18 / 20
18
しおりを挟む
呼び止める拓海を無視してカフェの外に出ると、久慈くんだけかと思いきや残業帰りのかすみと久慈さんまで待っていた。三人はわらわらと私を取り囲み、口々に何があったどうなったと喚く。聖徳太子はこれを捌けるんだから凄いなと、場違いなことを頭に浮かべていたら、大きなミスを一つしたことに気づいた。
「コーヒー代を払ってこなかった」
途端に三人は呆れたように項垂れる。
「呑気すぎるよ、詩乃ちゃん」
「あんたらしくて笑えない」
「やはり野田、大場か」
社会人として自分の飲食代を他人に払わせるのはどうかと思う。かといって再び店内に戻りたくもないが。
「それで大場は? 加奈さんは何て?」
さっき後にした最寄り駅にぞろぞろと移動する途中で、久慈くんが焦れったそうに催促した。
「拓海をレンタルしたいんだって。いずれ買い取りたいらしいけど」
今度は加奈さんとのやり取りの正しい情報を伝える。いきなり復縁を望む文言が出なかったので、久慈兄弟は少々気が抜けたようだったが、かすみだけは殺気を纏わりつかせた。
「よりを戻してと頼むより性質が悪い」
「どうして?」
きょとんと訊ねる久慈くんを鋭く射る。
「お祖母ちゃんを持ち出されたら大場さんは断れない。現に追いかけてこないじゃない」
全員で一斉に背後を振り返る。カフェのドアを押す人はいても出てくる人はいない。拓海は加奈さんと二人でまだ商談中。私達は誰からともなくため息をついて、駅までの道程を歩き出す。
「嫌いで別れたんじゃないからね。加奈さんもずっと誰ともつきあっていないって言ってたし」
「大場は詩乃ちゃんがいるのに加奈さんに傾いたりしないよ?」
「分かってる」
拓海は迷ってもふらふらしない。だから傾くんじゃない。
「阿吽の呼吸っていうのかな、あの二人の間にはこう培った見えないものがあって、遠ざかっていても会えば気持ちが呼び合うというか……上手く説明できないんだけど、そういう何かがあるんだよね」
「こんな短時間で詩乃にそんなこと思わせるなんて、大場さん最悪」
吹き矢でも飛ばしかねない程の不穏な空気が、かすみから湯気のように上っているのを見た。
「まあでも、そう感じるくらいには野田だって、なあ?」
苦笑する兄に顎をしゃくられ、久慈くんは眉を八の字に下げる。
「詩乃ちゃんはこれからどうするの?」
「とりあえず家に帰ってトイレに籠る」
訳が分からずに歩みを止めた三人を余所に、私はトイレを目指してさっさと駅の中に踏み込んだ。
さすがに食物を持ち込むのは無理なので、夕ご飯代わりにおにぎりを食べてから私はトイレに閉じこもった。今回は暇潰し用のスマホも雑誌も用意して準備万端。強いて言えば拓海からの着信が少々煩いけれど。
帰宅してから一時間。拓海は帰って来ない。帰ってくるつもりがあるのかどうかも分からない。そうしたら私は一晩トイレで過ごすことになるのだろうか。拓海がドアをノックしてくれるまで。そもそも何故私はトイレに籠ったのだろう。
「う……そ」
便座に腰を下ろした私の膝に、いつぞやのように小さな雫が染みを作る。とめどなく溢れる涙が、拭おうとした手の甲を濡らす。
「何で……」
今日は泣く理由がないのに。拓海は私の為に言葉を尽くして……泣かせないって言ったくせに。腹痛でもないのに背を折り曲げたとき、玄関の方からばたんと大きな音が響いた。やがて足音が真っすぐにトイレに向かってくる。
「詩乃!」
怒鳴り声と共にドアを乱暴にノックされた。どうしてここにいるとばれたんだろう。
「お前が泣くようなことはしていないから!」
とにかく出てこいと叫ぶ拓海に、私は見えもしないのに慌てて顔全体をごしごし擦った。おそらく化粧が崩れて悲惨な状態になっているに違いない。
「お、お腹が痛いの。大体中途半端で終われない」
強気で言い返してから、拓海が私の妙な姿を想像していないことを祈る。
「そうか」
気まずげな一言を残してドアを叩く音が止んだ。
「その、加奈のことだが」
むしろはっきり届いた名前を遮るように、私は勢いよく水を流した。拓海が心配そうにドア越しに問いかける。
「大丈夫か?」
「大丈夫」
「で、加奈のことだが」
そこで私は懲りずに水を流す。知りたくないことは流れてゆけばいい。
「詩乃! 話を聞け!」
拓海がどんとドアを蹴ったので、私は水を流すのを止めた。
「済まない。脅かすつもりはなかった」
静かになったトイレに何を考えたのか苦し気に呻いている。
「だけどな、詩乃。もう、無理なんだ」
お前とはやっていけないーー次の台詞を予期して鼓動が早くなった。リビングで笑うお祖母ちゃん達の写真が脳裏を過ぎる。
「頼むから、俺を好きになれ」
けれど次に洩れた言葉は別の意味で私の心臓を鷲掴みにした。
「コーヒー代を払ってこなかった」
途端に三人は呆れたように項垂れる。
「呑気すぎるよ、詩乃ちゃん」
「あんたらしくて笑えない」
「やはり野田、大場か」
社会人として自分の飲食代を他人に払わせるのはどうかと思う。かといって再び店内に戻りたくもないが。
「それで大場は? 加奈さんは何て?」
さっき後にした最寄り駅にぞろぞろと移動する途中で、久慈くんが焦れったそうに催促した。
「拓海をレンタルしたいんだって。いずれ買い取りたいらしいけど」
今度は加奈さんとのやり取りの正しい情報を伝える。いきなり復縁を望む文言が出なかったので、久慈兄弟は少々気が抜けたようだったが、かすみだけは殺気を纏わりつかせた。
「よりを戻してと頼むより性質が悪い」
「どうして?」
きょとんと訊ねる久慈くんを鋭く射る。
「お祖母ちゃんを持ち出されたら大場さんは断れない。現に追いかけてこないじゃない」
全員で一斉に背後を振り返る。カフェのドアを押す人はいても出てくる人はいない。拓海は加奈さんと二人でまだ商談中。私達は誰からともなくため息をついて、駅までの道程を歩き出す。
「嫌いで別れたんじゃないからね。加奈さんもずっと誰ともつきあっていないって言ってたし」
「大場は詩乃ちゃんがいるのに加奈さんに傾いたりしないよ?」
「分かってる」
拓海は迷ってもふらふらしない。だから傾くんじゃない。
「阿吽の呼吸っていうのかな、あの二人の間にはこう培った見えないものがあって、遠ざかっていても会えば気持ちが呼び合うというか……上手く説明できないんだけど、そういう何かがあるんだよね」
「こんな短時間で詩乃にそんなこと思わせるなんて、大場さん最悪」
吹き矢でも飛ばしかねない程の不穏な空気が、かすみから湯気のように上っているのを見た。
「まあでも、そう感じるくらいには野田だって、なあ?」
苦笑する兄に顎をしゃくられ、久慈くんは眉を八の字に下げる。
「詩乃ちゃんはこれからどうするの?」
「とりあえず家に帰ってトイレに籠る」
訳が分からずに歩みを止めた三人を余所に、私はトイレを目指してさっさと駅の中に踏み込んだ。
さすがに食物を持ち込むのは無理なので、夕ご飯代わりにおにぎりを食べてから私はトイレに閉じこもった。今回は暇潰し用のスマホも雑誌も用意して準備万端。強いて言えば拓海からの着信が少々煩いけれど。
帰宅してから一時間。拓海は帰って来ない。帰ってくるつもりがあるのかどうかも分からない。そうしたら私は一晩トイレで過ごすことになるのだろうか。拓海がドアをノックしてくれるまで。そもそも何故私はトイレに籠ったのだろう。
「う……そ」
便座に腰を下ろした私の膝に、いつぞやのように小さな雫が染みを作る。とめどなく溢れる涙が、拭おうとした手の甲を濡らす。
「何で……」
今日は泣く理由がないのに。拓海は私の為に言葉を尽くして……泣かせないって言ったくせに。腹痛でもないのに背を折り曲げたとき、玄関の方からばたんと大きな音が響いた。やがて足音が真っすぐにトイレに向かってくる。
「詩乃!」
怒鳴り声と共にドアを乱暴にノックされた。どうしてここにいるとばれたんだろう。
「お前が泣くようなことはしていないから!」
とにかく出てこいと叫ぶ拓海に、私は見えもしないのに慌てて顔全体をごしごし擦った。おそらく化粧が崩れて悲惨な状態になっているに違いない。
「お、お腹が痛いの。大体中途半端で終われない」
強気で言い返してから、拓海が私の妙な姿を想像していないことを祈る。
「そうか」
気まずげな一言を残してドアを叩く音が止んだ。
「その、加奈のことだが」
むしろはっきり届いた名前を遮るように、私は勢いよく水を流した。拓海が心配そうにドア越しに問いかける。
「大丈夫か?」
「大丈夫」
「で、加奈のことだが」
そこで私は懲りずに水を流す。知りたくないことは流れてゆけばいい。
「詩乃! 話を聞け!」
拓海がどんとドアを蹴ったので、私は水を流すのを止めた。
「済まない。脅かすつもりはなかった」
静かになったトイレに何を考えたのか苦し気に呻いている。
「だけどな、詩乃。もう、無理なんだ」
お前とはやっていけないーー次の台詞を予期して鼓動が早くなった。リビングで笑うお祖母ちゃん達の写真が脳裏を過ぎる。
「頼むから、俺を好きになれ」
けれど次に洩れた言葉は別の意味で私の心臓を鷲掴みにした。
0
あなたにおすすめの小説
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
年増令嬢と記憶喪失
くきの助
恋愛
「お前みたいな年増に迫られても気持ち悪いだけなんだよ!」
そう言って思い切りローズを突き飛ばしてきたのは今日夫となったばかりのエリックである。
ちなみにベッドに座っていただけで迫ってはいない。
「吐き気がする!」と言いながら自室の扉を音を立てて開けて出ていった。
年増か……仕方がない……。
なぜなら彼は5才も年下。加えて付き合いの長い年下の恋人がいるのだから。
次の日事故で頭を強く打ち記憶が混濁したのを記憶喪失と間違われた。
なんとか誤解と言おうとするも、今までとは違う彼の態度になかなか言い出せず……
『有能すぎる王太子秘書官、馬鹿がいいと言われ婚約破棄されましたが、国を賢者にして去ります』
しおしお
恋愛
王太子の秘書官として、陰で国政を支えてきたアヴェンタドール。
どれほど杜撰な政策案でも整え、形にし、成果へ導いてきたのは彼女だった。
しかし王太子エリシオンは、その功績に気づくことなく、
「女は馬鹿なくらいがいい」
という傲慢な理由で婚約破棄を言い渡す。
出しゃばりすぎる女は、妃に相応しくない――
そう断じられ、王宮から追い出された彼女を待っていたのは、
さらに危険な第二王子の婚約話と、国家を揺るがす陰謀だった。
王太子は無能さを露呈し、
第二王子は野心のために手段を選ばない。
そして隣国と帝国の影が、静かに国を包囲していく。
ならば――
関わらないために、関わるしかない。
アヴェンタドールは王国を救うため、
政治の最前線に立つことを選ぶ。
だがそれは、権力を欲したからではない。
国を“賢く”して、
自分がいなくても回るようにするため。
有能すぎたがゆえに切り捨てられた一人の女性が、
ざまぁの先で選んだのは、復讐でも栄光でもない、
静かな勝利だった。
---
彼女が望むなら
mios
恋愛
公爵令嬢と王太子殿下の婚約は円満に解消された。揉めるかと思っていた男爵令嬢リリスは、拍子抜けした。男爵令嬢という身分でも、王妃になれるなんて、予定とは違うが高位貴族は皆好意的だし、王太子殿下の元婚約者も応援してくれている。
リリスは王太子妃教育を受ける為、王妃と会い、そこで常に身につけるようにと、ある首飾りを渡される。
【完結】ずっと、ずっとあなたを愛していました 〜後悔も、懺悔も今更いりません〜
高瀬船
恋愛
リスティアナ・メイブルムには二歳年上の婚約者が居る。
婚約者は、国の王太子で穏やかで優しく、婚約は王命ではあったが仲睦まじく関係を築けていた。
それなのに、突然ある日婚約者である王太子からは土下座をされ、婚約を解消して欲しいと願われる。
何故、そんな事に。
優しく微笑むその笑顔を向ける先は確かに自分に向けられていたのに。
婚約者として確かに大切にされていたのに何故こうなってしまったのか。
リスティアナの思いとは裏腹に、ある時期からリスティアナに悪い噂が立ち始める。
悪い噂が立つ事など何もしていないのにも関わらず、リスティアナは次第に学園で、夜会で、孤立していく。
【完結】「お前とは結婚できない」と言われたので出奔したら、なぜか追いかけられています
22時完結
恋愛
「すまない、リディア。お前とは結婚できない」
そう告げたのは、長年婚約者だった王太子エドワード殿下。
理由は、「本当に愛する女性ができたから」――つまり、私以外に好きな人ができたということ。
(まあ、そんな気はしてました)
社交界では目立たない私は、王太子にとってただの「義務」でしかなかったのだろう。
未練もないし、王宮に居続ける理由もない。
だから、婚約破棄されたその日に領地に引きこもるため出奔した。
これからは自由に静かに暮らそう!
そう思っていたのに――
「……なぜ、殿下がここに?」
「お前がいなくなって、ようやく気づいた。リディア、お前が必要だ」
婚約破棄を言い渡した本人が、なぜか私を追いかけてきた!?
さらに、冷酷な王国宰相や腹黒な公爵まで現れて、次々に私を手に入れようとしてくる。
「お前は王妃になるべき女性だ。逃がすわけがない」
「いいや、俺の妻になるべきだろう?」
「……私、ただ田舎で静かに暮らしたいだけなんですけど!!」
誰でもイイけど、お前は無いわw
猫枕
恋愛
ラウラ25歳。真面目に勉強や仕事に取り組んでいたら、いつの間にか嫁き遅れになっていた。
同い年の幼馴染みランディーとは昔から犬猿の仲なのだが、ランディーの母に拝み倒されて見合いをすることに。
見合いの場でランディーは予想通りの失礼な発言を連発した挙げ句、
「結婚相手に夢なんて持ってないけど、いくら誰でも良いったってオマエは無いわww」
と言われてしまう。
さようならの定型文~身勝手なあなたへ
宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」
――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。
額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。
涙すら出なかった。
なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。
……よりによって、元・男の人生を。
夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。
「さようなら」
だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。
慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。
別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。
だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい?
「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる