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拓海がなかなか話を進めないので、とりあえず翌日の準備を終えてから、私達は改めてリビングのソファに並んで座った。さすがに今夜は髪が濡れていても、タオルを貸せとは言ってこない。むしろ私の視線から逃げるように、わざとテレビをつけっぱなしにしている。
「俺に許嫁がいると聞かされたのは、高校生の頃だった」
やがてぽつりぽつりと呟く。
「もちろん祖母ちゃん同士の口約束で、肝心のお前でさえ知らされていなかった、何の拘束も持たないものだった」
当然拓海も本気にせず、帰省しても私に会うことがなかったので、祖母の夢物語だと右から左に流していたある日。一枚の写真を渡されたのだという。
「二十歳のときだ。そこには振袖姿の女が写っていて、それが二瓶の孫の野田詩乃だと教えられた」
うちのお祖母ちゃんが母に頼み、スマホで撮ったものをプリントしたらしい。そのとき拓海には同じ大学に彼女がいて、着物で三割増になった女になど、特に心が動くことはなかったのだそうだ。
「ところが祖母ちゃん達は、次の年もお前の写真を用意していた。バックに飛行機があったから、旅行にでも行ったんだろう。驚いた。たった一年で詩乃は見違えるように綺麗になっていた」
「それって喜んでいいの? 私の成人式の写真、そんなに酷かった?」
半ば不機嫌に口を挟んだ私に、拓海は躊躇なく頷いた。
「けばかった」
どうもすみませんでした。私は頬を膨らませて続きを促した。
「二瓶のばあさん経由で、写真は翌年も手渡された。今度は就職したてのものだったのか、ビジネススーツを着ていた。急に大人の顔になっていて焦った」
そうしていつしか祖母から年一回渡される写真を、自分が心待ちにしている事実に気づいた。
「祖母ちゃんが口を滑らせたろ?」
久し振りに、そして最後に三船のおばあちゃんと会ったときのことが、私の脳裏にぼんやり蘇る。
「まあまあ。拓海だって他にも目的があって、忙しい最中に帰ってきてたんだろ」
何年も帰省していなかった私を咎めた拓海に、三船のおばあちゃんが洩らした言葉。じゃあ拓海が毎年田舎を訪れていたもう一つの理由って……。
「けれど昨年は写真がなかった」
明言を避けるように拓海が目を伏せる。うちのお祖母ちゃんの体調が思わしくなかったからだ。
「ごめんな、拓ちゃん」
三船のお祖母ちゃんから連絡を貰い、急ぎお見舞いに駆けつけた拓海に、お祖母ちゃんは悲しそうに謝り、
「でも、きっと詩乃に会わせてあげるから」
だからまだ帰らないでな? そう言って二日後に息を引き取ったのだそうだ。蝉の声が煩かった暑い最中に。
「祖母ちゃん達も本気であの遺言を残す気はなかったんだ。あれは写真の詩乃に、その、興味を持った俺への置き土産だ。巻き添えを食らわせて、お前には悪かったと思ってる」
胸の内に抱えていたものを全て吐き出したのか、拓海は天井を見上げて大きく深呼吸をする。
「写真と実物は違ったがな」
落胆とも取れる囁きに、幾分しんみりしていた私は途端に牙を剥いた。「遺言結婚」の経緯は分かったけれど、そこに愛が存在しない点は同じ。
「手も出したくなくなるような、期待外れでごめんなさい」
「おい、何でそうなる」
「だって結局私自身は好きじゃないってことじゃない」
「確かに現在詩乃に恋愛感情があるかと問われれば、はいと二つ返事で答えることはできない。でもお前だって渋々結婚したんだろうが」
「私? どうして?」
眉を逆立てて噛みつく。
「遺言に従っただけだろ?」
お祖母ちゃんを見送ることができなかったから、せめて最期の願いくらいは聞き届けたいという気持ちはある。その一方で伯父さん達が遺言通りにしなくてもいいと言ったときは、それもそうかと納得しかけたりもした。
けれどその為に嫌いな人と結婚なんて、私にはできない。神経衰弱で相手を選んだというのは論外だが、かといって他の誰かでも結婚したかといえばきっと違う筈だ。なのに実物にがっかりしただなんて。
「私は最初から拓海を拒否していないのに」
恨みがましく紡ぐ私に、拓海はぎょっとしたように目を瞠いた。
「待て、話が読めんぞ」
「あんたなんか写真と結婚しろ」
「え? あっ! 誤解だ詩乃!」
さっさと立ち上がった私の腕を捕まえ、再びソファに座らせる。あーとかうーとか唸った後、明後日の方を向いて零した。
「写真よりも実物の方が、えーと、つまりその数段好みだったから、どうしたらいいのか困ってる、だけなんだ」
はーっと大仰に息をついて腕を離し、今度は片手で自分の顔を覆う。
「詩乃の裸を見て頭が真っ白になるわ、惚れた男がいると勘違いして、意地を張って我慢なんかするわ。ガキみたいで格好悪い」
「我慢、してたの?」
「当たり前だ、この馬鹿女。人の気も知らないで、美味そうにパピコなんか咥えやがって」
「パピコを半分食べたこと、まだ根に持ってるの?」
「お前の思考回路はどうなってるんだ……」
頭を抱える拓海。
「とにかくこれ以上煽るなよ、馬鹿女」
「別に煽った覚えはないし。そもそも煽ったところで問題あるの?」
鳩が豆鉄砲を食ったような表情で、しばらく動きを止めていた拓海が、徐々に耳を真っ赤に染めていった。
「ない、のか?」
自分の知る拓海とのギャップに笑いを堪えて頷く私に、拓海がおずおずと腕を伸ばしてくる。けれど肩に触れる直前にさっと視線を逸らした。
「絶対祖母ちゃん達が冷やかしてる」
じとっと写真を睨む姿に、私はとうとう爆笑してしまった。
「俺に許嫁がいると聞かされたのは、高校生の頃だった」
やがてぽつりぽつりと呟く。
「もちろん祖母ちゃん同士の口約束で、肝心のお前でさえ知らされていなかった、何の拘束も持たないものだった」
当然拓海も本気にせず、帰省しても私に会うことがなかったので、祖母の夢物語だと右から左に流していたある日。一枚の写真を渡されたのだという。
「二十歳のときだ。そこには振袖姿の女が写っていて、それが二瓶の孫の野田詩乃だと教えられた」
うちのお祖母ちゃんが母に頼み、スマホで撮ったものをプリントしたらしい。そのとき拓海には同じ大学に彼女がいて、着物で三割増になった女になど、特に心が動くことはなかったのだそうだ。
「ところが祖母ちゃん達は、次の年もお前の写真を用意していた。バックに飛行機があったから、旅行にでも行ったんだろう。驚いた。たった一年で詩乃は見違えるように綺麗になっていた」
「それって喜んでいいの? 私の成人式の写真、そんなに酷かった?」
半ば不機嫌に口を挟んだ私に、拓海は躊躇なく頷いた。
「けばかった」
どうもすみませんでした。私は頬を膨らませて続きを促した。
「二瓶のばあさん経由で、写真は翌年も手渡された。今度は就職したてのものだったのか、ビジネススーツを着ていた。急に大人の顔になっていて焦った」
そうしていつしか祖母から年一回渡される写真を、自分が心待ちにしている事実に気づいた。
「祖母ちゃんが口を滑らせたろ?」
久し振りに、そして最後に三船のおばあちゃんと会ったときのことが、私の脳裏にぼんやり蘇る。
「まあまあ。拓海だって他にも目的があって、忙しい最中に帰ってきてたんだろ」
何年も帰省していなかった私を咎めた拓海に、三船のおばあちゃんが洩らした言葉。じゃあ拓海が毎年田舎を訪れていたもう一つの理由って……。
「けれど昨年は写真がなかった」
明言を避けるように拓海が目を伏せる。うちのお祖母ちゃんの体調が思わしくなかったからだ。
「ごめんな、拓ちゃん」
三船のお祖母ちゃんから連絡を貰い、急ぎお見舞いに駆けつけた拓海に、お祖母ちゃんは悲しそうに謝り、
「でも、きっと詩乃に会わせてあげるから」
だからまだ帰らないでな? そう言って二日後に息を引き取ったのだそうだ。蝉の声が煩かった暑い最中に。
「祖母ちゃん達も本気であの遺言を残す気はなかったんだ。あれは写真の詩乃に、その、興味を持った俺への置き土産だ。巻き添えを食らわせて、お前には悪かったと思ってる」
胸の内に抱えていたものを全て吐き出したのか、拓海は天井を見上げて大きく深呼吸をする。
「写真と実物は違ったがな」
落胆とも取れる囁きに、幾分しんみりしていた私は途端に牙を剥いた。「遺言結婚」の経緯は分かったけれど、そこに愛が存在しない点は同じ。
「手も出したくなくなるような、期待外れでごめんなさい」
「おい、何でそうなる」
「だって結局私自身は好きじゃないってことじゃない」
「確かに現在詩乃に恋愛感情があるかと問われれば、はいと二つ返事で答えることはできない。でもお前だって渋々結婚したんだろうが」
「私? どうして?」
眉を逆立てて噛みつく。
「遺言に従っただけだろ?」
お祖母ちゃんを見送ることができなかったから、せめて最期の願いくらいは聞き届けたいという気持ちはある。その一方で伯父さん達が遺言通りにしなくてもいいと言ったときは、それもそうかと納得しかけたりもした。
けれどその為に嫌いな人と結婚なんて、私にはできない。神経衰弱で相手を選んだというのは論外だが、かといって他の誰かでも結婚したかといえばきっと違う筈だ。なのに実物にがっかりしただなんて。
「私は最初から拓海を拒否していないのに」
恨みがましく紡ぐ私に、拓海はぎょっとしたように目を瞠いた。
「待て、話が読めんぞ」
「あんたなんか写真と結婚しろ」
「え? あっ! 誤解だ詩乃!」
さっさと立ち上がった私の腕を捕まえ、再びソファに座らせる。あーとかうーとか唸った後、明後日の方を向いて零した。
「写真よりも実物の方が、えーと、つまりその数段好みだったから、どうしたらいいのか困ってる、だけなんだ」
はーっと大仰に息をついて腕を離し、今度は片手で自分の顔を覆う。
「詩乃の裸を見て頭が真っ白になるわ、惚れた男がいると勘違いして、意地を張って我慢なんかするわ。ガキみたいで格好悪い」
「我慢、してたの?」
「当たり前だ、この馬鹿女。人の気も知らないで、美味そうにパピコなんか咥えやがって」
「パピコを半分食べたこと、まだ根に持ってるの?」
「お前の思考回路はどうなってるんだ……」
頭を抱える拓海。
「とにかくこれ以上煽るなよ、馬鹿女」
「別に煽った覚えはないし。そもそも煽ったところで問題あるの?」
鳩が豆鉄砲を食ったような表情で、しばらく動きを止めていた拓海が、徐々に耳を真っ赤に染めていった。
「ない、のか?」
自分の知る拓海とのギャップに笑いを堪えて頷く私に、拓海がおずおずと腕を伸ばしてくる。けれど肩に触れる直前にさっと視線を逸らした。
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