いい加減な夜食

秋川滝美

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1巻

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   第一章 都合のいい仕事


 みやもといが、あるじである原島はらしまとしから電話を受けたのは、午後五時のことだった。


「今から帰る。今日は谷本たにもとは?」
「俊紀様がご出張でしたので、出勤予定になっておりません」
「呼んでおけ」
「確か、今夜はコンパがあると……」
「コンパだと? 場所は?」
「聞いておりませんが、おおよそは……」
「特定して迎えを出せ」
「コンパから呼び戻すのですか? それはちょっと……」
「うるさい。とっとと捜し出せ!」
「かしこまりました」

 珍しく感情的な主の声に薄く笑うと、宮野は静かに電話を切った。


「またですか?」
「申し訳ございません。俊紀様がどうしてもと……」
「……お断りすることは……?」
「お勧めいたしません」
「……でしょうね。わかりました」
「すぐに迎えの車が着くと思います」


 宮野から電話を受けたとき、谷本よしは渋谷のカフェバーにいた。ゼミの友人に引っ張り出されたコンパだったが、退屈でうんざりしていた。軽いノリの友人たちに、もっと軽いノリの男たち。確かに今風の学生コンパであったが、佳乃にしてみれば、あまりに得る物が少なかった。
 だからといって、いきなり電話で今すぐ来いと言われても困る。どうしてあの男はいつもいつも、人がコンパだの飲み会だのの予定を入れているときに限って、狙い澄ましたように予定を変更して帰ってくるのだろう……。しかも、こっちの意見なんて聞く耳持たずで迎えを出してくるし……


 佳乃が初めて原島邸に行ったのは大学三年の夏休み、ハウスクリーニングのアルバイトでだった。
 原島邸はいかにも旧家らしい大きな屋敷だが、当主の原島俊紀の方針で、使用人は最低限の人数しかおらず、大がかりな掃除の際は契約しているハウスクリーニング会社から人が派遣される。
 佳乃は原島邸の担当ではなかったが、担当社員の病欠で急遽きゅうきょ呼び出され、厨房のワックスがけをすることになった。
 もちろん場所が場所だけに、夕食の片付けが終わった深夜の作業。日付が替わる頃、ポリッシャーで厨房の床を磨いていたところに現れたのが、使用人頭の宮野基だった。


   * * *


「おや……掃除中でしたね」

 この人なら知っている。
 作業を始める前に、立ち入り禁止区域などについて、細かい指示を出してくれた人である。
 年の頃なら七十前後、先代の原島たか氏が現役の頃からこの家に仕えているらしく、原島邸のすべてをこの男が把握していると聞いた。

「どうかしましたか?」

 ポリッシャーを止めて佳乃が尋ねると、宮野は少し困ったように言った。

「先ほど急に俊紀様がお帰りになって、少々空腹だとおっしゃるので……」

 なるほど……厨房を使いたいというわけか……

「まだ下磨きの段階ですのでかまいませんよ。ワックスは後にしますから」
「とはいっても、今夜はもう料理人も帰してしまいましたし、トーストぐらいしかできないので、たいして時間はかかりません」

 夜食にトーストというのはいかがなものか……でもまあ、外国人なら夜食もパンだし、所詮しょせん同じ人間、問題はないだろう。
 などと思いながらふと見ると、宮野はそのトースト用のパンも見つけられないでいた。

「うっかりしておりました……お帰りが明日の予定だったので、使える食材がありません……」

 長年勤めている使用人にしてはずいぶんな抜けっぷりであるが、厨房のことは担当シェフに任せきりになっているらしい。
 時刻は深夜零時半。都会の一角なので、これから食材を調達するというのも無理ではないかもしれないが、時間がかかりすぎる。
 その間作業の手を止められるよりは……と、佳乃は厨房をそっと見回す。こんな大きな屋敷で、食材が全く何もないということはあり得ないだろう。

「私でよければお手伝いいたしましょうか?」

 持って生まれたお節介気質とでもいうべきか。しまった、余計な仕事だった、と思ったときにはそんな台詞セリフを口にしていた。
 自称『使用人頭』の宮野は、初見の小娘に大事なあるじの胃袋を任せてよいものかどうか、しばし悩んでいたが、背に腹は替えられなかったと見えて、無言で頭を下げた。
 宮野の許可を得て、佳乃は厨房を物色した。
 野菜ストックにはあらゆる野菜があったし、冷蔵庫の中にはケチャップも粉チーズもあった。日本人家庭に米がないという尋常ではない事態がこの大邸宅に起こるはずもなく、米もちゃんとあった。
 でも、米から炊くのは時間がかかる……と一縷いちるの望みをかけ、冷凍庫をあさってみたら、きちんとパッキングされた冷凍ご飯があった。
 この家のシェフは、もしかしたらおばちゃんなのでは? とつい笑いそうになる。
 これなら大丈夫。
 佳乃は早速調理にかかる。
 佳乃は、ものの十五分で野菜たっぷりのリゾットを作り上げた。仕上げに山ほどの粉チーズをふりかけ、待っていた宮野に持たせて厨房から追い払う。
『リゾット』と言ったのは、佳乃のちょっとしたかっこつけで、その実態はケチャップ味の野菜雑炊だ。米から炊かないリゾットなんて、イタリアのマンマが殴り込んでくる。
 でもまあ『リゾットでございます』なんて言いながら出すはずがないからかまわないだろう。
 やれやれと、使ったケチャップや粉チーズを冷蔵庫に戻そうとした佳乃は、目に飛び込んできた賞味期限にぎくりとした。


 どうしよう……五日ばかり過ぎてるぞ……


 きっと、この御大層な厨房では、市販のケチャップとか、すでに削ってある粉チーズなどというものの登場頻度はかなり低くて、存在自体が忘れ去られていたのだろう。冷蔵庫内でも、かなり奥の方に追いやられていたし……


「まあ、大丈夫でしょ。死んだりしないはず……すぐには!」

 佳乃はそう自分に言い聞かせ、後片付けをして本来の業務に戻る。
 ワックスを掛け終わる頃には、白々と短い夏の夜が明け始めていた。
 おそらく部屋に置き去りになっているだろう食器が少し気になりはしたが、そこまでは責任を負いかねると佳乃はそのまま屋敷を後にした。
 自宅に戻ったのが午前六時。これから一寝入りして、午後からまたアルバイトの予定だ。
 大学の友人たちは、夏休みはハワイだアジアだヨーロッパだと忙しそうであるが、両親不在の苦学生としては、長期休みはできる限りのアルバイトをして生活費を確保したい。
 ということで、佳乃の夏休みはあまりにも忙しかった。


   * * *


 ハウスクリーニング三田みたに、七月の原島邸の厨房清掃を担当したスタッフをよこせ、という連絡が入ったのは、それから一ヶ月後のことだった。
 原島邸はアルバイトの立ち入りを禁止しており、あの日は本来の担当社員が急病、他の社員の都合もつかず、やむなくこの仕事を始めて三年目という経験を買われた佳乃が、緊急登板となった。もちろん、アルバイトが担当したことは極秘である。
 原島邸からの呼び出しに、いつもの担当者が出向いたが、一瞬にして宮野に、この方ではありませんでした、と言われてしまった。会社もしばらく言を左右にして言い抜けていたが、原島邸のあまりの執拗しつようさに、とうとう叱責覚悟でアルバイトが入ったことを認めたのだった。


「契約違反の件、今回は見逃しましょう。とにかくあの日の方をお呼びください」

 平身低頭で詫びた電話口で宮野にそう言われた会社は、仕方なく佳乃に連絡してきたという。

「もともとバイトではだめだって言われてたのに、なにがあっても責任は会社が持つってことで私が入ったんでしたよね?」

 佳乃はそう言って、長い付き合いになっている社長の三田を恨めしげに見る。

「すまん! 何をやったか知らんが後で埋め合わせはするから、とにかく行ってくれ」

 と拝み倒されては仕方がない。
 会社としては、上得意の原島邸を失うわけにはいかないのだろう。
 佳乃とてバイト先を会社ごと失うわけにはいかない。
 かくして、もうすぐ夏休みも終わるという八月末、佳乃は原島俊紀に出会ったのである。


 眼光の鋭い男だった。
 上背もあり、筋肉もしっかりついている。
 一六三センチの佳乃と対峙しても、頭一つ分ぐらい大きい。多分一九〇センチ近いのではないだろうか。その大男が、まっすぐに佳乃を見下ろしていた。

「なにか不始末がございましたでしょうか?」

 さすがに一人で虎の穴に放り込むわけにはいかないと思ったのか、一緒に参上した三田が恐る恐る口を開く。俊紀は三田を一顧だにせず佳乃に尋ねた。

「アルバイトだそうだが……学生か?」
「そうです」
「時給は?」
「深夜作業ですので一五〇〇円です」

 その答えを聞いて、俊紀は三田に言った。

「悪いが、この子を首にしてくれ」

 そして驚いた三田が反論する前に、彼は佳乃に言った。

「専属で雇い入れる。時給は倍だ。断るというならハウスクリーニング契約を解く」

 これは脅迫だ……
 佳乃が断ればハウスクリーニング三田は得意先を失い、同時に佳乃も仕事を失うだろう。
 佳乃は、どうして自分がこんな目に遭うのか全く納得がいかなかったが、現実は厳しい。
 とにかく佳乃には日銭が必要だったのだ。
 断ることなどできるはずもなく、その日のうちに物々しい雇用契約書に拇印ぼいんを押す羽目になった。痛々しそうに佳乃を見る三田の目の中に、かなりの安堵を見いだしたことがせめてもの救いだった。


   * * *


 雇用契約を交わしたその夜から、佳乃の原島邸通いが始まった。
 職務内容は「厨房付き料理人補佐」。
 実のところ夜食係である。


「いったい何でそんなものが必要なのです?」

 と激昂したのは原島家の料理長山本巧やまもとたくみ。確かにそのとおりである。


 原島家のありとあらゆる料理がこの男の手によるもので、大きなパーティの時ですら、彼が何人かの臨時スタッフを指示して作り上げてきた。
 夜食が必要であれば自分が作る、というのも当然の主張である。
 実際、佳乃が作ったリゾットにしても、プロの山本が作った方が数十倍美味く作れるに違いなかった。
 手作りのコンソメ、厳選された野菜とトマトピューレ、きちんと削ったチーズにフレッシュハーブ……一度食べさせてもらったが、これぞ王道、というれっきとしたイタリアンリゾットであった。

「もの凄く美味しい! いったいこれのどこに不満が!?」

 当然、という顔でふんぞり返る山本に、佳乃は何の瑕疵かしも見いだせなかった。
 間違いなく、イタリアンマンマ大喜びでハグしまくりレベルだ。
 しかし宮野は困惑顔で言ったのだ。

「私も全くそのとおりだと思います。けれど俊紀様は、谷本さんの作ったリゾットがいたくお気に召したらしく、どうしてもあのリゾットを作った人間を連れてこいと……」
「舌がどうかしてるんじゃないですか? ケチャップと粉末コンソメと粉チーズですよ! プロのプライドが邪魔しなければ誰にでも作れます」

 そして、佳乃は山本はもちろん宮野までキッチンに連れていき、いわゆる「なんちゃってリゾット」の作り方を伝授した。もちろん二人とも難なく作り上げ、あっという間に三皿のリゾットが完成した。
 見た目はだいたい同じようなもの、味だって大差なくインチキくさい。
 ところが、その三皿を俊紀のところに運び食べさせてみると、

「これがいい」

 と一発で佳乃が作った皿を選び出してしまった。
 こうなると、舌が敏感なのか鈍いのか判断に困るところである。
 さらに、和風雑炊、中華粥、サンドイッチに至るまで、およそ夜食として提供されそうなものを作り比べてみたが、俊紀が選ぶのは常に佳乃が作ったものだった。
 ここにいたっては山本も諦めた。

「私の作ったものの方が断然美味いはずです。でも、俊紀様が求められる味がこの娘の作ったものであるならば、それは致し方のないことです」

 と極めて冷静かつ諦めのよいコメントを残し、夜食担当を佳乃に譲った。
 まあ、通いの料理人で、しかも家庭がある山本にとって、これ以上拘束時間が増えるのはうれしくない、という判断もあってのことだろう。


 勤務時間は、原則午後九時から十二時の三時間。
 終業予定が十二時というのは、終電にぎりぎり間に合うかどうかという際どい時刻ではあったが、実際に十二時まで原島邸に滞在することはほとんどなく、終電に乗り遅れたこともなかった。
 宮野は深夜に帰宅する佳乃を気遣って、『運転手に送らせましょう』と言ってくれたが、ハウスクリーニングのアルバイトをしていたときも同じような時間帯に行き来していた佳乃は、『大丈夫ですよ』と言って取り合わなかった。
 俊紀が出張などで帰宅しない日は休み。ただし、急な予定変更があれば呼び出されることもある。
 さらに、彼が夜食を必要としないときもあり、一、二時間の待機を終えて帰宅する日も多い。
 待機時間中にレポートを書いていようが、本を読んでいようがお構いなしの気楽な職場、なおかつ時給は高い。
 夜食が必要なときは宮野が連絡してきて、出来上がった頃厨房に取りに来る。
 その時間が午後十一時であっても九時であっても、その一食さえ作り終えればその日の仕事は終わりで、佳乃は片付けをして帰宅することができた。もちろん時給は三時間分計上される。
 雇用のいきさつは理不尽極まりなかったが、条件は決して悪くなかった。


「なんか……無駄だと思うんですけど……」

 と夜食が出来上がるのを待っている宮野に言ってみたが、彼は取り合わない。

「俊紀様にとって、欲しいものがいつでも手に入る状態というのは当たり前のことなのです。たとえそれが一皿のリゾットであっても」
「お金持ちというのは何を考えているのやら……」

 というよりも、なんて贅沢でわがままな男なんだ。
 それが佳乃の正直な感想であった。
 まあ……ほとんど会わないし、けっこうな金額を払ってくれてるんだから、文句を言う筋合いではないけれど……


 そんな調子で一年が過ぎ、また夏がやってきた。
 佳乃は大学四年。何とか大氷河期の就職戦線を乗り切り、四月から中堅の商社に勤めることになっている。
 原島邸でのアルバイトは依然として続けていたが、最近俊紀の仕事が忙しいらしく、深夜の帰宅が続いていた。
 十一時半近くに連絡が入り、今から帰宅するので夜食を頼む、と言われることが増えた。
 夕食は済んだのかと確認すると、取り損ねていることがほとんどで、夜食にしてはしっかりしたものを作らねばならない。
 胃の負担にならず、かつ大人の男の胃袋をしっかり満たす料理を作るのは結構大変ではあったが、その甲斐あってか、宮野の話によると、喜んで食べているらしい。
 それならまあいいか……と暇な時間をみて料理の本などを参考にメニューを考えるのが佳乃の日課となっていた。


   * * *


「私が辞めた後はどうするのですか?」

 ある日、佳乃がそう尋ねると、宮野は驚いたような顔で聞き返してきた。

「なにか待遇にご不満でも?」

 佳乃にしてみれば、そんな質問自体がびっくりである。

「いや……不満はありませんが、私、春には卒業ですから……」

 その時にいたって初めて宮野は佳乃が学生であったことを思い出したらしい。

「ということは就職されるのですか?」
「もちろんです。就職すればバイトの必要はありません」
「当家に就職される気はありませんか?」
「あるわけないじゃありませんか。第一もう就職先は決まっています」

 それは困りましたね……と心底困り果てたような顔で宮野が言う。
 確かに、こんないかさま料理人は代替不能だいたいふのうであろう。かといって、一生原島邸の夜食係というのもあんまりである。それは宮野とて少し考えれば納得のいく話であった。

「就職の準備等もありますので、二月いっぱいでこちらは辞めさせていただくつもりです」
「それは一度俊紀様にご相談しないと……」
「いや、ただのバイトですから、そんな必要はないでしょう?」

 そう言って佳乃は笑ったが、宮野は返事をしなかった。


 宮野が俊紀にその話を報告したのは、翌日の夜のことだった。

「アルバイトの谷本が二月いっぱいで退職したいとのことです」

 仕事の資料をめくりながら話を聞いていた俊紀の手が止まり、その鋭い視線がまっすぐに宮野を捉える。
 俊紀は、宮野の予想していたとおりに一言で答えた。

「却下だ」
「お言葉ですが、谷本は学生でこの春就職いたします。もはやアルバイトとして雇用するのは不可能ですし、本人は当家に就職する意志を持っておりません」
「就職? どこにだ?」
「さあ……そこまでは」
「本人を連れてこい」
「今日はもう帰宅いたしました」

 そういえば今日も夕食を取り損ね、帰宅するなり夜食を作らせたのだった。
 一時間も前のことなので、当然片付けも終わり帰宅している。

「では明日だ!」
「明日から三日間札幌へご出張では?」
「……そうだった。仕方がない。戻り次第、話をする。とにかく退職は却下だと伝えておけ」

 宮野は、それは無理なのでは……と思いながらも、とりあえずその場は口にしなかった。


「却下って……本当にそう言ったんですか?」

 俊紀が不在の三日間、当然佳乃も原島邸の仕事はなかった。宮野から話を聞かされたのは三日後の夜、ぶっかけそうめんに野菜を山ほどのせながらのことである。

「そのとおりです」
「どう言われようが二月末日をもって私は退職いたします。それが現実なんですけど……」
「直接お話しください」

 そして宮野は、サラダかと思うほど野菜がのせられたそうめんを持って厨房を出ていった。
 俊紀は三十分少々で食事を終える。その間に佳乃は厨房を片付け、それから滅多に入ることのないあるじの書斎に出向いた。

「失礼します」

 そう言ってドアを開けると、俊紀はちょうど食事を終えたところだった。
 この男と会うのは二度目である。相変わらず威圧的な男だ、と佳乃は思う。
 遅い時間に食事をするわりには、大して太ってもいないのが憎らしい。きっとあれこれトレーニングに励んでいるのだろう。
 見るからに忙しそうなのに、どうやってそんな時間を作っているのか謎ではあるが。

「どこに就職する予定だ?」

 何の前触れもなく、いきなり彼はそう言った。

前村まえむら物産です」
「前村……あの穀物中心のところか」
「よくご存じで」

 と言いつつも、知っていて当然だとは思う。原島俊紀は株式会社原島の社長である。
 株式会社原島は成長いちじるしいグローバル企業で、その業務内容は多岐に渡る。
 もちろん商社部門もあるので、前村物産とは規模が違いすぎるほどに違ってはいるが、その動向は把握しているだろう。

「なぜ前村を選んだ?」
「会社の規模が大きすぎず、経営方針も堅実だからです」
「前村でなければならない理由はないんだな?」
「現状、それ以外のところに鞍替えは不可能です。今年の主立った求人はもう終わっていますし、留年して就職活動やり直しもまっぴらです」
「前村よりうちにいた方が楽に稼げるぞ」

 確かに金額だけを言えば時給で三千円、日給で九千円である。
 最近の出勤日数は平均週に五日、どうかすると六日という日もある。それでいて実働は長くて三時間。まるで水商売のような実入りで、楽と言えばこれ以上楽な仕事はないかもしれない。

「金額が不満なら時給を上げても良い」
「金額の問題じゃありません。私はフリーターになる気なんてありませんから」

 学校を出たらちゃんと就職してまっとうに働く。たとえ給料が安くても、その範囲内できちんと生活する。それが大人というものだ。
 佳乃は普通に暮らすことの大切さをしっかりと理解できる教育を受けた。
 不幸にして両親は佳乃が大学に入った年に事故でってしまったが、その影響も少なからずあって、日々まっとうに暮らすことは、佳乃にとって最大の課題であった。そのためには安定した職と住居が必要である。


 そんなことを、佳乃は佳乃なりに一生懸命俊紀に説明した。

「なるほど。かなり納得のいく意見ではある。若いのに立派なものだ」

 と若いのに立派なのはそちらだろう、と言いたくなるような男は答えた。
 そして俊紀はしばらく考え込んだかと思うと、パソコンの画面で前村物産の会社情報を確認し、おもむろにこう言った。

「安定性という意味では、株式会社原島は前村物産より圧倒的に優位に立っている。原島で働く気はないか?」
「もちろんありましたが、実は不採用でした」
「なに?」


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