑に落ちなかったらしい修司さんは、更に困惑した表情になった。
「私の両親も姉も従兄弟達も、とても優秀な人達なんですけど、残念ながら私だけ何の取り柄もなくて」
高校受験を控えた頃、勉強のみならず芸術やスポーツにも秀でた、二歳上の姉や従兄弟達と私を比較して、両親は毎晩のようにため息をついていた。自分達はもちろん、それぞれの兄弟達も一流の大学、企業に入った経緯を持つ両親にとって、長女と同じ教育を施した筈なのに、何一つ誇れるものがない次女の私は、頭痛の種でしかなかった。
それでも気立てが良ければまだ救いがあったが、要領が悪く何をさせても失敗ばかりの私は、周囲に迷惑を及ぼすことはあっても、間違っても役に立つことはなかった。幸い姉や従兄弟達とは別の学校に通学していたので(同じ学校には入れなかった)、軋轢を感じる繊細さもなく伸び伸び生活する次女の行く末に、両親はある意味恐怖を覚えていたらしい。
「お前は良いところが一つもない、うちの家系始まって以来の馬鹿だ。とにかく目立とうとせずに、自分の意思を持たずに、いつも人の真似をしていなさい。例え間違っていることでも、周囲が正しいと判断するならそれに倣いなさい。くれぐれもこれ以上親に恥をかかせないように」
到底認められぬ高校への入学を控えたある日、両親はせめて世の中の邪魔にならぬよう私に苦言を呈した。新生活に胸を弾ませていた私は、その一言に高校の制服を破り捨てたくなった。
私は自分が馬鹿だと自覚している。だからそのことを諭す両親を恨んではいない。むしろ期待を裏切ることしかできず申し訳ないと思っている。でもわざとではなかった。やることなすこと裏目に出てしまうけれど、私なりに頑張っていたつもりだった。
ーーうちに馬鹿はいない。いらない。
そこまで存在価値がないのなら、いっそのこと心を持たない石にでもなれたらいいものを。そんなことを本気で願った。
高校時代の三年間も、大学時代の四年間も、もちろん就職してからも、私はとにかく周囲におもねることに徹した。決して出しゃばらず、文句を言わず、ひたすら笑顔で相手に合わせる努力をした。
「なぎさは馬鹿じゃなくて、めちゃくちゃ普通なの。なぎさの家族が規格外なの」
子供の頃からの友人は、変わってしまった私に嘆いた。
「仕事ちゃんとやってるし、どこが馬鹿なの」
会社で親しくなった同僚達も、滞りなく仕事を進めているのにと首を傾げていた。でも私はそれが思いやり故の嘘だとちゃんと知っていた。
「ちょっとたんま。あんたどこの学校出てるわけ?」
ふいに修司さんが口を挟んだ。私が出身高校と大学を告げると、俺が通ったところと偏差値大差ないけどと顔を歪める。私は迷惑ばかりかけているのに、周囲にいる人達はみんな気を使ってくれる。
特に問題も揉め事も起こさず、日々をやり過ごしていたある日、友人の誘いで出席した飲み会で、彼女の同期の一ノ瀬丈さんと出会った。彼はとても朗らかで、その場にいる誰とでも気軽に言葉を交わし、不快にさせることなく楽しませていた。
「どうやったらあんな技が身につくんだろう」
羨ましくて遠目に眺めていたら、友人が声をかけようかと言った。私はとんでもないと首を振った。おそらくうちの両親や姉のような人生を歩く人だ。私が関わっていい相手ではない。だから私は友人と美味しくお酒を飲めるだけで満足だった。
ところが一ノ瀬さんは自ら私の傍にやってきた。話しかけられるなどと夢にも思っていなかった私は、正直馬鹿だと知られる前に家に帰りたくなった。けれど彼の口から紡ぎ出される話は面白くて、しかも馬鹿な私にも理解できるよう噛み砕いてくれるので、自分の頭が良くなったと錯覚してしまいそうだった。
飲み会の席だしこの場限りのことと、一次会が終わって早々席を立った私に、一ノ瀬さんは慌てて連絡先を訊ねてきた。
「また会ってほしいんだけど」
何か粗相をしただろうかと身構えていた私は、その言葉がすぐに呑み込めなかった。うんともすんとも答えない私に業を煮やし、一ノ瀬さんは強引にデートの約束を取り付けた。
「本当に私なんかでいいんでしょうか?」
おずおずお伺いを立てる私に一ノ瀬さんは苦笑した。
「君がいいんだよ」
その一言は私の心を鷲掴みにするのに充分だった。一体これまで誰が私をそんなふうに思ってくれただろう。そうして私達のつきあいは始まり、私の正体に幻滅しなかった一ノ瀬さんに望まれるまま結婚へと至った。
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でもその一方で、私の笑顔の理由を誤解している夫の言葉が重く圧しかかった。そのうちほんの少し夫が不機嫌な表情を見せたり、いつもと違う態度を取るだけで、今の生活が終わってしまうような不安に駆られるようになった。
私は夫のことが好きだった。でもそれはきっと恋愛感情とは別のもので、ただ一人私を必要としてくれた男性を失いたくないだけだった。だから常に笑っていた。嫌われたくなかった。夫のためにいつでも「はい」と答える従順な妻でいた。
「なぎさはいつもにこにこ笑っているけれど、本当に嬉しいのか楽しいのか俺には分らなくなった」
当然夫はいつしか私との生活に息を詰まらせていった。外に女性を作って別れを切り出されても、本来誠実であろう夫を浮気に走らせた私に、否と唱える権利はなかった。
離婚の報告をしたとき、両親はもう私を詰ることもしなかった。結婚したときからこうなることは分かっていたと。
「この先お前がどうしようと関知しない。ただ頼むから姉さんの枷にだけはなるな。せめて身内だと分からぬよう、うちの名を名乗らない配慮ぐらいはしなさい」
姉は一流企業に勤めていたエリートと結婚し、子供を一人設けて立派な家庭を築いていた。現在はその子供の教育に心血を注いでいるのだという。両親の望んだ道を歩き続ける姉。
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