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💧 Life3 ふたりのかたち
三月一日
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いつもと同じアラームで迎えた朝は、いつもと明らかに違っていた。
弁当を作らなくていいぶん、二時間ほど長く寝たせいか、はたまた気が張っているせいか、覚醒という言葉が似合うすっきりとした目覚めだった。
手にしたスマホに表示された日付は――三月一日。
いよいよだ。
ただ卒業式があるだけなら、こんなに緊張することもなかったと思う。
あまねはベッドから起き上がると、気を引き締めるように両頬を叩いた。
身支度を整えてダイニングへ向かうと、新聞を広げて座る父の姿があった。
漂うコーヒーの香りと、食卓の上には不格好に積み上げられたジャムやマーガリン。こんなこと、前にもあった気がする。
「おはよう」
席につきながら挨拶すると、新聞紙の向こうから「おはよ」と照れくさそうな小声が返ってきた。今日は「おう」じゃなかったな、なんて思ったとき、
「――と、おめでとう」
ぼそりと付け加えられた一言に、くすぐったくなる。
この言葉にふたつの祝福が込められていると分かるのは、我が家と志賀家の人間だけだろう。
そう思うと、秘密を持つのも悪くない。丈が抱えているような重苦しいものじゃなく、幸せな秘密。
なんだか満たされた気持ちで食卓に目を落とせば、きつね色のトーストとコーンスープが迎えた。昨日の夕飯にあまねが作った残りではあるが、きちんとサラダまである。凄まじい成長ぶりだ。
「パン、うまく焼けるようになったじゃん」
マーガリンの蓋を開けながらそう声をかけると、父は新聞に視線を注いだまま「あのときはたまたま焦がしただけだ」とふて腐れたように言った。
*
卒業式とホームルームを終え、あまねは校舎を出る。
目の前は、別れを惜しんで抱き合ったり、友だち同士で記念撮影をしたりする生徒であふれ返っていた。
こういう存在をひとりでも作っておくべきだったかな、なんて今さらちょっぴり羨ましくなりながら、その群れの中に丈を探す。
彼の微熱は一晩で下がり、無事に晴れの日を迎えることができた。
自意識過剰かもしれないが、教室から一緒にいるのはなんというかあからさまだし、彼は自分と違って最後の思い出づくりに忙しいだろうから、手間だけれど校門前で待ち合わせたのだ。
――いない。
ホームルーム後、生徒たちが三々五々に散り始めた頃には、菊池たちと一緒にいた気がするのだが。
怪訝に思いつつうろついていると、
「あっ」
群れの一角に、見慣れたメンバーと戯れる菊池を見つけた。相変わらずだ。
「ねぇ、丈知らない?」
立ち止まって尋ねると、残念ながら彼も小首をかしげた。
「いや? 教室で別れたまんまだけど。一緒じゃねぇんだ?」
まったく。いったいどこで油を売っているのやら。
しかたないから連絡を入れようと、制服スカートのポケットからスマホを取り出したとき、ちょうどメッセージの着信音が鳴った。
誰かと思えば、丈からだ。
『ほんとゴメン! ちょっと遅くなるから先帰ってて!』
短い文章の後に、両手を合わせて謝るスタンプが送られてきた。
「え~……」
これから志賀家に集まって婚姻届けを記入し、指輪を取りに行くというのに。
一世一代のイベントに遅刻するとはなんたることか! と怒鳴りたくなったが、そんなことは彼も重々承知の上だろう。
入籍前から鬼嫁扱いされるのはごめんだけれど、やっぱり気に食わないので『了解』の素っ気ない一言と『バーカ』のスタンプを返してマンションへ向かった。
*
「もう二度と会わないから一発殴っていい?」
「えっ……」
元恋人を目の前にして、丈は面食らった。
校舎裏に呼び出された時点で嫌な予感しかしなかったが、これは想像以上のようだ。
「ねぇ、なんで笹川さんなの?」
鬼の形相で仁王立ちしていたかと思えば、
「そりゃ、覚悟はしてたよ? 私、たいしてかわいくもないし、ひねくれてるし……そもそも最初から好きじゃないって、分かってたから」
自虐を交えながら、涙ぐんで声を震わせる。
高二の春、病気が発覚してしばらく、自暴自棄になっていた頃に、よく知りもしない彼女から一目惚れしたと告白され、ふたつ返事で受け入れた。
ただし、こちらに恋愛感情がないことを承知してもらった上で。亡き姉を思わせる名前だしまあいいか、なんてくだらない理由で。
残り少ない人生、恋人のひとりやふたり、いてもいいかもしれない。そんな不純な気持ちからだった。
もちろん、キスもその先もしていない。せいぜい、帰り道に何度か手をつないだ程度だ。
「でも、それでもいいって思ってた。幸せな夢、見させてもらってるんだって。だから、別れようって言われたときも、しょうがないって諦めた。もっとかわいくて優しい子のことを、好きになったんだろうなって」
たしかに、別れを切り出したとき、一方的な心変わりだったにもかかわらず、彼女は潔く「分かった」と言った。驚くほど、あっさりと。
「だけど……」
悔しさの滲んだ呟きとともに、彼女の瞳からしずくがこぼれた。そして、堰を切ったように次々とあふれだし、頬を情けなく濡らしていく。
「どうしてあの子なの? あの子は私と同じだよ? せめて他の子なら……」
言葉を詰まらせて唇を噛みしめる彼女の姿を、丈はどこか冷めた目で見ていた。
彼女はいつも、感情のベクトルが歪んでいる。責めなくていいものを責めて、憎まなくていいものを憎んで、結局自分を苦しめている。
突き詰めればそれも、誰かを想うがゆえ、なのかもしれないが。
きっと、ちゃんと好いてくれていたのだ。自分があまねに対してそうであるように。
でも、
「武中さんは、あまねの何を知ってるの?」
「……っ」
僕だってまだまだだけれど、彼女よりは知っている。その憎しみが、極めて身勝手で、表面的だと断言できるくらいには。
「あまねが君に何かした?」
尋ねれば、
「されたわよ。尊厳の侵害、精神的苦痛。慰謝料もらいたいくらいだわ」
彼女はその言葉を待ってましたと言わんばかりに答えた。
言い回しが章に似ている。さすがは幼馴染だ。
そんなことを考えながら、「それをしたのは、あまねじゃなくて俺だよね」と返した。
「君には本当に最低なことをしたと思ってる。殴って気が済むなら好きなだけそうしてくれていいけど、彼女を侮辱するのは許せないよ」
あくまで冷静に告げると、
「なんで……そんなに……」
彼女は鋭い一瞥を寄越す。
「好きだからだよ」
答えた次の瞬間、丈の左頬に焼けつくような痛みと衝撃が走った。そのまま跳ね飛ばされて尻もちをつく。
一瞬くらんだ視界に入ったのは、震える拳。どうやら本気で殴られたらしい。幸い、鼻血までは出ていないようだ。
ジンジンと痛む頬を押さえつつ、何も言わず俯く丈に、
「バカ! 私だって好きなのにっ……!」
彼女は最後にそう訴え、止まらない涙を拭いながら走り去っていった。
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