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しおりを挟む「平日は六時までに朝食を終えて、六時半には勤務に入ってください。俊紀様は、出張のとき以外は七時に朝食を召し上がり、八時に出勤されます。朝食の準備は私がしておりますが、早晩あなたの仕事となるでしょう」
夕食後、贅沢にもカプチーノをすすっていた佳乃に、宮野はそんなことを言う。
佳乃は思わずコーヒーの泡を噴き出しそうになった。
「なんで!?」
「もちろん俊紀様のご要望です。お近くにあなたがいるという状況がずいぶんお好みのようです。このまま行くと、そのうち夕食の給仕もあなたということになるでしょう」
「それじゃあ私は、朝な夕なあの顔を見なけりゃならないってことですか?」
「別に見苦しいお顔でもないと思いますが?」
勘弁してくれ……。朋香ならば舞い上がりそうな状況であるが、佳乃としてはあの高慢ちきな男と顔を合わせる機会は、少なければ少ないほど良い。
たとえどれだけ彼の顔が鑑賞に値するものであっても、である。
「誰の顔が見苦しいって?」
そこに入ってきたのは俊紀本人であった。
食事もとっくに済んだ主が厨房に何の用だ。
まさかあの食事の後で夜食を食べるというのか?
「むしろ逆のことを申し上げておりましたが?」
さすがに宮野は平然としている。
「だが、その夜食係はとてもそうは思っていないようだ」
そう、全くそうは思っていない。
「夜食係……他の呼び方の方が相応しいのでは?」
「そうか?」
「夜食係で結構です!!」
憤然と佳乃は言い放ち、飲み終わったカップを洗い始めた。
宮野は笑いをかみ殺しながら、俊紀に用向きを尋ねる。
「なにか? コーヒーでもお持ちいたしましょうか?」
「原島邸新入社員のオリエンテーションを覗きに来ただけだ。でもせっかくだから、エスプレッソをダブルでいれてくれ」
「かしこまりました」
相変わらずの感情抑圧型微笑を浮かべ、宮野は厨房の片隅にあるエスプレッソマシーンのスイッチを入れる。イタリア直輸入だというエスプレッソマシーンは程なく細やかな泡が浮かぶ、アロマの濃いコーヒーを抽出した。
それを持って部屋に戻るかと思いきや、俊紀は依然としてそこにいて、原島邸の一日の流れを説明する宮野の傍らで立ったままエスプレッソを飲んでいる。
宮野の説明は続く。
「俊紀様の出勤後は当面、図書室作業がメインとなります。昼食は十一時から十三時の間であれば山本が用意いたしますが、ご希望であれば外に出られてもかまいません。昼休み、午前午後の休憩その他はどのようにお取りになっても結構です」
勤務時間は基本的に午前六時半から午後八時。そして俊紀が希望すれば夜食を作る。
ただし、俊紀が不在の間は、適当に休憩を取っても外出してもかまわない。一日のトータル勤務時間が八時間を超えないよう自分で調整すればよい、とのことだ。
まあ住み込みともなればこその融通性であろう。俊紀が追加する。
「ただし、私の方に用があるときはその限りじゃない」
「もちろんでございます。俊紀様のご用は最優先。それがこの屋敷の不文律です」
掟じゃなくて? と喉まで出そうになった言葉を、佳乃は必死で呑み込んだ。
そんなことを言って、わざわざ主の逆鱗に触れることはない。
「……というのが一日の流れですが、何かご質問は?」
「あの……休日は?」
「ああ、言い忘れました。基本的に週休二日です。一週間のうちどこかで二日。連続でもかまいませんが、日曜はよほどのことがない限り勤務。毎月二十日までに翌月の休日を申請していただいて、シフトを組みます」
「要するにデパート形式ですね?」
「そのとおりです。ただし、俊紀様のご都合で急な変更がある場合もございます」
「出張とかですか?」
「それよりも、来客の方が突発的かもしれません。大がかりなものはかなり前からわかっておりますが、時折、急に五人程度のお客様をお迎えすることがございます。その際は、やはりそれなりの体制を組む必要がでて参ります」
自宅に客を招くタイプでもなさそうなのに……と考えかけて、ああ商談だ、と思い至った。
いわゆる密談というやつだな……それは確かに、急に自宅で起こりうる事態である。
なるほど社長さんは大変だ、と佳乃はほんの一瞬だけ俊紀に同情した。
小一時間の説明で、なんとか佳乃は原島邸の一日の概要をつかんだ。
要するに、俊紀がいなければ天国。そして俊紀は多忙につき日中はまず不在、月に数回は泊まりがけの出張で、時には週単位の海外出張もある、という激務である。
佳乃にとってはなんともありがたい。
「とりあえずそんなところです。なにか付け加えることがございますでしょうか?」
そう言いながら宮野は俊紀を見た。
メモを取りながら宮野の話を聞いていた佳乃は、まだそこに俊紀がいることに驚いた。
ずっといたのか……
「なお、夜食係は私の直轄とする」
その言葉だけを残して、俊紀は厨房から出ていった。
佳乃はあっけにとられていたが、宮野はむしろ驚愕していた。
俊紀直轄の使用人……それが意味するところを、佳乃は決して知りたくないだろう。
直轄ということは、宮野の管理を越える。いや、宮野はおろか原島邸の域をも越える、ということである。俊紀が望めばその職務領域はどこまでも広がる。株式会社原島も俊紀のプライベートもすべてが職務対象となってしまう。
主はいったいこの娘に何をさせるつもりなのだろう……宮野は、やけに満足げな俊紀の背中を戸惑いとともに見送った。
「今の、どういう意味ですか?」
「まあ……その……いずれおわかりになるでしょう」
何でも明快に説明する宮野にしては、珍しく言葉を濁して、その日の業務説明は終了した。
翌朝、アラームで五時半に起床した佳乃は、厨房で朝食を終え、宮野とともに、七時に食堂で俊紀を迎えた。
俊紀は、経済新聞を含めた数種類の新聞を斜め読みしながら朝食を摂る。
英語以外の外国語のものもある。そういえば彼は英語を含めて数ヶ国語に通じているらしい。
彼の本日の朝食は、二枚のトースト、コーヒーにスクランブルエッグ、ベーコンとごくごく普通。それじゃあ野菜がたらんじゃないか……と思いながら見ていると、彼は最後にオレンジジュースを一気飲みした。
どうせ飲むなら野菜ジュースを飲めよ……もっといいのは青汁。苦み走った性格に、さぞやよく馴染むことだろう。
などと心の中で呟きながら、なんとはなしに見ていると、ふと目をあげた俊紀と視線がぶつかった。
「朝の果物は金。野菜は昼と夜でたっぷり食べる」
そして彼は不敵に笑うと、経済新聞と二杯目のコーヒーを手に食堂を去った。
まったく……
佳乃は、彼が散らかしていった各種の新聞をたたみ直しながら歯噛みしそうになる。
考えが顔に出ていたのだろうか。元々単純な人間とは思ってもいなかったが、つくづく食えない主である。
それから八時に俊紀が出勤するまでの間、佳乃は厨房の後片付けをし、簡単に食堂を掃除する。
九時になれば、通いの使用人たちが出勤してくるので、本格的な掃除は彼らが行う。
原島邸の使用人は通いで十名。二名が料理担当。一名は山本で、もう一人は山本の直弟子の松木である。この二人は交代勤務、ただし、松木が勤務するのは週二日の山本の休日だけである。
清掃担当は六名いて、一日三人ずつ勤務する。残りの二名は運転手。これもシフト制である。大がかりなパーティのときは、全員が一度に勤務し、さらに臨時で雇用する場合もあるそうだ。
それに宮野と佳乃を加えて総勢十二名が原島邸の使用人である。
掃除だけに三人というのはとんでもない数のようだが、何せ旧家だけあって部屋数も多いし、庭も広い。
昨日案内されて見て回ったが、一階には厨房や食堂や会議室、もちろん例の図書室というには立派すぎる部屋もある。二階には七室の客室とパーティルーム、談話室、更衣室とも言える支度室。三階には俊紀の居室と書斎、四室の空き部屋がある。まだ見てはいないが、庭には離れもあるらしい。
プールはないのかプールは! ヘリポートも作れよ! と思わず叫びたくなるほどの豪邸である。
取扱注意のシールを、べたべた貼り付けたくなるような調度品も溢れんばかり。そりゃあ三人がかりで掃除しても、毎日全部は無理だ。
「宮野さんがお休みのときはどうなるのですか?」
この人がいないと原島邸は大変だろうと思って佳乃が聞いてみると、
「私は基本的にお休みはいただきません」
と、平然と答えられてしまった。
労働基準法完全無視かよ……と力が抜けそうになるが、宮野本人が、この家ですることを仕事と思っていない節がある。
それならそれでまあいいか……と、佳乃は納得しておくことにした。
「なるべく、俊紀様のお留守と谷本さんのお休みを重ねていただきたいのですが……」
休日を組むためのシフト表を渡しながら、宮野が言った。
「わかりました」
重ねずにすむのであればそれだけ顔を合わせる日数が減るのだが、そうもいかないらしい。
佳乃は俊紀の不在表を眺めながら、その月の休みを確定していった。
「申し忘れましたが、四月二十九日には原島家春の親睦会がございます。これは百名前後の出席者が見込まれますので少々準備に手間がかかりますし、当日は正直申し上げて大変でございます。気むずかしいご親族もいらっしゃいます。今回谷本さんは初めてですから、面食らうことが多いと思いますが、こういった催しが年に二回ないし三回ございます。できるだけ早くお慣れください」
そんなの慣れるとか無理ですから~と佳乃は逃げ出したくなった。
「それは夜食係の仕事ではありませんよね?」
なんとかそう尋ねてみたが、
「親睦会は午後六時から始まり深夜に及びます。当然夜食係のお仕事です」
とあっさりかわされてしまった。
もちろん、夜食自体は山本と松木で作りますが……と、宮野は冗談ともつかぬ口調で締めくくった。
当然である。原島家ご親族に、レトルトまがいの夜食を出せるはずがない。
俊紀がそんなものを食べていると知られただけでも、うるさ方が何を言い出すかわかったものではない。
「ところで、親睦会ってどういう方が出席するんですか?」
百名と言うからには、親族だけではあるまい。
「半数がご親戚、残りの半数は仕事関係です。外国の方もたくさんいらっしゃいますので、山本はメニュー作りにも苦労しているようです。特に今回は、五月の支社設立に向けてドイツの方もお招きしているので、勝手が違うと嘆いていました」
なるほど……それは大変そうですね……でも芋とソーセージを山盛りにしとけばいいんじゃないですか、などと言いつつも、佳乃は高をくくっていた。
当日は臨時の使用人を含めて三十名以上が接客応援に入るというし、厨房は山本、松木の独壇場だろう。宮野は一日中忙しいかもしれないが、新入りの佳乃にできることなどしれている。
どうかすると、図書室にでもこもっているうちに過ぎていくかもしれない。
「人材、食材、飲み物の手配を含めて、来週から準備に入りますからそのおつもりで」
その言葉を聞き流し、佳乃はその日も図書室で過ごした。
月末の親睦会までには、もう少し見られる図書室にしておきたい。今のままでは閉店間近たたき売りセール中の古本屋の体である。だがこの古本屋、ただの一冊も売れはしない。
ほこりをかぶった過剰在庫を抱えて途方に暮れる、見たこともない店主が目に浮かぶ。
それでも、在庫の中には稀少本と言われる類のものも紛れている。
きちんと扱ってやらないと本が泣く。たとえ誰にも読まれないとしても……
一日の大半を図書室で過ごし、朝食のときぐらいしか主の顔を見ない日々が続いた。
さすがに年度初めは忙しいらしく、初日のように定時帰宅ということもなく、俊紀は連日会議やら接待やらで帰宅が遅い。宮野の言うとおり、午前二時三時の帰宅というのもざらである。
もっとも佳乃がそれを確認しているわけではなく、自分の就寝時間よりも遅く帰っているのであればそれぐらいだなとあたりをつけているだけで、実際はもっと遅いのかもしれない。それでも、毎朝きちんと七時には食堂に現れるあたり大したものである。
睡眠時間が短くても大丈夫なタイプなのだろう。
もしかしたら主は二人いて交替勤務なのかもしれない。
でも、普通ならばどっちもが休みたがるだろうに、この主の場合、二人共が『私が働く!』と言い張って仕事の取り合いを始めそうだ。
もう果てしなく働いていろよ、いっそ帰ってこなくてもよいぞよ。
などと、朝になるとちゃんと現れる主を見るたびに思う。
いずれにしても、夜食係は用なしのありがたい日々であった。
第三章 親睦会の準備
親睦会まであと一週間となった日曜の午後、佳乃はあらかた整理の終わった図書室で、並べ直した本のチェックをしていた。
分類は日本十進分類法に則ったので、各地の図書館とほぼ同じ。
個人の家で、分類の0から9までほぼすべての番号を使い尽くすとは思いもしなかったが、それぐらい原島家の蔵書はバラエティに富んでいた。
きっと、代々の当主がみな読書家だったのだろう。あるいは、単なる収集家だったのかもしれないが……
一階のほぼ半分の面積を占める図書室いっぱいの書架。そのどれにも満杯に本が入っている。
佳乃にしてみれば夢のような光景である。
コンピューター操作の手引書とコンピューター犯罪を題材にした推理小説が並んでいる、といった居心地の悪さはついに解消されて、収まるべきところにきちんと収まった本たち。
「いやいやよかったねえ……君たち」
思わずそう口にしてしまうぐらいである。
「なにがよかったんだ?」
背後からの声に、恐る恐る振り返った佳乃の目に入ったのは主だった。
そういえば、今朝は食堂に現れなかった。久々の休日で朝寝する予定だと宮野が言っていた。昨夜も遅かったらしいし、無理もないことだ。
見た限り朝寝の効果は絶大だったようで、ずいぶんすっきりした顔をしている。
「ずいぶん早く片づいたな。もうしばらくかかるかと思っていたが……」
俊紀は、図書室をぐるっと見回してそう言った。
なんですかそれは。もしかして、お褒めの言葉でしょうか。
確かに、一冊一冊読み込んでいけば、一年かかっても整理は終わらなかっただろう。
だが幸いなことに、この家の書籍収集傾向と佳乃の好みが一致していたらしく、全体の半分以上は既読の書物、四分の一は読んだことはないにしても誰もが知っているような有名文学だった。要するに、書籍の三分の二は簡単に分類できたし、残りの三分の一も明らかな医学書であったり、経済書であったり……まあ思ったよりも楽な作業だった。
おまけに、本物の図書館のように、書物保護処理やらラベリングの必要もなく、おおざっぱでよい、という宮野の言葉に従って、部屋の奥を頭に0から9分類まで並べ直したに過ぎない。
「なにかお探しですか?」
確認を終えた俊紀に尋ねてみると、
「お前を探しに来た」
という。
「親睦会の招待客リストができたから、チェックしておいてくれ」
「それ……私にできることでしょうか?」
「去年のリストと見比べて、うるさい親戚がもれてないか見るだけだ。仕事関連は私がチェックする」
それならなんとかなるだろう。佳乃は渡されたリストを持って厨房に行った。
山本がそこで、厨房関連のチェック作業をしているはずだから、わからないことを聞きながらやろう。
メニューを見ながら皿の種類を確認していた山本は、佳乃を見て手を止めた。
「どうした?」
「招待客リストのチェックを頼まれました。ここでやっていいですか?」
「もちろん。そのテーブルを使っていいぞ」
と、ときどき山本が休憩やレシピの確認に使う小さなテーブルを貸してくれた。
親族の数は四十七名。ほとんどが原島姓であるが、二、三他の姓がある。おそらく結婚後の姓や俊紀の母方の親戚なのだろう。
昨年のリストと照合する佳乃に山本は言った。
「そのリストを渡されたということは、招待客を頭に入れろということだ。あとで宮野さんに家族写真でも借りて、名前と顔を一致させておいた方がいい」
「なんで!?」
「さあ……? これまで、そんなことを頼まれた使用人はいないから……まあ俊紀様になにかお考えがあってのことだろう」
と山本は含み笑いで言う。
おそらく主は、この娘を親睦会のホステスに使う気でいるのだろう。
ホステスというと、銀座か六本木あたりで、しゃなりと科を作って、座るだけで諭吉を二枚三枚と持っていきそうなイメージがあるが、原島邸におけるホステスは正しく女主人を指す。親睦会のメイン接待係である。もちろん、ホストも同様。原島俊紀が片膝ついて、女性にシャンパングラスなど差し出したらえらいことである。
俊紀が当主となってからこれまで何度も親睦会は開かれてきたが、ホステスはいつも不在だった。
親族などの扱いは、彼らをよく知る宮野が補佐してきたが、今後はそれを佳乃にやらせるのだろう。
これはまたおもしろい……と山本は思う。
ある日突然、原島邸に迷い込んできた佳乃。本人が思うよりずっと有能かつ優秀な人間である。その上人間がすれていない。
俊紀のように百戦錬磨の男には、ずいぶん新鮮に映ることだろう。
実際彼は、常に佳乃の動向に注意を払っている。どこで何をしているのか、どんな作業で一日を終えたのか、毎日宮野から報告を受けているようである。
また、自分が屋敷にいるときは、かなりの確率で佳乃をそばに置いている。
朝食の支度はとっくに宮野から佳乃に代わった。夕食の給仕も時間の問題だろう。
仕事を奪われ手持ちぶさたになった宮野が不満そうかというとそうでもない。これはこれでなにやら感慨深げに主を眺めている。
宮野と山本が思うところはどうやら同じらしい。
問題は、佳乃本人がその状況をちっとも喜んでいないところにある。
使用人から見ても、また周囲の反応を見ても、原島俊紀はかなり上等の男であり、群がる女性を追い払うのに忙しいほどだ。
その俊紀に無反応。というよりも拒否反応を示す佳乃は、これまた珍しいタイプの女性である。だからこそ……ともいえるわけであるが……
まあ、俊紀様の腕の見せ所だな……と思ったのを最後に、山本は考えるのをやめた。
「昨年欠席で、今年出席の原島孝史・和子夫妻ってどなたです?」
「俊紀様のご両親だ。昨年は上手く不在のときに当たったのだが、今年は避けきれなかったらしい」
両親を避けなくてはならないという理由は何だろう。不仲なのだろうか。尋ねてみると、山本が首を横に振る。
「いや、不仲というのではないけれど、俊紀様の結婚問題でなにかとおやかましい」
「なるほど……そういうことですか」
それは独身貴族の俊紀としては、さぞかし鬱陶しいことだろう。とはいえ、親にとっては三十にもなる跡取り息子がいつまでも独身、というのも気がかりだ。
佳乃にしてみればどっちもどっち、せいぜい頑張って戦いたまえ、であった。
* * *
「夜食係を親睦会に出す。見られる程度に飾っておいてくれ」
俊紀が宮野にそう告げたのは、親睦会の三日前のことだった。
ある程度予期していた宮野は、それでも意地悪げに答えた。
「もともとメンバーに入っております。メインダイニング担当です」
俊紀はこの古狸が……と心の中で毒づきながら言葉を重ねた。
「給仕としてではなく接待係で使う。それなりの服装をさせろ」
「ホステスとして、でしょうか?」
「何度も聞くな。そのとおりだ」
「しかし……そうなるといろいろ支障が……」
ホステスとなると、玄関口で招待客全員を迎えて挨拶をしなくてはならない。
親戚から会社関係まですべての人間に顔をさらしたうえに、それなりの会話力が必要とされる。
日本人ばかりではないから語学能力も必要だし、各方面に関する知識も。
おまけに、親睦会後半ではホールに小楽団が入って社交ダンスまで行われる。
それらすべてに、苦学生上がりの佳乃が対応できるとは到底思えなかった。
「未熟なことはわかっている。とりあえず今回は、私の横に立たせておくだけで良い。時期を見ていろいろ教えていけば、秋の親睦会までにはもう少し格好がつくだろう」
「それでしたら、秋からにされてはいかがですか? この状態では谷本も気の毒です」
「早く慣れさせた方が良い」
「慣れるとお思いですか?」
「できると思っているから言っている。いいから準備をしてくれ」
「かしこまりました」
やれやれ……可哀想に……。宮野は話を聞いた佳乃が、逃亡を図らないことだけを祈った。
* * *
「……ありえない!!」
案の定、佳乃は絶叫した。
「何考えてるんですか!? 原島家の親睦会ってそんなチープなものだったんですか? 違いますよね? そうそうたるメンバーだって聞いてますよ。なんでそんなところで、私ごときが表看板張らなくちゃならないんですか!! 絶対嫌です!!」
それはそうだろう。誰だってそう思う。言っている宮野とて佳乃が気の毒でならない。
けれど、この原島邸において俊紀の言葉は絶対である。
俊紀がこうしろと言ったらそれを拒否できる者はいない。
この娘はきっと、そうした大きなパーティに出たことなどないだろうし、英会話だって怪しいに違いない。それでも主の指示は絶対だ。
「とりあえず明朝、スタイリストとダンス教師が参ります。付け焼き刃は百も承知ですが、なんとか形をつけてください。挨拶や会話は俊紀様にお任せしておけば大丈夫です」
「大丈夫なわけがないでしょう。招待客はまずホステスに声をかけるんですよ? それに全部に無言の微笑みで対応しろって言うんですか? 一日でダンス三種目こなせと?」
「……よくご存じですね……ですがここは日本です。ダンスはワルツで十分」
宮野は思いの外、佳乃の造詣が深いことに驚いた。
玄関ホールで客を迎えたホストに、ホステスより先に声をかけるのはタブーである。
ただ、日本でそのマナーをきちんと知っている者は少ない。また、舞踏会ではワルツを始めとする複数あるステップの中から、最低三種のダンスが求められる。
佳乃はどこでそれを学んだのだろう。
この娘、意外とあなどれない。主はどこまで把握しているのか。
それが宮野の感想だった。
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