15 / 41
15
しおりを挟む
鬱陶しい梅雨が明けた。これからはひたすら暑いだけの夏がやってくる。用事がない限り毎週日曜日、修司さんは変わらずに桜屋を利用していた。そうして仕事帰りの富沢くんと私を待って、あちらこちらに連れ出してくれる。
「あんたはどこに行っても楽しそうだな」
修司さんに苦笑されたことがある。この二年、家と仕事場の往復をするだけで、休日はほぼ閉じこもっていた私は、行き先が近所にある河原でも気持ちが弾んで仕方がない。
「けどつまらないときは遠慮しないで、ちゃんと文句言えよ」
つっけんどんながらも、必ず私を気遣ってくれる。たぶん修司さんと一緒だから、どこに行っても何をしても楽しいのだ。この年齢になって、デート前にうきうきしている女の子の心情が分かった。
そういえば修司さんは家では私のことを、「あの人」と呼んでいるのだそうだ。
「名前で呼べばいいのにさ。意外と純情だよね」
富沢くんと咲さんに揶揄われても、修司さんは全く相手にしない。私に向かってもいつも「あんた」なので、最初からそうだったせいか、特に気にもとめていなかったが、本人はいろいろ考えるところがあったらしい。
後で私と二人になったとき、バツが悪そうにぼそぼそと呟いた。
「ご主人の名字だから、呼ばれるのが嫌な可能性もあるかなって」
別れた夫に未練はない。でも好きで名乗っている名字ではないことを修司さんは知っている。この人は優しい人なんだと、こんなとき改めて感じる。
「富沢さんはちょっとだけ優しい人ですね」
「私なんか」に代わるように、口癖になった「ちょっとだけ」。修司さんは褒められたり感謝されるのが苦手なようで、できるだけ抑えめに嬉しい気持ちを伝えるのだけれど、
「煩い。俺が腹黒だって知ってんだろうが」
照れてわざと腹黒を連発し出す。本当に腹黒な人なら、お母さん達に便乗して、とっくに香さんを自分のものにしているだろうに。
「ではちょっとだけ可愛いです」
「かわっ…!」
言われ慣れていないのだろう。珍しく二の句が継げないでいる。普段無愛想なだけに新鮮な反応だ。
「年上ぶりやがって」
悔しそうに唇を噛む姿に、素の修司さんが垣間見え、少しずつ彼に近づけているようで嬉しくなる。
「年上ですから」
更にむくれる修司さん。どんな彼にも心がほんのり和らぐ私。
日曜日のこの時間は何にも代え難い宝物。どうかいつまでも、修司さんの車が桜屋の駐車場で待っていてくれますように。
「どうした? 浮かない顔して」
ドライブの途中で休憩に寄ったコーヒーショップで、アイスコーヒーを飲んでいた修司さんが私を窺った。ホットはブラックでも飲めるのに、アイスはミルクと砂糖が必要な私を笑ったのはついさっきだ。
「元夫が私に会いたいと…」
道路に照りつける陽射しを窓際の席からぼんやり眺める。富沢くんと咲さんは今日は映画を観るからと別行動だ。
「一ノ瀬さんがなぎさに会いたいと言ってるんだけど」
綾江からそんな電話があったのは昨夜遅くだった。離婚してから一度も接触して来なかった元夫は、先月偶然すれ違ったのをきっかけに、私と昔を懐かしみたくなったらしい。わざわざ友人の伝手を頼って、綾江に連絡を取ってきたのだそうだ。
「どうして今更…。私にとっては済んだことなのに」
「元気じゃなさそうだったから、心配とか何とか。私も今ひとつ分からないんだけど」
元夫の真意を測りかねているのか、綾江も歯切れが悪い。
「一ノ瀬さんに会ったとき、富沢さんと一緒だったんだよね? 最初になぎさが再婚したのか確認されたの」
「でも一ノ瀬さんも女性を連れていたのよ?」
並んで歩いているのがしっくりくる、彼の隣が似合う女性。とても知人や同僚には見えなかった。
「あちらも再婚はしてないんだって」
もしかしたら結婚していたときに、つきあい始めた女性かと思ったのだが、どうやら外れたらしい。
「どうする?」
元夫のことは嫌いではない。もちろん恨んでもいない。だけど私にとってはもう過去の人だ。
「会わない」
はっきり告げた私に、綾江はそのまま伝えておくねと電話を切った。
「会いたかったのか? それで後悔してる?」
向かいの席で腕組みをしていた修司さんが穏やかに問うてくる。私はすかさず否定した。
「絶対ないです」
好きになって欲しいなどと口にはできない。でも他に好きな人がいるなんて思われたくない。修司さんにはどうでもいいことでも、私にとってはとても大切なこと。
「なら堂々としてろ。ちゃんと断れたんだ」
柔らかく綻ばせた口元に胸が詰まりそうになる。
「富沢さんの力は凄いね」
昨夜電話を切る前に綾江にも似たようなことを言われた。
「何が?」
「少し前までのなぎさだったら、断ったら悪いからと、嫌でも会っていた筈だもの」
「あ…」
自分でも気づいていなかった。これまでなら私自身の意思はどうあれ、間違いなく相手に合わせることを優先していた。今日だってそうだ。私は修司さんと一緒にいるのに「浮かない顔」をしていたのだ。無理して笑顔を作ることなく。
「よかったな」
目の前で笑う修司さんに、涙ぐみそうになって慌てて俯いた。今一番嫌われたくない人なのに、馬鹿な自分を曝け出せてしまうだなんて、これは一体何の魔法なのだろう。
「あんたはどこに行っても楽しそうだな」
修司さんに苦笑されたことがある。この二年、家と仕事場の往復をするだけで、休日はほぼ閉じこもっていた私は、行き先が近所にある河原でも気持ちが弾んで仕方がない。
「けどつまらないときは遠慮しないで、ちゃんと文句言えよ」
つっけんどんながらも、必ず私を気遣ってくれる。たぶん修司さんと一緒だから、どこに行っても何をしても楽しいのだ。この年齢になって、デート前にうきうきしている女の子の心情が分かった。
そういえば修司さんは家では私のことを、「あの人」と呼んでいるのだそうだ。
「名前で呼べばいいのにさ。意外と純情だよね」
富沢くんと咲さんに揶揄われても、修司さんは全く相手にしない。私に向かってもいつも「あんた」なので、最初からそうだったせいか、特に気にもとめていなかったが、本人はいろいろ考えるところがあったらしい。
後で私と二人になったとき、バツが悪そうにぼそぼそと呟いた。
「ご主人の名字だから、呼ばれるのが嫌な可能性もあるかなって」
別れた夫に未練はない。でも好きで名乗っている名字ではないことを修司さんは知っている。この人は優しい人なんだと、こんなとき改めて感じる。
「富沢さんはちょっとだけ優しい人ですね」
「私なんか」に代わるように、口癖になった「ちょっとだけ」。修司さんは褒められたり感謝されるのが苦手なようで、できるだけ抑えめに嬉しい気持ちを伝えるのだけれど、
「煩い。俺が腹黒だって知ってんだろうが」
照れてわざと腹黒を連発し出す。本当に腹黒な人なら、お母さん達に便乗して、とっくに香さんを自分のものにしているだろうに。
「ではちょっとだけ可愛いです」
「かわっ…!」
言われ慣れていないのだろう。珍しく二の句が継げないでいる。普段無愛想なだけに新鮮な反応だ。
「年上ぶりやがって」
悔しそうに唇を噛む姿に、素の修司さんが垣間見え、少しずつ彼に近づけているようで嬉しくなる。
「年上ですから」
更にむくれる修司さん。どんな彼にも心がほんのり和らぐ私。
日曜日のこの時間は何にも代え難い宝物。どうかいつまでも、修司さんの車が桜屋の駐車場で待っていてくれますように。
「どうした? 浮かない顔して」
ドライブの途中で休憩に寄ったコーヒーショップで、アイスコーヒーを飲んでいた修司さんが私を窺った。ホットはブラックでも飲めるのに、アイスはミルクと砂糖が必要な私を笑ったのはついさっきだ。
「元夫が私に会いたいと…」
道路に照りつける陽射しを窓際の席からぼんやり眺める。富沢くんと咲さんは今日は映画を観るからと別行動だ。
「一ノ瀬さんがなぎさに会いたいと言ってるんだけど」
綾江からそんな電話があったのは昨夜遅くだった。離婚してから一度も接触して来なかった元夫は、先月偶然すれ違ったのをきっかけに、私と昔を懐かしみたくなったらしい。わざわざ友人の伝手を頼って、綾江に連絡を取ってきたのだそうだ。
「どうして今更…。私にとっては済んだことなのに」
「元気じゃなさそうだったから、心配とか何とか。私も今ひとつ分からないんだけど」
元夫の真意を測りかねているのか、綾江も歯切れが悪い。
「一ノ瀬さんに会ったとき、富沢さんと一緒だったんだよね? 最初になぎさが再婚したのか確認されたの」
「でも一ノ瀬さんも女性を連れていたのよ?」
並んで歩いているのがしっくりくる、彼の隣が似合う女性。とても知人や同僚には見えなかった。
「あちらも再婚はしてないんだって」
もしかしたら結婚していたときに、つきあい始めた女性かと思ったのだが、どうやら外れたらしい。
「どうする?」
元夫のことは嫌いではない。もちろん恨んでもいない。だけど私にとってはもう過去の人だ。
「会わない」
はっきり告げた私に、綾江はそのまま伝えておくねと電話を切った。
「会いたかったのか? それで後悔してる?」
向かいの席で腕組みをしていた修司さんが穏やかに問うてくる。私はすかさず否定した。
「絶対ないです」
好きになって欲しいなどと口にはできない。でも他に好きな人がいるなんて思われたくない。修司さんにはどうでもいいことでも、私にとってはとても大切なこと。
「なら堂々としてろ。ちゃんと断れたんだ」
柔らかく綻ばせた口元に胸が詰まりそうになる。
「富沢さんの力は凄いね」
昨夜電話を切る前に綾江にも似たようなことを言われた。
「何が?」
「少し前までのなぎさだったら、断ったら悪いからと、嫌でも会っていた筈だもの」
「あ…」
自分でも気づいていなかった。これまでなら私自身の意思はどうあれ、間違いなく相手に合わせることを優先していた。今日だってそうだ。私は修司さんと一緒にいるのに「浮かない顔」をしていたのだ。無理して笑顔を作ることなく。
「よかったな」
目の前で笑う修司さんに、涙ぐみそうになって慌てて俯いた。今一番嫌われたくない人なのに、馬鹿な自分を曝け出せてしまうだなんて、これは一体何の魔法なのだろう。
1
あなたにおすすめの小説
【完結】そんなに嫌いなら婚約破棄して下さい! と口にした後、婚約者が記憶喪失になりまして
Rohdea
恋愛
──ある日、婚約者が記憶喪失になりました。
伯爵令嬢のアリーチェには、幼い頃からの想い人でもある婚約者のエドワードがいる。
幼馴染でもある彼は、ある日を境に無口で無愛想な人に変わってしまっていた。
素っ気無い態度を取られても一途にエドワードを想ってきたアリーチェだったけど、
ある日、つい心にも無い言葉……婚約破棄を口走ってしまう。
だけど、その事を謝る前にエドワードが事故にあってしまい、目を覚ました彼はこれまでの記憶を全て失っていた。
記憶を失ったエドワードは、まるで昔の彼に戻ったかのように優しく、
また婚約者のアリーチェを一途に愛してくれるようになったけど──……
そしてある日、一人の女性がエドワードを訪ねて来る。
※婚約者をざまぁする話ではありません
※2022.1.1 “謎の女”が登場したのでタグ追加しました
【完結】逃がすわけがないよね?
春風由実
恋愛
寝室の窓から逃げようとして捕まったシャーロット。
それは二人の結婚式の夜のことだった。
何故新妻であるシャーロットは窓から逃げようとしたのか。
理由を聞いたルーカスは決断する。
「もうあの家、いらないよね?」
※完結まで作成済み。短いです。
※ちょこっとホラー?いいえ恋愛話です。
※カクヨムにも掲載。
【完結】地味な私と公爵様
ベル
恋愛
ラエル公爵。この学園でこの名を知らない人はいないでしょう。
端正な顔立ちに甘く低い声、時折見せる少年のような笑顔。誰もがその美しさに魅了され、女性なら誰もがラエル様との結婚を夢見てしまう。
そんな方が、平凡...いや、かなり地味で目立たない伯爵令嬢である私の婚約者だなんて一体誰が信じるでしょうか。
...正直私も信じていません。
ラエル様が、私を溺愛しているなんて。
きっと、きっと、夢に違いありません。
お読みいただきありがとうございます。短編のつもりで書き始めましたが、意外と話が増えて長編に変更し、無事完結しました(*´-`)
隣の夫婦 ~離婚する、離婚しない、身近な夫婦の話
紫ゆかり
恋愛
オムニバス形式です。
理解し合って結婚したはずの梓、同級生との再会が思わぬことになる雅美、年下の夫のかつての妻に引け目を感じる千晴、昔の恋の後悔から前向きになれない志織。
大人の女性のストーリーです。
私が、良いと言ってくれるので結婚します
あべ鈴峰
恋愛
幼馴染のクリスと比較されて悲しい思いをしていたロアンヌだったが、突然現れたレグール様のプロポーズに 初対面なのに結婚を決意する。
しかし、その事を良く思わないクリスが・・。
【完結】さっさと婚約破棄が皆のお望みです
井名可乃子
恋愛
年頃のセレーナに降って湧いた縁談を周囲は歓迎しなかった。引く手あまたの伯爵がなぜ見ず知らずの子爵令嬢に求婚の手紙を書いたのか。幼い頃から番犬のように傍を離れない年上の幼馴染アンドリューがこの結婚を認めるはずもなかった。
「婚約破棄されてこい」
セレーナは未来の夫を試す為に自らフラれにいくという、アンドリューの世にも馬鹿げた作戦を遂行することとなる。子爵家の一人娘なんだからと屁理屈を並べながら伯爵に敵意丸出しの幼馴染に、呆れながらも内心ほっとしたのがセレーナの本音だった。
伯爵家との婚約発表の日を迎えても二人の関係は変わらないはずだった。アンドリューに寄り添う知らない女性を見るまでは……。
王太子妃専属侍女の結婚事情
蒼あかり
恋愛
伯爵家の令嬢シンシアは、ラドフォード王国 王太子妃の専属侍女だ。
未だ婚約者のいない彼女のために、王太子と王太子妃の命で見合いをすることに。
相手は王太子の側近セドリック。
ところが、幼い見た目とは裏腹に令嬢らしからぬはっきりとした物言いのキツイ性格のシンシアは、それが元でお見合いをこじらせてしまうことに。
そんな二人の行く末は......。
☆恋愛色は薄めです。
☆完結、予約投稿済み。
新年一作目は頑張ってハッピーエンドにしてみました。
ふたりの喧嘩のような言い合いを楽しんでいただければと思います。
そこまで激しくはないですが、そういうのが苦手な方はご遠慮ください。
よろしくお願いいたします。
今宵、薔薇の園で
天海月
恋愛
早世した母の代わりに妹たちの世話に励み、婚期を逃しかけていた伯爵家の長女・シャーロットは、これが最後のチャンスだと思い、唐突に持ち込まれた気の進まない婚約話を承諾する。
しかし、一か月も経たないうちに、その話は先方からの一方的な申し出によって破談になってしまう。
彼女は藁にもすがる思いで、幼馴染の公爵アルバート・グレアムに相談を持ち掛けるが、新たな婚約者候補として紹介されたのは彼の弟のキースだった。
キースは長年、シャーロットに思いを寄せていたが、遠慮して距離を縮めることが出来ないでいた。
そんな弟を見かねた兄が一計を図ったのだった。
彼女はキースのことを弟のようにしか思っていなかったが、次第に彼の情熱に絆されていく・・・。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる